第五章 勇者の名前 ⑩ 剣を抜く者
旧紙市場の下に残る道を、すぐに開けることはしなかった。
石壁の向こうが六年前と同じ状態か。
現在の白い塔のどの区画へ繋がっているか。
開いたことで、街の生活区画へ危険が流れ込まないか。
先に確認することがあった。
そのため、次に向かったのは旧紙市場ではない。
白い塔の内側。
石壁の反対側にある、旧資材区画だった。
***
調査の見出しは、
旧資材区画閉鎖壁の内側確認
とされた。
壁を壊さない。
扉が残っていても、開けない。
黒い線へ進まない。
現存する経路灯と、閉鎖壁付近の流れだけを見る。
「黒い人影との接触は?」
グラドが確認する。
「目的に含めません」
朔が答えた。
「人影が現れた場合は?」
「こちらから話しかけません」
「声を掛けられたら?」
「内容を聞きます。ただし、問い返しません」
「帰れと言われたら?」
「戻ります」
「殺すと言われたら?」
「位置と身体を確認して戻ります」
言葉へ答える前に、誰がどこにいるかを見る。
***
参加者は、第五章⑦で決めた条件に近かった。
朔。
エリオ。
ノエ。
マレア。
サナ。
セオ。
イサラは、旧資材区画の外にある連絡室へ残る。
調査条件の確認と、帰還後の危険判断。
リオは塔の外で時刻と朔の名前を持つ。
ミナトの短刀も、まだリオが預かっている。
エリオは白い外套を着ていない。
銀環も。
剣もない。
サナの測定棒からは、金属の先端が外されている。
マレアの小さな刃は、赤い糸で封をした木箱の中。
セオの記録板には、金属の留め具がない。
ノエは火種入れを、両手で身体の前に持っている。
全員、決めた通りだった。
一人を除いて。
***
旧資材区画の入口には、衛兵がいた。
灰色の制服。
革の胸当て。
腰には剣。
「デル・ノーンです」
男は名乗った。
三十代ほど。
首の右側に、古い切り傷がある。
「旧資材区画第三門の警備を担当します」
朔は腰の剣を見る。
「調査参加者ですか」
「違います」
グラドが答えた。
「区画規則上、閉鎖門を開放している間は、武装衛兵一名の配置が必要です」
「調査には剣を持ち込まないと決めました」
「デルは黒い線へ近づきません」
「どこに立ちますか」
床に位置が示されている。
調査参加者が進む経路から、二つ目の扉を挟んだ後方。
閉鎖門の操作盤の横。
「姿は見えますか」
「最初の曲がり角までは」
「こちらからも?」
「はい」
調査のための伏兵ではない。
通常規則に基づく門の警備。
それでも、同じ区画に剣はある。
***
「延期しますか」
イサラが尋ねた。
参加者だけへではない。
デルにも。
「規則の変更には、外郭警備と塔内管理の承認が必要です」
グラドが答える。
「どれくらい?」
「早くても三日です」
「三日待つことの危険は?」
「閉鎖壁周辺の流れが、昨日から少し強くなっています」
サナが言った。
「現在の状態を確認するなら、今日の方がよい」
「今日でなければならない?」
「そこまでは言えません」
「では」
イサラは朔を見る。
待つ代償。
急ぐ代償。
どちらもある。
「デルさんは、黒い人影について何を聞いていますか」
朔が尋ねた。
「勇者候補へ殺害予告をした黒い影」
「ほかには?」
「剣を黒くする可能性がある」
「六年前の剣と、今の人影との関係は未確認です」
「はい」
「ヴァルハという呼称は?」
「警戒上の仮呼称」
正式な言葉を覚えている。
「街では?」
デルは少し黙った。
「勇者殺しと呼ぶ者もいます」
「デルさん自身は?」
「勤務中は、黒い人影と呼びます」
「勤務外では?」
「話していません」
「怖いですか」
「はい」
即答だった。
「剣を抜く可能性は?」
「規則に従います」
「質問は、規則ではありません」
デルは腰の剣へ手を置かない。
「自分では、抜かないつもりです」
「絶対に?」
「絶対とは言えません」
誠実な答えだった。
***
「デルさんが剣を抜いた場合、調査は終了します」
朔が言った。
「異議はありません」
イサラが答える。
「デルさんは?」
「分かりました」
「抜く前に、戻ると言えますか」
「状況によります」
「誰かが襲われているように見えても?」
「何もせず戻るとは約束できません」
デルは言った。
「私は、門を守るために立ちます」
「人を守るためではなく?」
「両方です」
「どちらを先に?」
「その時に決めます」
剣を持つ者にも、その場で決める瞬間がある。
「では、デルさんだけ別の規則にしますか」
ノエが尋ねた。
「別にすれば、調査条件が変わります」
セオが言う。
「でも、参加者ではありません」
「人影から見れば、区別されない可能性があります」
エリオが答えた。
調査参加者か。
固定警備か。
紙の上の違いを、黒い道が読むとは限らない。
***
「今日は中止しますか」
グラドが再び尋ねた。
朔はサナを見る。
「今、確認しなければ失う情報は?」
「流れの強まりが一時的か、継続的かを比較する機会」
「人命に直結しますか」
「現時点では、分かりません」
「三日後では遅い?」
「分かりません」
朔はイサラを見る。
「どう思いますか」
「実施は可能です」
イサラは答えた。
「ただし、『剣を持ち込まない条件』の確認にはなりません」
「デルさんの剣があるから」
「はい」
「では、何の確認になりますか」
「調査参加者が武器を持たず、通常警備が後方に存在する条件」
条件を狭く言う。
善意の隊。
非武装の隊。
そうは呼ばない。
「進めます」
朔は言った。
「デルさんの位置と剣も、条件として記録してください」
***
旧資材区画の第一扉が開く。
冷たい空気。
乾いた石の匂い。
使われていない木材。
壁際に積まれた金属枠。
昔、ここを荷車が通ったのだろう。
床には、薄い二本の溝が残っている。
ジェンが覚えていた車輪の幅と近い。
「同じ道ですか」
朔が尋ねる。
「幅は近いです」
サナが答える。
「同じとは?」
「まだ」
***
デルは第一扉の内側まで同行した。
第二扉を開けるため。
操作盤へ鍵を入れる。
「ここから先へは入りません」
デルが言う。
「剣は?」
「腰にあります」
「抜かない?」
「そのつもりです」
朔はデルの右手を見る。
柄から離れている。
肩にも力は入っていない。
「帰る合図は?」
「誰か一人が戻ると言った場合」
「デルさんにも適用します」
「私が戻ると言っても?」
「全員戻ります」
「警備員の判断で?」
「理由より先に」
デルは少し驚いた顔をした。
「分かりました」
***
第二扉が開く。
経路灯は、半分ほど消えていた。
床の中央。
細い光。
途中で左へずれている。
その先に、閉鎖壁。
旧紙市場の石壁とは反対側になる場所。
壁の下には、埋められた車輪溝が続いていた。
「位置は合います」
サナが言う。
「市場側の壁と?」
「地図上では」
「実際に繋がっている?」
「壁を開けていないため、確認できません」
***
朔たちは、最初に決めた位置へ立った。
閉鎖壁から七歩。
床に白い印。
これより先へ行かない。
サナが測定棒を横に寝かせる。
黒い線へ差し込むためではない。
床の光の向きと、壁の亀裂の位置を測る。
「流れは?」
朔が尋ねる。
「塔側から壁へ向かっています」
「前の黒い道は?」
「奥から塔へ向かっていました」
「逆?」
「向きは違います」
「同じ流れではない?」
「まだ分かりません」
***
ノエの網箱が、小さく鳴った。
かた。
一度。
「火に変化」
ノエが言う。
「持てますか」
マレアが尋ねる。
「はい」
「音だけ?」
「箱の底へ、火種入れが一度触れました」
「熱は?」
「変化なし」
「全員、聞こえましたか」
セオが確認する。
朔。
エリオ。
マレア。
サナ。
セオ。
全員、聞いた。
後方のデルにも聞こえた。
「聞こえました」
第二扉の向こうから声が届く。
***
閉鎖壁の下。
経路灯が一度消えた。
すぐに戻る。
「見えましたか」
朔が尋ねる。
「灯りの消失」
エリオ。
「壁際の影が、右へ動いたように見えました」
ノエ。
「私は動きを確認していません」
マレア。
「流れが、壁からこちらへ向きを変えました」
サナ。
「黒い人影は?」
「確認できません」
セオが答える。
朔には、壁の亀裂が一瞬だけ広がったように見えた。
だが、次に見た時は同じ幅だった。
「亀裂の変化を感じました。測定なし」
事実ではなく、自分の知覚として出す。
***
「後方は?」
エリオが尋ねる。
返事がない。
「デルさん」
「います」
少し遅れて声がした。
「何を見ましたか」
「扉の横に、黒い手が見えました」
全員が第二扉を見る。
何もない。
「どこですか」
「私の左側です」
「今も?」
「消えました」
「誰かへ伸びましたか」
「分かりません」
「身体の状態は?」
マレアが尋ねる。
「問題ありません」
声は硬い。
***
「戻りますか」
朔が問う。
誰かが異常を見た。
全員に共有されていない知覚。
帰る条件として十分か。
「デルさん」
朔が呼ぶ。
「戻ると言いますか」
「まだ」
「怖いですか」
「はい」
「剣へ手を置いていますか」
返事が一拍遅れた。
「置いています」
朔の身体が、第二扉へ向きかける。
「サク」
ノエが呼ぶ。
「旧資材区画。白い印の手前です」
朔は足を止める。
デルは後方。
今すぐ近づけば、かえって剣を抜かせる可能性がある。
「手を離せますか」
朔が尋ねる。
「離します」
デルの声。
だが、姿は扉の陰に半分隠れている。
手が本当に離れたかは見えない。
***
閉鎖壁から、低い音がした。
石が擦れるような音。
サナが測定棒を見る。
「流れが強くなっています」
「壁は動いた?」
「確認できません」
ノエの網箱が二度鳴る。
かた。
かた。
「持てますか」
「はい」
エリオが閉鎖壁を見る。
「何かいます」
「どこに?」
「壁の向こう」
「見える?」
「輪郭ではありません」
「では」
「こちらを見ているように感じます」
エリオの知覚。
事実とは分ける。
***
「戻る」
マレアが言った。
全員が動く。
サナは測定棒を持ち上げない。
床へ置く。
ノエは火を両手で保持。
セオは記録板を閉じる。
エリオが帰路側へ身体を向ける。
朔も第二扉へ向かう。
その時。
扉の向こうで、金属が鞘を擦る音がした。
***
「抜かないでください」
朔が言う。
デルの剣が、半分まで出ている。
顔は朔たちではなく、自分の左側へ向いていた。
「そこにいる」
「何が?」
「黒いのが」
朔には見えない。
ノエも。
エリオも。
「手を離してください」
「近づいてる」
「誰へ?」
「お前たちへ」
剣が、さらに鞘から出る。
切っ先が見えた。
その先が、黒い。
最初から黒かったのか。
抜いた瞬間に変わったのか。
朔には断定できない。
「剣が変色しています」
セオが言う。
デルが自分の剣を見る。
目が見開かれる。
手に力が入る。
恐怖で落とすのではない。
強く握った。
***
朔は走った。
剣先の前へは入らない。
デルの右側。
刃が向く先ではなく、肘の外側。
止めようと腕へ正面からぶつかれば、子どもの身体では押し負ける。
抜こうとする力を、別の方向へ流す。
左手でデルの手首を包む。
右腕を肘の下へ入れる。
踏み込む足を、デルの踵の外へ置く。
剣を止めない。
身体の向きを変える。
「離してください」
「来る!」
デルが腕を引く。
その力で、剣が完全に鞘から抜けた。
朔は肘を上へ押し、手首を床へ向ける。
刃の軌道が、横から下へ変わる。
剣の腹が石へ当たった。
高い音。
黒い切っ先が欠ける。
***
デルの身体が前へ崩れる。
エリオが左肩を支えた。
押さえつけない。
倒れないために受ける。
「デル・ノーン」
エリオが名前を呼ぶ。
「旧資材区画の第二扉です」
デルの視線が揺れる。
「剣を離してください」
「黒いのが」
「私は見えていません」
エリオは言った。
「でも、あなたが見たと言ったことは聞いています」
デルの指が開かない。
剣の黒は、切っ先から刃の三分の一ほどまで広がっている。
「手が動かない」
デルが言う。
「握っている感覚は?」
マレアが後ろから尋ねる。
「ある」
「痛み」
「ない」
「冷たさ」
「分からない」
***
朔は、デルの手首へかけた力を緩めなかった。
強くすれば、関節を傷める。
緩めすぎれば、剣が上がる。
「エリオさん。指を一本ずつ」
「分かりました」
エリオが剣の柄ではなく、デルの指へ触れる。
「触れます」
先に告げる。
「親指から外します」
デルが頷く。
エリオが親指の付け根を押す。
朔が手首の角度を保つ。
一本。
次。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
柄が手から落ちる。
***
剣は床に残った。
誰も拾わない。
黒い部分は、そこで止まっている。
「戻る」
マレアがもう一度言った。
デルが剣へ手を伸ばしかける。
「置いていきます」
朔が言う。
「私の剣です」
「今は、人より後です」
「規則では」
「戻ってから確認します」
デルは剣を見た。
それでも手を伸ばさなかった。
***
全員が第二扉を越える。
デル。
エリオ。
朔。
ノエ。
マレア。
サナ。
セオ。
第二扉を閉める。
施錠はしない。
剣が内側に残っている。
「誰か残っていませんか」
セオが確認する。
一人ずつ名前を言う。
全員いる。
「測定棒」
サナが言う。
「内側に置きました」
「取りに戻りますか」
「戻りません」
道具は二つ残った。
剣。
測定棒。
人は全員戻った。
***
第一扉の外に出たところで、デルの膝が崩れた。
マレアが支える。
「座ります」
「勤務中です」
「今は身体確認を受ける人です」
「門が」
「別の衛兵を呼びます」
役目を外す。
失敗したからではない。
今の身体で続けられないから。
***
デルの右手。
外傷なし。
皮膚の変色なし。
握力低下。
細かな震え。
右肘に軽い痛み。
「俺が動かした時です」
朔が言った。
「断定しません」
マレアが答える。
「関節へ力がかかったことは確認できます」
「傷めましたか」
「現時点では、軽いものに見えます」
「剣の黒との関係は?」
「手には確認できません」
「俺の手は?」
朔も確認を受ける。
左の掌に擦れ。
右前腕に薄い赤み。
指の震え。
「怖かったですか」
マレアが尋ねる。
「はい」
「何が?」
「斬られることより、俺がデルさんの腕を壊すことです」
「壊しましたか」
「今は、確認されていません」
「ほかには?」
「止められると思ったこと」
「実際、止めました」
「エリオさんも」
「はい」
「一人で止めたことにしない?」
「しません」
***
デルは、水を一口飲んだ。
「申し訳ありません」
最初に出た言葉だった。
「誰へですか」
イサラが連絡室から入ってくる。
デルは立とうとする。
「座ったままで」
「調査参加者へ」
「何について?」
「剣を抜きました」
「なぜ?」
「黒い手が見えた」
「今も、それを見たと思っていますか」
「はい」
「実在したと?」
「分かりません」
「誰かへ触れた?」
「見ていません」
「攻撃された?」
「いいえ」
「それでも抜いた」
「はい」
***
「規則を破ったからですか」
朔が尋ねた。
「剣を抜いた理由です」
「違う」
デルは自分の右手を見る。
「エリオ様が剣を持っていなかった」
エリオが顔を上げる。
「それで?」
「何かが出たら、私が守らなければと思った」
「私から頼みましたか」
「いいえ」
「勇者候補だから守らなければ?」
「勇者候補なのに、剣を置いていたからです」
剣を持たない選択。
それが、別の者へ剣を抜く責任を渡した。
「朔も子どもです」
デルが続ける。
「ノエさんも。サナさんは腕を傷めている。セオさんは記録板しか持っていない」
「マレアさんは?」
「治療官です」
「では、デルさんだけが守る人だった?」
「そう思いました」
誰も、その役目を頼んでいない。
だが、腰に剣がある。
門を守る制服を着ている。
周囲は武器を置いている。
その形が、デルへ役目を作った。
***
「怖くて抜きました」
デルが言う。
「何が怖かった?」
イサラが尋ねる。
「何かが近づくこと」
「ほかには?」
「抜かなかったあとで、誰かが死ぬこと」
レナ橋。
判断を待った間に失われた四人。
イサラは、すぐには答えなかった。
「誰かが死んだ時、抜かなかった自分を責められると思いましたか」
「はい」
「誰に?」
「分かりません」
「自分に?」
デルは頷いた。
***
「剣を抜かなければ、危険はなかったと思いますか」
朔が尋ねた。
「分かりません」
「黒い手は?」
「見えました」
「俺たちには見えなかった」
「はい」
「嘘をついていると思いますか」
エリオが朔へ尋ねる。
「思いません」
「では、手はあった?」
「確認できません」
「デルさんの恐怖は?」
「ありました」
見えたものが共有されなくても、恐怖は実在した。
だからといって、剣を抜いた結果が消えるわけではない。
***
「怖くて抜いたことと、抜いた剣が危険だったことは、両方残してください」
朔がセオへ言った。
デルが朔を見る。
「庇わなくていい」
「庇っていません」
「では」
「怖かったから、危険ではなかったとは書きません」
「はい」
「剣が危険だったから、怖さが嘘だったとも書きません」
セオが記録板を開く。
今は帰路の外。
書いてよい場所だった。
***
時系列を一つずつ確認した。
閉鎖壁付近の経路灯が一時消失。
ノエは壁際の影が右へ動いたように知覚。
朔は壁の亀裂が広がったように知覚。
エリオは壁の向こうから見られているように感じた。
マレア、セオは人影を確認せず。
サナは流れの方向変化を確認。
デルは、第二扉左側に黒い手を見たと証言。
デルは剣の柄へ手を置く。
朔が、手を離すよう求める。
マレアが「戻る」と発言。
参加者が帰路へ移動。
デルが剣を抜き始める。
剣先の黒色変化を、朔、エリオ、ノエ、マレア、サナ、セオが確認。
「抜く前から黒かった可能性は?」
セオが尋ねる。
「鞘の中は見ていません」
朔が答える。
「では、抜いたために黒くなったとは?」
「断定できません」
サナが言う。
「ですが、通常点検時には変色なしと記録されています」
「点検時刻は?」
「今朝」
「抜いた瞬間との間に変わった可能性」
「あります」
因果関係を急がない。
***
朔がデルの右側へ接近。
左手で右手首を保持。
右腕で肘の方向を変更。
デルが剣を引いた力に合わせ、刃の軌道を床へ向ける。
剣の腹が石床へ接触。
黒色部の先端が欠損。
エリオがデルの左肩を支える。
朔が手首を保持。
エリオが、事前に告げた上でデルの指を一本ずつ柄から外す。
剣を床へ残し、全員帰還。
「朔がデルを制圧、とまとめますか」
グラドが尋ねた。
「まとめません」
朔が答える。
「では」
「剣の向きを変えました」
「制圧ではない?」
「デルさんの身体を止めました」
「同じでは?」
「一人では止めていません」
「エリオが肩と指を?」
「はい」
「デル本人も、最後は手を伸ばさなかった」
「はい」
止められた側の行為も消さない。
***
「デルさんを処分しますか」
ノエが尋ねた。
グラドが答える前に、イサラが言った。
「今日は決めません」
「規則違反は?」
「確認します」
「剣を抜いたことは?」
「事実です」
「危険を生んだ」
「はい」
「では」
「この調査が、武装衛兵を近くに置いたまま、参加者だけを非武装にしたことも確認します」
デル一人へ、すべてを渡さない。
「配置を決めたのは?」
グラドが答える。
「私と塔内管理官です」
「規則の継続を認めたのは?」
「私です」
「実施を選んだのは?」
朔が言う。
「俺たちです」
「エリオの剣を外したことは?」
「全員で決めました」
イサラは続ける。
「その結果、デルが守る役目を強く感じる可能性を、私たちは事前に検討していませんでした」
***
「私が勝手に思ったことです」
デルが言う。
「はい」
イサラは否定しなかった。
「誰も、守れと命令していません」
「はい」
「なら、私の判断です」
「そうです」
「ほかの人の責任にしないでください」
「しません」
イサラは答える。
「あなたの判断を消さず、私たちが作った条件も消しません」
責任を分けることは、薄めることではない。
誰が何をしたかを、より細かくすることだった。
***
「次回は、武装衛兵を第二扉へ置きません」
グラドが言う。
「規則は?」
「第一扉の外へ配置します」
「閉鎖門の操作は?」
「操作後に外へ戻る」
「緊急時に、すぐ入れません」
「はい」
「危険では?」
「今日の配置にも危険がありました」
すぐ救援できる距離。
すぐ剣を抜ける距離。
同じ近さだった。
「衛兵が外へ戻ったあと、第二扉は?」
「内側から開放可能な状態にします」
「扉を守る人は?」
「扉そのものではなく、帰還経路を見ます」
守る対象を変える。
***
「次も、剣を持たない条件で行きますか」
デルが尋ねた。
「まだ決めません」
朔が答える。
「私が失敗したから、変える?」
「デルさん一人のためではありません」
「では」
「剣を置いたことで、誰が代わりに剣を持つ役目を負うかまで考えます」
「誰も持たなければ?」
「その危険も考えます」
「襲われたら?」
「戻ります」
「間に合わなければ?」
「身体で止める可能性があります」
朔は、自分の赤くなった前腕を見る。
「今日みたいに?」
「相手が人なら」
「黒いものなら?」
「分かりません」
万能な方法ではない。
***
残した剣の回収は、その日のうちには行わなかった。
第二扉の小窓から確認する。
剣は、床に落ちたまま。
黒い部分は広がっていない。
測定棒も、元の位置。
人影は見えない。
「黒色部を調べますか」
サナが尋ねた。
「回収方法を決めてから」
「誰が持つ?」
「手では持たない」
「道具で引く?」
「その道具を内側へ入れることになります」
「では」
「次に決めます」
剣は、デルの所有物だった。
だが、今すぐ返すために人を危険へ入れない。
「失くしたことにしますか」
デルが聞く。
「そこにあります」
朔は答えた。
「戻っていないだけです」
***
夕方。
デルは勤務から外された。
処罰ではない。
右手の震えが残っている。
閉鎖区画の警備を続けられる状態ではないと、マレアが判断した。
「明日は?」
デルが尋ねる。
「再確認します」
「剣がなくても、衛兵ですか」
「資格は残っています」
グラドが答える。
「勤務は?」
「今は外します」
エリオの時と似た言葉。
「外せないものまで、外したとは書きません」
ノエが言った。
デルは、少しだけ笑った。
「誰かの言葉ですか」
「はい」
***
デルが帰る前に、エリオが声を掛けた。
「私のために剣を抜いたと思っていますか」
「一部は」
「頼んでいません」
「分かっています」
「怒っていますか」
「誰に?」
「剣を置いた私に」
デルは考える。
「少し」
正直な答え。
「なぜ?」
「勇者候補が剣を持たないなら、誰が前へ出るんだと思いました」
「サクが前にいました」
「子どもです」
「私は?」
「剣がなかった」
「だから、私ではない?」
デルは言葉に詰まる。
「分かりません」
「剣を持つ人が、守る人に見えましたか」
「はい」
剣が役目を作る。
勇者の外套だけではない。
***
「次に私が剣を置く時は」
エリオが言った。
「誰かへ代わりに持たせるためではないことを、先に確認します」
「それで、誰も守れなかったら?」
「戻ります」
「勇者なのに?」
「エリオ・レイスとして」
デルはすぐには頷かなかった。
だが、否定もしなかった。
***
その夜、朔は自分の手を洗った。
左の掌。
赤く擦れた皮膚。
右前腕。
デルの肘を受けた跡。
元の身体なら、もっと早く止められたかもしれない。
もっと強く押さえ込めたかもしれない。
子どもの身体だから、力では勝てなかった。
だから角度を使った。
相手が剣を抜く力を、床へ向けた。
倒すために覚えた身体の使い方が、剣を人へ向けさせないために役立った。
それを、良いことだけにはできない。
朔は、デルの腕を壊す可能性があった。
止めるために身体へ触れ、動きを奪った。
必要だったと思う。
だが、必要だったから暴力ではないとは言わない。
***
記録の最後には、次にすることが書かれた。
第二扉内に残した剣と測定具の状態を、外側から継続確認。
回収の必要性、方法、実施者を別に決める。
旧資材区画の警備位置を、第一扉外へ変更できるか確認。
調査参加者が武器を持たないことで、固定警備員へ防御責任が集中する可能性を事前確認項目へ加える。
剣を抜く前のデルの身体状態、知覚、恐怖について、本人の同意範囲で再聞き取り。
黒い手の存在は未確認。
剣の黒色変化と、抜刀行為の因果関係は未確認。
六年前のラグの剣との類似は、照合対象とする。
同一現象とは確定しない。
***
「今回を、非武装調査の失敗と書きますか」
グラドが尋ねた。
「参加者は、決めた武器を持ち込みませんでした」
セオが答える。
「でも、同じ区画に剣があった」
朔が言う。
「では、非武装ではなかった?」
「最初から、非武装とは呼んでいません」
イサラが答えた。
「剣を持たない者がいた。剣を持つ者もいた」
「結果は?」
「剣を持つ者が抜いた」
「それを、教訓にしますか」
「一つの事例として残します」
「次も同じ?」
「同じとは限りません」
デルが見た黒い手。
エリオが感じた視線。
サナが測った流れ。
剣の黒。
どれが何に繋がっているかは、まだ分からない。
***
街では、その日のうちに別の話が広がった。
勇者候補が剣を捨てたため、名もない衛兵がヴァルハへ立ち向かった。
殻の子が、勇敢な衛兵を襲って剣を奪った。
黒い剣が、持ち主を操った。
三つの話。
どれも、起きたこととは違う。
だが、剣が抜かれたこと。
朔がデルの腕を取ったこと。
剣が黒くなったこと。
欠片は含まれている。
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「訂正しますか」
セオが尋ねた。
「デルさんへ先に聞きます」
朔が答えた。
「本人が、街へ説明したくない場合は?」
「俺のことだけ訂正します」
「デルが勇敢だった、という話は?」
「俺が決めません」
「臆病だった、という話が出たら?」
「それも」
デルは英雄でも、臆病者でもない。
怖くて剣を抜いた。
誰かを守らなければと思った。
その剣が危険になった。
朔とエリオが身体を使って止めた。
全員が戻った。
それだけでも、短くはなかった。
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剣を抜いたのは、勇者ではなかった。
討伐を望んだ者でも。
黒い影を憎んでいた者でもない。
門を守るために立っていた、一人の衛兵だった。
誰かが死んだあとで、なぜ抜かなかったと問われることを恐れた。
剣を置いた者たちを見て、自分が代わりに持たなければならないと思った。
その恐れを、剣が形にした。
黒いものが先に攻撃したとは、確認されていない。
それでも、デルが何も見なかったとは言えない。
恐怖が誤りだったから剣が危険になったのではない。
恐怖が本物でも、抜いた剣は人を傷つける。
だから朔たちは、剣だけを見なかった。
剣を抜いた手。
その手が震える前に見たもの。
守れと言われていないのに、守らなければと思った理由。
そして、その役目を一人へ置いた、自分たちの配置。
剣は床に残った。
黒く欠けたまま。
誰かの勇気の証明にも。
誰かの罪の印にもせず。
次に手を伸ばす前に、何が起きたかを見直すためのものとして。




