第五章 勇者の名前 ⑪ ヴァルハではない
デルの剣を回収したのは、二日後だった。
手では触れなかった。
第二扉の外から、木製の挟み具と麻縄を使う。
引く者は二人。
縄の状態を見る者が一人。
扉を閉じる者が一人。
誰か一人が異常を感じれば、その場で縄を放して戻る。
剣は床を擦りながら、第二扉の外まで運ばれた。
黒い部分は、刃の三分の一ほど。
広がってはいない。
元の色へも戻っていない。
欠けた先端は、旧資材区画の床に残ったままだった。
「失われた部分として記録しますか」
セオが尋ねた。
「そこにある可能性があります」
朔は答えた。
「では」
「未回収」
消えたとは書かない。
戻っていないだけだった。
***
剣の黒と、六年前のラグの剣に起きたことは似ていた。
だが、同じ現象とは決められなかった。
ラグの剣は、先端から消えたという証言。
デルの剣は黒くなり、床へ当たった部分が欠けた。
人影が触れたことは、どちらも確認されていない。
違いも。
似ている部分も。
別々に記録された。
***
その翌日、黒い線へ向かう調査案が再び出された。
目的は一つ。
人影に、ヴァルハという呼び方が本人の名前なのかを聞く。
六年前の行方不明者については聞かない。
黒い道を切った理由も。
朔を知っている理由も。
ハルであるかも。
問わない。
「一つだけで帰るんですか」
グラドが尋ねた。
「答えが得られても?」
「はい」
「次の問いが必要になる可能性は?」
「あります」
「なら、続けた方が効率的では?」
朔は机の上の紙を見る。
本人名。
道の名。
役目。
古い言葉。
街では、すべてが一つの敵の名前になっている。
「一つ目の答えを聞く前に、二つ目を決めたくありません」
「答えによって、問いが変わる?」
「はい」
「答えなければ?」
「答えなかったことを持ち帰ります」
***
イサラは、調査案を最後まで読んだ。
「ヴァルハという語を、こちらから黒い道へ持ち込むことになります」
「はい」
「その言葉が、道や人影へ何かを起こす可能性は?」
「分かりません」
「旧紙市場の石にあった言葉です」
「はい」
「呼びかけや、起動のための語かもしれない」
「あります」
「それでも使う?」
朔は頷いた。
「今は、呼び方が人を敵にしています」
「言葉を使わないことで止められますか」
「止められません」
「なら、聞く必要がある?」
「本人の名前として使ってよいかだけでも」
イサラは少し考える。
「聞き方は?」
「ヴァルハは、あなたの名前ですか」
「あなた、が誰を指すか分かる位置で?」
「人影を見てから聞きます」
「複数の影が見えた場合は?」
「聞きません」
「声だけの場合は?」
「聞きません」
「一部の人にしか見えない場合は?」
「全員が同じ場所に人の形を確認できなければ、聞きません」
問いを使える条件を先に狭くする。
***
「答えが『違う』だった場合は?」
イサラが尋ねた。
「名前ではないと記録します」
「道の名だと?」
「決めません」
「役目?」
「決めません」
「別の人の名前?」
「それも」
「では、何が分かりますか」
「その人の名前ではないこと」
「それだけ?」
「はい」
イサラは、そこで止めた。
「その一つを得るために行くんですね」
「はい」
「小さいと思いますか」
「いいえ」
***
参加者は、朔、エリオ、ノエ、マレア、サナ、セオ。
前回と同じ六人。
エリオは白い外套を着ない。
銀環も剣も持ち込まない。
勇者候補としての権限は使わない。
問われれば身分を偽らない。
ノエは火を運ぶ。
サナは線の手前の流れだけを見る。
マレアは身体と撤退を判断する。
セオは発言と知覚した者を分けて残す。
イサラは連絡室に残る。
「今回も行かないんですか」
朔が尋ねた。
「私が必要な目的ではありません」
「第一位であることを、人影へ確認する調査ではない」
「はい」
「では、次は?」
「次の目的が決まってからです」
自分が行きたいから、必要な目的を作らない。
***
調査前の確認では、ヴァルハという語を誰が口にするかも決められた。
朔だけ。
人影が現れる前には言わない。
問いとして一度だけ使う。
聞こえなかったと言われても、繰り返さない。
「なぜ、一度だけ?」
グラドが尋ねた。
「言葉そのものに反応があるか分からないからです」
「一度なら安全?」
「安全とは言っていません」
「では」
「増やさないためです」
***
「答えが得られた時、何と返しますか」
セオが尋ねた。
「聞きました、と言います」
「分かりました、ではなく?」
「何が分かったかを、その場で決めたくありません」
「ありがとう、は?」
ノエが尋ねた。
朔は考える。
「言いません」
「なぜ?」
「答えてくれたことへ、感謝したくなると思います」
「はい」
「でも、相手が答えた理由を、協力や好意と決めたくありません」
感謝を言うことが悪いわけではない。
だが、その場では問いを増やす可能性がある。
関係を作ったと思わせる可能性も。
「聞きました、だけ」
「はい」
***
リオは、塔外の待合所で条件を聞いた。
「一つ聞いて帰るんやな」
「はい」
「答えが違う、なら?」
「それ以上は聞きません」
「ほんまに?」
「訓練します」
「ハルかもしれん顔で見られても?」
「はい」
「お前の名前を呼ばれても?」
「はい」
「帰る時に、待てと言われても?」
朔は答えるまでに少しかかった。
「戻る時刻を優先します」
「言葉だけやないやろな」
「はい」
リオは、預かっている短刀へ触れなかった。
「青い布は持っていくんか」
「持っていきます」
「何のためや」
「ハルの名前を忘れないためではありません」
「なら」
「今も、俺の服に付いているものだからです」
「反応したら?」
「反応したことだけを言います」
「人影に見せる?」
「見せるためには出しません」
布を鍵にしない。
証明にも。
***
訓練廊下では、イサラが人影の位置に立った。
黒い紐の向こう。
朔は決めた位置で止まる。
「サク」
イサラが呼ぶ。
声は人影へ似せない。
書かれた言葉を読むだけ。
「黒川朔です。ツヅリ村では、サクと呼ばれています」
「勇者は、来るな」
エリオが名乗る。
「エリオ・レイスです。今日は剣を持たず、線を越えません」
イサラは朔を見る。
朔が問いを出す。
「ヴァルハは、あなたの名前ですか」
「違う」
胸の奥に、次の言葉が出る。
では、名前は。
ハルなのか。
ヴァルハとは何か。
誰が書いた。
「聞きました」
朔は、それだけ言った。
***
「今、何を聞きたかったですか」
マレアが尋ねた。
「名前」
「誰の?」
「人影の」
「ハルかどうかは?」
「聞きたかったです」
「ヴァルハの意味は?」
「それも」
「我慢しましたか」
「はい」
「我慢できたから、本番でもできる?」
「分かりません」
「では」
「俺が続けて話そうとしたら、ノエさんが名前と場所を言う」
「それでも止まらなければ?」
「マレアさんが戻る」
「問いの途中でも?」
「はい」
***
二度目の訓練では、イサラは答えなかった。
朔が問いを一度出す。
沈黙。
砂が落ちる。
朔は同じ言葉を繰り返さない。
「聞こえなかったのかもしれません」
グラドが言う。
「はい」
「では、無駄になる」
「答えなかったことが残ります」
「相手が答えようとした瞬間に帰還時刻が来たら?」
「戻ります」
待つことにも時刻を付ける。
***
実施日の朝。
眠り区画には大きな変化がなかった。
ユイは、調査へは参加しない。
「ヴァルハって言うの」
出発前、朔へ尋ねた。
「一度だけ」
「怖い?」
「はい」
「何が」
「答えが違うこと」
「違うって言われるのが?」
「そのあと、名前を聞きたくなることです」
「聞かない?」
「今日は」
ユイは青い袋から石を一つ出す。
朔へは渡さない。
自分の掌に置いたまま。
「違うって言ったら、その人の名前がなくなる?」
「なくなりません」
「分からないまま?」
「はい」
「じゃあ、取らないで」
「何を?」
「空いたところに、ハルを入れないで」
朔は青い布へ触れる。
「はい」
***
内塔の道は静かだった。
細い経路灯。
黒い床。
灰色の壁。
ノエが火を運ぶ。
網箱は鳴らない。
旧観察室の前を通る時、朔には白い文字が一瞬だけ見えた。
PATH
その下。
NAME
すぐに消えた。
「白い文字」
朔が言う。
「内容は?」
セオが尋ねる。
「PATH。NAME」
「ほかの人は?」
誰も見ていない。
「身体は?」
マレアが確認する。
「動きます」
「戻りますか」
「まだ」
表示が出たから進むのではない。
表示が出たから戻るとも、先に決めていない。
***
黒い線へ着く。
三本の横線。
光の切れた道。
物理的な床は続いている。
だが、経路灯だけが向こうへ繋がっていない。
前回、人影が現れた場所には何もいない。
朔とエリオが同じ距離へ立つ。
半歩後ろにノエ。
反対側にマレア。
サナとセオはさらに後方。
誰も、影の名前を呼ばない。
***
サナが床を見る。
「流れは、線に沿っています」
「前回は?」
「外側からサクへ向かいました」
「今日は?」
「今のところ、個人へは向いていません」
ノエの火にも変化はない。
青い布も。
温かくならない。
冷たくも。
ただ、朔の服に結ばれている。
***
最初の砂が落ちる。
何も現れない。
二つ目。
経路灯が薄くなる。
全員が確認した。
三つ目。
黒い線の向こうで、床の光が一本だけ点いた。
奥へは続かない。
「人影は?」
朔が尋ねる。
「確認できません」
エリオ。
「見えません」
ノエ。
マレア。
サナ。
セオも同じ。
問いは使わない。
***
光の上に、黒いものが落ちた。
最初は、小さな布のように見えた。
床へ触れず、少し浮いている。
縦へ伸びる。
肩。
頭。
腕。
人の形になる。
「人影を確認」
エリオが言う。
「同じ位置」
ノエ。
「人の形」
マレア。
「確認しました」
サナ。
セオ。
全員が同じ場所を見ている。
大きさの感じ方までは問わない。
***
人影は、朔たちを見ているように立っていた。
顔はない。
目も。
だが、前回と同じように、頭がわずかに傾く。
青い布は反応しない。
朔の胸だけが強くなる。
「サク」
人影が言った。
声は、朔にはハルより少し低く聞こえた。
ほかの者にどう聞こえたかは、あとで確認する。
「黒川朔です」
朔は答える。
「ツヅリ村では、サクと呼ばれています」
人影の頭が、元の位置へ戻る。
***
「勇者は、来るな」
エリオが一歩も動かず答える。
「エリオ・レイスです」
名前。
「今日は剣を持たず、線を越えません」
「勇者」
人影が言う。
エリオは否定しない。
「王都の勇者候補です」
人影の右腕が、わずかに上がる。
手の形までは見えない。
エリオは動かない。
朔も。
***
問いを出せる条件は揃っている。
全員が人影を確認した。
声が同じ場所から聞こえる。
帰還時刻まで、まだ砂二つ。
朔は息を一度吐く。
「一つ、聞きます」
許可を求めたのではない。
何をするかを先に告げた。
「ヴァルハは、あなたの名前ですか」
***
黒い線の下で、光が揺れた。
サナの測定具には触れていない。
ノエの網箱が、一度だけ鳴る。
かた。
人影は動かない。
返事もない。
朔は繰り返さなかった。
聞こえなかったのかもしれない。
答えたくないのかもしれない。
問いの意味が違うのかもしれない。
砂が、少し落ちる。
***
「違う」
人影が言った。
短い声。
全員が聞いた。
朔の口の中に、次の問いが生まれる。
では、何と呼べばいい。
あなたは誰だ。
ハルなのか。
ヴァルハとは何だ。
六年前、ラグたちへ何をした。
朔の右足が、半歩だけ前へ出かける。
「サク」
ノエが呼ぶ。
「黒い線の手前です」
足を戻す。
「今の答えを聞きました」
朔は言った。
それ以上を続けない。
***
人影の頭が、もう一度傾く。
「名前」
そう聞こえた。
全員に同じ言葉だったかは分からない。
朔は問い返さない。
「戻る」
マレアが言った。
帰還時刻には、まだ少しある。
だが、朔の身体が前へ動きかけた。
続けて問う危険が出た。
理由として十分だった。
***
全員が帰路へ向く。
朔。
エリオ。
ノエ。
マレア。
サナ。
セオ。
一人ずつ、位置を変える。
誰も走らない。
人影へ背を向ける。
「サク」
後ろから声がした。
朔は振り返らない。
名前を呼ばれた。
それだけ。
「聞こえました」
セオが前を向いたまま言う。
「記録は帰還後」
「はい」
***
人影が、もう一度何かを言った。
朔には、
「持っている」
と聞こえた。
エリオの肩が動く。
ノエの歩みが一瞬だけ遅れる。
「戻る」
マレアが繰り返す。
全員が帰路の印を越える。
黒い線の方から、音は続かなかった。
***
内塔連絡所へ戻った時、予定帰還時刻より砂一つ分早かった。
イサラが、まず人数を確認する。
六人。
全員いる。
「負傷は?」
「ありません」
マレアが答える。
「人影は?」
「全員が確認しました」
セオ。
「問いは?」
朔が答える。
「ヴァルハは、あなたの名前ですか、と聞きました」
「返答は?」
「違う」
「全員、同じ言葉を?」
一人ずつ確認する。
エリオ。
「違う、と聞きました」
ノエ。
マレア。
サナ。
セオ。
全員同じ。
***
「そのあと、人影は?」
イサラが尋ねる。
「名前、と聞こえました」
朔が言う。
「私もです」
エリオ。
「私は、名を、と聞こえました」
ノエ。
「私は短い声を確認しましたが、内容は判別できませんでした」
マレア。
「名前、に近く聞こえました」
サナ。
「私には、持つ者、と聞こえました」
セオ。
同じ瞬間。
違う言葉。
「一つにしません」
イサラが言った。
「はい」
***
「帰路で、もう一度サクと呼ばれました」
セオが続ける。
「全員?」
「サク、は全員確認しました」
「その後の発言は?」
朔。
「持っている」
エリオ。
「持つ者」
ノエ。
「待っている」
マレア。
「判別できず」
サナ。
「名を持っている」
セオ。
「持つ者」
似ている。
だが、同じにはしない。
「問いを返しましたか」
イサラが朔へ聞く。
「いいえ」
「振り返った?」
「いいえ」
「人影をハルと呼んだ?」
「呼んでいません」
「ヴァルハと?」
「問いの一度だけです」
***
マレアが朔の身体を確認する。
頭痛なし。
指の震えあり。
右足に異常なし。
呼吸は速い。
「違うと聞いた時、何を感じましたか」
「少し、安心しました」
「なぜ?」
「ヴァルハという名前で、ハルを呼ばなくて済むと思ったからです」
「ヴァルハでないなら、ハルですか」
「違います」
「今、そう思えますか」
朔は青い布へ触れる。
「分かりません」
「では」
「空いた場所に、ハルを入れません」
ユイとの約束。
***
「もう一つ」
マレアが言う。
「違うと答えたことを、本人名ではないという意味で受け取りましたか」
「はい」
「ほかの意味の可能性は?」
朔は考える。
「問い全体を否定した可能性?」
「例えば?」
「ヴァルハという音が違う。名前という言い方が違う。あなた、が自分を指していないと受け取った」
「では、本人名ではないと確定できない?」
グラドが尋ねる。
イサラが口を開く。
「問いは明確でした」
「それでも、一語です」
「はい」
「どこまで記録しますか」
セオが問う。
***
朔は思い返す。
全員が同じ場所の人影を見た。
朔がその人影へ向けて尋ねた。
ヴァルハは、あなたの名前ですか。
人影は、間を置いて答えた。
違う。
「本人の名前ではないと否定した、と記録してください」
朔は言った。
「確定として?」
「発言の意味としては」
「ヴァルハという語の意味は?」
「未確認」
「人影の本当の名前は?」
「未確認」
「六年前の人影と同じ?」
「未確認」
「石の語との関係は?」
「未確認」
「では、一つだけ」
「はい」
その人影の名前は、ヴァルハではない。
***
ネラは、旧記録の写しを持ってきた。
原板余白の四文字。
ヴァルハ。
その横へ、直接は書き込まない。
別紙を作る。
現在確認された黒い人影に対し、「ヴァルハは、あなたの名前ですか」と質問。
人影は「違う」と返答。
同人影は、ヴァルハを自身の名前として否定した。
ヴァルハという語が、道名、役目、行為、別の人物、その他の何を示すかは未確認。
六年前に目撃された人影および原板余白の語との関係も未確認。
「未確定呼称を変更しますか」
グラドが尋ねた。
「使い続ける理由は?」
朔が聞く。
「既存記録との照合です」
「本人名ではないと分かっても?」
「検索と伝達には必要です」
「では、呼称欄から外せませんか」
「外せば、これまでの記録が分かれます」
ネラが答える。
「消すのではなく、旧呼称として残します」
「現在は?」
「黒い人影」
「長い」
「はい」
不便は戻る。
それでも、本人が否定した呼び名を、現在の名として使い続けない。
***
判定書の貼り足した欄は、また修正された。
以前。
本人名:未確認。
警戒伝達上の仮呼称:ヴァルハ。本人との関係は未確認。
修正後。
本人名:未確認。
旧警戒呼称:ヴァルハ。本人が自身の名であることを否定。語の意味は未確認。
線で消しきらない。
以前、何と呼んでいたか。
なぜ変えたか。
誰の言葉で変えたか。
すべて残した。
***
「街へ伝えますか」
ベド・カルが尋ねた。
「警備へは、すぐに」
イサラが答える。
「本人名ではないため、呼びかけに使わないことを伝えます」
「市民へは?」
「訂正を出します」
「何と?」
長い文が作られた。
黒い道の向こうに現れた人影へ確認した結果、ヴァルハは当該人影の本人名ではないことが判明しました。ヴァルハという語の意味、由来、六年前の事象との関係は、現在も確認されていません。人影の本人名も未確認です。
「勇者殺しではない、と書きますか」
朔が尋ねた。
「過去の殺害行為は、引き続き未確認です」
セオが答える。
「では」
「本人名の訂正と、危険行為の判定は分けます」
名前が違うから、安全とは限らない。
危険だから、間違った名前で呼んでよいわけでもない。
***
リサとモナへも、約束した時刻に報告が送られた。
ヴァルハは、現在の人影の名前ではない。
ラグを害した者が誰かは、まだ確認されていない。
六年前の人影との同一性も。
ラグの所在も。
変わっていない。
「呼び方が一つ消えただけですか」
リサは尋ねたという。
イサラは、
「はい」
と答えた。
答えを大きくしなかった。
「でも、兄を殺した相手の名前として使われなくなる?」
「公式記録では」
「街では?」
「すぐには止まりません」
「では」
「訂正を続けます」
次に報告する時刻も伝えた。
***
訂正文が広場へ出た日の夕方。
旧紙市場では、新しい物語紙が売られていた。
黒い人影。
顔のない影。
その背後に、さらに大きな黒いもの。
題は、
ヴァルハは名にあらず――勇者を拒む黒き称号。
「もう称号になりましたね」
朔が紙を見て言う。
「本人が名前やないと言うたからや」
リオが答えた。
「道の言葉かもしれない」
「役目かもしれん」
「何でもない欠片かもしれない」
「でも、紙屋は空けとかん」
名前の場所が空いた。
街は、そこへ称号を入れた。
***
「買いますか」
朔が尋ねる。
「前の借金も返してへんぞ」
「記録のために」
「全部買う気か」
「いいえ」
「なら、今日は?」
朔は紙の下を見る。
版元。
語り手。
絵師。
誰が作ったかは書かれている。
「内容だけ記録します」
「買わんのか」
「はい」
「紙屋に訂正する?」
「今日はしません」
「逃げたと思われるぞ」
「はい」
前と同じ。
すべての誤りへ、その場で答えることはできない。
***
塔へ戻る途中、子どもたちが遊んでいた。
黒い布の子。
木の棒を持つ子。
「お前はヴァルハだ!」
「違う!」
黒い布の子が叫ぶ。
「ヴァルハは名前じゃないぞ!」
「じゃあ何だよ」
「もっと強いやつ!」
訂正は届いている。
意味は変わっている。
朔は足を止めなかった。
***
夜。
ユイが、訂正記録を読んだ。
「違うって言ったの」
「はい」
「その人が?」
「全員が、同じ場所の人影を見ていました」
「名前は聞いた?」
「聞いていません」
「聞きたかった?」
「はい」
「ハルって呼びたかった?」
「はい」
隠さない。
「呼ばなかった」
「はい」
「じゃあ、その人の名前は?」
「まだ、預かっていません」
ユイは紙を見る。
「ヴァルハじゃない人?」
「そう呼ぶと、また名前みたいになります」
「じゃあ」
「黒い線の向こうにいた人」
「長い」
「はい」
「でも、今はそれでいい?」
「はい」
***
朔は青い布を外さなかった。
人影がヴァルハではないと答えても、布の持ち主が誰かは変わらない。
ハル。
ツヅリ村で、朔と一緒に逃げると約束した子。
黒い影。
朔をサクと呼ぶ、名前の分からない者。
二つを同じ紙へ入れない。
違う紙へ書いたから、違う者だと決まるわけでもない。
ただ、まだ重ねない。
***
ヴァルハは、人影の名前ではなかった。
それだけが分かった。
道の名かもしれない。
誰かの役目かもしれない。
剣を返すこと。
名を待つこと。
勇者を退けること。
どれかと繋がっているかもしれない。
繋がっていないかもしれない。
空いた名前の場所へ、街はすぐ別の物語を入れた。
称号。
怪物の種族。
黒い道の王。
訂正は、物語を終わらせなかった。
だが、一つだけ止めた。
本人が違うと言った呼び方を、本人の名前として記録し続けること。
それは、街の噂より小さな変化だった。
黒い道を繋ぎ直すものでも。
帰らなかった者を返すものでもない。
それでも朔は、その小ささを捨てなかった。
名前ではないものを、名前ではないと残す。
本人の名前が分からないままでも。
空いた場所へ、知っている誰かを入れないままでも。




