↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
79/145

第六章 名を預ける道 ⑧ ミトの板



 平たい黒い物を、最初に「ミトの板」と呼んだのはジェンだった。


 通路の中。


 声が始まる前。


 停止位置から二歩先に見えた時。


「ミトの板かもしれん」


 そう言った。


 帰還記録には、そのまま残されている。


 だが、次の調査案に、その名前は使われなかった。


 目的は、


 旧搬入口通路内左壁寄りに確認された黒色板状物の状態、表面、移動可能性を確認する。


 だった。


「回収しないんですか」


 グラドが尋ねた。


「状態を見て、移動条件を満たす場合だけ、倉側へ運びます」


 セオが答える。


「それは回収では?」


「持ち主も、用途も確認されていません」


「通路から持ち出す」


「はい」


「なら」


 朔が言う。


「持ち出すことは書きます。誰の物を取り戻すかは書きません」


***


 板状物へ触れる条件も、一つずつ決めた。


 手では触れない。


 金属製の道具は使わない。


 表面を拭かない。


 文字らしきものが見えても、その場で読み上げない。


 床や壁へ固着している場合は動かさない。


 持ち上げた時に、周囲の黒い金属が動いた場合は下ろす。


 黒い変色が道具や布へ広がった場合は、その場に置く。


 声。


 人影。


 床の変化。


 いずれかを確認した場合は、移動を中止して戻る。


「持ち上げた後に声がした場合は?」


 グラドが尋ねる。


「板を持ったまま戻る?」


「安全に下ろせる位置なら下ろします」


 マレアが答えた。


「下ろすことで危険が増える場合は?」


「その場で判断します」


「先に決められない?」


「持ったままの位置と、周囲の状態が分からないからです」


 手順を作らないのではない。


 まだ見えていない場面を、見えたふりで埋めなかった。


***


 運搬には、ファナ・リトが作った浅い木箱を使う。


 蓋はない。


 底には、無地の麻布。


 板状物を箱へ入れるための二本の薄い木板。


 挟まない。


 左右から差し入れ、下を支える。


「落ちたら?」


 ファナが尋ねた。


「追いません」


 朔が答える。


「足元へ落ちても?」


「身体を守ります」


「板が割れても?」


「はい」


 人を置いて、記録物を拾わない。


「運び出した後、蓋は?」


「すぐには閉じません」


 マレアが言う。


「空気や表面に変化がないか確認します」


「倉へ黒いものが出たら?」


 ミエルが尋ねる。


「箱ごと再び通路へ戻す?」


「戻すとは決めません」


「うちの倉へ置き続ける?」


「倉の中には置きません」


 仮板の外。


 商品から離れた石床へ、臨時の確認区画が作られた。


 そこで状態を見た後、外郭の空き観察室へ運ぶ。


 記録庫へは入れない。


 何であるか分からない物を、既存の記録と同じ棚へ置かない。


***


 ネラ・ヴォスは、前回の現場図を長く見た。


 四角い板。


 横に二つの穴があるように見える壁の跡。


 その下、床へ落ちた黒い物。


「記録板に見えますか」


 朔が尋ねる。


「見えます」


「ミトさんの?」


「分かりません」


「識別できる特徴は?」


「六年前の搬路記録員が使っていた板は、同じ形です」


「二つの穴も?」


「紐を通すための穴です。壁へ掛ける時にも使います」


「ミトさんだけではない」


「はい」


 ネラは図の右下を指す。


「角が少し削れています」


「特徴ですか」


「古い板は、角を落として使う者が多いです。服へ引っかからないように」


「ミトさんも?」


「右下だけを深く削る癖はありました」


「では」


「この図だけで、同じ削り方かは分かりません」


***


「筆跡が残っていれば?」


「比べられます」


「確定できますか」


「できません」


「なぜ?」


「黒く変わっている。欠けている。書いた時の姿勢も違います」


 机で書く文字。


 歩きながら書く文字。


 暗い通路で写す文字。


 恐怖の中で急いだ文字。


 同じ人でも、同じ形にはならない。


「それでも、近いかは言えます」


 ネラは答えた。


「誰が書いたかを決めるためではなく?」


「ミトが書いた可能性を、どの程度持てるかを見るためです」


***


 ジェンは、その調査へ参加しなかった。


「行かないんですか」


 朔が尋ねた。


「行かん」


「声が怖いから?」


「それもある」


「板を見たくない?」


「見たい」


「では」


「俺が行ったら、板を見た瞬間にミトやと言うかもしれん」


「前回も、かもしれないと」


「次は近い」


 ジェンは右手を見る。


 震えは残っている。


「穴が二つあって。角が削れとって。字が似とったら。俺は、あいつの板にしたくなる」


「ほかの人が見れば?」


「俺よりは、止まれるかもしれん」


「帰ってから見ますか」


「先に、何が書いてあるか聞く」


「現物より?」


「現物を先に見たら、読めん文字まで読めたと思うかもしれん」


***


「待つ側に入りますか」


 イサラが尋ねた。


「入らん」


「なぜ?」


「ミエルの作業場におる」


「調査から離れる?」


「車輪を直す」


「板が戻ったら、すぐ呼びますか」


「呼ばんでええ」


「では」


「決めた時刻に、説明に来てくれ」


 待つ場所は、仮板の前だけではなかった。


 ジェンは、道の入口を見続けない。


 未完成の車輪の前で、今の仕事をする。


「帰還が遅れた場合は?」


「ミエルが知らせる」


「自分から入口へ行く?」


「行かん」


「声が聞こえたと伝えられても?」


 ジェンはしばらく黙った。


「行かん」


***


 参加者は四人。


 黒川朔。


 ノエ・ハーラ。


 マレア・ソン。


 セオ・ラグナ。


 前回より一人少ない。


 ジェンがいない場所を、別の者で埋めなかった。


 道の記憶を話す目的ではない。


 板状物の形と状態を確認する。


 運べるなら運ぶ。


 それだけだった。


***


 出発前。


 リオは朔の名前の紙を開かなかった。


「今日も見ないんですか」


「今、何て呼ばれたい」


「サクで」


「目的は」


「黒い板状物を見る。条件を満たせば、木箱で外へ運ぶ」


「ミトの板か」


「まだ、そう呼びません」


「文字があったら」


「その場では読み上げません」


「ハルの名前が書いてあったら」


 朔は止まった。


「見えたことは伝えます」


「読むか」


「目に入れば」


「取りに行くか」


「板以外は触りません」


「分からん顔やな」


「分かりません」


 リオは、四人を見る。


「ほな、誰が止める」


「全員です」


「一人ずつ言え」


 朔は答える。


「ノエさんが位置を言う。マレアさんが戻ると言う。セオさんが記録を閉じる。俺も、目的を確認します」


「お前が止まらんかったら」


「身体が越える前に、止めてもらいます」


 今回は、必要なら触れる条件も決めている。


***


 仮板が開く。


 湿った石。


 弱い鉄の匂い。


 二本の車輪溝。


 黒い木片。


 人影なし。


 声なし。


 白い文字。


 朔には見えない。


 四人が通路へ入る。


***


 最初の曲がり角。


 黒い金属の窪み。


 長い剣。


 四角い枠。


 輪。


 釘。


 前回の位置から、大きく変わっているようには見えない。


「声」


 確認できない。


「金属の動き」


 確認できない。


「板状物」


 左側。


 停止位置の先。


 同じ場所にある。


***


 今日は、板状物の手前まで進む。


 窪みと左壁の間。


 横向きに通る。


 マレア。


 朔。


 ノエ。


 セオ。


 黒い金属へ触れない。


 左壁にも、できる限り身体を付けない。


 一歩。


 二歩。


 前回の停止位置。


 三歩。


 平たい黒い物が、灯りの中へ入る。


***


 板は、記録板に近い形だった。


 朔の腕より少し長い。


 幅は両手ほど。


 右下の角が、ほかより深く削れている。


 上側に穴が二つ。


 片方は、縁が裂けている。


 細い黒い紐が、穴の近くへ残っていた。


「見える特徴」


 朔が言う。


「板状。上部に穴二つ。右側の穴は縁に欠損」


 ノエ。


「右下角に削り」


 マレア。


「表面に線状の凹凸」


 セオ。


 文字か。


 傷か。


 まだ読まない。


***


「床へ固着していますか」


 マレアが木板の先を、板状物の端へ近づける。


 触れる前に止める。


「周囲の黒色」


「板の下と右側にあります」


 朔。


「金属片は?」


「右へ指二本ほどの位置に、小さな留め具」


「板を持ち上げた時、触れる可能性」


「あります」


 先に、その留め具との間へ細い木片を置く。


 動きを確認するため。


 触れない距離。


***


 マレアが板状物の左端へ、薄い木板を差し入れる。


 抵抗。


 なし。


 床との間に、わずかな隙間。


「持ち上げません」


 まず、木板を抜く。


 表面に黒い付着。


 なし。


 変色。


 なし。


 次に右端。


 留め具へ触れない角度。


 木板が、途中で止まる。


「何かあります」


「床の凹凸?」


「分かりません」


 角度を変えない。


 押し込まない。


***


「左側から少し浮かせて、下を見ますか」


 セオが尋ねる。


「目的に含まれます」


 朔が答える。


「持ち上げてよい条件は?」


 周囲の物に変化なし。


 声なし。


 人影なし。


 板表面に変化なし。


 四人の身体に異常なし。


「行います」


 マレアが言った。


***


 二本の木板。


 左と下。


 板状物の端を、指一本分だけ浮かせる。


 黒い粉は落ちない。


 留め具も動かない。


 床の下。


 細い石の突起がある。


 右側の木板が止まった理由だった。


「固着なし」


 マレア。


「下部に石の突起」


 セオ。


「表面変化」


「確認できません」


 ノエ。


「声」


「なし」


***


 板状物を、元の位置へ下ろす。


 次に、表面へ横から灯りを当てる。


 ノエが火を低くする。


 正面からは黒く潰れていた線が、浅い影になる。


 字。


 図。


 擦れ。


 いくつも重なっている。


「文字を確認」


 朔が言う。


「読み上げません」


 セオが答える。


 記録板へ、位置だけを写す。


 上。


 中央。


 右。


 下。


 読めると思っても、通路では言葉にしない。


***


 朔の目には、上部に五つの音を持つ字が見えた。


 ヴァルハ。


 そう読める。


 だが、声にはしない。


 その下。


 名。


 持つ。


 者。


 途中に欠け。


 右側。


 待つ。


 者。


 中央。


 返す。


 道。


 ではない。


 末尾に、小さな傷。


 点か。


 問いの形か。


 ただの欠けか。


 下端。


 外に。


 その先は、割れている。


***


 朔の呼吸が少し速くなる。


「サクさん」


 ノエが呼ぶ。


「古い搬入口。板状物の前です」


「はい」


「今、何を見ていますか」


「文字に見える線」


「読めますか」


「読めると思うものがあります」


「言いますか」


「帰ってから」


 人影の声はない。


 それでも、通路の中へ言葉を増やさない。


***


「移動条件を確認します」


 マレアが言う。


 板は固着していない。


 大きな破損なし。


 周囲の金属に変化なし。


 木板への変色なし。


 声なし。


 人影なし。


 身体異常。


 朔の呼吸増加。


「続けられますか」


「はい」


「文字を見たことが理由で、持ち帰りたいですか」


「はい」


「今日の目的にも含まれていますか」


「条件を満たせば」


「では、行います」


***


 浅い木箱を、板の左側へ置く。


 黒い金属の窪みから離れた位置。


 二本の木板を下へ差し入れる。


 持ち上げる。


 板状物は、軽かった。


 木よりは重い。


 石ではない。


 持ち上がった瞬間。


 下にあった細い黒い紐が、床へ落ちる。


 金属音はしない。


「紐状物落下」


 セオ。


「板から離れましたか」


「はい」


「回収しますか」


「板以外は対象外」


 朔が答えた。


 紐は、元の場所に残す。


***


 板状物を、木箱の布へ置く。


 表面を上。


 誰も手で触れない。


「周囲」


「留め具、動きなし」


「黒い金属」


「変化確認できず」


「板」


「割れなし」


「布」


「変色なし」


「声」


 なし。


 人影。


 なし。


***


「裏面は?」


 セオが尋ねる。


「ここでは見ません」


 マレアが答えた。


「運搬中に反転する可能性」


「箱の中で固定します」


 木の細い留め枠。


 板へ触れない位置へ差す。


 蓋はしない。


「戻ります」


 マレアが言う。


 目的は終わった。


 朔は、床へ落ちた黒い紐を見た。


 板の穴へ付いていた物。


 持ち主や用途を識別する情報かもしれない。


 それでも、触れない。


「紐は残します」


 自分から言った。


「確認」


 セオ。


***


 帰路。


 四人のうち、二人で木箱を持つ。


 朔とマレア。


 腕を伸ばさない。


 身体の近く。


 水平。


 ノエが前。


 火と床を見る。


 セオが後ろ。


 記録板を閉じている。


「板の状態」


 ノエが時折尋ねる。


「変化なし」


 朔。


「箱」


「保持」


 マレア。


***


 黒い金属の窪み。


 長い剣。


 測定器らしき枠。


 誰も止まらない。


 板を持ち出すことで、ほかの物が動くかもしれない。


 振り返らない。


 金属音はしない。


***


 曲がり角。


 手と火の印。


 低い天井。


 黒い木片。


 入口。


 声は、最後までなかった。


 前回、四つの名前を呼んだ道は。


 今日は、何も呼ばなかった。


 それを、板を渡したとも。


 持ち出しを認めたとも書かない。


***


 仮板の外へ出る。


 ノエ。


 朔とマレア。


 木箱。


 セオ。


 四人。


 人数。


 身体。


 持ち込んだ物。


 すべてある。


 向こうから持ち出した物。


 黒色板状物、一点。


「紐は?」


 ミエルが尋ねる。


「床へ残しました」


「板の一部では?」


「持ち上げた時に離れました」


「なぜ取らなかった」


「今日の対象に含めていません」


 紐が必要なら、別に決める。


***


 仮板を閉じる前に、サナが流れを確認する。


「大きな変化なし」


「板を外した時刻付近は?」


「わずかに弱くなったように見えます」


「測定誤差は?」


「範囲内です」


「では」


「変化を確認したとはしません」


 三枚の板。


 二つの錠。


 確認孔。


 道は閉じられる。


***


 黒い板状物は、倉内の商品から離れた石床へ置かれた。


 人は、木箱から二歩以上離れる。


 火。


 布。


 床。


 変化なし。


 匂い。


 朔には湿った木。


 ノエには、焦げた紙。


 マレアには、石と同じ。


 セオは、明確な匂いを確認できない。


 同じ物を前にしても、同じ匂いにはならない。


***


「開きますか」


 グラドが、木箱の留め枠を見て尋ねる。


「裏を確認するために、反転させる必要があります」


 セオが答える。


「今?」


「身体確認が先です」


 板より先に。


 持ち帰った者を見る。


***


 トエが四人を確認する。


 呼吸。


 手。


 視線。


 痛み。


 朔の呼吸は、出発前より速い。


「何を読みましたか」


「まだ、声にはしていません」


「頭の中では?」


「ヴァルハ。名を持つ者。待つ者。返す。道ではない。外に」


「一つの文ですか」


「分かりません」


「繋げたくなっていますか」


「はい」


「何と?」


 朔は答えかけて止まる。


「今は、言いません」


「なぜ?」


「見た位置を確認する前に、文を作りたくない」


「身体は続けられますか」


「はい」


「では、確認は後で」


***


 リオは紙を出さなかった。


「どこまで」


「板状物の前まで」


「触ったか」


「手では触っていません」


「持って帰った」


「木箱で」


「ミトの板か」


「まだ」


「何が書いてあった」


「ヴァルハ。名を持つ者。待つ者。返すのは道ではない、と読める部分。外に、の後は欠けています」


「繋げたか」


「まだ」


「ハルは」


「ありませんでした」


「名前を呼ばれたか」


「声はありませんでした」


***


「今、何て呼ばれたい」


「サクで」


「紙を見るか」


 朔は木箱を見る。


「まだ」


「板には名前が書いてあったんやろ」


「言葉です」


「お前の名前は?」


「ありません」


「なら、自分で言えとる」


「はい」


「ほな、まだ持っとく」


***


 板状物は、外郭の空き観察室へ運ばれた。


 白い壁。


 低い机。


 窓は開けられる。


 既存の記録は置かれていない。


 木箱の周囲には、床へ印。


 誰が。


 いつ。


 どこまで近づいたか。


 残せるようにする。


 観察室へ入ったのは、


 ネラ。


 セオ。


 マレア。


 朔。


 イサラ。


 グラド。


 六人。


 エリオは、外で待った。


 記録板の筆跡確認に、勇者候補の技能は必要ない。


***


 最初に、表面の図が作られた。


 板そのものを動かす前。


 正面。


 右からの光。


 左からの光。


 上から。


 文字らしき線。


 傷。


 割れ。


 黒い変色。


 別々に写す。


「読める字を先に書き写しますか」


 グラドが尋ねる。


「位置が先です」


 ネラが答えた。


「なぜ?」


「文章として読んだ後では、線を文章の続きとして見るからです」


 読めることが。


 見えることを、先に決める。


***


 表面の位置図が終わる。


 それから、ネラが文字を一つずつ確認する。


 上部。


 黒い表面の下に、浅く刻まれた字。


 ヴァルハ


「確定ですか」


 朔が尋ねる。


「四文字目の右側が欠けています」


「それでも?」


「ヴァルハと読む可能性が高いです」


「別の字は?」


「低いと思います」


 確定と高い可能性を分ける。


***


 その下。


 名を持つ者


 「者」の下部は、黒い変色で消えている。


 だが、残った線は近い。


 右側。


 待つ者


 こちらは、「待」の左が浅い。


 別の字の可能性も残る。


 中央。


 返すのは 道ではない


 間に広い空白。


 末尾に、短い曲線。


「句点ですか」


 グラドが尋ねる。


「傷かもしれません」


「疑問符?」


「古い記録で使う問いの印にも近いです」


「では、『返すのは道ではない?』」


「そう書いたとは決めません」


 文か。


 疑問か。


 考え途中か。


 分からない。


***


 下端。


 外に――


 その先は割れている。


 文字が続いていたのか。


 線だけなのか。


 板の欠損で失われている。


「待つ者と繋げれば」


 グラドが言った。


「外に待つ者」


「位置が離れています」


 ネラが止める。


「返すのは道ではない。外に待つ者が返す」


「板には、その文はありません」


 朔が言った。


「意味としては」


「作らないでください」


 言葉が揃っている。


 だからこそ、完成させない。


***


 「ヴァルハ」の近くには、文字とは異なる線もあった。


 手。


 その下に火。


 横へ伸びる線。


 古い搬入口の壁にあった印と近い。


「ヴァルハは、この印の名前?」


 グラドが尋ねる。


「同じ近くにあります」


 セオが答えた。


「では、道の印?」


「分かりません」


「人影を示す図は?」


「確認できません」


 少なくとも、板の表面に、人の形は見つからなかった。


 それでも、ヴァルハが人を示さないと確定はしない。


***


「筆跡は?」


 イサラが尋ねた。


 ネラは、ミトが残した別の記録を机の反対側へ置く。


 同じ字。


 名。


 道。


 者。


 待。


 一つずつ比べる。


「近いです」


「どこが?」


「『名』の下を右へ流す癖。『道』の最後を一度止めてから短く払う形。『者』の上を狭く書くところ」


「同じ?」


「近いです」


「違いは?」


「この板の字は浅い。炭ではなく、硬い物で刻んだ可能性があります。急いでいます」


「ミトが書いた可能性」


「高いと思います」


「確定は?」


「しません」


***


「板自体は?」


「旧搬路記録員用の物です」


「ミトの装備番号は?」


 ネラが板の左端を低い光で見る。


 黒い変色の下。


 二本の短い線。


 数字の一部か。


 ただの傷か。


「番号は読めません」


「右下の削り」


「ミトの板と近い」


「穴の裂け」


 ネラは別の記録を読む。


「六年前の出発前点検に、右の紐穴へ補修あり、とあります」


「一致?」


「右穴が裂けています」


「では」


「同じ状態の板が、ほかになかったとは確認できません」


 筆跡。


 板の形式。


 右下の削り。


 右の穴の裂け。


 それぞれが近い。


 それでも、一つで確定にはしない。


***


「裏面を見ますか」


 マレアが尋ねる。


 表面の確認。


 終了。


 反転の条件。


 木板で支える。


 直接触れない。


 破片が落ちた場合は追わない。


 黒い変色が布へ移る場合は元へ戻す。


「行います」


 イサラが言う。


***


 二本の木板を下へ入れる。


 板状物を持ち上げる。


 木箱の中で、ゆっくり反転させる。


 黒い粉。


 落下なし。


 布。


 変色なし。


 裏面が上になる。


***


 裏は、表より黒くなかった。


 灰色の木。


 水の跡。


 擦れ。


 そして、名前があった。


 肩書きはない。


 順位も。


 役目も。


 一人ずつ。


 別の行。


 ラグ・テイン


 フィオナ・セルク


 ミト


 サナ・リト


 ペル・オウダ


 ガウ・メイル


 ジェン


***


 誰も、すぐには言葉を出さなかった。


「順番は?」


 グラドが尋ねる。


 セオが、六年前の隊列と照合する。


 同じではない。


 事故要約の順とも。


 声に呼ばれた順とも。


「意味は?」


「分かりません」


 ネラが答えた。


「全員の名前がある」


「はい」


「ミト自身も」


「はい」


「出発者名簿?」


「王都の名簿とは順が違います」


「本人が覚えるため?」


「可能性はあります」


「帰還確認?」


「可能性はあります」


 名前だけでは、用途を決められない。


***


 名前の横には、小さな印があった。


 全員ではない。


 サナの横に、短い二本線。


 ペルの横に、丸。


 ジェンの横には、何もない。


「状態を示す印?」


 グラドが尋ねる。


「いつ書いたか分かりません」


 ネラが答えた。


「負傷?」


「サナは右腕を負傷しました」


「ペルは帰還後に死亡」


「丸が死亡を示すとは確認されていません」


「ジェンには何もない」


「何も書かなかった理由は分かりません」


 印を、結末にはしない。


***


「ジェンさんへ、どう伝えますか」


 朔が尋ねた。


「本人が選んだ通り、先に内容を説明します」


 イサラが答えた。


「現物は?」


「見たいかを、その後に聞く」


「ミトの板と?」


「まだ言いません」


「では」


「ミトが使用した可能性が高い記録板状物」


 長い。


 だが、短くして本人へ渡さない。


***


 ジェンは、旧紙市場の作業場にいた。


 車輪は横向き。


 鉄帯は締められている。


 金属棒は床へ置かれていた。


「音は?」


 朔が尋ねる。


「聞いた」


「どうでしたか」


「昨日より高い」


「終わり?」


「客に聞かせて決める」


 ジェンは朔たちを見る。


「板は」


「持ち帰りました」


「ミトの?」


「可能性は高いです。確定はしていません」


「何が書いとった」


「先に、表から話します」


***


 ヴァルハ。


 名を持つ者。


 待つ者。


 返すのは道ではない。


 末尾は、問いの印か傷か不明。


 外に。


 その後は欠損。


 手と火と線に近い印。


 関係は未確認。


 朔は、一つずつ伝えた。


 一つの文にはしない。


***


「裏は」


「七人の名前がありました」


 ジェンの顔が止まる。


「誰から」


 朔は、板にある順で読む。


 ラグ・テイン。


 フィオナ・セルク。


 ミト。


 サナ・リト。


 ペル・オウダ。


 ガウ・メイル。


 ジェン。


「役目は?」


「ありません」


「勇者候補も?」


「書かれていません」


「ミト自身も?」


「名前だけです」


「俺も」


「ジェン、と」


***


 ジェンは、しばらく車輪を見ていた。


「俺も書いとったんやな」


「はい」


「帰ったから消されてへん?」


「消された跡はありません」


「ミトが書いたか」


「筆跡は近い。板の特徴も近い。可能性は高いです」


「いつ書いた」


「分かりません」


「声がした前か」


「分かりません」


「三人が残った後か」


「分かりません」


 ジェンは頷く。


「分からんことが多いな」


「はい」


***


「現物を見ますか」


 イサラが尋ねる。


「今は見ん」


「なぜ?」


「名前を聞いた」


「十分ですか」


「十分やない」


「では」


「見たら、あいつの板やと思う」


「それが怖い?」


「それもある」


 ジェンは右手を閉じる。


「俺の名前があるから、俺が見たことにしたくなるかもしれん」


「本人が見なければ、確認できないことも」


「ある」


「それでも?」


「明日、見るか決める」


 持ち帰った日に、すべてを受け取る義務はない。


***


「車輪の話をしていい?」


 ミエルが尋ねた。


 ジェンが彼女を見る。


「今?」


「板の話のあとやから、嫌なら明日」


 ジェンは車輪へ手を置かない。


「客は何て」


「音を聞きたいって」


「俺が決めるんやなく?」


「運ぶ本人にも聞かせる」


「そうか」


「行く?」


 ジェンは少し考える。


「行く」


 ミトの板かもしれない物が戻った日。


 ジェンは、まず車輪の依頼人へ会いに行った。


 逃げたのではない。


 板を受け取る時刻を、自分で先へ置いた。


***


 サナとガウにも、板の裏の名前が伝えられた。


 サナは図を見た。


「私の横の二本線は、何ですか」


「分かりません」


「腕の負傷?」


「可能性はあります」


「では、ペルの丸は?」


「同じ種類の印かも未確認です」


「ジェンに印がない」


「はい」


「帰還したから?」


「決めません」


 サナは、自分の名前の横の線を長く見た。


「ミトが、私を負傷者としてだけ書いたとは思いたくありません」


「名前は別にあります」


 朔が答えた。


「はい」


 線より先に、サナ・リトと書かれている。


***


 ガウは、自分の名前を指した。


「役目がないな」


「はい」


「外壁測定補助でも。生還者でも」


「ありません」


「六年前の俺は、杖を持ってへん」


「はい」


「今は持っとる」


 ガウは自分の杖を見る。


「この板が、今の俺を知っとるわけやない」


「はい」


「でも、六年前に俺がおったことは」


「名前として残っています」


「ミトが書いたなら」


「可能性は高いです」


 ガウは頷いた。


「それでええ。今は」


***


 板の名称を、どう記録するか。


 グラドは、


 ミト使用記録板


 を提案した。


 ネラが止める。


「使用したと確定していません」


「筆跡と特徴が一致する」


「近いです」


「では、ミト筆跡板」


「筆跡だけを名前にしますか」


「検索できない」


「検索語は付けられます」


 最終的な見出しは、


 旧搬入口回収・黒色記録板状物


 となった。


 注記。


 ミトの筆跡および使用板の特徴と近似。本人使用物である可能性が高いが、識別番号未確認。


「長いですね」


「はい」


 短い名は、別の紙へ意味を落とす。


***


 その日のうちに、街では「ミトの板」と呼ばれ始めた。


 ミトが死ぬ前に残した遺言。


 名を持つ者だけが帰れるという予言。


 外で名前を呼べば、行方不明者が戻るという方法。


 ヴァルハの本当の意味を書いた板。


 板の欠けた部分には、黒い人影の名前があった。


 どれも、確認されていない。


***


「公表しますか」


 ベドが尋ねた。


「板を回収したことは」


 イサラが答える。


「文字も?」


「当事者へ先に伝えます」


「街には、もう出ています」


「だから急いで全部を出す?」


「隠していると思われます」


「未確認の関係を、急いで完成させる方が危険です」


 公示には、最低限だけが書かれた。


 旧搬入口通路内から、記録板に近い黒色板状物一点を、木製器具により移動しました。


 表面に「ヴァルハ」「名を持つ者」「待つ者」「返す」「道ではない」「外に」と読める可能性のある断片があります。配置、文の繋がり、記述時期、意味は未確認です。


 裏面に六年前の調査参加者七名の名前があります。肩書きおよび順位の記載はありません。


 筆跡等はミトの記録と近いものの、本人の遺言、最終記録、死亡の証明とは判定していません。


***


「返すのは道ではない、って、何が返すの」


 ロウが尋ねた。


「分かりません」


 朔が答える。


「外に待つ者が返すんじゃないの?」


「その文は、板にはありません」


「でも、言葉は全部ある」


「はい」


「並べたら」


「並べた人の文になります」


「ミトの文じゃない?」


「今のままでは、分かりません」


 ロウは不満そうに地面へ線を書く。


「じゃあ、いつ分かるの」


「欠けた部分が見つかっても、分からないかもしれません」


「ずっと?」


「可能性はあります」


「面倒」


「はい」


***


 夜。


 観察室では、黒い板状物が木箱の中にある。


 表面。


 断片。


 裏面。


 七人の名前。


 それぞれの図は、別の紙へ写された。


 表と裏を、一枚へ重ねない。


 言葉と名前が、同じ板にあることは残す。


 だからといって、言葉が七人へ向けたものとはしない。


***


 朔は、表面の断片を順番に見る。


 ヴァルハ。


 名を持つ者。


 待つ者。


 返すのは道ではない。


 外に。


 繋げれば、一つの考えに見える。


 外に待つ者が。


 名を持つ者を返す。


 ヴァルハは、その仕組みか。


 役目か。


 道ではない何かか。


 だが、それはまだ朔が作った文だった。


 ミトが書いた文とは限らない。


***


 裏には、七人の名前。


 役目のない名前。


 勇者候補第一位でも。


 治療官でも。


 記録員でも。


 生還者でもない。


 六年前、その道へ入った者たち。


 ミトが書いた可能性が高い。


 ただ、なぜ書いたかは分からない。


 人数を忘れないためか。


 帰還を確認するためか。


 外で待つ者へ渡すためか。


 自分自身も、同行者の一人だと残すためか。


***


 板が帰っても、ミトが帰ったことにはならない。


 ジェンも。


 サナも。


 ガウも、そのことを知っている。


 それでも、板にはミトが見たかもしれない線が残っている。


 読めないものを、読めるふりにしなかった痕跡。


 七人を、役目ではなく名前で並べた痕跡。


 今の者たちが、その理由を知らなくても。


***


 名を持つ者。


 待つ者。


 外に。


 返すのは、道ではない。


 板の上では、それぞれの間に、黒い空白があった。


 朔たちは、その空白へ言葉を足さなかった。


 ミトの板と呼びたくなる物を持ち帰っても。


 ミトの文章を、代わりに完成させなかった。


 そして裏にあったジェンの名前も。


 帰った者の印として消さず。


 置いてきた者の側へ移さず。


 ほかの六人と同じように、そこに残した。


 六年前。


 同じ道へ入った一人の名前として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。