第六章 名を預ける道 ⑧ ミトの板
平たい黒い物を、最初に「ミトの板」と呼んだのはジェンだった。
通路の中。
声が始まる前。
停止位置から二歩先に見えた時。
「ミトの板かもしれん」
そう言った。
帰還記録には、そのまま残されている。
だが、次の調査案に、その名前は使われなかった。
目的は、
旧搬入口通路内左壁寄りに確認された黒色板状物の状態、表面、移動可能性を確認する。
だった。
「回収しないんですか」
グラドが尋ねた。
「状態を見て、移動条件を満たす場合だけ、倉側へ運びます」
セオが答える。
「それは回収では?」
「持ち主も、用途も確認されていません」
「通路から持ち出す」
「はい」
「なら」
朔が言う。
「持ち出すことは書きます。誰の物を取り戻すかは書きません」
***
板状物へ触れる条件も、一つずつ決めた。
手では触れない。
金属製の道具は使わない。
表面を拭かない。
文字らしきものが見えても、その場で読み上げない。
床や壁へ固着している場合は動かさない。
持ち上げた時に、周囲の黒い金属が動いた場合は下ろす。
黒い変色が道具や布へ広がった場合は、その場に置く。
声。
人影。
床の変化。
いずれかを確認した場合は、移動を中止して戻る。
「持ち上げた後に声がした場合は?」
グラドが尋ねる。
「板を持ったまま戻る?」
「安全に下ろせる位置なら下ろします」
マレアが答えた。
「下ろすことで危険が増える場合は?」
「その場で判断します」
「先に決められない?」
「持ったままの位置と、周囲の状態が分からないからです」
手順を作らないのではない。
まだ見えていない場面を、見えたふりで埋めなかった。
***
運搬には、ファナ・リトが作った浅い木箱を使う。
蓋はない。
底には、無地の麻布。
板状物を箱へ入れるための二本の薄い木板。
挟まない。
左右から差し入れ、下を支える。
「落ちたら?」
ファナが尋ねた。
「追いません」
朔が答える。
「足元へ落ちても?」
「身体を守ります」
「板が割れても?」
「はい」
人を置いて、記録物を拾わない。
「運び出した後、蓋は?」
「すぐには閉じません」
マレアが言う。
「空気や表面に変化がないか確認します」
「倉へ黒いものが出たら?」
ミエルが尋ねる。
「箱ごと再び通路へ戻す?」
「戻すとは決めません」
「うちの倉へ置き続ける?」
「倉の中には置きません」
仮板の外。
商品から離れた石床へ、臨時の確認区画が作られた。
そこで状態を見た後、外郭の空き観察室へ運ぶ。
記録庫へは入れない。
何であるか分からない物を、既存の記録と同じ棚へ置かない。
***
ネラ・ヴォスは、前回の現場図を長く見た。
四角い板。
横に二つの穴があるように見える壁の跡。
その下、床へ落ちた黒い物。
「記録板に見えますか」
朔が尋ねる。
「見えます」
「ミトさんの?」
「分かりません」
「識別できる特徴は?」
「六年前の搬路記録員が使っていた板は、同じ形です」
「二つの穴も?」
「紐を通すための穴です。壁へ掛ける時にも使います」
「ミトさんだけではない」
「はい」
ネラは図の右下を指す。
「角が少し削れています」
「特徴ですか」
「古い板は、角を落として使う者が多いです。服へ引っかからないように」
「ミトさんも?」
「右下だけを深く削る癖はありました」
「では」
「この図だけで、同じ削り方かは分かりません」
***
「筆跡が残っていれば?」
「比べられます」
「確定できますか」
「できません」
「なぜ?」
「黒く変わっている。欠けている。書いた時の姿勢も違います」
机で書く文字。
歩きながら書く文字。
暗い通路で写す文字。
恐怖の中で急いだ文字。
同じ人でも、同じ形にはならない。
「それでも、近いかは言えます」
ネラは答えた。
「誰が書いたかを決めるためではなく?」
「ミトが書いた可能性を、どの程度持てるかを見るためです」
***
ジェンは、その調査へ参加しなかった。
「行かないんですか」
朔が尋ねた。
「行かん」
「声が怖いから?」
「それもある」
「板を見たくない?」
「見たい」
「では」
「俺が行ったら、板を見た瞬間にミトやと言うかもしれん」
「前回も、かもしれないと」
「次は近い」
ジェンは右手を見る。
震えは残っている。
「穴が二つあって。角が削れとって。字が似とったら。俺は、あいつの板にしたくなる」
「ほかの人が見れば?」
「俺よりは、止まれるかもしれん」
「帰ってから見ますか」
「先に、何が書いてあるか聞く」
「現物より?」
「現物を先に見たら、読めん文字まで読めたと思うかもしれん」
***
「待つ側に入りますか」
イサラが尋ねた。
「入らん」
「なぜ?」
「ミエルの作業場におる」
「調査から離れる?」
「車輪を直す」
「板が戻ったら、すぐ呼びますか」
「呼ばんでええ」
「では」
「決めた時刻に、説明に来てくれ」
待つ場所は、仮板の前だけではなかった。
ジェンは、道の入口を見続けない。
未完成の車輪の前で、今の仕事をする。
「帰還が遅れた場合は?」
「ミエルが知らせる」
「自分から入口へ行く?」
「行かん」
「声が聞こえたと伝えられても?」
ジェンはしばらく黙った。
「行かん」
***
参加者は四人。
黒川朔。
ノエ・ハーラ。
マレア・ソン。
セオ・ラグナ。
前回より一人少ない。
ジェンがいない場所を、別の者で埋めなかった。
道の記憶を話す目的ではない。
板状物の形と状態を確認する。
運べるなら運ぶ。
それだけだった。
***
出発前。
リオは朔の名前の紙を開かなかった。
「今日も見ないんですか」
「今、何て呼ばれたい」
「サクで」
「目的は」
「黒い板状物を見る。条件を満たせば、木箱で外へ運ぶ」
「ミトの板か」
「まだ、そう呼びません」
「文字があったら」
「その場では読み上げません」
「ハルの名前が書いてあったら」
朔は止まった。
「見えたことは伝えます」
「読むか」
「目に入れば」
「取りに行くか」
「板以外は触りません」
「分からん顔やな」
「分かりません」
リオは、四人を見る。
「ほな、誰が止める」
「全員です」
「一人ずつ言え」
朔は答える。
「ノエさんが位置を言う。マレアさんが戻ると言う。セオさんが記録を閉じる。俺も、目的を確認します」
「お前が止まらんかったら」
「身体が越える前に、止めてもらいます」
今回は、必要なら触れる条件も決めている。
***
仮板が開く。
湿った石。
弱い鉄の匂い。
二本の車輪溝。
黒い木片。
人影なし。
声なし。
白い文字。
朔には見えない。
四人が通路へ入る。
***
最初の曲がり角。
黒い金属の窪み。
長い剣。
四角い枠。
輪。
釘。
前回の位置から、大きく変わっているようには見えない。
「声」
確認できない。
「金属の動き」
確認できない。
「板状物」
左側。
停止位置の先。
同じ場所にある。
***
今日は、板状物の手前まで進む。
窪みと左壁の間。
横向きに通る。
マレア。
朔。
ノエ。
セオ。
黒い金属へ触れない。
左壁にも、できる限り身体を付けない。
一歩。
二歩。
前回の停止位置。
三歩。
平たい黒い物が、灯りの中へ入る。
***
板は、記録板に近い形だった。
朔の腕より少し長い。
幅は両手ほど。
右下の角が、ほかより深く削れている。
上側に穴が二つ。
片方は、縁が裂けている。
細い黒い紐が、穴の近くへ残っていた。
「見える特徴」
朔が言う。
「板状。上部に穴二つ。右側の穴は縁に欠損」
ノエ。
「右下角に削り」
マレア。
「表面に線状の凹凸」
セオ。
文字か。
傷か。
まだ読まない。
***
「床へ固着していますか」
マレアが木板の先を、板状物の端へ近づける。
触れる前に止める。
「周囲の黒色」
「板の下と右側にあります」
朔。
「金属片は?」
「右へ指二本ほどの位置に、小さな留め具」
「板を持ち上げた時、触れる可能性」
「あります」
先に、その留め具との間へ細い木片を置く。
動きを確認するため。
触れない距離。
***
マレアが板状物の左端へ、薄い木板を差し入れる。
抵抗。
なし。
床との間に、わずかな隙間。
「持ち上げません」
まず、木板を抜く。
表面に黒い付着。
なし。
変色。
なし。
次に右端。
留め具へ触れない角度。
木板が、途中で止まる。
「何かあります」
「床の凹凸?」
「分かりません」
角度を変えない。
押し込まない。
***
「左側から少し浮かせて、下を見ますか」
セオが尋ねる。
「目的に含まれます」
朔が答える。
「持ち上げてよい条件は?」
周囲の物に変化なし。
声なし。
人影なし。
板表面に変化なし。
四人の身体に異常なし。
「行います」
マレアが言った。
***
二本の木板。
左と下。
板状物の端を、指一本分だけ浮かせる。
黒い粉は落ちない。
留め具も動かない。
床の下。
細い石の突起がある。
右側の木板が止まった理由だった。
「固着なし」
マレア。
「下部に石の突起」
セオ。
「表面変化」
「確認できません」
ノエ。
「声」
「なし」
***
板状物を、元の位置へ下ろす。
次に、表面へ横から灯りを当てる。
ノエが火を低くする。
正面からは黒く潰れていた線が、浅い影になる。
字。
図。
擦れ。
いくつも重なっている。
「文字を確認」
朔が言う。
「読み上げません」
セオが答える。
記録板へ、位置だけを写す。
上。
中央。
右。
下。
読めると思っても、通路では言葉にしない。
***
朔の目には、上部に五つの音を持つ字が見えた。
ヴァルハ。
そう読める。
だが、声にはしない。
その下。
名。
持つ。
者。
途中に欠け。
右側。
待つ。
者。
中央。
返す。
道。
ではない。
末尾に、小さな傷。
点か。
問いの形か。
ただの欠けか。
下端。
外に。
その先は、割れている。
***
朔の呼吸が少し速くなる。
「サクさん」
ノエが呼ぶ。
「古い搬入口。板状物の前です」
「はい」
「今、何を見ていますか」
「文字に見える線」
「読めますか」
「読めると思うものがあります」
「言いますか」
「帰ってから」
人影の声はない。
それでも、通路の中へ言葉を増やさない。
***
「移動条件を確認します」
マレアが言う。
板は固着していない。
大きな破損なし。
周囲の金属に変化なし。
木板への変色なし。
声なし。
人影なし。
身体異常。
朔の呼吸増加。
「続けられますか」
「はい」
「文字を見たことが理由で、持ち帰りたいですか」
「はい」
「今日の目的にも含まれていますか」
「条件を満たせば」
「では、行います」
***
浅い木箱を、板の左側へ置く。
黒い金属の窪みから離れた位置。
二本の木板を下へ差し入れる。
持ち上げる。
板状物は、軽かった。
木よりは重い。
石ではない。
持ち上がった瞬間。
下にあった細い黒い紐が、床へ落ちる。
金属音はしない。
「紐状物落下」
セオ。
「板から離れましたか」
「はい」
「回収しますか」
「板以外は対象外」
朔が答えた。
紐は、元の場所に残す。
***
板状物を、木箱の布へ置く。
表面を上。
誰も手で触れない。
「周囲」
「留め具、動きなし」
「黒い金属」
「変化確認できず」
「板」
「割れなし」
「布」
「変色なし」
「声」
なし。
人影。
なし。
***
「裏面は?」
セオが尋ねる。
「ここでは見ません」
マレアが答えた。
「運搬中に反転する可能性」
「箱の中で固定します」
木の細い留め枠。
板へ触れない位置へ差す。
蓋はしない。
「戻ります」
マレアが言う。
目的は終わった。
朔は、床へ落ちた黒い紐を見た。
板の穴へ付いていた物。
持ち主や用途を識別する情報かもしれない。
それでも、触れない。
「紐は残します」
自分から言った。
「確認」
セオ。
***
帰路。
四人のうち、二人で木箱を持つ。
朔とマレア。
腕を伸ばさない。
身体の近く。
水平。
ノエが前。
火と床を見る。
セオが後ろ。
記録板を閉じている。
「板の状態」
ノエが時折尋ねる。
「変化なし」
朔。
「箱」
「保持」
マレア。
***
黒い金属の窪み。
長い剣。
測定器らしき枠。
誰も止まらない。
板を持ち出すことで、ほかの物が動くかもしれない。
振り返らない。
金属音はしない。
***
曲がり角。
手と火の印。
低い天井。
黒い木片。
入口。
声は、最後までなかった。
前回、四つの名前を呼んだ道は。
今日は、何も呼ばなかった。
それを、板を渡したとも。
持ち出しを認めたとも書かない。
***
仮板の外へ出る。
ノエ。
朔とマレア。
木箱。
セオ。
四人。
人数。
身体。
持ち込んだ物。
すべてある。
向こうから持ち出した物。
黒色板状物、一点。
「紐は?」
ミエルが尋ねる。
「床へ残しました」
「板の一部では?」
「持ち上げた時に離れました」
「なぜ取らなかった」
「今日の対象に含めていません」
紐が必要なら、別に決める。
***
仮板を閉じる前に、サナが流れを確認する。
「大きな変化なし」
「板を外した時刻付近は?」
「わずかに弱くなったように見えます」
「測定誤差は?」
「範囲内です」
「では」
「変化を確認したとはしません」
三枚の板。
二つの錠。
確認孔。
道は閉じられる。
***
黒い板状物は、倉内の商品から離れた石床へ置かれた。
人は、木箱から二歩以上離れる。
火。
布。
床。
変化なし。
匂い。
朔には湿った木。
ノエには、焦げた紙。
マレアには、石と同じ。
セオは、明確な匂いを確認できない。
同じ物を前にしても、同じ匂いにはならない。
***
「開きますか」
グラドが、木箱の留め枠を見て尋ねる。
「裏を確認するために、反転させる必要があります」
セオが答える。
「今?」
「身体確認が先です」
板より先に。
持ち帰った者を見る。
***
トエが四人を確認する。
呼吸。
手。
視線。
痛み。
朔の呼吸は、出発前より速い。
「何を読みましたか」
「まだ、声にはしていません」
「頭の中では?」
「ヴァルハ。名を持つ者。待つ者。返す。道ではない。外に」
「一つの文ですか」
「分かりません」
「繋げたくなっていますか」
「はい」
「何と?」
朔は答えかけて止まる。
「今は、言いません」
「なぜ?」
「見た位置を確認する前に、文を作りたくない」
「身体は続けられますか」
「はい」
「では、確認は後で」
***
リオは紙を出さなかった。
「どこまで」
「板状物の前まで」
「触ったか」
「手では触っていません」
「持って帰った」
「木箱で」
「ミトの板か」
「まだ」
「何が書いてあった」
「ヴァルハ。名を持つ者。待つ者。返すのは道ではない、と読める部分。外に、の後は欠けています」
「繋げたか」
「まだ」
「ハルは」
「ありませんでした」
「名前を呼ばれたか」
「声はありませんでした」
***
「今、何て呼ばれたい」
「サクで」
「紙を見るか」
朔は木箱を見る。
「まだ」
「板には名前が書いてあったんやろ」
「言葉です」
「お前の名前は?」
「ありません」
「なら、自分で言えとる」
「はい」
「ほな、まだ持っとく」
***
板状物は、外郭の空き観察室へ運ばれた。
白い壁。
低い机。
窓は開けられる。
既存の記録は置かれていない。
木箱の周囲には、床へ印。
誰が。
いつ。
どこまで近づいたか。
残せるようにする。
観察室へ入ったのは、
ネラ。
セオ。
マレア。
朔。
イサラ。
グラド。
六人。
エリオは、外で待った。
記録板の筆跡確認に、勇者候補の技能は必要ない。
***
最初に、表面の図が作られた。
板そのものを動かす前。
正面。
右からの光。
左からの光。
上から。
文字らしき線。
傷。
割れ。
黒い変色。
別々に写す。
「読める字を先に書き写しますか」
グラドが尋ねる。
「位置が先です」
ネラが答えた。
「なぜ?」
「文章として読んだ後では、線を文章の続きとして見るからです」
読めることが。
見えることを、先に決める。
***
表面の位置図が終わる。
それから、ネラが文字を一つずつ確認する。
上部。
黒い表面の下に、浅く刻まれた字。
ヴァルハ
「確定ですか」
朔が尋ねる。
「四文字目の右側が欠けています」
「それでも?」
「ヴァルハと読む可能性が高いです」
「別の字は?」
「低いと思います」
確定と高い可能性を分ける。
***
その下。
名を持つ者
「者」の下部は、黒い変色で消えている。
だが、残った線は近い。
右側。
待つ者
こちらは、「待」の左が浅い。
別の字の可能性も残る。
中央。
返すのは 道ではない
間に広い空白。
末尾に、短い曲線。
「句点ですか」
グラドが尋ねる。
「傷かもしれません」
「疑問符?」
「古い記録で使う問いの印にも近いです」
「では、『返すのは道ではない?』」
「そう書いたとは決めません」
文か。
疑問か。
考え途中か。
分からない。
***
下端。
外に――
その先は割れている。
文字が続いていたのか。
線だけなのか。
板の欠損で失われている。
「待つ者と繋げれば」
グラドが言った。
「外に待つ者」
「位置が離れています」
ネラが止める。
「返すのは道ではない。外に待つ者が返す」
「板には、その文はありません」
朔が言った。
「意味としては」
「作らないでください」
言葉が揃っている。
だからこそ、完成させない。
***
「ヴァルハ」の近くには、文字とは異なる線もあった。
手。
その下に火。
横へ伸びる線。
古い搬入口の壁にあった印と近い。
「ヴァルハは、この印の名前?」
グラドが尋ねる。
「同じ近くにあります」
セオが答えた。
「では、道の印?」
「分かりません」
「人影を示す図は?」
「確認できません」
少なくとも、板の表面に、人の形は見つからなかった。
それでも、ヴァルハが人を示さないと確定はしない。
***
「筆跡は?」
イサラが尋ねた。
ネラは、ミトが残した別の記録を机の反対側へ置く。
同じ字。
名。
道。
者。
待。
一つずつ比べる。
「近いです」
「どこが?」
「『名』の下を右へ流す癖。『道』の最後を一度止めてから短く払う形。『者』の上を狭く書くところ」
「同じ?」
「近いです」
「違いは?」
「この板の字は浅い。炭ではなく、硬い物で刻んだ可能性があります。急いでいます」
「ミトが書いた可能性」
「高いと思います」
「確定は?」
「しません」
***
「板自体は?」
「旧搬路記録員用の物です」
「ミトの装備番号は?」
ネラが板の左端を低い光で見る。
黒い変色の下。
二本の短い線。
数字の一部か。
ただの傷か。
「番号は読めません」
「右下の削り」
「ミトの板と近い」
「穴の裂け」
ネラは別の記録を読む。
「六年前の出発前点検に、右の紐穴へ補修あり、とあります」
「一致?」
「右穴が裂けています」
「では」
「同じ状態の板が、ほかになかったとは確認できません」
筆跡。
板の形式。
右下の削り。
右の穴の裂け。
それぞれが近い。
それでも、一つで確定にはしない。
***
「裏面を見ますか」
マレアが尋ねる。
表面の確認。
終了。
反転の条件。
木板で支える。
直接触れない。
破片が落ちた場合は追わない。
黒い変色が布へ移る場合は元へ戻す。
「行います」
イサラが言う。
***
二本の木板を下へ入れる。
板状物を持ち上げる。
木箱の中で、ゆっくり反転させる。
黒い粉。
落下なし。
布。
変色なし。
裏面が上になる。
***
裏は、表より黒くなかった。
灰色の木。
水の跡。
擦れ。
そして、名前があった。
肩書きはない。
順位も。
役目も。
一人ずつ。
別の行。
ラグ・テイン
フィオナ・セルク
ミト
サナ・リト
ペル・オウダ
ガウ・メイル
ジェン
***
誰も、すぐには言葉を出さなかった。
「順番は?」
グラドが尋ねる。
セオが、六年前の隊列と照合する。
同じではない。
事故要約の順とも。
声に呼ばれた順とも。
「意味は?」
「分かりません」
ネラが答えた。
「全員の名前がある」
「はい」
「ミト自身も」
「はい」
「出発者名簿?」
「王都の名簿とは順が違います」
「本人が覚えるため?」
「可能性はあります」
「帰還確認?」
「可能性はあります」
名前だけでは、用途を決められない。
***
名前の横には、小さな印があった。
全員ではない。
サナの横に、短い二本線。
ペルの横に、丸。
ジェンの横には、何もない。
「状態を示す印?」
グラドが尋ねる。
「いつ書いたか分かりません」
ネラが答えた。
「負傷?」
「サナは右腕を負傷しました」
「ペルは帰還後に死亡」
「丸が死亡を示すとは確認されていません」
「ジェンには何もない」
「何も書かなかった理由は分かりません」
印を、結末にはしない。
***
「ジェンさんへ、どう伝えますか」
朔が尋ねた。
「本人が選んだ通り、先に内容を説明します」
イサラが答えた。
「現物は?」
「見たいかを、その後に聞く」
「ミトの板と?」
「まだ言いません」
「では」
「ミトが使用した可能性が高い記録板状物」
長い。
だが、短くして本人へ渡さない。
***
ジェンは、旧紙市場の作業場にいた。
車輪は横向き。
鉄帯は締められている。
金属棒は床へ置かれていた。
「音は?」
朔が尋ねる。
「聞いた」
「どうでしたか」
「昨日より高い」
「終わり?」
「客に聞かせて決める」
ジェンは朔たちを見る。
「板は」
「持ち帰りました」
「ミトの?」
「可能性は高いです。確定はしていません」
「何が書いとった」
「先に、表から話します」
***
ヴァルハ。
名を持つ者。
待つ者。
返すのは道ではない。
末尾は、問いの印か傷か不明。
外に。
その後は欠損。
手と火と線に近い印。
関係は未確認。
朔は、一つずつ伝えた。
一つの文にはしない。
***
「裏は」
「七人の名前がありました」
ジェンの顔が止まる。
「誰から」
朔は、板にある順で読む。
ラグ・テイン。
フィオナ・セルク。
ミト。
サナ・リト。
ペル・オウダ。
ガウ・メイル。
ジェン。
「役目は?」
「ありません」
「勇者候補も?」
「書かれていません」
「ミト自身も?」
「名前だけです」
「俺も」
「ジェン、と」
***
ジェンは、しばらく車輪を見ていた。
「俺も書いとったんやな」
「はい」
「帰ったから消されてへん?」
「消された跡はありません」
「ミトが書いたか」
「筆跡は近い。板の特徴も近い。可能性は高いです」
「いつ書いた」
「分かりません」
「声がした前か」
「分かりません」
「三人が残った後か」
「分かりません」
ジェンは頷く。
「分からんことが多いな」
「はい」
***
「現物を見ますか」
イサラが尋ねる。
「今は見ん」
「なぜ?」
「名前を聞いた」
「十分ですか」
「十分やない」
「では」
「見たら、あいつの板やと思う」
「それが怖い?」
「それもある」
ジェンは右手を閉じる。
「俺の名前があるから、俺が見たことにしたくなるかもしれん」
「本人が見なければ、確認できないことも」
「ある」
「それでも?」
「明日、見るか決める」
持ち帰った日に、すべてを受け取る義務はない。
***
「車輪の話をしていい?」
ミエルが尋ねた。
ジェンが彼女を見る。
「今?」
「板の話のあとやから、嫌なら明日」
ジェンは車輪へ手を置かない。
「客は何て」
「音を聞きたいって」
「俺が決めるんやなく?」
「運ぶ本人にも聞かせる」
「そうか」
「行く?」
ジェンは少し考える。
「行く」
ミトの板かもしれない物が戻った日。
ジェンは、まず車輪の依頼人へ会いに行った。
逃げたのではない。
板を受け取る時刻を、自分で先へ置いた。
***
サナとガウにも、板の裏の名前が伝えられた。
サナは図を見た。
「私の横の二本線は、何ですか」
「分かりません」
「腕の負傷?」
「可能性はあります」
「では、ペルの丸は?」
「同じ種類の印かも未確認です」
「ジェンに印がない」
「はい」
「帰還したから?」
「決めません」
サナは、自分の名前の横の線を長く見た。
「ミトが、私を負傷者としてだけ書いたとは思いたくありません」
「名前は別にあります」
朔が答えた。
「はい」
線より先に、サナ・リトと書かれている。
***
ガウは、自分の名前を指した。
「役目がないな」
「はい」
「外壁測定補助でも。生還者でも」
「ありません」
「六年前の俺は、杖を持ってへん」
「はい」
「今は持っとる」
ガウは自分の杖を見る。
「この板が、今の俺を知っとるわけやない」
「はい」
「でも、六年前に俺がおったことは」
「名前として残っています」
「ミトが書いたなら」
「可能性は高いです」
ガウは頷いた。
「それでええ。今は」
***
板の名称を、どう記録するか。
グラドは、
ミト使用記録板
を提案した。
ネラが止める。
「使用したと確定していません」
「筆跡と特徴が一致する」
「近いです」
「では、ミト筆跡板」
「筆跡だけを名前にしますか」
「検索できない」
「検索語は付けられます」
最終的な見出しは、
旧搬入口回収・黒色記録板状物
となった。
注記。
ミトの筆跡および使用板の特徴と近似。本人使用物である可能性が高いが、識別番号未確認。
「長いですね」
「はい」
短い名は、別の紙へ意味を落とす。
***
その日のうちに、街では「ミトの板」と呼ばれ始めた。
ミトが死ぬ前に残した遺言。
名を持つ者だけが帰れるという予言。
外で名前を呼べば、行方不明者が戻るという方法。
ヴァルハの本当の意味を書いた板。
板の欠けた部分には、黒い人影の名前があった。
どれも、確認されていない。
***
「公表しますか」
ベドが尋ねた。
「板を回収したことは」
イサラが答える。
「文字も?」
「当事者へ先に伝えます」
「街には、もう出ています」
「だから急いで全部を出す?」
「隠していると思われます」
「未確認の関係を、急いで完成させる方が危険です」
公示には、最低限だけが書かれた。
旧搬入口通路内から、記録板に近い黒色板状物一点を、木製器具により移動しました。
表面に「ヴァルハ」「名を持つ者」「待つ者」「返す」「道ではない」「外に」と読める可能性のある断片があります。配置、文の繋がり、記述時期、意味は未確認です。
裏面に六年前の調査参加者七名の名前があります。肩書きおよび順位の記載はありません。
筆跡等はミトの記録と近いものの、本人の遺言、最終記録、死亡の証明とは判定していません。
***
「返すのは道ではない、って、何が返すの」
ロウが尋ねた。
「分かりません」
朔が答える。
「外に待つ者が返すんじゃないの?」
「その文は、板にはありません」
「でも、言葉は全部ある」
「はい」
「並べたら」
「並べた人の文になります」
「ミトの文じゃない?」
「今のままでは、分かりません」
ロウは不満そうに地面へ線を書く。
「じゃあ、いつ分かるの」
「欠けた部分が見つかっても、分からないかもしれません」
「ずっと?」
「可能性はあります」
「面倒」
「はい」
***
夜。
観察室では、黒い板状物が木箱の中にある。
表面。
断片。
裏面。
七人の名前。
それぞれの図は、別の紙へ写された。
表と裏を、一枚へ重ねない。
言葉と名前が、同じ板にあることは残す。
だからといって、言葉が七人へ向けたものとはしない。
***
朔は、表面の断片を順番に見る。
ヴァルハ。
名を持つ者。
待つ者。
返すのは道ではない。
外に。
繋げれば、一つの考えに見える。
外に待つ者が。
名を持つ者を返す。
ヴァルハは、その仕組みか。
役目か。
道ではない何かか。
だが、それはまだ朔が作った文だった。
ミトが書いた文とは限らない。
***
裏には、七人の名前。
役目のない名前。
勇者候補第一位でも。
治療官でも。
記録員でも。
生還者でもない。
六年前、その道へ入った者たち。
ミトが書いた可能性が高い。
ただ、なぜ書いたかは分からない。
人数を忘れないためか。
帰還を確認するためか。
外で待つ者へ渡すためか。
自分自身も、同行者の一人だと残すためか。
***
板が帰っても、ミトが帰ったことにはならない。
ジェンも。
サナも。
ガウも、そのことを知っている。
それでも、板にはミトが見たかもしれない線が残っている。
読めないものを、読めるふりにしなかった痕跡。
七人を、役目ではなく名前で並べた痕跡。
今の者たちが、その理由を知らなくても。
***
名を持つ者。
待つ者。
外に。
返すのは、道ではない。
板の上では、それぞれの間に、黒い空白があった。
朔たちは、その空白へ言葉を足さなかった。
ミトの板と呼びたくなる物を持ち帰っても。
ミトの文章を、代わりに完成させなかった。
そして裏にあったジェンの名前も。
帰った者の印として消さず。
置いてきた者の側へ移さず。
ほかの六人と同じように、そこに残した。
六年前。
同じ道へ入った一人の名前として。




