第六章 名を預ける道 ④ 名前を預ける
次の調査へ参加する者の欄に、五人の名前が並んだ。
黒川朔。
ノエ・ハーラ。
マレア・ソン。
セオ・ラグナ。
ジェン。
サナ・リトは、旧紙市場の倉に残る。
開口部の外から流れを測り、帰還路の変化を見る。
通路へは入らない。
ミエル・サドも倉に残る。
仮板。
商品。
棚。
確認孔。
生活区画側で何を閉じ、何を残すかを判断する。
イサラとエリオの名前は、進む側の紙にはなかった。
帰還する場所で行うこと。
そちらの紙にある。
***
調査の目的は、古い通路を進めるだけ進むことではなかった。
壁の向こうへ入り、最初の曲がり角までの床、車輪溝、石枠、空気の状態を確認する。
六年前の経路と一致するか、ジェンの記憶を聞く。
黒い木片状物には触れない。
遺留品らしき物を見つけても回収しない。
声がしても応答しない。
人影が現れた場合は戻る。
曲がり角の先へは進まない。
「先が見えても?」
グラドが尋ねた。
「見える範囲は記録します」
セオが答える。
「曲がり角から覗くことは?」
「しません」
「半歩だけなら」
「半歩が、目的を変えます」
朔が言った。
「曲がり角へ着くことと、その先を見ることは別です」
***
滞在時間は短い。
仮板を開ける。
入口の空気を再確認する。
五人が入る。
第一の印。
最初の曲がり角。
同じ道を戻る。
仮板を閉じる。
人数を確認する。
「予定より早く戻った場合は?」
イサラが尋ねた。
「異常がなくても、戻った理由を確認します」
「早いから成功とは?」
「しません」
「時刻いっぱいまでいなかったから失敗とも?」
「しません」
時刻は、滞在義務ではない。
越えないための線だった。
***
その日の会議で、グラドは五枚の小さな紙を出した。
同じ大きさ。
同じ罫線。
上部には、
名前預託票
とある。
「これは何ですか」
朔が尋ねた。
「調査参加者が、自身の名前を帰還側へ預けるための書式です」
「名前を預ける?」
「第六章――」
グラドは言いかけて止まった。
「今回の調査方針として、帰還側に名前を保持する者を定める必要があると」
「誰が必要だと決めましたか」
「前回の会議で、帰還した本人について知る者を置くことになりました」
「名前を預けることになったんですか」
「同じでは?」
「違います」
リオが、机の端から言った。
***
「俺が持っとるのは、こいつが渡した紙や」
リオは胸元から、朔の名前が書かれた紙を出した。
広げない。
「紙に名前が書いてある」
グラドが言う。
「だから?」
「黒川朔の名前を保持している」
「俺が紙をなくしたら、こいつの名前もなくなるんか」
「そういう意味ではありません」
「なら、名前を預かる言うな」
リオは紙を胸元へ戻す。
「こいつが、自分の名前を書いた紙を俺に渡した。俺は、まだ持っとる。それだけや」
「帰還時には、その紙を使います」
「使うんは俺や。紙が使うんやない」
***
「でも、全員に同じ仕組みがあれば、帰還確認が統一できます」
グラドが言った。
「統一しません」
朔が答えた。
「なぜ?」
「俺がリオさんへ渡した時、調査の規則ではありませんでした」
「結果として有効だった」
「何に?」
「あなたが自分の名前を確認するために」
「まだ、名前を言えなくなったことはありません」
「白い場所では、自身の位置や現在の人間関係を確認するために役立った」
「リオさんの紙が?」
「名前を持っている者が外にいるという認識が」
朔は紙を見る。
「そうかもしれません」
「なら」
「そうかもしれないことを、全員へ義務にしません」
***
ノエが名前預託票を一枚取った。
欄は四つ。
預ける名前。
預ける相手。
帰還時の確認方法。
預けた名前を返す条件。
「返す条件というのは?」
ノエが尋ねた。
「本人が帰還し、本人であることを確認できた場合」
グラドが答える。
「確認できなければ、名前を返さない?」
「紙を保持します」
「名前を?」
「記録を」
「見出しでは、名前を預けています」
ノエは紙を机へ戻した。
「帰ってきた私がノエ・ハーラと言わなければ、アナさんが私の名前を返さないことになりますか」
「あなたの名前がノエ・ハーラだと伝える」
「返す、とは違います」
「では」
「私の名前は、アナさんの物にはなりません」
***
名前預託票は、使用される前に止められた。
赤い線はまだ引かない。
作成目的と問題点を確認する。
「名前を預けるという言い方を、誰が提案しましたか」
イサラが尋ねる。
「私です」
グラドが答えた。
「なぜ?」
「帰還側が、本人の名を保持することを簡潔に示せるためです」
「本人の名を保持する?」
「記録上の」
「記録を保持することと、名を保持することを分けましたか」
グラドは黙る。
「分けていません」
「では、何を必要としていましたか」
「帰還した人物へ、出発前の名前を伝えられること」
「名前以外は?」
「目的。同行者。身体的特徴」
「恐怖は?」
「本人が記録した場合」
「誰が伝える?」
「指定された者」
「指定された者が、名前を預かった人になる?」
「そう考えました」
***
ジェンが、名前預託票を裏返した。
「俺は、預けへんぞ」
「名前を?」
朔が尋ねる。
「何を言っとるか分からん紙には」
「では、ジェンさんについて知っている人は?」
「おる」
「帰った時に、話してもらいたいことは?」
「あるかもしれん」
「その人の名前を、帰還側へ書きますか」
「それと俺の名前を預けるんは別や」
「はい」
「一緒にするな」
***
新しい紙は、前回作った出発時記録に追加する形で作られた。
本人が今日使用する呼び名。
今日の目的。
怖いこと。
帰還時に確認してほしいこと。
その下に、
帰還した本人へ、出発前から知っていることを伝える者。
長い欄。
さらに、
その者へ伝えてよい内容。
名前を預ける、とは書かなかった。
***
「全員、誰かを選ばなければいけませんか」
マレアが尋ねた。
「帰還側の共通記録担当は必要です」
イサラが答える。
「個人的に知る者は?」
「本人が必要だと思えば」
「誰も選ばないこともできる?」
「できます」
「その場合、帰還時は?」
「共通記録。同行者。身体状態。本人の言葉を使います」
「危険が増える?」
グラドが尋ねる。
「情報は減ります」
セオが答えた。
「それを承知で本人が選ぶ?」
「はい」
「調査参加条件にしない?」
「しません」
名前を誰かへ渡さなければ、道へ行けない。
その形にはしない。
***
最初に書いたのはノエだった。
今日使用する呼び名。
ノエ・ハーラ。
今日の目的。
火を見える状態で運び、入口から最初の曲がり角までの火の変化を確認する。火の変化だけを理由に進まない。
怖いこと。
筆が止まる。
「書きたくない場合は、そう書けます」
セオが言った。
「書きたくないわけではありません」
「では」
「うまく短くできません」
「短くしなくていい」
ノエは少し考え、書いた。
火を落とすこと。火を守ろうとして、同行者を見なくなること。誰かが声に答えた時、自分だけでは止められないこと。
***
帰還時に確認してほしいこと。
火を持ち帰ったかより先に、誰を見ていたか。誰かが戻ると言った時、従ったか。
知っていることを伝える者。
アナ・セル。
伝えてよい内容。
ノエは、先ほど書いた恐怖をそのまま写そうとした。
だが、止める。
「全部を渡しますか」
朔が尋ねた。
「アナさんには話します」
「記録として?」
「それは別です」
ノエは新しい文を書く。
この紙の恐怖欄を、帰還時に必要な範囲で読むことを許可する。ほかの者への共有は、本人へ改めて確認する。
「必要な範囲は、誰が決める?」
アナが尋ねた。
「一人で決めないでください」
「では」
「帰還側の治療官と、今の私の状態を見て決めてください」
預けたから、すべてを読んでよいとはしない。
***
マレアは、今日使用する呼び名へ、
マレア・ソン。
と書いた。
目的。
通路内の身体状態を確認する。処置が必要になった場合、調査を終了する。
怖いこと。
「ないですか」
グラドが尋ねた。
「あります」
「何を?」
「役に立てる場所が増えるほど、帰る判断が遅くなることです」
マレアは書く。
誰かに症状が出た時、その場で治せると思い、撤退より処置を優先すること。
「治療官が処置するのは役目では?」
「はい」
「それが怖い?」
「処置できることと、その場へ残るべきことは同じではありません」
***
帰還時に確認してほしいこと。
誰を処置したか。処置のために帰還を遅らせたか。処置が必要な者を置いて観察を続けなかったか。
伝える者。
トエ・ラン。
伝えてよい内容。
目的、恐怖、確認事項。治療内容の詳細は、患者本人の許可がない限り共有しない。
「自分の紙なのに、患者の情報が入る?」
グラドが尋ねた。
「私が何をしたかを確認すれば、患者の状態が含まれる可能性があります」
「では、記録できない?」
「共有範囲を狭めます」
自分の帰還確認のために、他人の身体を公開しない。
***
セオは、紙を前に長く止まった。
今日使用する呼び名。
セオ・ラグナ。
目的。
入口から最初の曲がり角までの位置、発言、知覚した者を分けて記録する。帰路移動中は記録板を閉じる。
怖いこと。
記録を残すために、見ることを続けること。
「見ることが怖い?」
朔が尋ねた。
「必要な情報があると思えば、帰る時刻を越えても見たくなります」
「前回も?」
「帰路で記録を閉じるよう決めてから、減りました」
「なくなった?」
「いいえ」
***
帰還時に確認してほしいこと。
戻ると言われた時、記録板を閉じたか。見たことと推測を一つの文へまとめなかったか。記録のために同行者の位置確認を遅らせなかったか。
伝える者。
ネラ・ヴォス。
伝えてよい内容。
セオは、
すべて。
と書きかけた。
ネラが止める。
「誰へも?」
「あなたへ」
「私が別の者へ引き継ぐ場合は?」
「必要な部分を」
「必要とは?」
セオは筆を置いた。
「書き直します」
ネラ・ヴォス本人への共有を許可。引き継ぎ時は、目的と帰還確認事項のみ。恐怖欄の全文は共有しない。
「なぜ恐怖を隠す?」
グラドが尋ねた。
「隠しません」
セオが答える。
「読める人を分けます」
***
朔の紙は、すでに一度書かれていた。
今日使用する呼び名。
黒川朔。ツヅリ村ではサク。
目的。
古い印と車輪溝を照合する。ジェンの証言を、道の形より先に決めない。最初の曲がり角から先へ行かない。
怖いこと。
黒い人影やハルの痕跡を見つけた時、今日の目的を変えること。人影をハルと呼ぶこと。名前を呼ばれた時、返事を増やすこと。
帰還時に確認してほしいこと。
予定した場所より先へ進んだか。声へ答えたか。青い布を見せたか。誰かを置いて進もうとしたか。今、自分を何と呼ぶか。
***
伝える者の欄。
朔はリオと書く。
だが、その前に尋ねた。
「引き受けますか」
「何を」
「帰ってきた俺へ、知っていることを話すこと」
「紙に書いた通りか」
「必要な範囲で」
「お前が話してほしくないと言ったら?」
「その時の俺を見てください」
「出発前のお前は、読め言うとる」
「はい」
「帰ってきたお前が、読むな言うたら?」
朔は止まる。
「どちらを優先しますか」
グラドが尋ねた。
「先に書いた本人の意思では?」
「帰った本人も、同じ人です」
マレアが言う。
「状態が変わったから、意思が無効とはできません」
「では、読めない」
「まず、なぜ読まないでほしいかを聞きます」
朔が答えた。
「話せる状態なら」
「話せなければ?」
「身体を先に見ます」
「永遠に読めない可能性」
「あります」
出発前の紙を、未来の本人への命令にしない。
***
朔は伝えてよい内容へ書いた。
名前の紙をリオが持っていること。ミナトの短刀をリオへ預けていること。青い布を朔本人が持って入ること。出発前に怖いと話した内容。帰還後の本人が読むことを拒んだ場合、理由を聞ける状態か確認し、無理に読み上げない。
「俺が名前を言うんか」
リオが尋ねた。
「今の俺が言えない場合は」
「最初に?」
「いいえ」
「何を先に言う」
「一緒に帰った人を見てください」
「俺は中におらん」
「帰ってきた人に聞いてください」
「お前へ?」
「はい」
「名前が出んのに、同行者は言えるか」
「分かりません」
「なら、順番は決めん」
リオは言った。
「帰ったお前を見て、何から話すか決める」
「紙に書きますか」
「俺が決めることまで、お前が書くな」
朔は、その行を空欄にした。
***
最後はジェンだった。
紙の前に座る。
筆を持たない。
「書かないこともできます」
イサラが言った。
「字が書けんわけやない」
「では」
「何を書いたら、俺を六年前の続きにせずに済む」
誰もすぐには答えなかった。
***
今日使用する呼び名。
「ジェン」
本人が言う。
「家族名は?」
グラドが尋ねた。
「今、使っとらん」
「出生記録では?」
「この調査に要るんか」
「本人の照合には」
「ジェンで呼ばれて、ジェンで仕事しとる」
「同名の者がいれば」
「その時に分けろ」
セオが書く。
ジェン。現在、本人が使用する呼び名。家族名は本調査で使用しない。
***
目的。
「道を見る」
「どこまで?」
朔が尋ねる。
「最初の曲がり角」
「ほかには?」
「六年前に通った道と同じか、自分の記憶を話す」
「正しいと証明する?」
「せん」
「案内する?」
「道を覚えとる範囲では」
「先頭に立ちますか」
「立たん」
ジェンは答えた。
「なぜ?」
「俺が前に立ったら、六年前をなぞる奴が出る」
「誰が?」
「俺もや」
***
目的欄。
入口から最初の曲がり角まで、六年前に通った道との一致と相違を、自身の記憶として伝える。先頭を歩かない。道を知っていることを理由に、調査継続を決めない。
「誰が先頭ですか」
グラドが尋ねる。
「朔ではありません」
イサラが言った。
「なぜ?」
「人影に名前を呼ばれた者だからではなく、印を知っているから先頭にする案がありました」
「それでは?」
「両方の理由が重なります」
「では、ノエ?」
「火を持っています」
「マレア?」
「身体確認が遅れます」
「セオ?」
「前だけを見られません」
「なら」
通路の先頭は固定しないことになった。
入口ではマレア。
床の安全を確認した後、朔と位置を入れ替える。
ジェンは朔の隣ではなく、半歩後ろ。
誰か一人が、ずっと先頭という役目を持たない。
***
ジェンの怖いこと。
筆が紙の上で止まる。
「怖くないとは書けませんか」
グラドが尋ねる。
「書かへん」
「では」
「いっぱいある」
「一つずつで」
朔が言った。
「一つにまとめるな、やろ」
「はい」
ジェンは、ゆっくり書いた。
ペルの声を聞くこと。
次。
ラグ、フィオナ、ミトの名前を呼ばれること。
次。
今いる人を見ず、六年前に戻ろうとすること。
次。
筆が止まる。
「ほかに?」
イサラが尋ねた。
「みんなが、俺に道を知っとる者らしく振る舞えと思うこと」
部屋が静かになる。
「誰かに言われましたか」
「市場でな」
「何と?」
「今度こそ三人を連れて帰れ」
「誰が?」
「知らん奴や」
「ほかには?」
「六年前に逃げた分、役に立て」
ジェンは、紙を見た。
「俺も、そう思う時がある」
***
朔は、すぐに何も言わなかった。
ペルを荷車へ載せた。
三人の帰還を確認せず、道を離れた。
怖かった。
帰った。
そのどれも、次の調査で返さなければならない借りにはならない。
「今回、三人を連れ帰る目的ではありません」
イサラが言った。
「分かっとる」
「過去の判断を訂正する目的でも」
「分かっとる」
「それでも、そう感じる?」
「感じる」
「では、記録します」
今回の参加を、六年前の行為への償い、再実行、訂正とは位置づけない。本人には、そのように受け取る気持ちがある。
「俺の気持ちまで否定せんのか」
「しません」
「調査の目的にはしない?」
「はい」
***
ジェンが帰還時に確認してほしいこと。
今いる同行者を全員見て戻ったか。ペル、ラグ、フィオナ、ミトの声が聞こえた場合、声の方へ進んだか。自分が道を知っていることを理由に、ほかの者へ進めと言ったか。六年前をやり直したと思っているか。
「最後は、どう答えるのが正しい?」
グラドが尋ねた。
「正しい答えは決めません」
セオが答えた。
「やり直したと答えれば、危険では?」
「なぜそう思ったかを聞きます」
「違うと言えば?」
「それも」
帰還時の答えを、合格判定には使わない。
***
伝える者。
ジェンは空欄のままにした。
「誰も選ばない?」
朔が尋ねる。
「俺を知っとる奴はおる」
「ガウさん?」
「六年前を知っとる」
「では」
「だから選ばん」
「なぜ?」
「ガウも、自分の六年前を持っとる」
「サナさん?」
「中には入らんが、道のことを知っとる」
「それでも?」
「俺が帰った時、六年前の俺と比べる奴ばっかりになる」
***
「現在のジェンさんを知っている人は?」
ノエが尋ねた。
ジェンは考える。
「市場の奴ら」
「誰か一人?」
「一人にする必要あるか」
「ありません」
「なら、ミエル」
倉の持ち主。
今日も店にいる。
「何を知っていますか」
「俺が車輪を直す」
「ほかには?」
「仕事の途中で話を聞きに行った」
「今も、途中の車輪がありますか」
「ある」
「帰ったら?」
「直す」
***
ミエルが会議へ呼ばれた。
「私がジェンの名前を持つの?」
「持ちません」
ジェンが言った。
「なら何をする」
「俺が帰った時、車輪の話をしてくれ」
「どの車輪?」
「南の運び屋の。鉄帯を一度締めて、音がまだ鈍い」
「今日のうちに終えるって言ったやつ?」
「調査の日まで待ってもらう」
「客には?」
「言う」
「私が知ってるのは、それだけでいい?」
「それがええ」
「六年前は?」
「言わんでええ」
***
伝える者。
ミエル・サド。
伝えてよい内容。
旧紙市場南側の作業場に、修理途中の荷車の車輪がある。ジェンは鉄帯の音を再確認してから作業を終えると話している。調査参加を、六年前の出来事への償いとして伝えない。
「名前は?」
ミエルが尋ねる。
「言えるなら俺が言う」
「言えなかったら?」
「最初に言わんでええ」
「車輪の話をする?」
「今の俺が聞けるなら」
「聞けなかったら?」
「待て」
「いつまで?」
「次に決める時刻を作っとけ」
ミエルは笑わなかった。
「分かった」
***
「車輪が、ジェンさんの本人確認になりますか」
グラドが尋ねた。
「なりません」
ミエルが答える。
「では、何のため?」
「帰ってきたこいつへ、今も作業途中の物があると伝える」
「ジェンでなければ?」
「車輪の話を知らない可能性がある」
「知っていれば?」
「ジェンだと決まらない」
「なら」
「紙が便利じゃないのと同じだよ」
ミウの言葉に似ていた。
「でも、ないよりはましなこともある」
***
五人分の紙が揃った。
同じ書式。
だが、中身は揃っていない。
名前の書き方。
恐怖の長さ。
共有範囲。
伝える者。
空欄。
すべて違う。
「統一できませんね」
グラドが言った。
「見出しと必要な確認だけは同じです」
セオが答える。
「運用が難しい」
「はい」
「緊急時に読めない」
「全部を読む必要はありません」
「誰が選ぶ?」
「帰還者の状態を見た人」
「その人によって違う」
「違います」
違うから、記録が失敗したとはしない。
***
「恐怖欄は、危険判定へ使いますか」
ベドが尋ねた。
「本人が怖いと書いた内容は、配置判断へ必要です」
イサラが答える。
「では、共有する?」
「必要な範囲で」
「ジェンが六年前をやり直そうとする恐れは、全員が知るべきでは?」
ジェンが自分で答えた。
「知ってええ」
「全部?」
「今いる人を見ずに進むかもしれんことは」
「ペルの声が怖いことは?」
「参加者には」
「市場へは?」
「言うな」
恐怖を記録したから、公の人物像にはしない。
***
五人で、互いの必要部分だけを確認した。
ノエが声へ答えた者を一人で止めようとしないこと。
マレアが処置を始めた場合、調査を終了すること。
セオが帰路で記録板を閉じること。
朔が人影をハルと呼ばないこと。
ジェンが過去の声へ進まず、今いる人を見ること。
「これは約束ですか」
グラドが尋ねた。
「条件です」
イサラが答えた。
「破ったら?」
「戻ります」
「処分は?」
「帰還後に、何が起きたかを確認します」
「失格?」
「次回参加を再検討します」
「では、罰ではない?」
「危険が変われば、参加条件も変わります」
***
その後、伝える者たちにも同意を確認した。
アナ。
トエ。
ネラ。
リオ。
ミエル。
誰も、名前そのものを預かったとは書かない。
紙。
言葉。
知っている行動。
本人が話してよいと選んだ恐怖。
現在も続いている仕事。
それぞれを持つ。
「途中で持てなくなったら?」
イサラが尋ねる。
アナが答える。
「引き継ぎます」
「私的な部分は?」
「本人が引き継ぎを許可した範囲だけ」
「許可していなければ?」
「共通確認だけを引き継ぎます」
「個人的に知る者がいなくなる?」
「あります」
「それでも?」
「私を待つ役に閉じ込めないでください」
「はい」
***
リオは、自分の紙を作らなかった。
「帰還側にも出発前記録が必要では?」
グラドが尋ねた。
「何でや」
「待つ者にも、限界と恐怖があります」
「ある」
「では」
「俺は道へ入らん」
「帰還側で倒れる可能性も」
「ある」
「何を怖いと?」
リオはグラドを見る。
「こいつが帰ってこんことや」
朔へ顎を向ける。
「記録しますか」
「せん」
「なぜ?」
「今、言うた」
「紙に残さなければ」
「お前が聞いた」
「私が忘れたら?」
「それもある」
リオは言った。
「全部を紙に預けるな」
***
「では、リオさんが動けなくなった場合は?」
朔が尋ねた。
「名前の紙は?」
「俺の胸にある」
「誰かに渡しますか」
「今は渡さん」
「調査中に?」
「意識があれば、俺が決める」
「なければ?」
リオは少し考えた。
「治療する奴が持ち物として保管する」
「読んでいい?」
「読まんでええ」
「俺が帰ったら?」
「リオが倒れたことを先に聞け」
名前の紙より、紙を持っていた人の身体が先だった。
***
出発前の訓練では、名前を呼ばない帰還も試した。
五人が訓練廊下の向こうへ入る。
戻る。
帰還側は、最初に人数と身体を見る。
一人が、自分の名前を言わない。
役は朔だった。
「触れていいですか」
トエが尋ねる。
「はい」
脈。
呼吸。
視線。
歩行。
「どこへ行きましたか」
「訓練廊下」
「誰と?」
朔は四人を見る。
「ノエさん。マレアさん。セオさん。ジェンさん」
「今、名前を聞いていいですか」
「まだ」
トエは聞かない。
***
リオが前へ出る。
「木片を落としたか」
「今日は持っていません」
「黒い影を見たか」
「見ていません」
「ハルと呼びたくなったか」
「人影がいません」
「俺が持っとる紙を見たいか」
朔は少し考える。
「まだ」
「分かった」
リオは紙を出さない。
「何て呼ばれたい」
名前を尋ねるのではない。
今の希望を聞く。
「サク」
朔が答えた。
「黒川朔ではなく?」
グラドが尋ねる。
「今は、サクと」
「出発時記録と違う」
「違いません。両方書いてあります」
「優先が変わった」
「はい」
「訂正しますか」
「しません」
今、選んだ呼び方を残す。
***
次に、ジェンが名前を言わない役をした。
ミエルが前へ立つ。
「車輪、覚えてる?」
ジェンは答えない。
「質問を変える」
ミエルが言う。
「鉄帯を締める前、何を聞く?」
「音」
ジェンが答えた。
「誰が聞く?」
「俺」
「今、何て呼ばれたい?」
ジェンは少し黙る。
「ジェンでええ」
「分かった」
ミエルは、それ以上を聞かない。
「車輪を知っていたからジェンですか」
グラドが尋ねる。
「違う」
ミエルが答えた。
「本人が今、そう呼べと言ったからだ」
***
「もし、別の名前を言ったら?」
「その名前で呼ぶか聞く」
「ジェンではない?」
「決めない」
「危険な別人なら?」
「ほかの確認をする」
「車輪を知らなかったら?」
「知らない理由を聞けるか見る」
「記憶を失っている可能性」
「ある」
「偽物の可能性」
「ある」
「どちらを?」
「今は決めない」
ミエルは、少し苛立ったように言った。
「一つの答えで人を追い返すために、こんな面倒な紙を作ったんじゃないだろ」
***
訓練の後、名前預託票には赤い線が引かれた。
使用停止。
理由。
名前そのものを第三者へ移す、所有させる、返還させるように読める。
帰還した本人が出発時と異なる名を選んだ場合、預託名を正解として押しつける可能性がある。
名前を預けない者を、調査参加から排除する可能性がある。
個別の信頼関係を、共通制度として複製する危険がある。
代わりに、
調査参加者別・出発時記録
と、
帰還した本人へ、出発前から知っていることを伝える者および共有範囲
を使う。
***
「名前を預ける、という言葉は使わないんですか」
ユイが尋ねた。
五人の紙を見に来ていた。
「公式の欄には使いません」
朔が答える。
「じゃあ、名前は預けてない?」
「俺は、名前を書いた紙をリオさんへ渡しています」
「ノエは?」
「アナさんへ、話してよいことを決めた」
「マレアは?」
「トエさんへ、帰った時に確認してほしいことを」
「セオは?」
「ネラさんへ、記録の違いを」
「ジェンは?」
「ミエルさんへ、車輪の話を」
ユイは一枚ずつ見る。
「みんな違う」
「はい」
「名前を持ってもらうんじゃない?」
「名前も、話すことの一つです」
「じゃあ、名を持つ者って」
朔は、すぐには答えない。
「まだ分かりません」
「でも、外に持ってる人がいる」
「紙や言葉を」
「名前じゃなく?」
「名前だけではなく」
ユイは、朔の紙のリオという欄を指す。
「リオは、サクを待つ?」
「はい」
「サクの名前を待つ?」
「違うと思います」
「何を?」
「帰った俺が、何を選ぶかを」
***
出発の日は、翌朝に決まった。
五人。
入口から最初の曲がり角まで。
回収なし。
応答なし。
越境なし。
時刻を越えない。
帰還側には、それぞれの名前と行うことがある。
イサラ。
エリオ。
サナ。
ミエル。
アナ。
トエ。
ネラ。
リオ。
名前は多い。
だが、一つの隊の名にはしない。
***
夜、ジェンは旧紙市場の作業場へ戻った。
途中の車輪がある。
木の輪。
鉄帯。
締め具。
昼間と同じ場所。
ミエルが近くで紙袋を数えている。
「音、聞くんか」
「今は聞かない」
「なぜ?」
「明日帰ってから、お前に聞かせる」
「帰った俺が分からんかったら?」
「今日の音と比べろとは言わない」
「では」
「明日のお前が聞ける音を聞く」
ミエルは答えた。
「今日と同じでなくていい」
***
リオも、朔の名前の紙を開かなかった。
「確認しないんですか」
朔が尋ねる。
「何を」
「文字が消えていないか」
「消えたと思うんか」
「分かりません」
「ほな、明日の朝見る」
「今ではなく?」
「出る前のお前と一緒にな」
「俺が同じ名前を選ばなかったら?」
「それも聞く」
「紙は?」
「紙は紙や」
リオは胸元を押さえる。
「お前が帰るまで、ここにある」
***
名前を預けた者はいなかった。
少なくとも、記録にはそう書かれなかった。
名前は物ではない。
手から手へ渡し。
帰還した時に返せるものでもない。
本人より先に正しい形を決め、保管しておくこともできない。
それでも、朔たちは何も残さず道へ入るわけではなかった。
紙を残す。
怖いことを話す。
確認してほしいことを選ぶ。
途中の仕事を置く。
帰ってきた時、何を言ってよいかを決める。
言わないでほしい時は、言わない条件も残す。
***
道の外にいる者は、進んだ者の名前を所有しない。
本人であると決定もしない。
出発前の答えを、帰った者へ押しつけない。
ただ、忘れない。
紙を持つ。
言葉を持つ。
未完成の車輪を残す。
帰った者が、自分で自分を選び直す時まで。
***
名を預ける道。
それは、名前を入口へ差し出す道ではなかった。
名前を通行証として外へ置くことでもない。
進む者が戻るまで、誰かが同じ答えを守り続けることでもなかった。
変わる可能性のある者を、変わる前の形へ閉じ込めず。
それでも、出発した時に交わした言葉を捨てずに持つ。
そういう待ち方があるかもしれない。
翌朝。
五人は、旧紙市場の仮板の前へ立つ。
外には、それぞれ違うものを持つ者が残る。
名前そのものではなく。
帰ってきた本人と、もう一度話すためのものを。




