第五章 勇者の名前 ⑫ 勇者の名を置く
ヴァルハが黒い人影の名前ではないと分かった翌日、王都では別の問いが増えた。
では、誰が本当の名前を聞くのか。
広場の物語紙には、すでに答えが書かれていた。
第一位イサラ、黒き者の真名を問う。
イサラは、その紙を剥がさなかった。
代わりに、帰還報告の場で言った。
「私は、真名を聞きに行くとは決めていません」
「では、誰が?」
集まった者の一人が尋ねた。
「次に何を尋ねるかも、まだ決めていません」
「第一位なのに?」
「第一位だから、決めていないことを決めたとは言いません」
歓声は上がらなかった。
安心も渡さなかった。
その日のうちに、別の噂が歩き始めた。
第一位は黒い者を恐れている。
第一位は戦う時を選んでいる。
第一位は殻の子へ役目を押しつけた。
どれも、イサラ本人の言葉ではなかった。
***
「黒い線を、自分で見ます」
イサラが言ったのは、帰還報告を終えたあとだった。
塔下審査室。
机の上には、次回調査案ではなく、一枚の目的確認書だけが置かれている。
「人影へ会うためですか」
朔が尋ねた。
「いいえ」
「名前を聞く?」
「聞きません」
「では」
「次に誰を行かせるか判断する前に、行かせようとしている場所を見ます」
イサラはこれまで、記録と帰還者の証言から判断していた。
黒い道へは行っていない。
「直接見なければ決められない?」
「記録だけで決められる部分もあります」
「では、行く必要は?」
「私が、記録だけでは足りないと思っています」
「知りたいから?」
「はい」
「勇気を証明したい気持ちは?」
イサラは少し考えた。
「あります」
エリオと同じ答えだった。
「街へ、第一位が逃げていないと見せたい気持ちも?」
「あります」
「判断に混ざりますか」
「混ざっています」
「では、行かない方が?」
「混ざっているから、行ってはいけないとは限りません」
イサラは答えた。
「何のために行くかを、混ぜないようにします」
***
目的は一つに絞られた。
イサラ・ベルン本人が、黒い線手前の環境と、既存の帰還経路を確認する。
黒い人影への問いかけは行わない。
名前を呼ばない。
人影が現れなくても、決めた時刻で戻る。
現れた場合も、目的を接触へ変更しない。
「向こうから話しかけられた場合は?」
グラドが尋ねた。
「名前を聞かれれば、答えます」
イサラが言う。
「肩書きは?」
「私は、先に言います」
朔とは違う順番。
「勇者候補第一位、イサラ・ベルン」
「はい」
「相手は勇者を拒んでいます」
「だから、隠して近づきません」
「拒まれると分かっていて、肩書きを先に置く?」
「私が行くことで、すでに持ち込んでいます」
名乗らなければ、持っていないことになるわけではない。
***
「剣も持っていくんですか」
朔が尋ねた。
「黒い線までは」
「前回、デルさんが抜きました」
「はい」
「今回は?」
「私が持ちます」
「抜かない?」
「抜きません」
「絶対に?」
「絶対とは言いません」
デルが答えたのと同じ。
「では、なぜ持つんですか」
「私が剣を置いた結果、誰かが代わりに守る役目を負う可能性があります」
「今回は固定衛兵を後ろへ置きません」
「調査参加者の中でも同じです」
朔。
エリオ。
ノエ。
マレア。
誰かが、第一位が武器を持たない空白を埋めようとするかもしれない。
「剣を持つことで、自分が守る人になる?」
「そう見られる可能性があります」
「では」
「どちらにも危険があります」
「何を選ぶ?」
「最後の停止位置までは、自分で持ちます」
「そこから?」
「その場で決めます」
何も決めずに行くのではない。
だが、今の部屋で、黒い線の前の自分を完全には決めない。
***
イサラが身に着ける物も記録された。
白い外套。
長剣。
右手首の銀環。
第一位であることを示す三つの印。
「全部持っていくんですか」
ノエが尋ねた。
「はい」
「黒い人影への刺激になる可能性は?」
「あります」
「では」
「私が第一位として行くことを、装備だけ外して隠しません」
「試験にする?」
朔が聞く。
「何を?」
「外套、剣、銀環のどれに反応するか」
「調べません」
「でも、反応があれば記録する」
「はい」
「結果として試験になる可能性は?」
「あります」
イサラは否定しない。
「だから、同時に何かを外して比較はしません」
今日は、第一位として行く。
次に装備を変えるかは、今日を見たあとに決める。
***
エリオも同行することになった。
白い外套なし。
額の銀環なし。
剣なし。
「二人の勇者候補を同時に近づける理由は?」
朔が尋ねた。
「前回との比較です」
セオが答えた。
「人影は、エリオをすでに勇者と呼んでいます」
「イサラさん一人では?」
「反応がイサラ個人へのものか、勇者候補が二人いることへのものか、分けられなくなります」
「二人いても分けられないのでは?」
「はい」
「では」
エリオが口を開いた。
「私がいれば、前回から継続している条件が一つ残ります」
「そのために危険を受ける?」
「はい」
「本人が決めればいい?」
「同行者にも確認します」
前回までと同じだった。
***
「私は怖いです」
ノエが言った。
エリオだけでなく、イサラもいる。
人影が拒む勇者候補が二人。
「参加しませんか」
イサラが尋ねる。
「参加します」
「なぜ?」
「火を持つ条件を続けるためです」
「私たち二人を見続けることになります」
「はい」
「一人では?」
「今回は、サクさんにも確認してもらいます」
「俺が?」
朔が聞く。
「イサラさんとエリオさんの位置を、私一人で持ちません」
恐怖を、排除の理由だけにしない。
一人で背負わない条件へ変える。
***
同行するのは六人。
朔。
イサラ。
エリオ。
ノエ。
マレア。
セオ。
サナは行かない。
流れの測定が目的ではないから。
「測定しなくていいんですか」
グラドが尋ねた。
「変化が起きても、数値を取らない?」
「今回は、人を増やしてまで測る目的ではありません」
イサラが答える。
「見逃す可能性がある」
「あります」
「次に同じ状態が来るとは限らない」
「はい」
「それでも?」
「全部を一度に持ち帰ろうとしません」
急ぐ側のイサラが、情報を捨てた。
何もしないためではない。
今日の目的を残すためだった。
***
訓練廊下では、帰る条件だけを繰り返した。
人影が現れた。
勇者と呼ばれた。
殺すと言われた。
帰れと言われた。
名前を尋ねられた。
それぞれ。
「帰れと言われた場合は?」
マレアが尋ねる。
「戻ります」
イサラが答える。
「目的を終えていなくても?」
「黒い線と帰路は、その時点までに見ています」
「勇者は来るな、とだけ言われた場合は?」
「戻ります」
「なぜ?」
「警告の対象が私たちだと確認できるためです」
「従う?」
朔が問う。
「そう見えるかもしれません」
「本人は?」
「今日の目的を終えたから戻ります」
「相手に決めさせたことにはしない?」
「相手の言葉を判断材料にはします」
聞かなかったことにはしない。
従っただけにもならない。
***
「殺すと言われたら?」
グラドが尋ねる。
「戻ります」
「攻撃されていなくても?」
「はい」
「第一位が脅しで退く?」
「そう記録される可能性があります」
「街でも」
「はい」
「それでも?」
「脅しへ反応しないことを、勇気の証明には使いません」
***
訓練の最後に、マレアは理由を言わず、
「戻る」
と言った。
全員が向きを変えた。
イサラも。
剣を持っている。
外套も。
銀環も。
それでも、理由を聞かなかった。
帰路の印を越えてから、マレアが言う。
「第一位が、ほかの者の撤退判断に従えるかを確認しました」
「従えましたか」
朔が尋ねる。
「身体は」
マレアが答える。
「気持ちは?」
イサラは自分で言った。
「理由を聞きたかったです」
「先に聞かなかった」
「はい」
「本番では?」
「同じにします」
***
出発前。
リオは塔外の待合所にいた。
イサラの姿を見る。
白い外套。
剣。
銀環。
「戦いに行く格好やな」
「通常任務の装備です」
イサラが答える。
「今日は戦うんか」
「戦いません」
「剣は?」
「持っていきます」
「何のためや」
「置いたことで、誰かへ代わりを押しつけないためです」
リオはイサラを見た。
「持ったら、自分が代わりになるぞ」
「はい」
「どっちを選んでも、何かついてくるな」
「はい」
「ほな、置く時は誰かに持たせるな」
「そのつもりです」
「地面に置け」
「はい」
イサラは、すでに考えていたように答えた。
***
朔の短刀は、今日もリオが持っている。
「青い布は?」
「あります」
「出すなよ」
「はい」
「人影がイサラを勇者と呼んだら?」
「聞きます」
「エリオも?」
「聞きます」
「お前は?」
「名前を呼ばれても、今日の目的を変えません」
「ほんまに?」
「分かりません」
「それでええ」
リオは言った。
「分からんまま行く代わりに、戻す奴がおる」
***
黒い線へ続く道には、前回より多くの職員がいた。
調査へ参加する者ではない。
扉の確認。
帰還時刻の保持。
連絡。
それぞれの位置に立っている。
イサラを見て、頭を下げる。
「第一位」
「討伐ですか」
若い職員が尋ねた。
「違います」
「では」
「道を見て、戻ります」
「人影が出ても?」
「今日、戦うとは決めていません」
職員は納得していない顔をした。
それでも、道を空けた。
白い外套は、今日も扉を開けた。
***
旧観察室の前。
朔には白い文字が見えなかった。
エリオも。
ほかの者にも。
「何も見えません」
朔が言う。
「表示なし」
セオが記録する。
何もなかったことも、前回との違いだった。
***
最初の帰還印を越える。
黒い線までは、まだ距離がある。
イサラは歩く速度を変えない。
剣の鞘が、長衣へ当たって小さく鳴る。
エリオはその音を一度見た。
「気になりますか」
イサラが尋ねる。
「はい」
「私が剣を持っていることが?」
「自分が持っていないことも」
「取りに戻りたい?」
「いいえ」
「今は?」
「はい」
今は、戻らない。
次の瞬間も同じとは言わない。
***
二つ目の帰還印。
ここから先は、黒い線が見える。
三本の横線。
光の切れた床。
向こう側には、まだ何もいない。
「ここで装備を確認します」
マレアが言う。
イサラ。
身体異常なし。
手の震えなし。
剣の封なし。
銀環の変色なし。
外套に異常なし。
「剣へ手を伸ばしたくなりましたか」
「まだ」
「戻りたい?」
「怖いです」
「質問は?」
「今は、進みます」
***
最後の停止位置は、黒い線から七歩。
前回、朔たちが立った場所より二歩後ろ。
今日は、そこから先へ行かない。
白い印が床に付けられている。
イサラが印へ足を乗せた時。
黒い線の向こうで、光が一つ点いた。
「全員、確認」
セオが言う。
一人ずつ答える。
朔。
イサラ。
エリオ。
ノエ。
マレア。
全員、見た。
***
光は細かった。
床を照らすだけ。
人影はない。
イサラは剣へ手を触れない。
「黒い線を確認しました」
「帰路は?」
「二つの印。扉三枚。連絡所までの距離を確認」
「目的は?」
マレアが尋ねる。
「終わっています」
「戻りますか」
イサラはすぐには答えなかった。
「決めた滞在時刻まで、あと砂一つ」
「続ける理由は?」
「この場所で、自分の身体がどう変わるかを見る」
「目的に含まれますか」
「環境の確認に含めました」
マレアが頷く。
「砂一つまで」
***
ノエの網箱は静かだった。
火種入れは動かない。
朔の青い布も。
風はない。
音も。
イサラの剣だけが、呼吸に合わせて外套へ触れる。
小さな金属音。
その音が止んだ時、黒い線の向こうの光が縦へ伸びた。
***
「人影」
エリオが言う。
黒い形。
肩。
頭。
腕。
前回と同じ場所ではない。
少し右。
「確認しました」
朔。
ノエ。
マレア。
セオ。
イサラも、同じ場所を見ている。
「大きさは?」
セオが尋ねる。
「今は聞きません」
マレアが止めた。
人影がいる間に、観察項目を増やさない。
***
黒い影の頭が、エリオへ向いた。
「勇者」
全員が聞いた。
エリオは、訓練した通り答える。
「エリオ・レイスです」
「勇者」
もう一度。
「王都の勇者候補です」
否定しない。
先に剣を持っていないことも言わない。
今日の目的は、接触条件の説明ではない。
***
人影の頭が、次にイサラへ向く。
「勇者」
イサラは動かない。
「勇者候補第一位、イサラ・ベルンです」
肩書き。
順位。
名前。
いつもの順番。
人影の右腕が少し上がる。
「勇者」
三度目。
朔には、今度はイサラだけでなく、二人を指しているように聞こえた。
だが、指の形は見えない。
「二人を指しているように感じました」
朔は知覚として出す。
「私も」
ノエ。
「私は、イサラへ向けたままに見えます」
マレア。
同じにはしない。
***
「勇者は、来るな」
前回と同じ言葉。
全員が同じ内容として聞いた。
イサラの右手が動く。
剣の柄ではない。
腰の留め具へ。
「何をしますか」
マレアが尋ねる。
「剣を置きます」
「進むため?」
「いいえ」
イサラは鞘ごと剣を外した。
床へ直接は置かない。
外套の内側から、折った灰色の布を出す。
白い印の二歩後ろへ広げる。
その上へ剣を置いた。
柄は誰にも向けない。
刃は鞘の中。
***
次に、右手首の銀環を外す。
第一位の印。
剣の横へは置かない。
同じ布の端。
触れない位置。
「外套は?」
朔が尋ねる。
「着たままにします」
「なぜ?」
「全部を外せば、勇者ではなくなったふりになります」
「剣と銀環は?」
「ここから先へ持っていかないと決めました」
「進むんですか」
「進みません」
イサラは答えた。
「進むために置いたのではありません」
「では」
「ここから先へ行かないと、自分で決めるために置きました」
***
人影は動かない。
剣にも。
銀環にも。
反応は確認できない。
「勇者」
もう一度、声がした。
装備を置いても。
銀環を外しても。
白い外套が残っているからかもしれない。
顔を知っているのかもしれない。
名前を聞いたからかもしれない。
ほかの理由かもしれない。
どれかは分からない。
「はい」
イサラが答えた。
「イサラ・ベルンです」
勇者ではないとは言わない。
名前も消さない。
***
「今日は、ここから進みません」
イサラは人影へ告げた。
「こちらから、問いません」
人影の腕が下がる。
「帰れ」
短い言葉。
全員が聞いた。
マレアが言う前に、イサラが口を開く。
「戻る」
第一位の判断。
今日初めて、自分から帰還を指示した。
***
全員が身体の向きを変える。
朔。
エリオ。
ノエ。
マレア。
セオ。
イサラは最後に残らない。
朔と同じ位置で帰路へ向く。
剣と銀環は、白い印の後ろにある。
「装備は?」
セオが尋ねる。
「帰路の途中で回収します」
イサラが答える。
「今すぐ?」
「人影へ背を向けたまま、全員が位置を越えてから」
剣を取りに戻る形にしない。
帰る道の中で拾う。
***
「サク」
後ろから声がした。
朔は振り返らない。
「聞こえました」
セオ。
「勇者」
次の声。
エリオの肩が動く。
「エリオ・レイスです」
前を向いたまま言う。
「帰路へ移動しています」
説明を増やさない。
***
白い印を全員が越えた。
イサラが剣の置かれた布へ着く。
「拾います」
先に告げる。
「剣へ触れます」
右手で鞘の中央。
柄には触れない。
剣を持ち上げる。
「銀環」
左手で取る。
腕へは戻さない。
布で包む。
「腰へ戻しますか」
朔が尋ねる。
「戻しません」
「誰かへ渡す?」
「渡しません」
剣は鞘ごと、両腕で身体の前へ持つ。
戦える位置ではない。
捨てたわけでもない。
***
人影は、それ以上声を出さなかった。
黒い線の光が消える。
人影が消えたのか。
見えなくなっただけか。
帰路へ向いた朔たちは確認しない。
「戻る」
マレアが繰り返す。
理由は増えていない。
それでも、言葉を保つ。
***
二つ目の帰還印。
人数を確認。
六人。
全員いる。
「剣の状態」
イサラが自分で言う。
「外見上、変化なし」
「銀環」
「変化なし」
「身体は?」
「歩けます」
「進みたい気持ちは?」
マレアが尋ねる。
イサラは少し黙った。
「あります」
「何をしたかった?」
「なぜ勇者を拒むか、聞きたかった」
「名前も?」
「はい」
「ハルについては?」
「サクに聞かせたくなかった」
朔がイサラを見る。
「俺のために戻った?」
「それだけではありません」
「では」
「今日の目的ではなかったからです」
答えを大きくしない。
***
内塔連絡所へ戻る。
予定時刻より、砂一つ分早い。
グラドが人数を数える。
六人。
「目的は達成?」
「黒い線手前の環境と帰路を確認しました」
イサラが答える。
「人影は?」
「全員が確認」
「発言」
「エリオと私を、勇者と呼びました」
「装備を外したあとも?」
「私が剣と銀環を置いたあと、再び勇者と」
「では、装備ではなく本人を?」
「そうとは確定できません」
セオが言う。
「白い外套は残っていました。本人の名乗りもありました。以前から認識していた可能性もあります」
「エリオは装備なし」
「はい」
「それでも勇者と?」
「はい」
***
「剣と銀環を置いた理由は?」
グラドが尋ねる。
「前進するためではありません」
イサラが答える。
「では」
「進まないと決める時、ここから先へ勇者を示す物を持ち込まないためです」
「人影への意思表示?」
「そう受け取られた可能性はあります」
「本人は?」
「自分の選択を明確にするためです」
「儀式ですか」
「違います」
「献上?」
「違います」
「降伏?」
「違います」
「では、記録には」
イサラは言葉を選ぶ。
「剣と銀環を線手前の帰路側へ一時的に置き、自身の判断で前進しないと決定」
「人影の命令に従った?」
「人影は、勇者は来るな、と発言しました」
「その後に置いた」
「はい」
「因果関係は?」
「判断材料にしました」
「命令されたから?」
「命令だけではありません」
「では」
「目的が終わっていた。警告の対象が私たちだと確認できた。進めば、観察ではなく接触を続けることになった」
それぞれを分ける。
***
「怖かったからでは?」
グラドが聞いた。
「怖かったです」
イサラは答えた。
「それも理由?」
「入っています」
「では、恐怖による撤退」
「それだけにはしないでください」
「勇気ある判断?」
「そうも書かないでください」
「では」
「したことを書いてください」
ジェンと同じ要求だった。
***
記録には、こう残された。
イサラ・ベルンは、勇者候補第一位として名乗った。
黒い人影は、イサラ・ベルンおよびエリオ・レイスを「勇者」と呼んだ。
誰へ向けた発言かについて、一部知覚差あり。
黒い人影は「勇者は、来るな」と発言。
イサラは、自身の剣と右手首の銀環を、黒い線手前の帰路側へ一時的に置いた。
イサラは、装備を外したことで勇者候補ではなくなったとは発言していない。
イサラは、自身の判断で前進しないと決定し、「戻る」と発言。
全員が帰路へ移動。
剣および銀環は、帰路上でイサラ本人が回収。
戦闘なし。
黒い線の越境なし。
負傷なし。
***
「勇者が二人いると、人影は出現する」
グラドが仮説として言った。
「確定しません」
セオが答える。
「前回はエリオ一人でも出ました」
「イサラが来たから、早く出た?」
「比較条件が違います」
「剣に反応した?」
「置いたあとにも発言しました」
「銀環?」
「外したあとにも」
「では、本人」
「可能性はあります」
エリオが言った。
「ですが、私たちの顔、名前、声、立ち位置、過去の接触、どれを勇者の印としているかは分かりません」
「印を外す方法は?」
「外せないものまで外したとは書きません」
ノエが答えた。
***
「次の調査へ、勇者候補を入れますか」
グラドが尋ねた。
イサラはすぐには答えなかった。
剣は机の横へ置かれている。
銀環は布に包んだまま。
「次の目的は?」
「人影の名前を聞く案があります」
「ほかには?」
「六年前の行方不明者について」
「同時にはしません」
「では、どちらから?」
「まだ決めません」
「勇者候補は?」
イサラはエリオを見る。
「最初の接触には入れない方がいいと思います」
エリオの表情が動く。
「私も?」
「はい」
「人影が私を勇者と呼ぶから?」
「それだけではありません」
「では」
「私たちがいると、最初の問いより先に『勇者は来るな』という関係が始まります」
「相手に分類を決めさせる?」
「分類を受け入れることと、反応条件を無視しないことは違います」
「勇者だから行けない?」
「いいえ」
イサラは答えた。
「次の目的に、勇者を連れていく必要がないなら、行かない」
「必要になれば?」
「再び決めます」
***
「私が行きたいことは?」
エリオが尋ねる。
「残します」
「判断へ?」
「入れます」
「必要性よりは?」
「後ろです」
エリオは目を伏せる。
「嫌です」
「はい」
「外されたように感じます」
「はい」
「それでも?」
「それでも、最初は行かせません」
イサラは、エリオを慰めるために判断を変えなかった。
「私も行きません」
「第一位なのに?」
「第一位として決めます」
***
「勇者を行かせないと、街へ伝えますか」
ベド・カルが尋ねた。
「次回参加者が決まってから」
「噂では、第一位が剣を置いて敗北したと」
「もう出ていますか」
「はい」
別の紙も。
第一位は黒き王へ銀環を捧げた。
勇者二人が名を奪われた。
剣を置いたことで、命だけは見逃された。
「訂正します」
イサラが言った。
「何と?」
「剣と銀環は回収しています」
「それだけ?」
「戦闘は行っていません。敗北、降伏、献上の事実はありません」
「行かなかったことは?」
「隠しません」
「第一位が退いたと?」
「私は前進しないと決め、帰還を指示しました」
「怖かったことも?」
ベドが問う。
「聞かれれば答えます」
「公の記録へ?」
「入っています」
***
その日の帰還報告には、いつもより多くの人が集まった。
イサラは白い外套を着ていた。
剣も腰にある。
銀環も右手首へ戻している。
「剣を捧げたのでは?」
誰かが尋ねた。
「一時的に置き、帰路で回収しました」
「なぜ置いた?」
「これ以上進まないと決めたためです」
「黒い者に負けた?」
「戦っていません」
「怖くなった?」
「怖かったです」
ざわめきが起きる。
「第一位でも?」
「はい」
「では、なぜ剣を抜かなかった?」
「戦う理由が確認されていなかったからです」
「殺すと言った相手ですよ」
「はい」
「倒さなければ、次は誰かが」
「その可能性へは備えます」
「なら」
「備えることと、今日戦うことは同じではありません」
***
「勇者なのに、帰ったんですか」
前の方にいた子どもが聞いた。
母親が止めようとする。
イサラは子どもを見る。
「はい」
「逃げた?」
「戻りました」
「同じじゃないの?」
「怖くて走って離れることも、決めた道を戻ることもあります」
「今日は?」
「決めた道を戻りました。怖さもありました」
「勝った?」
「戦っていません」
「負けた?」
「戦っていません」
子どもは困った顔をした。
勝ちか負けか。
短い物語へ入らない答えだった。
***
報告の後、イサラは外套を脱いだ。
エリオが待っていた。
「名前を置いたんですか」
エリオが尋ねる。
「何の?」
「勇者の」
イサラは右手首の銀環を見る。
「置いていません」
「でも、剣と銀環を」
「物は置きました」
「勇者として進まないと決めた」
「はい」
「それは、勇者の名を置いたことでは?」
イサラは少し考えた。
「一つの場所へ、持っていかなかっただけです」
「名前は残っている?」
「今も」
「街からも?」
「はい」
「人影からも?」
「おそらく」
「では」
「外せないから、持って進まなければならないとは思いません」
***
「次は、私たちなしで行かせるんですね」
「最初の案では」
「誰を?」
「まだ決めません」
「サクは?」
「入る可能性があります」
「危険です」
「はい」
「私がいれば守れる可能性も」
「あります」
「では」
「あなたがいることで、勇者を拒むやり取りが先に始まる可能性もあります」
「どちらを選ぶ?」
「次の目的に必要な方を」
エリオは黙った。
「私は、行かないことへ慣れたくありません」
「私もです」
「では、なぜ」
「慣れないまま、行かないと決める時があります」
イサラの声は強くなかった。
「行きたいことを消してから決める必要はありません」
***
朔は、二人の少し後ろにいた。
「俺が行くことを、二人の代わりにしないでください」
イサラとエリオが振り返る。
「どういう意味ですか」
エリオが尋ねた。
「勇者を行かせない代わりに、殻の子を行かせる、という形にしない」
「はい」
イサラが答える。
「俺が必要な目的か、別に決めてください」
「そのつもりです」
「危険を受け入れたら行ける?」
「あなた一人の同意だけでは決めません」
「分かっています」
誰かが退いた場所へ、別の誰かを押し出さない。
***
ユイは、報告を聞いたあと、イサラへ尋ねた。
「置いたの」
「剣と銀環を」
「名前は?」
「置いていません」
「向こうは勇者って言った?」
「はい」
「剣がなくても?」
「はい」
「じゃあ、勇者って、物じゃないの?」
「相手が何を見てそう呼んだかは分かりません」
「イサラは?」
「私は、勇者候補です」
「行かなかった」
「はい」
「勇者なのに?」
「勇者候補だから、必ず行くわけではありません」
ユイはしばらく考える。
「行かないって決めるのも、勇者が決めたの?」
「はい」
「じゃあ、外してない」
「はい」
「持っていかなかっただけ」
「そうです」
***
記録の最後には、次にすることが加えられた。
黒い人影が、装備状態の異なるエリオ・レイスおよびイサラ・ベルンを「勇者」と呼んだ事実を残す。
何を勇者の識別条件としたかは未確認。
次回の調査目的を、一つに限定する。
勇者候補を参加させない案を優先して検討する。
これは、勇者候補の永久的な排除でも、勇者資格の停止でもない。
不参加となる者が担っていた技能と危険を、別の参加者へ自動的に移さない。
誰が行くかを決める前に、何を尋ねるかを決める。
本人の同意だけで、危険を受け渡さない。
***
街では、イサラが剣を置いた話が歩き続けた。
敗北。
降伏。
作戦。
慈悲。
黒い者への礼。
勇者の名を捨てた儀式。
イサラは、そのどれも選んでいない。
彼女は勇者候補第一位として黒い道へ行った。
勇者と呼ばれた。
怖いと感じた。
剣と銀環を置いた。
進まないと決めた。
自分の声で戻ると言った。
そして、剣も銀環も、自分で持ち帰った。
***
勇者の名は、外せなかった。
外套を脱いでも。
銀環を置いても。
剣を手放しても。
本人が名前を先に置いても。
人影は、勇者と呼んだ。
街も。
制度も。
記憶も。
すぐには呼び方を変えない。
それでも、勇者と呼ばれた者が、いつも前へ進まなければならないわけではなかった。
剣を持っているから、抜かなければならないわけでも。
第一位だから、最初に黒い線を越えなければならないわけでもない。
イサラが置いたのは、勇者である事実ではなかった。
勇者なら行けという、誰かが先に作った続きだった。
名前は持ったまま。
役目も消さず。
その役目に続く一つの命令だけを、黒い線の手前へ置いた。
そして初めて、勇者のまま行かない道を選んだ。




