第六章 名を預ける道 ③ 壁を開く日
旧紙市場の朝は、壁を開く日にも普段と同じ匂いがした。
濡らした紙。
煮た糊。
染料。
石窯の煙。
店を開ける者たちの声。
白い塔から来た職員が通りへ立っていても、紙を買いに来る者はいた。
「今日は休みじゃないのか」
「倉の一部だけだよ」
ミエル・サドが答える。
「帳面紙は売る。色紙は午後。大束は動かせない」
「壁から黒いのが出るんだろ」
「壁を開けるだけだ」
「出ないって分かるのか」
「分からないから、あんたは中へ入れない」
ミエルは店先へ細い縄を張った。
倉内作業中。店側からの立入禁止。
黒い道。
ヴァルハ。
勇者。
その言葉は一つも書かれていない。
「見物は?」
「商品を買うなら店先まで」
「ただ見るのは?」
「道の向こうから見な」
「何も見えない」
「今日はそういう日だよ」
***
壁を開く側の紙には、七人の名前があった。
ミエル・サド。
倉と商品の所有者。棚、紙束、仮閉鎖の状態を判断する。
ミウ。
倉内の商品位置を確認し、移動前後の紙束を照合する。
石工のガド・ネン。
壁面と石材の状態を確認し、開口作業を行う。
木工職人のファナ・リト。
棚の補強と仮閉鎖板を担当する。
サナ・リト。
壁を挟んだ流れの変化を、倉の内外から測る。
黒川朔。
過去に確認した印と車輪溝の位置を照合する。通路へ入らない。
セオ・ラグナ。
作業、発言、見た者を分けて記録する。
マレアは倉の入口近くにいる。
作業者ではない。
粉塵、負傷、呼吸状態を確認し、誰よりも先に中止を言える。
リオは店先にいた。
壁を開く作業には加わらない。
朔が渡した名前の紙を持ち、帰還側の紙へ書かれたことだけを引き受けている。
***
帰還する場所で行うこと。
その紙は、外郭連絡所の机に置かれていた。
イサラが全体時刻を持つ。
エリオが倉外の道と人の流れを見る。
アナ、トエ、ネラ、リオが、それぞれ出発前に許可された内容を保持する。
治療官。
連絡担当。
外郭警備。
仮閉鎖用の予備板。
すべて、壁の外にある。
「今日は誰も道へ入りません」
エリオが、集まった見物人へ説明していた。
「壁の向こうを見るんでしょう?」
「入口の状態だけです」
「黒い影がいたら?」
「作業を終了します」
「勇者候補は戦わないのか」
「戦う目的ではありません」
白い外套は着ていない。
剣も持っていない。
それでも、相手はエリオを勇者候補として知っていた。
「何か出た時、誰が守る?」
「まず、全員が倉から離れます」
「逃げるのか」
「戻ります」
「同じだろ」
「同じ場合もあります」
エリオは否定しなかった。
「今日は、決めた場所へ戻ります」
***
倉の中では、最初に商品の数を確認した。
補修紙十二束。
厚紙八束。
未裁断紙四巻。
紙袋三十六枚。
染料を吸った失敗紙一箱。
「それも数えるの?」
ミウが尋ねる。
「商品じゃないよ」
ミエルが答える。
「でも、壁を開けた後でなくなったら、捨てたのか、誰かが持っていったのか分からなくなる」
「捨てる物なのに?」
「捨てるまでは、ここにある物だ」
使わない物も、最初からなかったことにはしない。
***
紙束は、壁から三歩以上離す。
床へ直接置かない。
下に板。
上に布。
粉が入らないよう端を折る。
誰が何を持ったかも確認する。
「一束くらい、まとめて書けませんか」
セオが尋ねた。
「十二束は同じ場所から同じ場所へ動かすんでしょう」
「紙の種類が違う」
ミウが言った。
「補修紙は軽い。帳面用は重い。糊が乾いてないのもある」
「では、種類ごとに」
「束の端に番号がある」
「一つずつ?」
「戻す時に、どの棚だったか分からなくなるよ」
セオは紙を追加した。
物も、一つへまとめすぎない。
***
壁の前にある棚は、六年前にはなかった。
ミエルが店を引き継いだ時には、すでに置かれていた。
壁へ直接留められているように見える。
だが、ファナが側面の釘を確認すると、一本だけ種類が違った。
「後から増やした釘だね」
「棚を壁へ固定した?」
「壁が傾いたから、棚で支えた可能性もある」
「棚を外したら、壁が崩れますか」
朔が尋ねた。
「まだ決めない」
ファナは釘を抜かなかった。
棚板を一枚ずつ外す。
荷重を減らす。
左右へ仮の柱を入れる。
それから、壁と棚の隙間を見る。
***
「ここ」
ミウが棚の下を指した。
脚の一つが、床の溝へ入っている。
六年前の荷車の跡かもしれない溝。
棚をまっすぐ引けば、脚が引っかかる。
「持ち上げる?」
ガドが尋ねた。
「この棚、下が腐ってる」
ファナが答える。
「持ち上げたら折れる可能性がある」
「昨日、棚の脚が折れるかもしれないって言ったよ」
ミエルが言う。
「言いましたね」
朔が答える。
「言ったから折れないわけじゃない」
***
第一の方法。
棚を左右から支え、脚を溝から外して移動する。
第二の方法。
棚をその場で解体し、壁を開いた後に組み直す。
予定では第一の方法だった。
ファナは腐った脚を指で押した。
表面が薄く崩れる。
「第二へ変える」
ミエルが言った。
「作業時刻が延びます」
セオが確認する。
「分かってる」
「開口幅を狭めますか」
ガドが尋ねた。
「先に棚を安全にしな」
「壁の確認が」
「倉を壊すために壁を開けるんじゃない」
調査より、生活側の判断が先に置かれた。
***
イサラへ伝達が送られた。
棚脚の腐食。
第二の移動方法へ変更。
開口開始予定を遅らせる。
作業終了判断時刻は変えない。
「開口時間が短くなります」
グラドが言う。
「はい」
「予定した幅まで開けられない可能性」
「あります」
「明日へ延期しますか」
イサラは倉の方を見る。
中へは入らない。
「棚の解体を続けます」
「壁は?」
「残った時間で、安全に開けられる範囲だけ」
「調査情報が減ります」
「棚が壊れる情報は、もう得ています」
「それは道の情報ではありません」
「今日の作業の情報です」
壁だけを見ない。
***
棚板が外される。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
背板の裏から、古い紙片が何枚か落ちた。
「触らないで」
ミウが言う。
朔の手が止まる。
「商品ですか」
「分からない」
「では」
「落ちた場所を先に見る」
紙は三枚。
白ではなく、灰色。
文字はほとんど消えている。
端に、倉の古い勘定印。
「道の記録ではなさそう」
セオが言った。
「まだ読んでない」
ミウが返す。
道の近くから出たからといって、道の紙にはしない。
別の封筒へ入れられた。
棚背面より落下した古紙。内容未確認。
***
棚の脚は、持ち上げる前に折れた。
大きな音ではない。
乾いた木が、短く割れる。
右側が少し沈む。
「離れて」
ファナが言う。
全員が一歩下がる。
棚は倒れない。
仮の柱が支えている。
「怪我は?」
マレアが尋ねる。
誰もない。
「作業継続は?」
ミエルがファナを見る。
「脚を切り離す。棚を分けて運ぶ」
「時間は?」
「半刻の四分の一」
壁を開く時間が、さらに減る。
ミエルはイサラへ判断を求めなかった。
「続ける」
倉の棚について決めるのは、自分と職人だった。
***
店先では、見物人が増えていた。
棚の折れる音だけが外へ聞こえた。
「何か出た!」
誰かが叫ぶ。
「棚の脚が折れました」
エリオがすぐに訂正する。
「黒いものが?」
「木の腐食です」
「本当に?」
「倉の持ち主と職人から伝達がありました」
「見たのか」
「私は外にいます」
「じゃあ、分からないだろ」
「黒いものを見たという報告はありません」
見ていないこと。
報告を受けたこと。
分けて答える。
***
「第一位は、なぜ中へ行かない」
別の男が尋ねた。
イサラは時刻板の横に立っている。
「私の役目が、倉の中にないからです」
「何かあったら?」
「次の判断時刻を持ちます」
「時計を見るだけ?」
「帰還路。連絡。治療準備。閉鎖方法。外側の変化も確認します」
「でも、戦えない」
「今日は、戦うための人を置いていません」
「危険なのに?」
「はい」
「無責任じゃないか」
イサラは否定しなかった。
「危険があることは公表しています」
「なら、やめればいい」
「開けないことにも、道の状態を確認できない危険があります」
「どっちが正しい」
「今は、開口範囲を狭めて確認すると決めました」
答えは、勝ちでも負けでもなかった。
***
棚の解体が終わった時、開口開始予定から砂二つ分遅れていた。
壁の全体が見える。
灰色の石。
白い漆喰。
何度か補修した跡。
上部と下部で、石の種類が違う。
「最初から一枚の壁ではないですね」
朔が言う。
「古い枠へ、後から石を詰めています」
ガドが答える。
「扉があった?」
「可能性はあります」
「確定は?」
「まだ」
壁の中央。
漆喰の下に、縦の線が二本。
扉枠のようにも見える。
ただの補修目地かもしれない。
***
最初に、指一本分の穴を開ける。
人が覗く穴ではない。
空気と流れを見るため。
ガドは石の間の漆喰を、小さな鑿で削った。
強く打たない。
一度。
止める。
粉を払う。
亀裂を見る。
もう一度。
セオは回数を書かなかった。
「必要ですか」
朔が尋ねる。
「作業記録には、使用した道具と箇所を残します」
「打った回数は?」
「石の状態を再現するためには、力の方が必要です」
「測れますか」
「完全には」
できない記録を、細かさで補ったふりをしない。
***
細い穴が開いた。
すぐには、誰も顔を近づけなかった。
穴から、冷たい空気が出る。
「倉側へ」
サナが言う。
「強さは?」
「弱い。続いています」
「黒い道と同じ?」
「向きは似ています」
「同じ流れ?」
「決めません」
マレアが、長い木棒の先へ小さな灯りを付ける。
穴へ入れない。
手前へ近づける。
火は消えない。
倉側へ少し傾く。
「空気が外へ流れています」
「呼吸できる?」
「人が入る確認にはなりません」
火が燃えることと、人が歩けることは同じではない。
***
「匂いは?」
ミエルが尋ねた。
誰も、すぐには嗅がない。
穴から流れてきた空気が倉へ広がるのを待つ。
「湿った石」
ミウが言った。
「古い鉄」
ガド。
「私は、土に近く感じます」
マレア。
朔には、雨の後の地下道のように思えた。
ツヅリ村の森とは違う。
白い塔の古い部屋とも。
「湿った石と感じました」
自分の知覚として出す。
***
「声は?」
セオが尋ねる。
全員、黙る。
紙市場の外の音。
荷車。
客の声。
布を絞る水音。
倉の中では、壁の穴から空気が出る音だけ。
「確認できません」
一人ずつ答える。
誰も、呼ばれていない。
それも記録された。
***
開口を続ける。
人の頭ほどの幅。
まだ、通れる大きさではない。
穴の向こうは暗い。
灯りを差し込まない。
まず、鏡を付けた棒を使う案があった。
だが、鏡の角度を変えれば、見たいものを探して奥へ入れることになる。
「どこまで見るんですか」
朔が尋ねた。
「入口から自然に見える範囲」
イサラからの伝達。
「光を当てない?」
「安全確認に必要な範囲では使います」
「奥を照らすためではなく?」
「入口と床の状態を見るため」
灯りを一つ。
穴の手前へ置く。
光は、向こうの床へ細く届いた。
***
石の床。
二本の溝。
車輪の跡。
旧紙市場の倉の床と、ほぼ同じ幅で続いている。
「同じ道ですか」
セオが尋ねる。
「繋がっていることは確認できます」
サナが答えた。
「六年前に使った道?」
「ジェンの証言とは一致します」
「確定は?」
「ジェン本人の確認が必要です」
今日は、ジェンは参加していない。
壁を開く作業へ、六年前の証言者を自動的に入れなかった。
「次に見てもらいますか」
「本人へ聞いてから」
***
穴の内側、左上。
古い石枠が見える。
その表面に、浅い印。
手。
その下に火。
火の右側へ、一本の線。
「旧紙市場の外側で確認した印と近い」
朔が言う。
「同じ?」
「一部だけです」
「向きは?」
「外から入る人が見える向きです」
「出る者には?」
「上下が逆になります」
誰へ向けた印か。
入る者か。
戻る者か。
まだ決めない。
***
ミウが穴の下を見ていた。
「そこ、板がある」
「どこですか」
「溝の間」
灯りを少し下へ向ける。
黒くなった細い木片。
床へ半分埋まっている。
「記録板?」
セオが言う。
「決めないで」
ミウが返す。
板。
車輪止め。
棚の欠片。
昔の扉。
どれかは分からない。
「回収しますか」
グラドから伝達が来る。
「入りません」
朔が答える。
「棒で引ける距離です」
「回収は、今日の目的ですか」
「入口の状態確認に必要では?」
「物の位置が変わります」
「持ち帰れば詳細を調べられる」
「今日は位置と見える形を記録します」
セオも頷いた。
「未回収。用途未確認」
***
作業終了判断の時刻が来た。
開口は、人の肩より狭い。
もう一つ石を外せば、身体を横にして通れる可能性がある。
「予定した開口幅には足りません」
ガドが言った。
「あと一つなら」
ミエルが時計を見る。
「仮板を合わせる時間は?」
「第一の板なら足りない」
ファナが答える。
「第二の板なら?」
「開口をこれ以上広げなければ」
「では終わる」
ミエルが決めた。
「壁を開く調査は?」
グラドが外から問う。
「開いたよ」
ミエルが答える。
「人が通れる幅ではありません」
「今日は通らない」
「追加の石を外せば、次回の作業が減ります」
「今日の閉鎖が増える」
生活区画を、開いたままにはしない。
***
「もう少し見たいです」
朔は言った。
穴の向こう。
車輪溝。
石枠。
手と火。
その先に、暗い通路が続いている。
「何を見る」
リオの声が、店先から届いた。
倉の中には入っていない。
「道がどこへ曲がるか」
「今日決めたか」
「決めていません」
「ほな、戻れ」
朔は穴から目を離した。
「戻ります」
倉の外へではない。
作業位置から、帰還側の確認地点へ戻る。
***
仮閉鎖板は、事前に作った第一の板では合わなかった。
開口の上部が、図面より狭い。
壁の石が内側へ傾いている。
「予定と違います」
セオが言う。
「壁が図面を読んでないからね」
ファナが答えた。
第二の板。
三枚に分かれた板を、内側へ重ねる。
人が通れない幅。
空気は完全には止めない。
小さな確認孔を残す。
「閉じ切らないんですか」
朔が尋ねた。
「湿気を閉じ込めると、壁が崩れるかもしれない」
「向こうの流れが倉へ出ます」
「確認孔へ蓋を付ける。開ける時は、ミエルか職人が立ち会う」
生活側の理由で、完全な封鎖にはしない。
***
板を固定する前に、全員が倉から一度出た。
人数。
ミエル。
ミウ。
ガド。
ファナ。
サナ。
朔。
セオ。
マレア。
八人。
誰も壁の向こうへ入っていない。
「工具は?」
鑿。
槌。
刷毛。
灯り。
木棒。
すべてある。
「穴の向こうへ落とした物は?」
「ありません」
ミウが答える。
「向こうから持ち出した物は?」
「ありません」
セオ。
何も持ち帰らなかったことも、確認する。
***
ファナとガドだけが再び倉へ入り、仮板を固定する。
ミエルが立ち会う。
朔は外で待つ。
「中にいたいですか」
エリオが尋ねた。
「はい」
「なぜ?」
「閉じるところまで見たい」
「目的に含まれていませんか」
「含まれています」
「では」
「俺が必要な作業ではありません」
閉じる判断は、職人と所有者がする。
見るためだけに人数を増やさない。
「待ちます」
朔は言った。
***
倉の外から、槌の音が聞こえる。
一度。
間。
二度。
決めた合図ではない。
作業の音。
誰も、帰還合図とは取らない。
エリオは扉の前へ近づかない。
人の流れを見る。
見物人が縄を越えようとすると、言葉で止める。
「中で何か鳴った」
「板を固定しています」
「三回鳴ったぞ」
「作業音です」
「合図じゃないのか」
「帰還合図は使用していません」
「同じ音だろ」
「回数だけでは判断しません」
合図も、場所と時刻と目的を離れれば別のものになる。
***
仮板の固定が終わった。
ミエル。
ファナ。
ガド。
三人が出てくる。
「閉じました」
ミエルが言う。
「完全に?」
「確認孔あり。蓋は施錠。鍵は私とファナが一つずつ持つ」
「管理局は?」
「持たない」
グラドが顔を上げる。
「調査対象の入口です」
「うちの倉の壁でもある」
「緊急時に開けられない」
「私かファナを呼びな」
「間に合わない場合は?」
「壊せる」
ミエルは答えた。
「でも、最初から勝手に開けられる鍵は渡さない」
管理局は、所有者の許可なく道を持たない。
***
「鍵の所在は記録します」
セオが言う。
「誰が持つかも?」
「はい」
「私が死んだら?」
ファナが尋ねた。
「その時に、鍵の扱いを確認します」
「先に決めない?」
「引き継ぎ先だけは決められます」
「誰へ?」
「本人が選びます」
ファナは少し考える。
「今は、工房の箱へは入れない。私が持つ」
「期限は?」
「次の確認日まで」
永久の所有者にはしない。
***
帰還側の机へ、全員が戻った。
予定帰還時刻より、砂半分前。
最初に身体確認。
粉塵を吸った者。
目の痛み。
手の傷。
ミウの右手人差し指に、小さな切り傷。
「いつ?」
マレアが尋ねる。
「紙束を運んだ時」
「壁を開ける前?」
「うん」
「黒い道との関係は?」
「ないと思う」
「決めません」
マレアは処置する。
壁を開いた日にできた傷。
だからといって、壁が付けた傷ではない。
***
サナの測定。
開口前。
壁の向こうから倉側へ弱い流れ。
開口中。
流れが一時的に強くなる。
仮板設置後。
確認孔から弱い流れが継続。
黒い線付近で以前確認した逆流との関係。
未確認。
「人影は?」
「確認なし」
「声」
「確認なし」
「白い文字」
朔は首を横に振る。
「今日は見ていません」
何も見えなかった。
それを、表示が止まったとも。
道が安全だとも書かない。
***
エリオの帰還側記録。
見物人七名へ説明。
立入縄を越えようとした者二名。
身体接触なし。
外郭警備への連絡なし。
倉内の作業音を、異常または帰還合図として扱わず。
帰還者八名の進路を確保。
「何もしなかった時間は?」
朔が尋ねた。
「ありました」
「何をしていましたか」
「扉と道を見ていました」
「入りたかった?」
「棚が折れた音の時に」
「なぜ入らなかった?」
「中から、棚脚の破損だという伝達が来たからです」
「伝達がなければ?」
「次の確認手順を使います」
「すぐ入る?」
「いいえ」
訓練で決めたことが、実地でも一度使われた。
***
イサラの時刻記録。
棚解体への変更を確認。
作業終了判断時刻は変更せず。
開口幅縮小を了承。
追加の石を外さない判断は、現場のミエルと職人が実施。
仮閉鎖完了後、帰還時刻内に全員確認。
「第一位として、何を決めましたか」
グラドが尋ねた。
「作業終了判断時刻を変えないこと」
「開口継続は?」
「現場へ渡しました」
「壁を一つ多く開けるかは?」
「ミエルと職人が決めました」
「責任は?」
「私が時刻条件を作った責任は残ります」
「開口幅が不足した場合は?」
「次の作業が増えます」
「失敗ですか」
「予定幅には達しませんでした」
「では」
「壁は開いた。人が通れる幅ではない。仮閉鎖した。それぞれです」
***
ミエルへの確認は、調査より先に倉の状態から始まった。
「商品は?」
「数は合ってる」
「損傷」
「失敗紙の箱に粉。元々捨てる予定でも、作業で粉が入ったことは記録して」
「補償は?」
「値段は付かない。でも、掃除の手間は出た」
「棚」
「脚一本破損。元から腐っていた。作業中に折れた」
「管理局が全額を?」
「元からの腐食まで払えとは言わない」
「では」
「新しい脚の材料費は半分。作業で必要になった解体と組み直しの手間は全額」
ミエルは自分に有利な物語だけを作らなかった。
管理局も、元から壊れていたとして全部を持ち主へ返さなかった。
***
「明日、店は開けられますか」
朔が尋ねた。
「開ける」
「倉は?」
「壁側の棚は戻さない。紙束は別の場所へ置く」
「不便ですか」
「不便だよ」
「調査のために?」
「道があったのも、この倉を使ってるのも事実だ」
ミエルは答えた。
「どっちかを消せないなら、置き方を変える」
「客が怖がるかもしれません」
「もう怖がってる」
「では」
「帳面紙は必要だ。怖くても買う奴は来る」
街は、道の発見だけでは止まらない。
***
セオが作った開口記録には、最初にこう書かれた。
旧紙市場ミエル・サド所有倉庫内の補修壁を、所有者、職人、管理局立会いのもと、限定的に開口。
封印解除とは書かなかった。
黒い道への門とも。
ヴァルハの入口とも。
確認されたもの。
後補修と見られる石壁。
内側に古い石枠。
倉内外で連続する二本の車輪溝。
石枠内側に、手、火、線に類似する印。
通路床に、用途不明の黒色木片状物。
壁の向こうから倉側へ向かう弱い空気および流れ。
人影なし。
声なし。
白い表示なし。
黒い線なし。
通路への進入なし。
向こう側からの物品回収なし。
***
次にすること。
ジェンへ、車輪溝と石枠の位置を、本人の意思を確認した上で見てもらう。
空気と流れの継続測定。
黒色木片状物の位置を動かさず、追加照明下で外側から形状を確認する方法を検討。
人が通れる幅へ開口する必要性を、次回調査目的と分けて判断。
通路へ進む場合、参加者と帰還側の記録を改めて作る。
現在の仮閉鎖板、確認孔、鍵の所在を、次回確認日まで維持。
倉の商品と営業への影響を再確認。
***
「道を確認した、と公表しますか」
ベドが尋ねた。
「何を道と呼びますか」
朔が聞き返す。
「車輪溝の続く通路」
「では、旧通路を確認」
「黒い道への?」
「まだ繋がっていると確認していません」
「六年前の調査隊が通った」
「ジェンさんの証言があります」
「なら」
「本人が今日見ていません」
公示文は短くされた。
旧紙市場の倉庫壁内に、古い車輪溝を伴う通路状空間を確認しました。通路への進入は行っていません。黒い線および黒い人影との関係は未確認です。
「壁を開いたことは?」
「書きます」
「閉じたことも」
「はい」
開いた話だけを歩かせない。
***
公示が出る前に、街では別の話が広がっていた。
王都がヴァルハの地下門を開いた。
壁の中から黒い息が出た。
勇者候補が外で封じ込めた。
殻の子が、古い印を読んで扉を起こした。
「何も起きなかった話は売れないね」
ミエルが言った。
「何もなかったわけではありません」
朔が答える。
「壁が開いた」
「棚が折れた」
「風が出た」
「紙に粉が入った」
「道が見えた」
「店は明日も開く」
ミエルは店先の縄を外す。
「最後のも書いといて」
***
日が傾く前、ミウは移動した紙束を一つずつ確認した。
「十二」
「合っていますか」
「うん」
「棚の位置は?」
「戻してない」
「記録では、未復旧?」
「違う」
「では」
「今日は、ここに置くって決めた」
元の場所へ戻していない。
だから、作業が終わっていないとは限らない。
新しい場所を、今の置き場所として選んだ。
「次に戻す可能性は?」
「壁の調査が終わってから」
「いつ?」
「分からない」
「では」
「決まるまで、ここ」
空白のままではない。
今の場所がある。
***
帰る前、朔は仮閉鎖された壁をもう一度見た。
三枚の板。
確認孔。
二つの鍵。
板の向こうに、古い車輪溝がある。
手と火の印。
黒い木片。
湿った暗い通路。
壁を開く前より、分かったことは増えた。
進める距離も増えた。
だが、今日、誰も一歩も向こうへ入っていない。
「残念ですか」
エリオが尋ねた。
「少し」
「私は、外にいたことが」
「入りたかった?」
「はい」
「でも、道を空けた」
「はい」
「俺も、穴の先を見たかった」
「見なかった?」
「見える範囲では見ました」
「それ以上は?」
「見に行かなかった」
エリオは仮板を見る。
「次は、行くんですね」
「次の目的が決まれば」
「私も?」
「分かりません」
「待つ側かもしれない」
「はい」
エリオは嫌そうな顔をした。
それでも、その可能性を消せとは言わなかった。
***
リオは朔へ、名前の紙を返さない。
「今日、帰ったことを確認しましたか」
朔が尋ねた。
「人数は合っとる」
「俺は?」
「黒川朔。ツヅリではサク」
「それだけ?」
「壁の穴を見て、もう一つ石を外したそうにしとった」
「はい」
「俺が戻れ言うたら戻った」
「はい」
「壁の向こうへ入ってへん」
「はい」
「名前は?」
「今も、黒川朔です」
「なら聞いた」
「紙と同じです」
「同じやから返すんか」
「違います」
「なら、まだ持っとく」
***
その夜、旧紙市場の店は閉まった。
倉の中では、紙束が元とは違う場所にある。
棚は解体されたまま。
折れた脚は、作業台の上。
壁には、仮の板。
その向こうには、誰も入っていない通路。
生活は、作業前と同じ形には戻らなかった。
それでも、店は明日開く。
***
壁を開くことは、道へ入ることではなかった。
入口を見ることも。
その先へ進む許可にはならない。
壁の向こうに古い道があったからといって、その道が朔たちを待っていたとも決まらない。
ただ、閉じられていた空間は確かに開いた。
空気が出た。
光が床へ届いた。
車輪溝が、倉の中から暗い先へ続いていた。
そして、決めた時刻が来た時。
もう一つ石を外せる者たちは、外さなかった。
進むために壁を開いたのではない。
まず、戻れる形を壊さずに、入口があることを確かめるために。
板の向こうで、古い道はまだ暗い。
声も。
名前も。
誰も呼ばなかった。
その日、開かれたのは、人が通れる道ではなかった。
次に進むかどうかを、まだ選び直せるだけの幅だった。




