↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/145

第三章 白い塔の街 ① 外れの宿

 王都には、まだ入らなかった。


 白い塔は見えている。


 丘を下りても、木々の間に隠れても、宿場町の屋根が視界を遮っても、塔の先だけはどこかに残った。


 高く、細く、白い。


 まるで、こちらが見ていなくても、向こうは見ていると言われているようだった。


 朔は、何度も目を逸らした。


 見るな、ではない。


 見すぎるな。


 そう自分に言い聞かせる。


 白い塔を信じない。

 でも、見なかったことにもしない。


 その加減が、難しかった。


「今日は外れの宿や」


 リオが言った。


「門の中には入らないんですね」


「ああ。夕方の門は混む。混む場所では、目立つ者ほど覚えられる」


「俺、目立つんですよね」


「よう分かってきたな」


 リオは宿場町の端を指した。


 王都の城壁から少し離れた場所に、低い建物が並んでいる。


 旅人用の宿。

 荷を置く倉。

 馬を繋ぐ柵。

 簡単な食堂。

 水場。


 王都の中ではない。


 だが、王都の外とも言い切れない。


 塔の影が届いている場所。


 そう感じた。


「ここは、まだ王都じゃないんですか」


 朔が聞くと、リオは肩をすくめた。


「税は王都に払う。兵も王都の兵や。けど、城壁の外や」


「どっちですか」


「どっちでもある。そういう場所は、だいたい面倒や」


 リオらしい答えだった。


 朔は周囲を見た。


 人は多い。


 旅人。

 商人。

 荷運び。

 兵士。

 子ども。

 鍋を運ぶ女。

 馬の脚を洗う男。


 普通に生きている人たちがいる。


 笑い声もある。

 喧嘩の声もある。

 値段を下げろという声もある。


 王都は、ただの白い塔ではない。


 人の暮らしもある。


 そう思った瞬間、少しだけ胸が緩みそうになった。


 だが、すぐに別の声が聞こえた。


「殻の子を見たら、報告しろってさ」


 宿の壁際で、二人の男が話していた。


「報告したら食料券が出るらしいな」


「本当か?」


「掲示に書いてあった。未登録なら多めに出るって」


「未登録って、どう見分けるんだ」


「王都の札を持ってない子どもだろ」


 朔の足が、わずかに止まった。


 リオがすぐに横へ立つ。


 遮るようにではない。


 ただ、朔の姿が男たちから見えにくくなる位置に。


「見るな」


 小さな声。


「はい」


「聞きすぎるな」


「……はい」


 耳に入ってしまった言葉は、もう消えない。


 未登録。


 王都の札を持っていない子ども。


 食料券。


 通報。


 朔は自分が、少しずつ別の名前で囲まれていくのを感じた。


 殻の子。

 保護対象。

 未登録。


 どれも、名前ではない。


***


 宿の主人は、丸い顔の中年男だった。


 よく笑う。


 声も大きい。


 旅人への扱いにも慣れている。


「一部屋かい? 二人なら狭い部屋でいいな。飯は別。水は裏。火を使うなら銅貨一枚追加だ」


 早口で説明しながら、主人はリオの顔を見る。


「行商か」


「ああ」


「荷は少ないな」


「道が悪かった」


「北からか?」


 その一言で、空気が少し変わった。


 主人の目が、リオから朔へ移る。


 ほんの一瞬。


 だが、見た。


 年齢。

 服装。

 札の有無。

 同行者。


 目が、朔を測った。


 リオがすぐに笑う。


「北は避けた。巡礼道の手前までや。黒の噂があると客も減る」


「そりゃそうだ」


 主人も笑った。


 笑いながら、まだ朔を見ている。


「その子は?」


「親戚の子や」


「親戚?」


「ああ。口が悪い。足も遅い。だが荷物持ちにはなる」


「子どもに荷を持たせるなよ」


「持たせるほど荷が売れん」


 主人は声を上げて笑った。


 朔は黙っていた。


 リオの嘘は自然だった。


 自然すぎて、少しだけ胸が痛んだ。


 親戚の子。


 それも名前ではない。


 だが、今はその嘘に守られている。


「名前は?」


 主人が聞いた。


 朔は息を止めかけた。


 リオが答えるより先に、朔は口を開いた。


「サクです」


 主人は特に反応しなかった。


「サクか。飯は食えるのか?」


「食べます」


「いい返事だ。食えない子どもは倒れる。倒れると面倒だ」


 主人は鍵代わりの木札をリオへ投げた。


「奥の小部屋。壁は薄い。大声は出すな。変な祈りもするな。最近うるさいからな」


 変な祈り。


 朔の胸が少し冷える。


 リオは木札を受け取り、軽く頷いた。


「祈るほど余裕はない」


「そりゃいい」


 主人はまた笑った。


 悪い人ではなさそうだった。


 だが、悪い人ではないことと、安全な人であることは、同じではない。


 朔はそれを、もう知っていた。


***


 部屋は狭かった。


 床に薄い敷物が二枚。

 小さな窓。

 壁にかかった油皿。

 水の入った桶。


 それだけ。


 だが、扉は一つ。

 窓は小さいが、子どもの身体なら出られなくもない。

 床板は古く、一枚だけ軋む場所がある。


 朔は無意識にそれを見ていた。


「何してる」


 リオが聞く。


「出る道を見てました」


「ええ癖になってきたな」


「褒めてます?」


「今のは八割」


「残り二割は?」


「宿に入ってすぐ逃げ道を見る子どもは、宿屋からすると嫌な客や」


 朔は少しだけ息を吐いた。


 笑いにはならない。


 でも、張り詰めたものが少し緩んだ。


 リオは荷物を下ろし、窓の外を確認する。


「今夜はここで休む。明日、写本屋を探す」


「シオ婆、でしたっけ」


「ああ。名前だけは聞いたことがある。古い文書を扱っとる婆さんや」


「信用できますか」


「会ってからや」


「何を聞けばいいんでしょう」


「まず、こっちの口を閉じることやな」


 朔は顔を上げる。


 リオは真面目な顔だった。


「王都では、聞くにも順番がいる。

 いきなり殻だのユイだの言うな。

 それを言った時点で、相手が何者か分かる前に、こっちの中身を渡すことになる」


 朔は頷いた。


 第二章で、何度も学んだことだ。


 名前を持つ。


 でも、誰にどの名前を渡すかは選ぶ。


「じゃあ、何から」


「紙からや」


「紙?」


「写した巡礼路の図。

 あれを見せて、読めるかどうかを聞く。

 相手が何を読もうとするか見る」


「人を見るんですね」


「そうや」


 リオは床に腰を下ろした。


「殻に問う前に、人に問え。

 ただし、人に問う時も、問う相手を見ろ」


 朔はその言葉を胸に置いた。


 古い巡礼者の教えは、王都ではもっと難しくなる。


 人に問う。


 だが、人もまた、何かに繋がっているかもしれない。


***


 夕食は、宿の一階の食堂で取ることになった。


 部屋へ運んでもらうには余分な金がいる。


 リオは「金は命より軽いが、無駄に捨てるものではない」と言った。


 食堂には、十人ほどの客がいた。


 商人。

 荷運び。

 王都へ向かうらしい家族。

 兵士が一人。


 壁には掲示が貼られている。


 朔は読めない。


 だが、塔の印は分かった。


 食事は豆の煮込みと硬いパンだった。


 温かい。


 それだけで、体が少し喜んでしまう。


 北の村。

 尾根道。

 火種だけの夜。


 そこから来た後では、温かい食事は危険なほどありがたかった。


 朔はゆっくり食べた。


 急いで食べると、泣きそうになる気がした。


 隣の席で、宿の主人が別の客と話している。


「この前も、未登録の子がいたらしい」


「捕まったのか」


「保護だよ。捕まったなんて言うな。王都に聞かれたら面倒だ」


「同じようなもんだろ」


「同じでも、言い方で税が変わる」


 客たちは笑った。


 朔は匙を止めた。


 同じでも、言い方で税が変わる。


 冗談のようで、冗談ではなかった。


 言葉が、制度の中で値段を持っている。


 保護と言えば通る。

 捕獲と言えば問題になる。

 協力と言えば報酬になる。

 隠匿と言えば罰になる。


 同じ出来事でも、言い方で人の立場が変わる。


 森の声は人を誘った。


 王都の言葉は、人の扱われ方を変える。


 どちらも、怖い。


「サク」


 リオが小さく呼んだ。


 朔ははっとする。


「食え」


「はい」


「全部拾うな」


「……はい」


「拾うなら、名前だけにしとけ」


 朔は匙を握ったまま、リオを見た。


 リオは豆を食べている。


 何でもない顔で。


 でも、今の言葉は、軽くなかった。


 全部拾うな。


 でも、名前だけは拾え。


 朔は胸の中で頷いた。


***


 食堂の壁の掲示を、リオがあとで読んでくれた。


 部屋に戻ってから。


 声は低く。


 窓と扉を確認した後で。


「殻黒化および未登録殻児に関する通達」


 リオはそう読み上げた。


 殻児。


 また新しい分類。


 朔は布袋の火種入れに手を当てた。


 リオは続ける。


「殻周辺の異常、黒化、声の発生、未登録の殻児を確認した場合、速やかに殻管理局へ報告すること」


 聞いたことのある内容だった。


 だが、宿の壁に貼られていると、重さが違った。


 これは噂ではない。


 制度だ。


「報告に協力した者には、状況に応じて食料券、税軽減、通行許可の優遇を与える」


「通行許可まで」


「王都では大きい」


 リオは紙を見ていない。


 記憶で言っている。


 それだけ内容を覚えたのだ。


「続き」


 朔が言う。


 リオは少しだけ目を細めた。


「未登録殻児を隠匿した者、または殻管理局の調査を妨げた者は、周辺区域を含め調査対象とする」


 部屋が、少し狭くなった気がした。


 自分だけではない。


 自分を泊めた宿。

 リオ。

 ツヅリ村。

 これから会うかもしれない写本屋。


 周辺区域。


 自分の周りにいる人たちが、まとめて囲われる言葉。


「俺がここにいると、宿も危ないんじゃ」


「そのための親戚の子や」


「でも、ばれたら」


「ばれた時に考える」


「それでいいんですか」


「よくはない」


 リオは即答した。


「でも、今すぐ野宿に戻れば安全か?

 王都の外で火も使わず、水も減ったまま、白い小鳥に見られながら歩き続ける方が安全か?」


 朔は黙った。


「分からないです」


「そうや。分からん。

 だから、今ましな危険を選んどる」


 ましな危険。


 安全ではない。


 だが、選ぶ。


 それも旅なのだろう。


 朔は床に視線を落とした。


「俺のせいで、リオさんまで」


「やめろ」


 リオの声が少し強くなった。


 朔は顔を上げる。


「お前がそれを言うと、俺が自分で歩いとらんみたいになる」


「でも」


「俺は俺の足でここにおる。

 お前に引きずられてるわけやない」


 リオはそう言い切った。


「危ないと思えば降りる。

 儲からんと思えば降りる。

 面倒が高すぎると思えば降りる。

 まだ降りとらんのは、俺がそう決めとるからや」


 朔は言葉を失った。


 リオの言い方は、冷たいようで、そうではなかった。


 慰めではない。


 責任を返してきたのだ。


 自分の責任は自分のものだと。


「……ありがとうございます」


「礼は早い」


「さっきも言われました」


「何度でも言う」


 リオは横になりかけて、ふと思い出したように付け足した。


「それに、完全に損でもない」


「え?」


「お前といると、普通の商人では見られんもんを見る」


「危ないものばっかりですけど」


「危ない情報は、高く売れる」


「売るんですか」


「相手は選ぶ」


 リオは目を閉じた。


「それが商人や」


***


 夜。


 宿の外はまだざわついていた。


 人の声。

 馬の足音。

 荷車の軋み。

 遠くの門から聞こえる金属音。


 ツヅリ村の夜とは違う。


 森の声とも違う。


 人が多い場所の夜。


 それでも、朔は眠れなかった。


 窓の隙間から、白い塔の先が見える。


 ほんの少しだけ。


 雲の切れ間に、白い線のように浮かんでいる。


 朔は布袋に手を伸ばした。


 火種入れ。


 青い布。


 写した巡礼路の紙片。


 全部、ある。


 小刀も、帯にある。


 持ってきたものを確かめる。


 自分が何を持っているかを確かめないと、この街では自分まで誰かの言葉で作り替えられそうだった。


 未登録殻児。


 保護対象。


 調査対象。


 親戚の子。


 サク。


 黒川朔。


 名前が混ざる。


 分類が混ざる。


 その中で、どれを自分が持つのか、何度も選び直さなければならない。


 朔は声に出さず、胸の中で言った。


 黒川朔。


 サク。


 それから、もう一つずつ。


 ハル。

 ミナト。

 リーネ。

 トウマ。

 ユイ。

 エリオ。

 リオ。


 名前を呼ぶ。


 祈りではない。


 記録でもない。


 自分の中に置くために。


 窓の外で、白い塔が動かずに立っている。


 その下で、街は眠らない。


 いや。


 眠っているように見えて、何かが起きている。


 ORPHES。


 ディープスリープ。


 殻を眠らせる。


 眠りという言葉が、頭の奥でかすかに重なった。


 朔は目を閉じる。


 今、全部を繋げるな。


 明日は、シオ婆を探す。


 殻に問う前に、人に問う。


 ただし、人もまた、問われることを恐れている街で。


 朔は火種入れを抱くようにして横になった。


 眠れるかどうかは分からなかった。


 それでも、目を閉じた。


 白い塔を、見すぎないために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。