第六章 名を預ける道 ⑤ 古い搬入口
出発の朝、リオは朔の名前の紙を初めて机の上へ広げた。
黒川朔。
その下に、少し小さく、
ツヅリ村ではサク。
何度か折られた跡。
端には、リオが持ち歩いた間についた薄い汚れがある。
「文字は消えていませんね」
朔が言った。
「見たら分かる」
「書き直しますか」
「何でや」
「薄くなっているところがあります」
「読める」
「道の中で、もっと薄くなる可能性は?」
「紙は外にある」
「俺の方が?」
リオは顔を上げる。
「薄くなると思っとるんか」
「分かりません」
「ほな、書き足すな」
「どうして?」
「怖いからって同じ文字を重ねたら、元の線がどこか分からんようになる」
リオは紙を折り直す前に、朔へ向けた。
「今、何て書いてある」
「黒川朔」
「ほかは」
「ツヅリ村では、サク」
「今も?」
「はい」
「どっちで呼ばれたい」
朔は少し考えた。
「サクで」
「黒川朔は?」
「なくなっていません」
「なら、聞いた」
リオは紙を元の折り目で畳んだ。
新しい折り目は付けない。
***
旧紙市場の倉では、仮閉鎖板がまだ付いたままだった。
三枚の板。
小さな確認孔。
二つの錠。
ミエル・サドが一つ。
木工職人のファナ・リトが一つ。
二人が揃わなければ開けられない。
「管理局の人が、昨日も鍵を預からせてくれって来たよ」
ミエルが言った。
「誰が?」
セオが尋ねる。
「名前は記録にある。断ったことも」
「理由は?」
「昨日と同じだよ。道の入口でもあるけど、うちの倉の壁でもある」
「緊急時は?」
「板を壊せる」
「鍵を持つ方が早い」
「早いから渡すとは言ってない」
ミエルは一つ目の錠へ鍵を入れた。
「壊すなら、壊した奴の名前が残る。鍵なら、誰が開けたか分からなくなることがある」
ファナも二つ目の錠を開ける。
板はまだ外さない。
***
進む五人の身体確認が行われた。
朔。
ノエ・ハーラ。
マレア・ソン。
セオ・ラグナ。
ジェン。
発熱なし。
呼吸異常なし。
歩行異常なし。
手の震え。
朔、なし。
ノエ、わずかにあり。
マレア、なし。
セオ、なし。
ジェン。
「右手だけ、少し」
マレアが言った。
「いつから?」
「昨日からや」
「道のことを考えた時?」
「車輪の鉄帯を締めた時にも震えた」
「普段から?」
「たまにある」
「今日、強くなっていますか」
「少し」
「参加をやめますか」
「やめへん」
「理由は?」
「行きたいからや」
「六年前をやり直すため?」
「違う」
ジェンは、自分の出発時記録を見る。
「そう思う時があることは、書いた」
「今は?」
「道を見に行く」
マレアは震えを消そうとしなかった。
右手に軽い震え。本人は参加を希望。物を単独で保持する役目は持たない。
そう記した。
***
持ち込む物も確認された。
ノエの網箱。
火種入れ。
マレアの治療袋。
小さな刃は、赤い糸で封をした木箱の中。
開けた場合は、その場の調査を終了する。
セオの記録板。
留め具は木製。
予備の炭筆。
朔は、青い布を服の内側へ結んでいる。
見せるためには出さない。
ミナトの短刀は、リオが持っている。
ジェンは何も持たない。
「道具は?」
グラドが尋ねた。
「持たん」
「杖も?」
「いらん」
「壁や床を示す棒は?」
「指す必要があれば、言葉で言う」
「記憶の位置を正確に示せません」
「正確やと思わせる方が困る」
ジェンは答えた。
「俺が覚えとる場所と、今ある壁が同じやとは限らん」
***
隊列は、最初から一つに固定しなかった。
仮板を越えるまでは、マレアが先。
床と空気を確認する。
入口を越えた後は、朔が前へ出る。
印と車輪溝を見る。
ジェンは朔の半歩後ろ。
道を知っている者として先頭には立たない。
ノエは中央。
火と、前後の人を見る。
セオは最後尾。
帰路を確認し、記録のために立ち止まらない。
「セオさんが最後だと、後ろに残る可能性は?」
ノエが尋ねた。
「あります」
セオが答える。
「では」
「帰路では、記録板を閉じます」
「閉じても、見たくなる?」
「はい」
「誰が確認する?」
「ノエさん」
「私が火を見ていたら?」
「朔さん」
「俺が前を見ていたら?」
マレアが言う。
「一人が一人だけを見る形にしません。帰路へ向いた時、全員が前後の名前と位置を言います」
名前を呼ぶことが危険になる可能性がある。
だが、入口付近では、まだ黒い人影や声は確認されていない。
「声が始まった場合は?」
「名前ではなく、位置で確認します」
前。
中央。
後ろ。
それだけに切り替える。
***
帰還側も、位置に就いた。
イサラは外郭連絡所。
全体時刻と次の判断時刻を持つ。
エリオは倉の外。
帰還路と人の流れを見る。
サナは倉の中、仮板から三歩離れた場所。
外側から流れを測る。
ミエルは商品の位置と仮板の状態を見る。
アナ。
トエ。
ネラ。
リオ。
それぞれが、帰還後に伝えてよい内容を持つ。
誰も、進む五人を送り出すために、
「必ず戻れ」
とは言わなかった。
戻ることは目標だった。
命令として言えば、戻れなかった者の行為まで違反に変わる。
***
「時刻です」
イサラから伝達が来る。
ミエルとファナが、仮板を外した。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
確認孔から出ていた冷たい空気が、開口部全体から倉へ流れ込む。
昨日と同じ、湿った石の匂い。
朔には、少しだけ鉄の匂いが強くなったように感じた。
「鉄に近い匂い」
朔が言う。
「昨日より?」
「強く感じます」
「測定では?」
サナが器具を見る。
「流れは昨日の開口時と近いです。匂いの強さは測っていません」
一人の知覚を、流れの変化にはしない。
***
灯りを穴の手前へ置く。
火は倉側へ少し傾く。
消えない。
色の変化なし。
ノエの火種入れも静か。
「声」
セオが確認する。
全員、黙る。
市場の外の音。
荷車。
紙を裁つ音。
誰かが値段を尋ねる声。
通路の内側からは、空気が石の縁を擦る音だけ。
「確認できません」
一人ずつ答えた。
***
マレアが最初に、開口部へ近づいた。
身体を入れない。
長い木棒を床へ沿わせる。
以前見つけた黒い木片には触れない位置。
入口の石。
浮きなし。
床。
大きな割れなし。
車輪溝の間に、薄い水。
「昨日は?」
朔が尋ねる。
「見える範囲では確認していません」
「新しく出た?」
「昨日の光では見えなかった可能性があります」
マレアは棒を戻す。
「足を置けます。ただし、滑る可能性があります」
***
「入ります」
マレアが告げた。
右足。
左足。
身体全部が仮板の向こうへ入る。
黒い線はない。
光の断絶も。
人影も。
「身体は?」
倉側からトエが尋ねる。
「変化なし」
「声」
「なし」
「戻れますか」
マレアは一歩だけ後ろへ戻る。
倉の床へ足が着く。
「戻れます」
再び通路へ入る。
入口の確認だった。
***
朔が続く。
石枠を越える時、服の内側の青い布が胸へ触れた。
温度は変わらない。
白い文字も見えない。
何かを期待した自分だけがいた。
「サク」
リオの声が、倉の外から届く。
黒い人影の声ではない。
「古い搬入口。入口を越えたところです」
朔は答えた。
「今の位置を確認しました」
セオが記録する。
***
ジェンが入口へ立つ。
足が止まった。
「どうしましたか」
マレアが尋ねる。
「高さが違う」
「六年前と?」
「低くなっとる気がする」
「天井が?」
「入口の上」
後補修された石枠。
六年前の扉枠へ、別の石を積んだ可能性。
「入れますか」
「入れる」
「続けますか」
「はい」
ジェンは頭を少し下げた。
六年前と同じ動きなのか。
今の入口が低いだけなのか。
決めない。
***
ノエ。
セオ。
五人が通路へ入る。
入口の外には、サナとミエルが見える。
灯りも。
帰還側の机までは見えない。
だが、倉の入口から差す日中の光は残っている。
「人数」
マレアが言う。
前。
朔。
その横にマレア。
半歩後ろにジェン。
中央、ノエ。
後ろ、セオ。
五人。
***
黒い木片状物は、入口から二歩ほどの場所にあった。
車輪溝の間。
長さは、朔の前腕ほど。
幅は指三本。
表面は黒い。
焦げたようにも。
濡れた木のようにも見える。
「昨日より近く見えます」
セオが言う。
「近くにいるからです」
ノエが答えた。
「形は?」
「長い板状」
朔。
「私は、楔に見えます」
マレア。
「車輪止めかもしれん」
ジェン。
「記録板には?」
セオが自分で問う。
「見えへん」
ジェンが答えた。
「六年前には?」
「覚えてへん」
「触りますか」
「触らない」
朔が言った。
今日の目的ではない。
***
黒い木片の横を通る。
車輪溝を踏まないよう、右側へ寄る。
壁と肩の間は、手の幅二つほど。
朔が先に通る。
マレア。
ジェン。
ノエ。
セオ。
「木片に変化」
ノエが言う。
全員が止まる。
「何が?」
「私が横を通った時、表面が光ったように見えました」
「今も?」
「いいえ」
「ほかの人は?」
朔、見ていない。
マレア、確認せず。
ジェン、見ていない。
セオ。
「黒い表面に、火の光が反射したのを見ました」
「同じ瞬間?」
「ノエさんが通った時です」
「変化と反射」
一つにしない。
木片はそのまま残す。
***
通路は、最初の数歩だけ真っすぐだった。
右壁には、長く擦れた跡。
腰より少し高い位置。
左の車輪溝だけが深い。
「荷車が左へ傾いていた?」
朔が尋ねる。
「そうかもしれん」
ジェンが答える。
「覚えていますか」
「ここで右の輪を浮かせた気がする」
「なぜ?」
「右側の床が、前はもっと高かった」
「今は?」
石が削られている。
後から直したようにも見える。
「ここで荷車を傾けたと確定しますか」
セオが尋ねる。
「せん」
ジェンは壁の擦れ跡を見る。
「荷台が当たった跡には見える」
「六年前の?」
「もっと前の荷車かもしれん」
***
ジェンの右手が、身体の前へ出た。
何もない場所で、何かを握る形。
朔は足を止める。
「ジェンさん」
「分かっとる」
「今、何を?」
「荷車の柄を持とうとした」
「見えましたか」
「見えてへん」
「身体が?」
「先に動いた」
ジェンは右手を下ろす。
「今は、荷車はありません」
ノエが言った。
「分かっとる」
「戻りますか」
「戻らん」
ジェンは朔ではなく、全員を見る。
マレア。
ノエ。
セオ。
朔。
「今いる人は見えとる」
***
通路の壁には、小さな鉄輪が残っていた。
半分は石へ埋まり、半分だけ外へ出ている。
黒く錆びている。
「縄を通した?」
朔が尋ねる。
「そう見えます」
セオ。
「六年前に使いましたか」
「使ってへん」
ジェンが答える。
「覚えていない?」
「使ってへんと思う」
「なぜ?」
「縄は荷車に結んであった。壁へは通してへん」
「誰が結んだ?」
「最初は俺」
「途中で?」
ジェンが止まる。
「ペルが結び直した」
「なぜ?」
「荷が片寄っとる言うて」
治療官ペル・オウダ。
道具だけでなく、荷の結び目も見ていた。
「場所はここ?」
「分からん」
「では、ペルさんの行為として?」
「荷車の縄を結び直したことは覚えとる」
「場所は未確認」
「そうや」
***
ノエの火が、少し右へ傾く。
「流れ」
ノエが言う。
サナは外にいる。
通路内の細かな流れは測定しないと決めている。
「身体で感じますか」
マレアが尋ねる。
「右の頬が冷たいです」
朔。
「私は左手」
ジェン。
「私は火の傾きだけ」
ノエ。
「私は感じません」
マレア。
セオも、明確には感じない。
同じ通路でも、風の当たり方は違う。
***
床が少し下がる。
水が車輪溝へ溜まっている。
マレアが先へ出る。
足を置く。
滑らない。
「深さ」
「靴底より浅い」
「黒い変色」
「なし」
朔が位置を入れ替える。
前へ出る。
最初の印が見えた。
右壁。
手。
その下に火。
横へ伸びる一本の線。
倉側から見た印より、形が完全に残っている。
「同じ印ですか」
セオが尋ねる。
「近いです」
朔が答える。
「外側の印と?」
「手と火の位置は同じ。線の長さが違います」
「向きは?」
ジェンが印を見る。
「六年前、ミトが止まった」
***
「ここで?」
朔が尋ねる。
「たぶん」
「何をしましたか」
「写した」
「ヴァルハの文字?」
「ちゃう」
「では」
「この印や」
ジェンは壁へ触れない。
「ミトは、手と火の間を何度も見とった」
「何か文字が?」
「俺には見えへんかった」
「本人は?」
「重なっとるって言うた」
「何が?」
「手と火が」
朔は印を見る。
今は、別々の形に見える。
「意味は?」
「聞いた」
「何と答えましたか」
「分からんから写す、と」
読めないものを、読める形へ直さなかった。
***
「ラグさんは?」
「先を見とった」
「フィオナさんは?」
「壁の反対側」
「ペルさんは?」
「荷車の縄」
「ガウさんは?」
「後ろ」
「ジェンさんは?」
「右の輪」
肩書きではない位置。
記録員。
勇者候補。
治療官。
測定補助。
運搬補助。
その時、何をしていたか。
「全員、止まったんですか」
「ミトが写すまで」
「急がなかった?」
「ラグが急かした」
「ミトは?」
「待て言うた」
「ラグさんは待った?」
「待った」
ジェンは、少しだけ息を吐いた。
「不機嫌そうやったけどな」
***
印の下には、細い傷があった。
縦に三本。
「文字ですか」
セオが尋ねる。
「傷かもしれません」
朔。
「荷物が当たった跡にも見える」
ジェン。
「昨日の開口記録には?」
「見えていません」
ここまで入って、初めて見えた。
それでも、今日の目的に含まれる。
印の状態確認。
位置を写す。
触れない。
***
通路の天井が低くなる。
朔には問題ない。
マレアも少し頭を下げるだけ。
ジェンは、身体を左へ傾けた。
頭ではなく、肩を避ける動き。
「上ではなく、右ですか」
朔が尋ねる。
ジェンは自分の姿勢に気づく。
「荷車を傾けた時の癖や」
「ここで?」
「ここやと思う」
右壁に、広い擦れ跡。
左の床には、車輪溝から外れた浅い線。
「右輪を上げた?」
「たぶん」
「誰と?」
ジェンは壁を見る。
「ラグが荷台の右を押した」
勇者候補第四位。
ラグ・テイン。
「ガウが後ろ」
「フィオナさんは?」
「前の石をどけた」
「ペルさん」
「腰から持てって、全員に言うとった」
「ミトさんは?」
「荷車が通ったあとで、壁の傷を写した」
***
ジェンの声は、六年前の場面を語るために大きくならなかった。
ただ、道の形と一緒に出てくる。
「ラグさんは、何か言いましたか」
朔が尋ねる。
「重いって」
「それだけ?」
「勇者に荷車を押させるな、とも」
「怒っていた?」
「笑っとった」
「誰が?」
「フィオナが」
「なぜ?」
「自分は石をどけとるのに、勇者扱いされてへんって」
ラグも笑ったかは、ジェンには思い出せなかった。
「覚えていない?」
「声は思い出せん」
笑った場面を、全員が笑った話にはしない。
***
朔の前に、低い石が出ていた。
床から膝ほど。
荷車の車輪なら、当たる位置。
「これですか」
「前は、もっと出とった」
ジェンが答える。
「フィオナさんが動かした?」
「動かしたのは小さい石や。これは無理や」
「削られた?」
「分からん」
石の角は丸い。
何台もの荷車が擦った可能性。
「六年前の行為だけで、今の形になったわけではありません」
セオが言う。
「当たり前や」
ジェンは答えた。
「この道は、俺らのためだけにあったんやない」
***
最初の曲がり角が見えた。
左。
その手前に、床の色が変わる線。
黒ではない。
濡れた石と乾いた石の境。
「黒い線ではありません」
朔が言う。
「全員、同じ?」
灰色の床。
濃い水跡。
光の断絶なし。
全員が確認する。
***
曲がり角の手前に、白い印を置く。
持ち込んだ小さな木片。
床へ固定しない。
帰る時に回収する。
これより先へ行かない。
「到着時刻」
セオが告げる。
予定より少し早い。
「目的は?」
マレアが確認する。
入口から最初の曲がり角まで。
床。
車輪溝。
印。
空気。
ジェンの記憶。
確認した。
「終わっています」
朔が答える。
***
曲がり角の先は、立った位置から少しだけ見えた。
通路が広くなる。
右側の床に、何かが散らばっている。
光を返さない黒。
その中に、一つだけ鈍い反射。
「金属に見えます」
セオが言う。
「位置は?」
「曲がり角の先、右壁寄り」
「数」
「確認できません」
「近づきますか」
グラドはいない。
ここで問う者も、決める者も五人だけだった。
「近づきません」
朔が答えた。
「もう少し身体を傾ければ見える」
ジェンが言う。
「見たいですか」
「見たい」
「今日の目的は?」
「曲がり角まで」
「では」
ジェンは、右足を前へ出さなかった。
***
「六年前に、あれはありましたか」
朔が尋ねる。
「分からん」
「金属が集まっていた場所は?」
「覚えてへん」
「黒い物は?」
「道具を置いた場所はある」
「ここ?」
「もっと先やと思う」
「では、あれが六年前の物とは?」
「決めへん」
ジェンは黒い反射から目を離す。
「今見えた物や」
***
その時、通路の先から音がした。
高くない。
金属同士が触れたような、短い音。
かん。
一度。
五人が止まる。
「聞こえましたか」
朔。
ノエ。
マレア。
セオ。
ジェン。
全員、聞いた。
「声では?」
「ありません」
「言葉」
「なし」
「発生位置」
セオが尋ねる。
「曲がり角の先」
朔。
「右側に感じました」
ノエ。
「私は、奥行きは判断できません」
マレア。
「金属のある場所かもしれません」
セオ。
「分からん」
ジェン。
***
もう一度、音がする。
今度は、少し低い。
石の上で何かが倒れたようにも聞こえる。
「変化を見に行きますか」
セオが尋ねた。
自分の怖いこと。
記録のために、見ることを続ける。
「行きません」
朔が答える。
「記録板を?」
「まだ閉じません。帰路へ向く時に閉じます」
「音が続いたら?」
「戻ります」
マレアが言った。
「今でも、戻る理由として十分です」
「危険を確認していません」
「予定した場所へ到着しています。目的は終わっています。予定外の音を二度確認しました」
誰も反対しなかった。
***
「戻る」
マレアが言う。
セオが記録板を閉じる。
炭筆を収納する。
ノエが火を身体の前で持つ。
ジェンは、曲がり角の先を見たまま動かない。
「ジェンさん」
朔が呼ぶ。
「分かっとる」
「今いる人を」
ジェンは振り返る。
朔。
ノエ。
マレア。
セオ。
「見えとる」
「戻りますか」
「戻る」
***
ジェンは最後に残らなかった。
朔と同じ位置で、帰路へ向く。
曲がり角の白い木片を、マレアが拾う。
目的の境界を、道へ置き去りにしない。
通路の奥から、三度目の音はしなかった。
***
帰路。
印の前。
誰も止まらない。
「記録は?」
ノエがセオへ尋ねる。
「閉じています」
「見たいですか」
「はい」
「開けますか」
「開けません」
言葉で確認する。
セオは記録板へ手を伸ばさなかった。
***
低い天井。
ジェンの肩が、また左へ傾く。
今度は、すぐに戻す。
「荷車はありません」
自分で言った。
「はい」
朔が答える。
「前に誰がいますか」
「サク」
「横」
「マレアさん」
「後ろ」
「ノエさん。セオさん」
「全員?」
「見えとる」
***
黒い木片の前。
ノエが火を見る。
「表面の反射、なし」
「触れません」
朔が言う。
行きと同じ右側を通る。
順番も。
誰も木片を跨がない。
動かさない。
***
入口の光が近づく。
サナが外側から見ている。
ミエル。
ファナ。
その向こうに、エリオ。
名前を呼ばない。
まだ通路内にいる。
「前、入口」
朔が言う。
「確認」
ノエ。
「中央、全員移動」
マレア。
「後ろ、移動中」
セオ。
ジェンは何も言わない。
だが、朔の半歩後ろにいる。
***
マレアが最初に倉へ出る。
身体。
異常なし。
次に朔。
ジェン。
ノエ。
セオ。
五人が、仮板の外へ戻る。
「人数」
ミエルが言う。
五人。
「持ち込んだ物」
網箱。
治療袋。
封をした木箱。
記録板。
炭筆。
青い布。
すべてある。
「向こうから持ち出した物」
「ありません」
朔が答えた。
「向こうへ残した物」
「ありません」
マレア。
曲がり角の木片も回収した。
***
仮板は、すぐには閉じなかった。
五人が倉から離れた後、サナが流れを確認する。
「進入中に大きな変化なし」
「帰還直後は?」
「少し強くなっています」
「予定外の音との関係」
「分かりません」
「人影」
「外側からは確認なし」
「声」
「なし」
ミエルとファナが板を戻す。
三枚。
二つの錠。
確認孔の蓋。
通路は再び、人が入れない幅へ閉じられた。
***
帰還側では、名前を聞く前に身体を見た。
マレアは、自分も帰還者であるため、トエが全員を見る。
呼吸。
歩行。
瞳。
手。
粉塵。
朔の右手に軽い震え。
「いつから?」
「曲がり角の先に、黒い物が見えた時」
「人影だと思いましたか」
「一瞬」
「今は?」
「金属のような物に見えたと考えています」
「ハルと?」
「呼んでいません」
「呼びたかった?」
「人の形ではなかったので」
「では、全く?」
朔は少し考える。
「道の先に何かがあっただけで、ハルに繋げようとしました」
「今も?」
「少し」
それも、身体と一緒に持ち帰った。
***
アナがノエの前へ来る。
「触れていいですか」
「はい」
手。
震えは、出発前より少し強い。
「誰を見ていましたか」
「サクさん」
「いつ?」
「黒い木片を通る時。曲がり角の先を見ていた時」
「ほかには?」
「ジェンさんが止まった時」
「火は?」
「持っていました」
「火のために、誰かを見なくなりましたか」
「分かりません」
「誰かが戻ると言った時」
「従いました」
「今、名前を聞いていいですか」
「はい」
「何と呼ばれたい?」
「ノエ・ハーラです」
アナは、それ以上を先に言わなかった。
***
トエはマレアへ尋ねる。
「誰を処置しましたか」
「誰も」
「処置が必要な者を置いて観察を続けましたか」
「いいえ」
「帰還を遅らせた?」
「いいえ」
「戻ると決めた理由」
「目的達成。予定外の音を二度確認。曲がり角の先へ進む問いが出始めたため」
「治療官として?」
「マレア・ソンとして、調査参加者の身体と目的を見て」
「今、そう呼ばれてよい?」
「はい」
***
ネラは、セオの閉じた記録板を見る。
「帰路で開きましたか」
「いいえ」
「見たかった?」
「はい」
「何を」
「二度目の音のあと、黒い物の位置が変わったか」
「確認しましたか」
「しませんでした」
「今、記録板を開けますか」
「身体確認が終わってから」
「名前は?」
「後で」
「今は何を確認したい?」
「全員が、同じ二度の音を聞いたか」
名前より先に、帰還後の記録条件を選んだ。
***
ミエルはジェンを、すぐには作業場へ連れていかなかった。
「歩ける?」
「歩ける」
「手は?」
「震えとる」
「道で何を持った?」
「何も」
「荷車の柄を持とうとした?」
「した」
「今も見える?」
「見えへん」
「今いる人は?」
ジェンは周囲を見る。
朔。
ノエ。
マレア。
セオ。
ミエル。
ほかの帰還側の者たち。
「見えとる」
「名前は聞く?」
ミエルが自分で問う。
ジェンは少し考える。
「今は、ジェンでええ」
「分かった」
***
それから、二人は市場南側の作業場へ行った。
修理途中の車輪。
木の輪。
鉄帯。
締め具。
出発前と同じ場所にある。
「音を聞く?」
ミエルが尋ねる。
「聞く」
ジェンは細い金属棒を取る。
右手が震える。
左手を添えない。
震えたまま、鉄帯を叩く。
低い音。
六年前の道の音ではない。
黒い金属の音でも。
今、直している車輪の音。
「どう?」
ミエルが尋ねる。
「まだ鈍い」
「昨日と同じ?」
「分からん」
「じゃあ」
「もう一度締める」
帰ってきたジェンが、今日の音を聞いて決めた。
***
リオは、朔の前へ来ても紙を出さなかった。
「どこまで行った」
「最初の曲がり角まで」
「先へ?」
「行っていません」
「何が見えた」
「黒い物。金属に見える反射」
「人影か」
「確認していません」
「ハルと呼んだか」
「呼んでいません」
「声は?」
「ありません」
「名前を呼ばれたか」
「呼ばれていません」
「誰かを置いて進もうとしたか」
「していません」
「戻る言うたんは」
「マレアさん」
「聞いたか」
「はい」
***
「今、何て呼ばれたい」
リオが尋ねた。
「サクで」
「朝と同じやな」
「はい」
「同じやから、帰ったことになるか」
「なりません」
「なら」
リオは胸元の紙へ触れた。
「まだ出さん」
「見たくないわけではありません」
「今のお前が、自分で言えとる」
「言えなくなったら?」
「その時に、紙を出すとは決めてへん」
「では」
「その時のお前を見る」
紙の順番を、今から固定しなかった。
***
帰還記録では、六年前の経路と一致したとは書かなかった。
確認された事実。
旧紙市場倉庫内の開口部から、五名が通路へ進入。
入口から最初の左曲がり角まで移動。
通路内に、倉内と連続する二本の車輪溝。
右壁に荷物または車両の接触痕と見られる擦過部。
壁面に、手、火、線に類似する印。
壁面に半埋没した鉄輪。
入口付近に黒色木片状物。
曲がり角の先、右壁寄りに、複数の黒色物および金属様反射を確認。
曲がり角の先から、金属または硬質物の接触に近い音を二度確認。
発生原因、位置、黒色物との関係は未確認。
人影なし。
言語音声なし。
白い表示なし。
黒い線なし。
物品回収なし。
全員、予定時刻内に帰還。
***
ジェンの証言は、別の紙に残された。
入口上部は、六年前より低く感じた。
右壁の擦れ跡付近で、荷車の右輪を浮かせた記憶あり。
位置の一致は未確認。
壁面の手と火の印付近で、ミトが印を写した記憶あり。
ミトは意味を「分からない」と発言したと記憶。
低い天井付近で、ラグ・テインが荷台を押し、フィオナ・セルクが前方の小石を除き、ペル・オウダが身体の使い方を指示した記憶あり。
現在の通路形状と、六年前の行為との因果関係は未確認。
曲がり角の先に見えた黒色物は、ジェンの記憶では確認できず。
「俺が忘れとる可能性も書け」
ジェンが言った。
その行が加えられた。
当時存在しなかったという証言ではなく、本人の現在の記憶にない。
***
「次は、黒い金属を確認しますか」
グラドが尋ねた。
「まず、今日見えた範囲を整理します」
イサラが答えた。
「金属なら、ラグの剣の可能性があります」
「あります」
「デルの剣の黒色部とも」
「照合対象になります」
「では、早く」
「回収するか。近づくだけか。触れないか。目的を分けます」
「音がした」
「はい」
「誰かが動かした可能性」
「あります」
「人影が?」
「未確認です」
また、一つずつ止める。
***
エリオは、進む側の記録を読んだ。
「私は、外で待っていました」
「はい」
朔が答える。
「何も聞こえなかった」
「通路内の音は、倉までは届かなかったようです」
「もし、あなたたちが戻らなければ」
「決めた手順を使う」
「使えましたか」
「今日は、必要ありませんでした」
「役に立たなかった?」
「帰還路を空けていました」
エリオは倉の外を見る。
人が集まらないよう、何度も説明した場所。
「次は、私も行けますか」
「目的が決まってからです」
「金属が剣なら、私の知識が必要です」
「可能性はあります」
「勇者を連れてくるなと言われています」
「はい」
「それでも、技能として必要なら?」
「別に判断します」
エリオは不満を消さなかった。
だが、自分が行くために、黒い物を剣と決めなかった。
***
その日の夕方、旧紙市場では、もう話が広がっていた。
六年前の勇者の剣が見つかった。
黒い道の奥で、武器が鳴いた。
運び手ジェンが、過去の道を完全に思い出した。
殻の子が、ヴァルハの武器庫を発見した。
「完全には、何も思い出してへん」
ジェンが言った。
「訂正しますか」
朔が尋ねる。
「今日は車輪を直す」
「逃げたと思われるかもしれません」
「思わせとけ」
「いいんですか」
「俺が市場の全部に説明しとったら、この鉄帯はいつ締める」
ジェンは車輪をもう一度叩く。
少し高い音。
「さっきより?」
ミエルが尋ねる。
「ましや」
「終わり?」
「もう一度」
今することを続ける。
***
夜。
朔は通路の形を思い返した。
湿った床。
二本の車輪溝。
右壁の擦れ跡。
半分埋まった鉄輪。
手と火の印。
低い天井。
最初の曲がり角。
その先に見えた黒い物。
六年前の道と似ている。
ジェンの身体は、何もない空間で荷車の柄を握ろうとした。
肩は、昔の荷台を避けるように傾いた。
だが、身体が覚えていることが、現在の道の正解になるわけではなかった。
ジェンは先頭に立たなかった。
見えない荷車を追わなかった。
曲がり角の先に過去を見つけても、そこへ進まなかった。
***
古い搬入口は、六年前へ戻るための入口ではなかった。
少なくとも、その日、五人は過去をやり直すために入らなかった。
同じかもしれない車輪溝を歩き。
同じかもしれない印を見て。
当時の人々が何をしたかを聞いた。
それでも、六年前の続きを演じなかった。
今いる五人の位置を確かめた。
今聞こえた音を、昔の声へ変えなかった。
最初の曲がり角で止まった。
そして、全員で同じ入口へ戻った。
***
道の先には、黒い物が残った。
剣か。
測定器か。
釘か。
別の物か。
まだ分からない。
音が二度した。
誰が鳴らしたかも。
何が触れたかも。
分からない。
次に確認することは増えた。
だが、進んだ距離を増やすこととは同じではなかった。
その日、古い搬入口から持ち帰ったものは、遺留品ではない。
記録だけでもなかった。
六年前と同じかもしれない道を、六年前と同じ形では歩かなかったという事実。
そして、過去を知る者も含めた五人が、現在の名前で戻ったことだった。




