第五章 勇者の名前 ⑬ 名を持つ者だけ
次の調査案には、参加者の名前より先に、参加しない者の名前が書かれた。
イサラ・ベルン。
エリオ・レイス。
二人とも、勇者候補であることを理由に、最初の案から外された。
「除外ですか」
エリオが尋ねた。
グラドは紙の見出しを見る。
「黒い人影が『勇者は、来るな』と繰り返していることを踏まえた、暫定的な不参加案です」
「本人の意思は?」
「まだ確認欄が空いています」
「なら、先に聞いてください」
エリオは紙を自分の前へ引いた。
「私は行きたいです」
そのまま書かせる。
「理由は?」
「人影の発言を、本人から聞いています。次の対話にも立ち会いたい」
「ほかには?」
イサラが尋ねた。
「勇者だから来るなと言われたまま、行かない者にされたくありません」
「それも記録へ?」
「はい」
セオが別の行に書く。
エリオ・レイスは参加を希望。
調査上の必要性に加え、勇者と呼ばれたことによって不参加となることへの抵抗感あり。
「それでも、私は最初の案では行かせません」
イサラが言った。
「あなたも行かない」
「はい」
「第一位と第二位が、相手の言葉に従う?」
「従うだけではありません」
「では」
「勇者がいない時に、何を言うかを確かめます」
***
今回の目的は、黒い人影の名前を聞くことではなかった。
六年前の行方不明者についても。
古い道についても。
朔を知っている理由についても。
問わない。
目的確認書には、一つだけ書かれた。
勇者候補が同行しない状態で、黒い人影が次に接近を認める者の条件を示すか確認する。
「相手へ、誰なら来てよいかを聞く?」
グラドが確認する。
「はい」
朔が答えた。
「許可を求めるんですか」
「黒い道が、あの人影の所有物だとは確認されていません」
「では、なぜ聞く?」
「向こうが、来るなと言っているからです」
「言われた通りにする?」
「言葉を聞いた上で、こちらが次にどうするかを決めます」
許可を、そのまま王都の規則にはしない。
警告を、聞かなかったことにもしない。
***
「聞き方は?」
イサラが尋ねた。
「次に来る者について、一つ聞きます。誰なら来ていいですか」
朔が答える。
「来ていい、では、相手に決定権があるように聞こえます」
「では、誰なら来ることを拒まないですか」
「拒まないと約束させる?」
「違う」
「誰なら、という聞き方自体が、人を分けさせます」
朔は紙を見る。
「では、どう聞けばいいですか」
「私が答えを持っているわけではありません」
イサラは言った。
「何を知りたいのか、もう一度分けてください」
***
勇者を連れてくるな、という発言が、何を意味するのか。
勇者候補本人だけか。
剣や外套を持つ者か。
勇者と呼ばれる役目か。
王都から来る者すべてか。
それは今回、問わない。
勇者でない者なら近づいてよいのか。
それも、決めつけない。
「俺たちは、次に誰が行けば、人影がすぐ『勇者は来るな』と言う関係から始まらないかを知りたい」
朔が言った。
「関係から始まらない保証は?」
「ありません」
「では」
「向こうが、次に来る者について何か条件を持っているかを聞きます」
セオが文を作る。
「次に来る者について、あなたが求める条件はありますか」
「条件という言葉を分かるでしょうか」
ノエが尋ねた。
「分からないかもしれません」
「聞き直す?」
「一度だけです」
「答えが聞き取れなければ?」
「持ち帰ります」
***
参加者は四人に絞られた。
黒川朔。
ノエ・ハーラ。
マレア・ソン。
セオ・ラグナ。
「戦える者がいません」
外郭警備の担当者が言った。
朔を見る。
「サクさんは、身体を使えますが」
「戦う者として連れていきません」
イサラが答えた。
「黒い人影が近づいた場合は?」
「戻ります」
「退路を塞がれた場合」
「その時は身体による防御が必要になる可能性があります」
「では、護衛を一人」
「勇者候補以外の武装者を?」
「はい」
「相手が剣を勇者の印として見ている可能性があります」
「剣を持たせなければ」
「守る役目だけを持ち込むことになります」
デルに起きたこと。
剣がなくても、役目は人へ置かれる。
***
「誰も守らないんですか」
担当者が尋ねた。
「違います」
マレアが答えた。
「全員が帰路を見ます」
「攻撃された人は?」
「その人を連れて戻ります」
「黒い人影を止める者は?」
「最初から、止めるための人は置きません」
「危険です」
「はい」
マレアは認めた。
「だから、近づく距離を前回より二歩広く取ります。人影が線を越える動きを見せた時点で戻ります」
「間に合わなければ?」
「間に合わない可能性はあります」
安全とは言わない。
安全でないから、何を減らすかを決める。
***
ノエは火を持つ。
前回までと同じ網箱。
黒い人影が火へ反応する可能性は未確認。
だが、今回だけ外せば、勇者候補がいないことと火がないことを同時に変える。
「私も外した方がいいですか」
ノエが尋ねた。
「なぜ?」
朔が聞く。
「私の姓が、ハーラだからです」
ハル。
似た音。
黒い人影が、名前へ反応する可能性。
「姓を変えますか」
グラドが尋ねた。
「変えません」
ノエはすぐに答えた。
「名乗らない?」
「問われれば、ノエ・ハーラですと言います」
「危険が増えるかもしれません」
「はい」
「では」
「名前を隠して行く方が、今回の目的に合いません」
名を持つ者について聞く。
その場へ、名前を隠した者として行かない。
***
「名を持つ者、という言葉を、こちらから使いますか」
セオが尋ねた。
前回の帰路。
持っている。
持つ者。
待っている。
名を持っている。
全員の聞こえ方は違った。
「使いません」
朔が答えた。
「なぜ?」
「全員が同じ言葉として聞いたわけではありません」
「石には、『名を持つ者を待つ』と」
「それも、今回の人影の言葉とは確認されていません」
似た言葉を一つへ繋がない。
向こうが言わない限り、こちらから完成させない。
***
「名前を聞かれた場合は?」
イサラが問う。
「一人ずつ、自分で答えます」
「役目は?」
「聞かれなければ言いません」
「なぜ?」
「今日は役目ではなく、名前を持って行くから」
朔が答えたあと、自分の言葉に止まった。
「今の言い方を、記録見出しにしないでください」
「名を持って行く者たち?」
グラドが尋ねる。
「付けないでください」
短い名が、また隊を作る。
「参加者四名」
セオが書いた。
それだけにする。
***
ユイは、参加者の名前を一人ずつ読んだ。
「イサラはいない」
「はい」
「エリオも」
「はい」
「勇者だから?」
「人影が、連れてくるなと言っているからです」
「言われたから、ずっと行かないの?」
「ずっととは決めていません」
「次は?」
「今回の答えを聞いてから」
ユイは四人の名前へ戻る。
「セオは、名前を持ってる?」
「はい」
「ノエも」
「はい」
「マレアも」
「はい」
「サクも」
「はい」
「眠ってる人は?」
朔は答えなかった。
十一人。
名前を知っている者。
まだ知らない者。
名前を出すことを許可していない者。
「名前が分からない人もいます」
「持ってないの?」
「分かりません」
「分からないのと、持ってないのは同じ?」
「違います」
ユイは頷く。
「向こうが、名前がある人だけって言っても、名前が分からない人を捨てないで」
「はい」
「まだ言ってないけど」
「はい」
答えを先に作らない。
だが、どんな答えでも渡さないものは、先に決められる。
***
訓練廊下では、イサラが黒い紐の向こうへ立った。
「名前」
イサラが言う。
朔が答える。
「黒川朔です。ツヅリ村では、サクと呼ばれています」
ノエ。
「ノエ・ハーラです」
マレア。
「マレア・ソンです」
セオ。
「セオ・ラグナです」
「証明しろ」
決めていなかった言葉。
四人は黙る。
「どうしますか」
イサラが尋ねた。
「何を証明とするのか聞きたいです」
セオが言う。
「今日は、その問いを増やしません」
朔が答えた。
「では」
「名前を答えたことだけを伝えます」
***
二度目。
「勇者を連れてこい」
イサラが言う。
前回とは逆の言葉。
「今日は連れていません」
朔が答える。
「次は連れてこい」
朔の口が止まる。
命令へ答える準備はしていなかった。
「戻りますか」
マレアが尋ねる。
「今日は、次に来る者の条件を聞く目的です」
「今、条件が出ました」
「勇者を連れてこい」
「はい」
「従うとは答えない」
「では」
「聞きました、と言います」
「帰る?」
「はい」
答えが得られたら、そこで終える。
望んだ答えでなくても。
***
三度目。
イサラは言った。
「勇者を連れてくるな」
「今日は、勇者候補を連れていません」
朔が答える。
「名を持つ者だけ来い」
訓練のために用意していた言葉ではなかった。
イサラが、その場で選んだ。
朔の胸が動く。
「誰が、名を持つ者ですか」
問いが出かける。
「サク」
ノエが呼ぶ。
「訓練廊下。黒い紐の手前です」
朔は止まった。
「聞きました」
それだけを言う。
***
「今の言葉なら、意味を聞かないんですか」
グラドが尋ねた。
「聞きたいです」
「なら」
「今日の問いへの答えだからです」
「曖昧でも?」
「はい」
「解釈できなければ、役に立ちません」
「解釈できないことが分かります」
グラドは納得した顔をしない。
「危険を受けて、曖昧な一文だけを持ち帰る?」
イサラが答えた。
「曖昧な一文を、分かりやすい嘘へ直すよりは」
***
出発前。
リオは四人を見た。
「少ないな」
「今回は四人です」
朔が答える。
「勇者は?」
「来ません」
「お前が代わりか」
「違います」
「なら、何や」
「黒い人影に名前を呼ばれた者です」
「それも役目にするなよ」
「はい」
「向こうが、お前だけ来い言うたら?」
朔は答えを決めている。
「今日、一人では行きません」
「次は?」
「別に決めます」
「ハルやと言うたら?」
「今日は、聞きません」
「向こうから言うたら?」
朔は青い布へ触れた。
「聞いたことを持ち帰ります」
「信じるか」
「その場では決めません」
リオは頷く。
「名前の紙は、ここにある」
胸元を叩く。
「お前が何て呼ばれても、こっちで持っとる」
***
黒い線へ続く経路。
旧観察室の前で、朔には白い文字が見えた。
NAME
その下。
HOLDER
さらに下に、短い線。
文字はすぐに消えた。
「白い文字」
朔が言う。
「内容は?」
セオが尋ねる。
「NAME。HOLDER」
「全員?」
誰も見ていない。
「意味は?」
マレアが問う。
「分かりません」
「名を持つ者、と解釈しますか」
「しません」
英字の意味を、今の言葉へ繋げない。
似ている。
だからこそ分ける。
***
最初の帰還印。
四人。
全員いる。
二つ目。
ノエの網箱は静か。
マレアが身体を確認する。
朔の呼吸が少し速い。
指の震えなし。
白い文字は再び出ていない。
「進みますか」
「はい」
***
黒い線は、前回と同じ形で横たわっていた。
三本。
床の光が途切れている。
向こう側には、何も見えない。
四人は、以前より二歩後ろの白い印で止まった。
朔。
半歩後ろにノエ。
反対側にマレア。
さらに後ろにセオ。
誰も、勇者の代わりの位置には立たない。
四人が、自分の位置に立った。
***
最初の砂。
変化なし。
二つ目。
黒い線の中央で、光が一つ点く。
全員が確認する。
三つ目。
光が縦へ伸びる。
人の形になる。
「人影」
朔。
ノエ。
マレア。
セオ。
全員、同じ位置に人の形を確認した。
***
人影は、朔を見るように頭を傾ける。
「サク」
四人が同じ言葉として聞いた。
「黒川朔です」
朔は答える。
「ツヅリ村では、サクと呼ばれています」
人影は動かない。
「勇者」
声。
朔には問いに聞こえた。
ほかの者は、あとで確認する。
「今日は、勇者候補を連れていません」
朔が言った。
***
人影の右腕が上がる。
手の形は見えない。
「勇者を連れてくるな」
全員が、同じ言葉を聞いた。
命令。
警告。
願い。
どれかは、まだ決めない。
「聞きました」
朔は答えた。
従うとも。
約束するとも言わない。
***
人影の頭が、ノエへ向く。
「名」
ノエには、そう聞こえた。
朔にも。
マレアは短い声とだけ。
セオは「名を」と聞いた。
ノエが自分で答える。
「ノエ・ハーラです」
人影の腕が、少し下がる。
火には反応がない。
***
次に、マレアへ頭が向く。
「マレア・ソンです」
聞かれる前に言った。
人影が動いたから。
「今、自分から名乗りました」
マレアはすぐに言う。
「声を聞いたとは確認していません」
セオが記録へ残すために覚える。
行動の理由を、向こうの命令にはしない。
***
人影の頭が、セオへ向く。
「セオ・ラグナです」
セオも答えた。
記録員とは言わない。
王都管理局とも。
今日は、名前だけ。
「サク」
人影が再び言う。
「はい」
朔は、そこで止めた。
名前を返すだけ。
***
問いを出せる時間は残っている。
全員が同じ人影を確認している。
帰路は開いている。
黒い線に変化なし。
ノエの火も。
マレアが朔の身体を見る。
続けられる。
朔は息を吐く。
「次に来る者について、一つ聞きます」
人影は動かない。
「あなたが求める条件はありますか」
***
光が一度、細くなる。
人影の輪郭が揺れる。
ノエの網箱が鳴る。
かた。
一度。
黒い線の下を、何かが横へ走ったように見えた。
朔とセオは確認。
ノエは光の変化だけ。
マレアは確認できず。
誰も動かない。
***
「名を持つ者だけ来い」
人影が言った。
四人全員が、同じ言葉として聞いた。
名を持つ者。
ユイ。
眠る十一人。
名前を知られていない者。
K.K.
Y.I.
ラグ。
フィオナ。
ミト。
ハル。
朔の中に、問いがいくつも立つ。
名とは何だ。
持つとは。
記録された者か。
自分で言える者か。
誰かに覚えられている者か。
名前を失った者は来るなという意味か。
「サク」
ノエが呼ぶ。
「黒い線の手前です」
朔は自分の右足を見る。
動いていない。
それでも、問いは前へ出ていた。
「聞きました」
朔は言った。
今日は、それ以上を問わない。
***
人影の腕が、朔へ伸びる。
黒い線は越えない。
開いた手のようにも。
何かを求める形にも見える。
朔は手を上げない。
青い布も出さない。
「戻る」
マレアが言った。
予定より、砂半分早い。
答えは得た。
朔の問いが増えている。
戻る理由として十分だった。
***
四人が帰路へ向く。
朔。
ノエ。
マレア。
セオ。
誰も、人影の言葉を復唱しない。
名を持つ者だけ。
歩きながら口にすれば、道への合言葉になる可能性がある。
記録は帰還後。
「サク」
後ろから声。
朔は振り返らない。
「聞こえました」
セオが言う。
「持っている」
次の声。
朔には、そう聞こえた。
ノエは「持って来い」。
マレアは判別できず。
セオは「持つ者」と聞いた。
違いを、その場で合わせない。
「戻る」
マレアが繰り返す。
***
二つ目の帰還印を越える。
四人。
全員いる。
ノエの火。
異常なし。
朔の青い布。
変化なし。
一つ目の帰還印。
人影の声は、もう聞こえない。
朔には白い文字も見えなかった。
***
内塔連絡所へ戻った時、帰還予定より砂一つ分早かった。
イサラとエリオが待っている。
最初に、人数。
四人。
負傷なし。
身体異常。
朔の呼吸増加。
ノエの手に軽い震え。
マレア、セオに大きな変化なし。
「人影は?」
イサラが尋ねる。
「全員が確認しました」
セオが答える。
「勇者について?」
朔が答えた。
「今日は、勇者候補を連れていないと伝えました」
「返答は?」
「勇者を連れてくるな」
エリオの顔が動く。
「全員、同じ言葉を?」
一人ずつ。
朔。
ノエ。
マレア。
セオ。
全員、同じ。
***
「次に来る者の条件は?」
「名を持つ者だけ来い」
朔が言った。
「全員?」
「同じ言葉として聞きました」
「意味は?」
グラドが尋ねた。
「聞いていません」
「なぜ?」
「今日の問いへの答えを受け取ったからです」
「それでは、誰を行かせればいいか分からない」
「はい」
「全員に名前はあります」
「そうとは、今の発言だけでは決められません」
「では、記録上の名前がある者?」
「決めません」
「本人が名乗れる者?」
「決めません」
「真名を知る者?」
「その言葉は、人影が使っていません」
「登録名?」
「それも」
朔は一つずつ止めた。
***
「勇者候補は、名を持つ者に含まれないんですか」
エリオが尋ねた。
「分かりません」
朔が答える。
「でも、連れてくるなと言った」
「はい」
「では、勇者は名前を持っていない?」
「そうは言っていません」
「勇者という役目が、名前より前に見えるから?」
「それも、今は決められません」
「なら」
エリオの声が少し強くなる。
「私の名前は、向こうに届いていないんですか」
前回。
エリオ・レイスです。
何度も自分の名を伝えた。
それでも、勇者と呼ばれた。
「届かなかったとは言えません」
朔は答える。
「では」
「勇者を連れてくるな、という言葉と、エリオ・レイスという名前を聞いていないことは同じではありません」
拒まれた役目。
消えた名前。
同じにはしない。
***
「私はどうですか」
イサラが尋ねた。
「第一位だから来るな?」
「勇者候補を、とは言いませんでした」
「勇者を」
「はい」
「本人の中で、候補と勇者を分けているかも不明」
「はい」
「次に、私たちを参加者から外しますか」
「先に、今回の言葉をどう扱うか決めます」
「相手の命令を王都の参加規則にする?」
「しません」
「では」
「危険条件として残します」
イサラは頷いた。
「その上で、必要なら行く可能性を消さない」
「はい」
「行きたいという私たちの意思も?」
「残します」
不参加を、名前の剥奪にはしない。
***
セオは、人影の発言を別々の紙へ記した。
勇者を連れてくるな。
名を持つ者だけ来い。
一つの文章にはしなかった。
「続けて発言しました」
グラドが言う。
「間に、ノエ、マレア、セオの名乗りと、朔の質問があります」
「意味としては繋がっている可能性が高い」
「可能性はあります」
「では、並べる?」
「時系列表では並べます」
セオが答えた。
「解釈欄では別にします」
連続して起きた。
だから一つの命令だとは決めない。
***
記録には、名乗りの順番も残された。
人影は朔を「サク」と呼んだ。
朔は、黒川朔、ツヅリ村ではサクと呼ばれる、と返答。
人影が短い発言。
朔、ノエは「名」と知覚。
セオは「名を」と知覚。
マレアは内容を判別できず。
ノエは、自身をノエ・ハーラと名乗った。
マレアは、人影からの明確な発言を確認する前に、自身の判断でマレア・ソンと名乗った。
セオも自身の判断でセオ・ラグナと名乗った。
「人影が、三人へ名乗るよう求めたとまとめますか」
グラドが尋ねる。
「まとめません」
マレアが答えた。
「私は、求められたと確認せず名乗りました」
「でも、人影の頭が向いた」
「それを要求と解釈したのは私です」
自分の行為を、人影の命令にしない。
***
「名を持つ者、の定義欄を作りますか」
ネラが尋ねた。
「定義できません」
朔が答える。
「では、解釈候補を?」
「作るなら、候補を増やしすぎないでください」
「何を残しますか」
話し合いの末、四つだけ記された。
本人が自ら名乗ることができる者を指す可能性。
他者から名前を付与または記憶されている者を指す可能性。
管理記録上の名称を持つ者を指す可能性。
これらとは異なる意味である可能性。
「真名は?」
グラドが尋ねた。
「人影は使っていません」
ネラが答えた。
「勇者ではない者、という意味は?」
「別の発言から推測できますが、同じ意味とは確定しません」
「では、書かない?」
「勇者を連れてくるな、という別発言を参照します」
言葉を重ねない。
参照だけを付ける。
***
「この条件を、次回参加者の資格にしますか」
グラドが問う。
「しません」
イサラが答えた。
「なぜ?」
「誰が名を持つ者か、私たちには判定できません」
「本人が名乗れば?」
「人影が求める意味と同じとは限りません」
「管理局登録名があれば?」
「それを通行許可にすれば、登録されていない者を名のない者として扱うことになります」
朔も頷く。
「俺も、王都に来た時は登録されていませんでした」
「でも、名前はあった」
「はい」
「眠り区画には、名前が確認できない者もいる」
マレアが言う。
「その人たちが名前を持っていないとは言えません」
***
ユイは、報告を聞くと最初に尋ねた。
「眠ってる人は、行けないの」
「行かせると決めていません」
朔が答えた。
「名前が分からないから?」
「違います」
「じゃあ」
「身体が眠っている。黒い道へ連れていく理由がない。危険がある」
「名前じゃなく?」
「はい」
ユイは十一枚の紙を見る。
「名前を言えない人もいる」
「はい」
「持ってるかもしれない」
「はい」
「向こうが、持ってないって言ったら?」
朔はすぐには答えられなかった。
「その人の言葉だけで、その人たちの名前を消しません」
「でも、向こうには行けない?」
「人影が拒む可能性は、危険として考えます」
「名前がないから、って記録する?」
「しません」
ユイは頷いた。
「その人の名前を決めるのは、向こうじゃない」
***
「黒い人影自身は、名を持っているんでしょうか」
エリオが尋ねた。
誰も答えない。
「名を持つ者だけ来いと言った」
「はい」
「本人も?」
「分かりません」
「では、向こうから来られない?」
「黒い線を越えていないこととは、関係があるかもしれません」
グラドが言う。
「推測です」
セオが止める。
「人影の名前を聞けば分かる?」
エリオが朔へ向ける。
「名前があると答えるとは限りません」
「次に聞きたいですか」
「はい」
「私も行きたい」
エリオは言った。
「勇者を連れてくるなと言われても」
「はい」
「なぜ?」
「相手が私を勇者と呼ぶことと、私がエリオ・レイスとして問いを聞くことを、同じにしたくないからです」
イサラはその言葉を聞く。
「次の目的に必要なら、検討します」
「必要でなければ?」
「行かせません」
「本人の名を聞く場でも?」
「勇者がいることで、問いより先に拒絶が始まるなら」
エリオは黙る。
納得ではない。
だが、今すぐ判断を奪おうとはしなかった。
***
リサとモナへは、六年前の行方不明者について新しい情報がなかったことだけが先に伝えられた。
今回、その問いをしていないことも。
「人影に会ったのに、兄のことを聞かなかった?」
リサが尋ねたという。
報告に行ったイサラは答えた。
「はい」
「なぜ?」
「今回の目的ではなかったからです」
「次に会えるとは限らない」
「はい」
「それでも?」
「一度に問えば、どの答えを誰へ返したのか分からなくなる可能性がありました」
「私たちは待っている」
「はい」
「次に聞く時刻は?」
「まだ決めていません」
「空白の横へ、何を書くんですか」
イサラは、そこで次の行動を決めた。
六年前の行方不明者について尋ねる調査案を、二日以内に作る。
実施を約束するのではない。
必要な条件と、参加者と、危険を整理し、家族へ再報告する時刻を決める。
待たせるなら、何を待つかを書く。
***
「名を持つ者だけ来い」という言葉は、公表するかで意見が分かれた。
「隠せば、都合の悪い要求を伏せたことになります」
ベドが言う。
「そのまま出せば、登録名のある者だけが安全だと受け取られる可能性があります」
ネラが答える。
「補足を付ける?」
「補足だけが落ちます」
「では」
イサラが言った。
「発言は公表します。意味が分からないことも、同じ位置に置きます」
公示文。
黒い道の人影は、「勇者を連れてくるな」「名を持つ者だけ来い」と発言しました。
ここでいう「勇者」および「名を持つ者」の条件・意味は確認されていません。王都の登録名、身分、資格の有無と同一であるとは判定していません。
この発言を、通行許可、身分判定、人物の価値を決める基準には使用しません。
「人物の価値まで書きますか」
グラドが尋ねる。
「書きます」
朔が答えた。
「名前を持たないと判断された者が、劣るという物語が作られる可能性があります」
「まだ誰も言っていません」
「言われてからでは、その紙が根拠になります」
先に解釈を決めるのではない。
使わない用途を決める。
***
公示が出た夕方。
旧紙市場には、もう新しい布が並んでいた。
白い糸で名前を縫い付ける、小さな腕輪。
「名持ちの印だ」
店主が言う。
「これを巻けば、黒い道に入れる」
「確認されたんですか」
朔が尋ねる。
「本人が名前を言えって言ったんだろ」
「名乗れと言ったことは、全員が同じように聞いていません」
「でも、名を持つ者だけ来いとは言った」
「はい」
「だから、名前を持っていけばいい」
「腕輪が名前を持つんですか」
「本人が持つんだ」
「では、腕輪は?」
「見えるようにする」
「人影が文字を読むことは?」
「知らん」
「それでも売る?」
「安心を売ってる」
前と同じ店主ではない。
同じ答えだった。
***
別の語り手は、名を持たない者が黒い道で影へ変えられる話を始めていた。
勇者は役目しか持たない。
だから拒まれる。
殻の子は二つの名前を持つ。
だから選ばれた。
名前を失った眠りの者は、黒い王の供物になる。
事実の欠片。
別々の欠片。
また一つへ繋がっている。
「訂正しますか」
リオが尋ねた。
「ユイさんと眠っている人たちのことは、俺だけでは話せません」
「お前の名前が二つある話は?」
「黒川朔と、サクは別の名前ではありません」
「言いに行くか」
朔は語り手を見る。
人が集まっている。
腕輪を売る商人も。
今、訂正すれば、殻の子本人の登場になる。
「今日は行きません」
「逃げたと思われるぞ」
「はい」
「慣れたな」
「慣れたくはありません」
イサラと同じだった。
「でも、行かないと決めます」
***
塔へ戻る途中、子どもたちが遊んでいた。
一人が胸へ紙を貼っている。
大きく、自分の名前。
「名持ちだから通れる!」
別の子が白い棒を持つ。
「勇者は来るな!」
「俺は勇者じゃない!」
「じゃあ名前言え!」
名前を言えない子が、輪の外に立たされる。
朔は足を止めた。
「遊びです」
リオが言う。
「はい」
「止めるか」
「話を聞きます」
***
「どうして、その子は外なんですか」
朔が尋ねた。
「名前を言わないから」
紙を貼った子が答える。
「知らない?」
「知ってるけど、言わない」
「じゃあ名なしだ」
輪の外の子は、口を結んでいる。
「言いたくないの?」
朔が尋ねる。
子どもは頷いた。
「では、今は言わなくていい」
「でも、名持ちだけ来いって」
「黒い人影が言った言葉です」
「だから」
「この遊びに入れていい人を、その人影が決めるんですか」
子どもたちは黙る。
「名乗らない人と遊びたくない?」
「違う」
「じゃあ」
「役を決められない」
名前が、役を呼ぶために必要。
「その子に、今だけの役の呼び方を聞けば?」
輪の外の子が、小さく言う。
「石」
「名前?」
朔が尋ねる。
首を横に振る。
「遊びの役?」
頷く。
「では、石って呼んでいい?」
もう一度、頷く。
子どもたちは遊びへ戻った。
「名なしじゃないの?」
一人が聞く。
「名前は言ってないだけ」
別の子が答えた。
どこまで伝わったかは分からない。
少なくとも、その場では輪へ戻った。
***
夜。
朔は人影の二つの言葉を見た。
勇者を連れてくるな。
名を持つ者だけ来い。
勇者にも名前はある。
イサラ・ベルン。
エリオ・レイス。
役目が名前を消したわけではない。
黒い人影が、二人の名前を理解していないとも決まっていない。
ただ、勇者という形で来ることを拒んだ。
名を持つ者が、勇者ではない者を意味するとも限らない。
名前を名乗れる者か。
覚えられている者か。
誰かから名を預けられた者か。
自分で自分を選び直せる者か。
どれも、まだ人間側の解釈だった。
***
朔は、自分の名前の紙を持っていない。
リオが持っている。
それでも、朔に名前がないわけではない。
ユイの眠り区画には、名前を確認できない者がいる。
それでも、その者たちは一人ずつ息をしている。
黒い人影には、まだ受け取っていない名前があるかもしれない。
ないかもしれない。
ヴァルハではない。
それだけしか分かっていない。
名を持つ者だけ来いと言った本人が、何という名を持っているのか。
朔は聞かなかった。
聞けなかったのではない。
今日、聞かないと決めて行った。
***
第五章の記録には、敵の名前は残らなかった。
ヴァルハは本人名ではない。
黒い人影の本人名は未確認。
勇者は、来るなと告げられた。
名を持つ者だけ来いと告げられた。
それでも、誰を勇者とし。
誰を名を持つ者とするか。
その判断を、人影へすべて渡さなかった。
王都にも。
紙にも。
街の物語にも。
***
名前は、通行証ではなかった。
敵か味方かを決める印でも。
戦う役目を押しつける命令でもない。
名前を持っているから、進まなければならないわけではない。
名前を言わないから、そこにいないことにもならない。
勇者と呼ばれても、剣を抜かない者がいる。
殻の子と呼ばれても、自分で帰る者がいる。
眠っていても、一人ずつ違う呼吸をする者がいる。
名前を知られていなくても、待つ家がある。
***
黒い線の向こうにいた者は、朔をサクと呼んだ。
朔は、まだその者をハルとは呼ばなかった。
名前を聞かなかった。
空いた場所を、知っている名前で埋めなかった。
ただ、次に来る者へ求める条件だけを受け取った。
名を持つ者だけ来い。
その言葉を、命令にも。
選別にも。
救いの約束にもせず。
朔たちは予定した時刻より早く戻った。
名前を一つも置き去りにせず。
まだ名前の分からない者を、名のない者にしないまま。




