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第一章 祈りの殻の子 ⑥ 逃げ道を覚える日




 翌朝、ツヅリ村の空気は少しだけ変わっていた。


 朝はいつも通り来た。

 鶏は鳴き、川では女たちが洗濯をし、畑へ向かう男たちの足音も聞こえる。


 けれど、誰もが森の方を一度は見る。


 それは癖のようなものだった。

 家の戸を開ける前に。

 桶を持ち上げる前に。

 子どもの名前を呼ぶ前に。


 ほんの一瞬だけ、森を見る。


 そこに何かが立っていないか。

 黒い影が動いていないか。

 木々の間から、見慣れない目がこちらを覗いていないか。


 昨日までなら気づかなかった小さな不安が、村全体に薄く広がっていた。


「……嫌な感じやな」


 ハルが、朝飯の粥をかき混ぜながら呟いた。


「何が」


「みんな、笑ってるけど、笑い方がちょっと違う」


 朔は箸代わりの木の匙を止めた。


 ハルは馬鹿ではない。

 勢いで動くことは多いが、人の表情には妙に敏感だった。


「怖いんだろ。普通だよ」


「サクも?」


「ああ」


 朔があっさり認めると、ハルは少し驚いた顔をした。


「サクでも怖いん?」


「怖いに決まってるだろ。怖くないやつから先に死ぬ」


「……サク、たまに怖いこと普通に言うよな」


「事実だからな」


 ハルはしばらく黙って粥を見つめたあと、小さく頷いた。


「じゃあ、怖がってもええんやな」


「怖がった上で、動けたらいい」


 朔が言うと、ハルは真面目な顔で匙を握り直した。


「じゃあ俺、今日も動く」


「食ってからな」


「分かってる」


 そう言って、ハルは粥を一気にかき込んだ。


「熱っ!」


「分かってないだろ」


 朔は思わず笑った。


 その笑い声に、土間の奥で薪を割っていたミナトが、少しだけ口元を緩めた。


***


 その日の昼前、村人たちは広場に集められた。


 男たちは柵の修理と見張り台作り。

 女たちは非常食と水袋の準備。

 子どもたちは、避難経路を覚える。


 ミナトはそれを、いつもの穏やかな声で説明した。


「これは“逃げる練習”やない。

 “生き残る練習”や」


 その言葉に、何人かの子どもが不安そうに顔を見合わせる。


 朔は、ミナトの横に立っていた。


 まだ脇腹は痛む。

 走れば響くし、深く息を吸うと内側が引きつる。


 それでも、今日だけは横になっているわけにはいかなかった。


「サク」


 ミナトが横目で見る。


「子どもらには、お前が話せ」


「俺ですか?」


「お前の方が、あいつらに近い見た目しとる」


「中身は違いますけどね」


「見た目が子どもなら十分や」


 ミナトは悪びれもせず言った。


 朔はため息をつき、広場に集まった子どもたちを見渡した。


 ハルを含めて七人。

 年齢はばらばらだ。

 小さい子は、まだまともに走るのも怪しい。


(これを全員、森から魔物が来た時に動かすのか)


 簡単ではない。

 むしろ、かなり難しい。


 でも、会社で営業ルートを組むよりは、よほど意味のある仕事だと思えた。


「まず、覚えることは三つ」


 朔は地面に木の枝で簡単な村の地図を描いた。


 広場。

 井戸。

 家畜小屋。

 村長の家。

 祠。

 森側の柵。


「一つ目。森の方には逃げない」


 子どもたちが一斉に頷く。


「二つ目。まっすぐ走らない。

 家、柵、木、荷車。何でもいいから、間に何かを挟みながら逃げる」


 ハルが得意げに胸を張った。


「昨日教えてもろたやつや!」


「そう。お前は後で見本な」


「任せろ!」


「三つ目」


 朔は地図の中央、井戸の横に丸をつけた。


「最後はここに集まる。

 ただし、途中で誰かが転んでも、全員で止まらない」


 子どもたちの顔が曇る。


 小さな女の子が手を上げた。


「でも、置いていくん?」


 その声は震えていた。


 朔は少しだけ言葉を選んだ。


「全員で止まったら、全員が食われるかもしれない。

 だから、最初に決めておく」


 地図に別の線を引く。


「大きい子が小さい子を引っ張る。

 転んだ子がいたら、一番近い大きい子が助ける。

 他の子は走り続ける。

 助ける役と逃げる役を、先に決める」


 子どもたちは黙った。


 それは、ただの遊びではない。

 子どもでも分かるくらいには、本物の話だった。


「怖いと思う」


 朔は言った。


「でも、怖い時に初めて考えようとしても、間に合わない。

 だから今、何も来てない時に覚える」


 そう言うと、ハルが一歩前に出た。


「俺、見本やる」


 朔は頷いた。


「じゃあ、森からワンアイが来たとして——」


「ツノオオカミやなくて?」


「最初から強いやつ想定すんな。順番にやる」


「はい」


 ハルは少し照れたように頷き、森側の柵に立った。


 朔は子どもたちに見えるように、手を上げる。


「よーい、逃げろ!」


 ハルが走り出す。


 まっすぐではない。

 まず柵を挟み、次に薪置き場の陰を通り、荷車の横を抜ける。


 途中でわざと朔が横から近づくと、ハルは進路を変えた。

 村長の家の壁を間に挟み、井戸の方へ回り込む。


 最後に、広場の指定された場所へ滑り込んだ。


「どうや!」


 胸を張るハル。


 小さな子どもたちから、ぱちぱちと拍手が起きた。


「まあまあだな」


「まあまあ!?」


「最後、井戸に近づきすぎ。濡れてたら滑る」


「細かっ!」


「本番で滑ったら死ぬ」


「……はい」


 ハルは口を尖らせながらも、素直に頷いた。


 その様子を見て、他の子どもたちの緊張が少しだけほぐれた。


 次は二人組。

 その次は、小さい子を引っ張る練習。

 その次は、途中で転んだ子を助ける練習。


 何度も繰り返すうちに、子どもたちは少しずつ動きを覚えていった。


 泣き出す子もいた。

 転んで膝をすりむく子もいた。

 途中で「もう嫌や」と座り込む子もいた。


 そのたびにハルが走っていって、手を引いた。


「大丈夫や。俺も最初、めっちゃ転んだ」


「ハル兄ちゃんも?」


「めっちゃ転んだ。サクに何回も怒られた」


「怒ってない」


「怒ってた!」


「注意だ」


「怒ってた!」


 子どもたちが笑った。


 その笑い声は、昨日までのものと少し違う。

 怖さの上に、無理やり乗せた笑い。


 それでも、笑えるならまだ大丈夫だと、朔は思った。


***


 午後には、男たちが森側の柵を補強していた。


 古い木を外し、新しい杭を打ち込む。

 間には尖らせた枝を斜めに差し、簡単には飛び越えられないようにする。


 朔は重い作業こそ止められていたが、配置を見て口を出す役を任された。


「ここ、少し開きすぎてませんか」


「子どもなら通れるくらいやな」


「魔物の子どもも通れますよ」


「……嫌なこと言うな」


 男が顔をしかめながら、杭を一本追加する。


 朔は地面の傾きや、森からの見通しを確認しながら、柵の位置を見た。


 昔、営業ルートを組んでいた時と似ている。


 どこを通れば早いか。

 どこで詰まるか。

 どこを塞げば流れが変わるか。


 違うのは、そこに動くのが営業マンではなく、魔物だということ。


(結局、やってることはルート管理か)


 そう思って、朔は少しだけ苦笑した。


 こんなところでブラック企業時代の経験が役に立つとは思わなかった。


「サク」


 背後から声がした。


 振り返ると、リーネが立っていた。


 白に近い薄灰色の衣をまとった、細身の女性。

 年齢は二十代後半か三十代前半くらい。

 静かな目をしている。


「傷は?」


「だいぶマシです」


「嘘をつく子は、治りが遅い」


「……まだ痛いです」


「よろしい」


 リーネは淡々と言うと、朔の脇腹に手をかざした。


 淡い光が、彼女の掌に集まる。


 空気中の粒が、すっと一方向に流れるような感覚。

 焚き火の上で見た小さな光。

 殻の夜にハルが「魔素」と呼んだもの。


 それが傷口に触れた瞬間、朔の耳の奥で小さくノイズが鳴った。


 ——ざざっ。


 傷の奥が、ぴり、と反発する。


 リーネの眉がわずかに動いた。


「やはり、深くまでは届きにくい」


「すみません」


「謝ることではない。井戸が深すぎるだけ」


「井戸?」


「あなたの中には、別の底がある」


 リーネはそう言って、手を離した。


「わたしの祈りは、普通の子なら水面に触れる。

 でもあなたの場合、水面に触れたと思ったら、その下にもう一つ暗い水がある」


 朔は、言葉の意味を完全には理解できなかった。


 ただ、なんとなく分かる。


 自分の中には、この世界の人間とは違う“何か”がある。


 それはまだ名前を持たない。

 少なくとも、朔にはまだ呼び方が分からない。


「それは、悪いものなんですか」


 朔が聞くと、リーネは少し考えた。


「悪いかどうかは、分からない」


「分からない?」


「火は家を温める。森を焼く。

 水は喉を潤す。人を沈める。

 力は、使い方で名を変える」


 リーネの声は静かだった。


「あなたの中のそれも、まだ名前が決まっていないだけ」


 その言葉は、不思議と胸に残った。


 まだ名前が決まっていない。

 つまり、まだ決められるのかもしれない。


「ありがとうございます」


「無理をしないこと」


「それは難しいです」


「なら、無理をする時は誰かに見つかる場所ですること」


 リーネは真顔でそう言った。


 朔は思わず笑いそうになった。


「それは、いいんですか」


「誰にも見つからない無理が一番困る」


 リーネは淡々と告げると、祠の方へ歩いていった。


 その背中を見送りながら、朔は脇腹を押さえた。


 痛みは少しだけ引いている。

 だが、奥の違和感は残ったままだった。


***


 夕方、子どもたちの避難訓練は二回目に入った。


 今度は、朔が合図する前にミナトが突然叫ぶ。


「森から三匹!」


 子どもたちが一瞬固まる。


 だが、ハルがすぐに動いた。


「小さい子、こっち! リオ、手ぇ離すな! ミナ、井戸の横通るな!」


 名前を呼ばれた子たちが、慌てながらも走り出す。


 朔はそれを見ながら、内心で少し驚いていた。


 ハルは、思ったより周りを見ている。


 自分だけ前に出るのではなく、誰が遅れているか、誰が怖がっているかを見ている。


(向いてるな)


 勇者かどうかは別として。

 誰かを引っ張る役には、向いている。


 最後の子が広場にたどり着いた時、子どもたちの間から歓声が上がった。


「できた!」


「今の速かった!」


「俺、転ばへんかった!」


 ハルは息を切らしながら、朔の方を見る。


「どうや?」


「最後、後ろ見すぎ」


「えぇ!?」


「前も見ろ。後ろだけ見てたら、自分が転ぶ」


「厳しい!」


「でも、良かった」


 そう付け加えると、ハルの顔が一気に明るくなった。


「ほんま?」


「ああ。かなり良かった」


 ハルは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、朔は思う。


 この顔を、守りたい。


 けれど同時に、怖くもあった。


 こうして期待が育つほど、

 もし壊れた時の傷は深くなる。


(……何考えてるんだ、俺)


 今は守るために動く。

 それだけでいい。


 先の絶望まで勝手に想像して、動けなくなる方が悪い。


***


 夜。


 村の見張りは二人組になった。


 森側の柵に一人。

 祠の近くに一人。


 朔は当然のように見張りから外された。

 怪我人であり、子どもだからだ。


 だが、眠れなかった。


 寝床で目を閉じても、黒く染まった殻の断片が浮かぶ。

 燃える家。

 走る小さな影。

 誰かの叫び。


 それが自分の記憶ではないことだけは分かる。


 なら、誰の記憶なのか。


 北の村の誰か。

 別の殻の子。

 それとも、“殻”そのものに残った記録。


 考えても答えは出ない。


 朔はそっと寝床を抜け出した。


 祠へ向かう道は、月明かりに照らされて白く浮かんでいる。


 祠の前では、年配の男が槍を抱えて見張りをしていた。


「サク? 眠れんのか」


「少しだけ、祠を見てもいいですか」


「長居すんなよ。ミナトに怒られる」


「分かってます」


 祠の中は静かだった。


 白く摩耗した円形の中心。

 そこに手を伸ばすのを、朔は一瞬ためらった。


 触れれば、また何かを見る気がした。


 見るべきなのか。

 見ない方がいいのか。


(でも、見ないで済むなら、もうとっくに済んでる)


 朔は指先を円の中心に触れさせた。


 ——ざざっ。


 今度のノイズは、短くなかった。


 視界が揺れる。


 白い円の上に、黒い染みが広がる。

 誰かが泣いている。

 大人の声。

 子どもの足音。

 燃える木の匂い。

 灰の降る空。


 そして、一瞬だけ。


 白い服を着た誰かが、こちらを見た。


 顔はぼやけている。

 男か女かも分からない。


 けれど、その口だけが、何かを言った。


 音はない。


 ただ、唇の動きだけが見えた。


 ——にげろ。


 朔は手を離した。


 息が荒い。

 背中に冷たい汗が張りついている。


「……サク?」


 見張りの男が、入口から覗き込んでいた。


「大丈夫か?」


「……大丈夫です」


 嘘だった。


 全然、大丈夫ではない。


 だが、まだ言葉にできない。

 今見たものを、どう説明すればいいのか分からなかった。


 白い服の誰か。

 黒い染み。

 逃げろという口の動き。


 それは警告なのか。

 記録なのか。

 それとも、これから起きることなのか。


 祠の中心を見る。


 月明かりの下では、いつも通り白く見える。


 だが、ほんの一点。


 中心より少し外れた場所に、針の先ほどの黒い点があった。


 最初は影かと思った。

 目をこすっても、消えない。


 朔は、喉が乾くのを感じた。


(……始まってる)


 まだ誰にも分からないほど小さな異変。

 しかし確かに、そこにある黒。


 朔は祠の前で立ち尽くした。


 遠くの森で、低い鳴き声が響く。


 昨日より近い。


 そして、長い。


 その声に、見張りの男が槍を握り直す音が聞こえた。


 朔は黒い点から目を離せなかった。


 この村の平和が、ゆっくりと染まり始めている。


 そんな気がした。

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