第一章 祈りの殻の子 ⑤小さな足跡と、黒い噂
ツノオオカミに襲われてから、七日が過ぎた。
右脇腹の傷は、表面だけ見ればほとんど塞がっている。
リーネの癒しの術と、ミナトの薬草、それに村の者たちが持ってきてくれた粥や煮込みのおかげだ。
だが、奥の方にはまだ鈍い痛みが残っていた。
深く息を吸うと、傷の内側が引きつる。
寝返りを打つと、皮膚の奥で細い針金がこすれるような感覚がある。
それでも、朔は寝床にじっとしていられなかった。
「だから、まだ畑は早い言うてるやろ」
朝。
村長の家の前で、ミナトが呆れたように腕を組んでいた。
「軽く歩くだけです」
「昨日もそう言うて、薪運ぼうとしたやつがおったな」
「あれはハルが持ちすぎてたから」
「お前も持とうとしたやろ」
返す言葉がない。
隣でハルが、妙に真面目な顔で頷いている。
「サク、今日は俺が見張る。無茶しそうになったら止めるから」
「お前に見張られる日が来るとはな」
「勇者見習いやからな。仲間の管理も大事や」
「管理って言うな。嫌な記憶がよみがえる」
朔がそう言うと、ハルは意味が分からないという顔をした。
ミナトだけが、小さく笑った。
「まあええ。今日は村の外れまでや。森には入るな」
「分かりました」
「ハル」
「分かってる。サクが走りそうになったら止める」
「お前も走るな」
「……分かってる」
少しだけ間があった。
朔とミナトの視線が同時にハルへ向く。
「ほんまに分かってる?」
「分かってるって!」
ハルが不満そうに頬を膨らませる。
その顔が、あの夜の泣き顔と重ならなかったことに、朔は少しだけ安心した。
***
村の外れには、低い柵がある。
家畜が森へ迷い込まないようにするためのものだ。
そして、森から何かが入ってきたときに、ほんのわずかでも足止めするためのものでもある。
ツノオオカミが破った柵は、まだ完全には直っていなかった。
新しい木材が当てられ、縄で縛られている。
その周囲の地面には、乾いた血の跡がところどころ黒く残っていた。
ハルはそれを見ると、少しだけ口を閉じた。
「……まだ、残ってるな」
「ああ」
朔は柵の前にしゃがみ込んだ。
地面を見る。
ツノオオカミの爪痕。
深くえぐれた土。
人間の足跡。
羊の細い蹄の跡。
戦いの痕跡は、思った以上に多い。
(リングなら、終わったらマットを拭いて、血も汗も消える。
でも、ここは残るんだな)
朔は指で地面の爪痕をなぞった。
深さ。角度。
突っ込んできた方向。
目を閉じると、あのときのツノオオカミの動きが、うっすらと頭の中に再生された。
「サク?」
「……こいつ、まっすぐ来てない」
「え?」
ハルが隣にしゃがむ。
「ほら、ここ。爪痕が斜めに入ってるだろ。
小屋の角を蹴って、方向を変えてる」
「それって……賢いってこと?」
「少なくとも、ただ暴れてるだけじゃない。
獲物を見て、進路を変えた」
ハルの顔が少し青くなる。
「じゃあ、あいつ、俺を狙って……」
「そうだな」
朔はあえて否定しなかった。
ここでごまかしても、たぶん意味がない。
「だから次は、狙われたときにどう動くか考える」
「……次?」
「次が来ない保証なんてないだろ」
ハルは唇をかんだ。
少し前なら、「俺が倒す」と言って前に出ていたかもしれない。
だが今は、黙って朔の言葉を待っている。
朔は立ち上がり、柵の内側を指さした。
「ハル。お前がここにいるとして、森から何かが出てきたらどうする?」
「逃げる」
「どこへ?」
「村の方」
「まっすぐ?」
「……あ」
ハルが自分で気づいた顔をした。
「まっすぐ逃げたら、追いかけられる」
「そう。
相手が速いなら、直線で逃げるな。
柵、木、家、小屋。邪魔になるものを間に挟め」
朔は歩きながら、指で道筋を示す。
「ここからなら、まず右にずれて柵を挟む。
相手が柵を越えるか壊すなら、その間に小屋の角へ逃げる。
そこでまた方向を変える」
「……逃げるのも、考えるんやな」
「考えない逃げ方は、ただ背中を見せてるだけだ」
ハルは小さく頷いた。
その目に、以前のような単純な憧れだけではなく、怖さを知った者の真剣さが宿っていた。
「俺、覚える。
今度は、サクに庇われなくてもいいように」
その言葉に、朔は一瞬、何も返せなかった。
嬉しいはずなのに、胸の奥が少し痛む。
「……違う」
「え?」
「庇われなくてもいいように、じゃない。
一緒に逃げるために覚えろ」
ハルが顔を上げる。
「俺も、お前も、どっちも生き残るためだ」
ハルはしばらく黙っていた。
それから、いつものように笑う。
「分かった。
じゃあ、俺とサクで“生き残る勇者二人組”やな」
「俺はまだ勇者って認めてない」
「そこはもうええやん」
「よくない」
言い合いながら、二人は柵の周りを歩いた。
村の外れを、ぐるりと一周する。
逃げ道。隠れられる場所。
逆に追い込まれそうな場所。
朔は、それをひとつずつ頭の中に入れていった。
エクセルの表ではなく、地面そのものに線を引くように。
***
昼過ぎ、村に行商人が来た。
荷馬車の車輪が、乾いた道を軋ませる。
子どもたちが真っ先に気づき、広場へ駆け出した。
「リオさんや!」
「塩ある? 飴ある?」
「こら、先に挨拶せんか!」
荷馬車から降りた中年の男は、日に焼けた顔で笑った。
腰には短剣。肩には大きな荷袋。
旅慣れた足つきで、広場の真ん中まで歩いてくる。
「ミナト親父、生きとったか」
「お前こそ、まだ山道で魔物に食われとらんかったんやな」
「食われかけはしたけどな」
冗談めかして言った行商人——リオの声に、ほんの少しだけ疲れが滲んでいた。
広場に荷が並べられる。
塩。針。布。鉄の小鍋。干した魚。
村ではなかなか手に入らないものが並ぶと、村人たちの顔が自然と明るくなる。
ハルも目を輝かせていた。
「サク、見て! あれ、甘いやつ!」
「怪我人に買わせる気か?」
「見るだけ! 見るだけやって!」
「その顔は買う気の顔だ」
リオは朔を見ると、片眉を上げた。
「その子が噂の“殻の子”か」
広場の空気が、ほんの少しだけ固くなる。
朔は自分に向けられる視線に気づいた。
好奇心。期待。警戒。
慣れたつもりでも、やはり居心地は良くない。
「サクです。村で世話になってます」
「ほう。礼儀ある勇者候補やな」
「勇者ではないです」
「そら失礼」
リオは笑ったが、その目は笑いきっていなかった。
ミナトが腕を組む。
「リオ。噂と言うたな」
「ああ。道中でな」
「どこまで広がっとる?」
「少なくとも川沿いの三つの村までは。
“ツヅリの殻が開いた”って話は、もう山道の宿場にも届いとる」
ハルが目を輝かせる。
「すごいやん、サク! 有名人や!」
だが、ミナトの顔は渋い。
「有名になるんは、ええことばかりやない」
リオは荷袋から小さな包みを取り出しながら、声を少し落とした。
「最近、殻のある村を回ってる連中がおる。
王都の兵士やと言うとるが、旗も身分証も見せん。
“勇者候補の確認”やとさ」
「確認?」
「そう。
殻の子がおらんか。
魔素の濃さはどうか。
魔物が増えてへんか。
村の者に聞いて回っとる」
朔は無意識に、首筋の薄い痕に触れた。
そこが、少しだけ熱を帯びる。
「それだけなら、まあ分からんでもない。
でもな——」
リオは一度、周囲を見回した。
「北の小村で、殻の子が一人連れていかれたらしい」
広場のざわめきが止まった。
ハルが朔の袖を掴む。
「連れていかれたって……どこに?」
「知らん。
王都へ保護する、と言うたそうや。
だが、その村に戻ってきたという話は聞かん」
ミナトの眉間に、深い皺が刻まれた。
「無理やりか」
「そこまでは分からん。
ただ、その子の親は泣いとったそうや」
朔は、口の中が乾くのを感じた。
自分と同じ“殻の子”。
この世界のどこかで、同じように目覚めた誰か。
その誰かが、もう連れていかれている。
(勇者候補の確認……保護……)
言葉だけ聞けば、悪くない。
だが、朔は現代で何度も見てきた。
「社員のため」
「健康のため」
「効率化のため」
「メンテナンス」
耳触りのいい言葉ほど、人を縛る鎖になりやすい。
「それと、もうひとつ」
リオの声がさらに低くなる。
「北の殻が、黒く染まった」
誰かが息を呑んだ。
「殻の真ん中にな、墨を垂らしたみたいな染みが広がったらしい。
その夜、森から魔物が出た。
村は半分焼けたそうや」
朔の耳の奥で、かすかにノイズが鳴った。
——ざざっ。
一瞬だけ、黒く染まった円形の床が脳裏に浮かぶ。
見たこともないはずの景色。
だが、その白い円は、朔が目覚めた祈りの殻の中央とよく似ていた。
(……なんだ、今の)
リオの話は続く。
「ワンアイやツノオオカミ程度やない。
鹿に木が生えたみたいなやつ。
熊の半身が溶けたみたいなやつ。
森の奥だけやった魔物が、明らかに人里へ寄ってきとる」
広場にいた村人たちの表情が変わっていく。
さっきまで布や塩を選んでいた手が止まり、子どもたちも大人の顔色を見て黙った。
ミナトはしばらく黙った後、短く言った。
「今夜、男衆を集める。柵と見張りを増やす」
「そうした方がええ」
リオは頷いた。
「殻のある村は、もう“ただの村”では済まんかもしれん」
***
その夜。
村の男たちは、広場の火の前に集められた。
リオから聞いた話を、ミナトができるだけ淡々と説明する。
殻の子を探す兵士。
黒く染まった殻。
増え続ける魔物。
村人たちの顔には、不安が浮かんでいた。
「ツヅリも襲われるんか」
「殻のせいなんか」
「殻の子が出たから、魔物が寄ってきたんと違うんか」
その言葉が出た瞬間、場の空気が少しだけ歪んだ。
朔は、焚き火の端でその声を聞いていた。
言った男は、すぐに気まずそうに目をそらした。
悪意というより、恐怖が口からこぼれただけなのだろう。
それでも、胸の奥が少し冷えた。
(まあ、そう思うよな)
自分が来てから、ワンアイに遭遇し、ツノオオカミが家畜小屋を襲った。
そして外では、殻のある村に異変が起きている。
繋げるなと言う方が無理だ。
そのとき、ハルが一歩前に出た。
「違う!」
小さな声だが、よく響いた。
「サクのせいやない!
サクは俺を助けてくれた!
ツノオオカミからも、ワンアイからも!」
村人たちの視線がハルに集まる。
ハルは少しだけ震えていた。
それでも、下がらなかった。
「サクが来たから悪いんやなくて、
サクが来てくれたから、俺はまだここにおるんや!」
朔は、息を止めた。
胸の奥が熱くなる。
同時に、怖くもなる。
そこまで信じられるほど、自分は何かをできているのか。
ミナトが静かに立ち上がった。
「ハルの言う通りや」
その声だけで、ざわめきが収まる。
「殻が原因か、魔物が原因か、王都が何を考えとるか。
ワシらにはまだ分からん。
けど、分からんもんを怖がって、子ども一人を責める村にはしたくない」
ミナトは、村人たちを見渡した。
「サクは殻から出てきた。
それは事実や。
けど、サクがハルを助けたんも事実や。
傷を負うてまで守ったんも事実や」
沈黙。
火のはぜる音だけが響く。
「怖いんは分かる。
ワシも怖い。
せやから、怖さを誰かに押しつける前に、やることをやろう」
ミナトの言葉は、怒鳴り声ではなかった。
けれど、誰より強かった。
「明日から柵を直す。見張りも増やす。
子どもらにも逃げ道を教える。
祠も毎朝確認する。
それでも何かあったら——その時は、村全体で動く」
村人たちは、少しずつ頷いた。
朔は、ハルの背中を見ていた。
さっきまで震えていた肩が、まだ小さく揺れている。
朔は立ち上がり、ハルの横に並んだ。
「……俺も手伝います」
村人たちの視線が、また朔へ向く。
「俺は、ここに来た理由も、自分の身体のことも、まだ何も分かってません。
でも、今ここで飯を食わせてもらって、寝る場所をもらって、名前を呼んでもらってます」
言葉にすると、思った以上に胸が詰まった。
「だから、できることはします。
殴ることだけじゃなくて。
逃げ道を覚えることも、見張りも、子どもたちに危ない場所を教えることも」
少し間を置いて、続ける。
「俺が原因かもしれないと思う人がいるなら、それでもいいです。
その疑いごと、俺はここでできるだけのことをします」
ハルが、隣でぐっと拳を握った。
「俺もやる。サクと一緒にやる」
ミナトは二人を見て、ふっと笑った。
「ほな、“生き残る勇者見習い”どもの仕事は多そうやな」
村人たちの中から、小さな笑いが漏れた。
完全に不安が消えたわけではない。
けれど、火の周りの空気は、少しだけ温かさを取り戻した。
***
深夜。
皆が寝静まったころ、朔は一人で祠へ向かった。
どうしても、気になった。
北の殻が黒く染まったという話。
その瞬間に脳裏をよぎった、見たことのない黒い円。
祠の前に立つ。
月明かりに照らされた石の表面は、いつも通りに見えた。
白く摩耗した円形の中心。
古い線のような紋様。
朔はゆっくり近づき、指先でその中心に触れた。
——ざざっ。
いつもより強いノイズが鳴った。
視界が一瞬、揺れる。
白い円。
黒い染み。
誰かの叫び。
燃える家。
走る小さな影。
それは記憶ではなかった。
自分が見たものではない。
けれど、確かに“どこかで起きたこと”の断片だった。
「……なんだよ、これ」
朔は思わず手を離した。
息が荒くなっている。
祠はもう、ただの石ではない。
祈りの場所でもある。
だが同時に、何かを記録し、何かを伝えるものでもある。
その正体は分からない。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
ツヅリ村の平穏は、もう外の世界と無関係ではいられない。
朔は、夜の祠の前で拳を握った。
まだ痛む脇腹が、じくりと疼く。
(来るなら来い、なんて言えるほど強くない)
ミナトの言葉が蘇る。
死なんでええ。
足掻け。
(なら、足掻く準備をするしかない)
遠くの森で、何かが鳴いた。
低く、長く、腹の底に響くような声。
それがただの獣なのか、魔物なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
朔にはまだ分からなかった。
ただ、ハルと村の寝息が聞こえるこの夜を、
次の朝へつなぐために。
朔は祠に背を向け、村へ戻った。




