第五章 勇者の名前 ⑨ 戻らなかった者の道
旧紙市場の壁に古い印を見つけた翌日、朔はそこへ戻らなかった。
場所は覚えている。
共同井戸から市場へ入る角。
欠けた排水溝。
向きの違う補修石。
火。
手。
途中で切れた線。
だが、見つけたからすぐ調べに行けば、前日の外出へ別の目的を後から加えることになる。
最初に、何を確かめるのかを決めた。
***
調査記録の見出しは、
旧紙市場周辺に残る巡礼路類似印の所在確認
となった。
「黒い道への別経路を探す、ではないんですね」
グラドが尋ねた。
「まだ、繋がっていると確認していません」
朔が答えた。
「では、確認するのは印だけ?」
「印の位置。向き。周囲に同じ印があるか」
「地下や建物の内部は?」
「入りません」
「石を動かす?」
「外れている物だけ、元の位置を記録してから確認します。壁や床に固定されている物は壊しません」
「閉じた通路を見つけた場合は?」
「開けません」
「なぜ?」
「道を探す目的と、道を通る目的を分けるためです」
見つけた入口は、入ってよい許可にはならない。
***
参加者は五人。
朔。
リオ。
セオ。
サナ・リト。
そして、六年前の調査から帰還した運搬補助のジェン。
勇者候補は参加しない。
人影との接触を目的にしていないからだった。
「第一位も、第二位も?」
外郭担当者が確認する。
「必要ありません」
朔が答えた。
「護衛は?」
「通常の街路警備は変えません。調査のための護衛は付けません」
「危険な道へ繋がっていた場合は?」
「そこで戻ります」
調べる者を増やせば、安全になるとは限らない。
人が増えれば、それだけ別の目的も増える。
***
ジェンは、旧紙市場の南側で荷車の車輪を直していた。
低い作業台。
木の輪。
鉄の帯。
黒い油。
袖を肘までまくり、細い金属棒で車輪の内側を叩いている。
音を聞いて、少しずつ締め具を動かす。
「ジェンさんですか」
朔が尋ねる。
男はもう一度、車輪を叩いた。
澄んだ音。
それを聞いてから、顔を上げた。
「そうや」
四十代の半ばほど。
左の眉が途中で切れている。
手の甲には古い火傷。
「黒川朔です。サクと呼ばれています」
「知っとる」
「どこで?」
「市場に出とる紙や」
朔の手元にある物語紙へ、ジェンの目が向く。
「殻の子か」
「その呼び方については、まだ確認中です」
「そうか」
ジェンは謝らなかった。
知らずに使った言葉を、すぐ罪にはしない。
「今日は、六年前の道について聞きたいです」
「記録は読んだか」
「一部だけ」
「先に俺へ聞くんか」
「はい」
「何でや」
「記録に合わせて思い出してもらわないためです」
ジェンは金属棒を作業台へ置いた。
「俺の記憶が正しいとも限らんぞ」
「正しいと決めるためではありません」
「ほな、何のためや」
「ジェンさんが、何を見て、何をしたと覚えているかを聞くためです」
***
「先に言うとく」
ジェンは作業台の横にある丸椅子へ座った。
「俺は、六年前の調査の代表やない」
「はい」
「生還者代表でもない」
「はい」
「戻った四人の意見が同じやったこともない」
「四人?」
「俺、ガウ、サナ、ペル」
ペル・オウダ。
治療官。
帰還から三日後に死亡。
「記録では、生還者三名とされている箇所があります」
セオが言った。
「死んだからや」
ジェンが答える。
「帰って三日生きた。ほな、帰ったことまで消えるんか」
「消しません」
セオは記録板へ書く。
帰還者四名。うちペル・オウダは帰還三日後に死亡。
「死亡原因は?」
「俺には分からん」
「黒い道との関係は?」
「分からん」
「何を見ましたか」
朔が尋ねた。
ジェンは、市場の奥へ続く狭い道を見る。
「道から話した方がええ」
***
六年前。
調査隊は、白い塔の内側から黒い道へ向かったのではなかった。
最初は、外壁の測定から始まった。
「経路灯が、外から見ても揺れとった」
ジェンが言う。
「塔の内側だけの異常ではないと?」
サナが尋ねる。
「あんたがそう言うた」
「覚えています」
「俺は流れなんか見えん。荷車が通るかしか見とらんかった」
測定器。
治療道具。
水。
帰還用の縄。
ジェンの役目は、それらを運ぶことだった。
「公式の経路は階段が多かった。荷車を使えん」
「それで、外側の古い搬入口を?」
「ミトが見つけた」
記録員ミト。
現在も所在不明。
「市場の壁に、手と火みたいな印があると言うた」
朔たちが昨日見つけた印。
「その時、ヴァルハという言葉を聞きましたか」
セオが尋ねる。
「まだ、その質問は早い」
ジェンが言った。
「道の途中や」
セオは質問を引いた。
***
ジェンは立ち上がる。
「歩いた方が早い」
「今から案内してもらえますか」
「そのために来たんやろ」
「仕事は?」
朔が車輪を見る。
「この鉄が冷えるまで動かせん」
「調査を優先する?」
「冷えるのを待つ間に歩く」
特別な使命のために、生活を止めたわけではない。
作業の合間に、六年前の道へ向かう。
***
最初の印は、昨日と同じ場所にあった。
新しい看板は外されている。
誰かが剥がしたのではない。
店主が商品を入れ替えるため、一時的に移しただけだった。
「これです」
朔が言う。
ジェンは壁へ近づく。
触れない。
「もっと出とった」
「石が削れた?」
「上から塗られとる」
サナが壁の端を見る。
「新しい漆喰が、線の一部を覆っています」
「剥がしますか」
セオが尋ねる。
「壁の持ち主へ聞く」
ジェンが答えた。
「昔は道でも、今は店の壁や」
***
壁の向こうは、紙袋を保管する倉だった。
持ち主は、五十代ほどの女性。
名をミエルといった。
「壁を壊すの?」
「壊しません」
朔が答える。
「表面の新しい漆喰を、指一本分だけ外す許可を求めています」
「外したら、誰が直す?」
「管理局が費用を負担します」
セオが言う。
「今すぐ直せる?」
「今日は確認だけです。外す場合は、補修する職人と一緒に改めて来ます」
「じゃあ、今日は外さないのね」
「はい」
許可を得るために、先に作業を始めない。
「倉の内側は見てもいいよ」
ミエルが言った。
「荷物を動かすなら、私も見る」
「分かりました」
***
倉の内壁には、印はなかった。
代わりに、床の一部だけ石の向きが違っていた。
長い紙袋を三つ移す。
ミエル。
ジェン。
リオ。
誰が何を動かしたかを確認してから。
下から、細い溝が現れた。
荷車の車輪ほどの幅。
「ここを通したんですか」
朔が尋ねる。
「この溝を辿った」
ジェンが答える。
「道標ではなく?」
「俺には、車輪の跡の方が分かりやすかった」
古い巡礼印を読めなくても、荷を運ぶ者には道が見える。
***
溝は倉の奥で途切れていた。
壁になっている。
だが、ジェンはその前に立たず、右側の棚を見る。
「前は扉やった」
「埋められた?」
「棚の後ろに残っとるかもしれん」
「動かしますか」
ミエルが棚を見る。
「今日は、動かさないで」
「なぜ?」
「紙を全部出さないと倒れる。日暮れまでかかる」
調査の時刻を越える。
「では、位置だけ記録します」
セオが倉の形を写す。
棚。
壁。
車輪溝。
外側の印。
古い扉の可能性。
未確認。
***
「六年前は、ここを通った?」
朔が尋ねた。
「通った」
「誰が先頭でしたか」
「ミト」
「勇者候補ではなく?」
「道を見つけたのがミトやったからな」
「ラグさんは?」
「二番目」
「フィオナさんは?」
「三番目」
その後ろにサナ。
ペル。
ガウ。
最後がジェンと荷車。
「順番は、ずっと同じ?」
「変わった」
「どこで?」
「暗くなってからや」
***
倉を出る。
ジェンは、市場の細い路地へ入った。
予定していた調査範囲内。
今は店が並んでいる。
六年前は、空き倉と壊れた家が多かったという。
「ここを荷車が?」
「一番細いところで、片輪を上げた」
「どうやって?」
「壁へ寄せて、三人で傾けた」
「誰が?」
「俺、ガウ、ラグ」
勇者候補も、荷車を持ち上げた。
「フィオナは?」
「前の石をどけた」
「ミトは?」
「印を写しとった」
「ペルは?」
「俺らが腰を痛めんように、持ち方をうるさく言うとった」
肩書きではない動き。
それぞれが、狭い路地を通るためにしたこと。
***
二つ目の印は、井戸跡の縁にあった。
今は蓋をされ、上に花鉢が置かれている。
火。
手。
三本の線。
昨日見たものより、線が長い。
「同じ印ですか」
朔が尋ねる。
「似ています」
サナが答えた。
「同じ意味とは?」
「分かりません」
ジェンは花鉢を持ち上げない。
持ち主を探す。
近くの染物屋の物だった。
「鉢を動かしても?」
「倒さないなら」
「位置を印してから動かします」
鉢の底へ炭で小さな印。
床にも、紙を置いて位置を写す。
三人で持ち上げる必要はない。
それでも、勝手に動かさない。
***
花鉢の下。
井戸縁の石に、文字が残っていた。
古い王都語。
崩れている。
セオは読もうとしたが、すぐに声へしなかった。
「読めますか」
朔が尋ねる。
「一部だけ」
「どこから?」
「向きが分かりません」
井戸縁の石は、別の場所から運ばれて使われている可能性がある。
現在の上が、昔の上とは限らない。
「写します」
セオが薄い紙を当てる。
炭でなぞる。
浮き出た文字。
剣を持つ者を返す
欠けた部分が前後にある。
「誰が返すんですか」
朔が尋ねる。
「書かれていません」
「命令?」
「それも不明です」
「剣を持つ者が、誰かを返す?」
「その読み方もあります」
文字の区切りが分からない。
剣を持つ者を、返す。
剣を持つ者、を返す。
剣を持つ者が、返す。
主語も。
対象も。
道の向きもない。
***
「六年前、ミトさんはこれを読みましたか」
朔が尋ねる。
「読んどった」
ジェンが答えた。
「何と言いましたか」
「剣を持ってきた者を戻す道かもしれん、と」
「ラグさんは?」
「それなら俺が先に戻されるな、と笑った」
「軽く扱った?」
「笑っただけや」
ジェンは言う。
「怖くなかったとは言っとらん」
ラグを、警告を無視した傲慢な勇者へ変えない。
「フィオナさんは?」
「剣を荷車へ置くか聞いた」
「置きましたか」
「置かんかった」
「なぜ?」
「調査の目的に、護衛が入っとったからや」
剣を持つことにも、理由があった。
***
三つ目の印は、市場の外れにある古い乾燥場で見つかった。
今は洗った紙を干す場所。
地面へ平たい石が並んでいる。
ジェンは、そのうち一枚を指す。
「これや」
表面は下を向いていた。
「裏返したんですか」
「六年前、ミトが」
「今も、そのまま?」
「誰も戻し方を覚えとらんかった」
石は重い。
持ち主の許可を得る。
紙を干す職人が四人で持ち上げる。
サナが横から支える。
朔は手を出さない。
子どもの身体で加われば、持ち手を変えさせる。
***
石の裏。
手の印。
その下に、別の文字。
名を持つ者を待つ
こちらも前後が欠けている。
「剣を持つ者を返す」
セオが先ほどの写しを見る。
「名を持つ者を待つ」
二つを並べる。
「一つの文章ですか」
朔が尋ねる。
「分かりません」
「同じ道の石では?」
「同じ場所にあったとは限りません」
井戸縁の石。
乾燥場の敷石。
どちらも、今の場所へ移された可能性がある。
「書体は?」
「近いです」
「時期は?」
「同じとは断定できません」
近い言葉。
近い形。
だからこそ、一つへ繋げたくなる。
「別々に記録してください」
朔が言った。
「並べたことも?」
セオが尋ねる。
「今、俺たちが並べて読んだこととして」
元から一組だったとは書かない。
***
「六年前、ミトさんは二つとも見ましたか」
「見た」
ジェンが答える。
「何と?」
「剣を返して、名前を待つ道かもしれん、と」
「一つに繋げた?」
「ミトがな」
「本人も、確定ではないと言いましたか」
「かもしれん、と言うた」
その一語が、記録に残ったかは分からない。
「ヴァルハは?」
セオが尋ねた。
今度は、ジェンが答えた。
「この石の下に、もう一つあった」
***
裏返した石の端。
土が付いている。
職人の許可を得て、柔らかい刷毛で落とす。
削られた文字。
四つの音すべては残っていない。
ヴァル――
最後の部分が欠けている。
「ヴァルハですか」
朔が尋ねる。
「今の石だけでは読めません」
セオが答える。
「六年前は?」
ジェンは石の端を見る。
「もう少し残っとった」
「ミトさんは?」
「ヴァルハ、と読んだ」
「人影を見る前ですか」
「前や」
全員が黙った。
***
「確かですか」
セオが尋ねる。
「俺の記憶では」
「黒い人影が現れる前?」
「この市場を通った時や。まだ塔の外におった」
「では、ミトさんが原板の余白へ書いたヴァルハは」
「この石から写した可能性があります」
セオが言う。
「可能性です」
朔は確認する。
「はい」
「人影の名前として書いたのではない可能性」
「あります」
「でも、人影と関係ないとも決められない」
「はい」
道の名。
役目。
場所。
命令。
人の名前。
まだ、どれにもできない。
***
「ミトさんは、意味を言いましたか」
朔がジェンへ尋ねる。
「知らん言葉やと言うた」
「古い巡礼語?」
「そうかもしれん、と」
「誰かへ聞く予定は?」
「帰ったらネラに見せると言うとった」
ミトは帰らなかった。
文字だけが余白に残った。
「写しは?」
「ミトの板にあった」
「その板は?」
「戻ってない」
「では、今ある原板余白の文字は?」
「出発前の控えへ、ここで書いたんかもしれん」
ジェンの記憶。
ミトの筆跡に似た文字。
石の欠けた音。
繋がる。
だが、完全には重ならない。
***
石を元の向きへ戻す前に、位置と表裏を記録した。
「文字を上へ向けますか」
紙職人が尋ねた。
「元は下だったんですよね」
朔が言う。
「六年前からは」
「それ以前は?」
「知らん」
どちらが元か分からない。
「今日は、調査前の状態へ戻してください」
朔が答えた。
「文字を見えるようにした方がいいんじゃない?」
「誰でも踏まずに読めます」
「なら」
「意味が分からない言葉が、また名前として広がる可能性があります」
隠すためではない。
公開する判断を、持ち主や管理者と分けて行うため。
石は、文字を下にして戻された。
その位置も記録に残した。
***
乾燥場の先には、低い石壁があった。
現在の王都地図では、白い塔の旧資材区画との境界。
扉はない。
だが、ジェンは壁の中央へ近づく。
「六年前は、ここが開いとった」
「搬入口?」
「そう聞いた」
「誰から?」
「ミト」
「本人は、どこで?」
「古い図面や」
壁の下に、車輪溝が続いている。
石で埋められている。
完全には消えていない。
「この向こうが、黒い道へ?」
「すぐではない」
ジェンが答える。
「暗い通路が続いとった。下って、上がって、また下った」
「距離は?」
「荷車で、半刻より短い」
「歩数では?」
「覚えとらん」
「曲がり角は?」
「車輪を切り返した場所が二つ」
ジェンは歩数ではなく、荷車を動かした身体で覚えている。
***
「開けますか」
セオが尋ねた。
「開けません」
朔が答える。
「調査目的は、印と道の所在確認です」
「壁の向こうを確かめなければ、道だと確認できません」
「今日は、入口だったというジェンさんの証言と、車輪溝を記録します」
「追加調査は?」
「次に決めます」
ジェンが石壁を見たまま言う。
「開けん方がええ」
「危険だから?」
「分からん」
「では」
「俺が、まだ話してへんからや」
***
五人は、石壁から離れた。
紙を干す職人たちの邪魔にならない場所。
積まれた木枠の横。
ジェンは立ったまま話す。
「ここを通ったあと、順番が変わった」
「どう変わりましたか」
朔が尋ねる。
「サナが前へ出た。流れを見るためや」
サナが頷く。
「ミトは、その後ろで記録」
「ラグさんとフィオナさんは?」
「左右」
「ペルさんは?」
「俺と荷車の近く」
「ガウさんは?」
「後ろを見とった」
暗い通路。
経路灯は弱い。
古い印。
低い天井。
荷車の車輪が、何度も石へ当たった。
***
「黒い線へ着く前に、ペルが咳を始めた」
ジェンが言う。
「原因は?」
「分からん」
「黒いものを吸った?」
「見えんかった」
「ほかの人は?」
「咳はしてへん」
「ペルさんだけ」
「そうや」
「治療官本人は何と?」
「喉ではないと言うとった」
「では、どこ?」
「胸の奥や、と」
ペルは自分で歩けなくなった。
荷車の道具を下ろし、代わりに乗せた。
「測定具は?」
「一部置いた」
「誰が決めましたか」
「俺とサナ」
サナが補足する。
「ペルの身体を運ぶため、優先度の低い器具を三つ下ろしました」
「記録には、機材喪失とだけあります」
セオが言う。
「何を載せるために置いたかは?」
「記載されていません」
物が失われた記録。
その場所へ人が載ったことは、短くなった時に落ちている。
***
「黒い線の近くで、サナが腕を傷めた」
ジェンが続ける。
「測定具を入れた時です」
サナが言う。
「私は人影を見ていません」
「俺も、その時は見てへん」
「では、いつ?」
「ラグが剣を抜いたあとや」
「抜いた理由は?」
「道の先に何かおる、とガウが言うた」
「ラグさんが先に見た?」
「分からん」
「何と言いましたか」
「肩書きと名前」
勇者候補第四位。
ラグ・テイン。
「それから?」
「勇者は来るな、と聞こえた」
「ジェンさんにも?」
「聞こえた」
「同じ声?」
「俺には、子どもには聞こえんかった」
ガウは子どものような声と証言している。
「どのように?」
「低かった。壁の中から聞こえた」
同じ言葉。
違う声。
***
「ラグさんの剣が消えた?」
「先から黒くなった」
「人影が触れた?」
「触ってへん」
「何かを投げた?」
「見てへん」
「では」
「剣が黒くなった。それだけや」
原因を加えない。
「ラグさんは?」
「剣を捨てた」
「戻ろうと?」
「分からん。フィオナが腕を掴んだ」
「ミトさんは?」
「前へ出た」
「なぜ?」
「記録板を上げとった」
「名前を聞こうとした?」
「聞こえんかった」
ジェンは、そこから先を急いで話さなかった。
***
「ペルが荷車から落ちた」
「どうして?」
「道が揺れた」
「床が?」
「俺にはそう感じた」
「サナさんは?」
「私は、流れが横へ引かれたと感じました」
「ガウさんは?」
「光が切れたと言うとった」
同じ瞬間。
違う知覚。
「俺はペルを戻した」
ジェンが言う。
「戻した?」
「荷車へ載せ直した」
「その間、前では?」
「見てへん」
ラグ。
フィオナ。
ミト。
黒い人影。
ジェンは、倒れたペルを見ていた。
***
「フィオナが叫んだ」
「何と?」
「ペルを返せ」
ジェンの声が少し硬くなる。
「ジェンに?」
「名前は呼ばれへんかった」
「誰への言葉かは?」
「俺やと思った」
「ほかの人へかもしれない?」
「そうかもしれん」
「それでも?」
「俺は荷車を引いた」
後ろにはガウ。
負傷したサナ。
荷車の上にペル。
「ラグさんたちは?」
「向こうにおった」
「見えましたか」
「フィオナの背中だけ」
「ミトさんは?」
「分からん」
「人影は?」
「最後に一度、黒いものが立っとるのを見た」
「子どもに?」
「俺には、小さくは見えんかった」
ガウの証言と違う。
「大人?」
「距離が分からんかった」
近くの小さな人影。
遠くの大きな人影。
黒い道では、どちらにも見える。
***
「帰る時、名前を呼びましたか」
朔が尋ねた。
「ラグを一回」
「返事は?」
「なかった」
「フィオナは?」
「呼べんかった」
「なぜ?」
ジェンの手が、膝の上で握られる。
「ペルが息をしてへんと思った」
「実際は?」
「してた」
「ミトさんは?」
「呼んでへん」
「それを、後悔していますか」
「しとる」
ジェンは答えた。
「呼べば戻ったと思いますか」
「思わん」
「では」
「呼ばへんかったことと、戻らんかったことは別や」
「はい」
「でも、呼ばへんかったのは俺や」
原因ではない。
行為として残っている。
***
「俺は、三人を置いて帰った」
ジェンが言う。
「ペルさんを連れて戻った」
朔が答える。
「どっちもや」
「はい」
「ペルを返したから、三人を置いたことが消えるんか」
「消えません」
「三人を置いたから、ペルを返したことが消えるんか」
「消えません」
ジェンは、しばらく何も言わなかった。
「記録は、俺を生還した運搬補助と書いた」
「はい」
「間違いやない」
「でも、足りない?」
「誰を運んだかがない」
***
「どう書けばいいですか」
セオが尋ねた。
「俺が決めるんか」
「ジェンさんの行為については、確認します」
ジェンは考える。
「ペル・オウダを荷車へ載せ、ガウ・メイル、サナ・リトと帰路へ移動」
「フィオナさんの言葉は?」
「ペルを返せ、と聞いた」
「命令を受けて帰った?」
「そう書くな」
「なぜ?」
「命令やから帰ったんやない」
「では」
「ペルが、まだ息をしてたからや」
セオが書く。
ジェンは、フィオナ・セルクが「ペルを返せ」と発言したと記憶している。発言の対象は未確認。ジェンは、ペル・オウダの呼吸を確認し、荷車へ載せて帰路へ移動した。
「これで?」
「三人を残したことも書け」
「どのように?」
ジェンは石壁を見る。
「ラグ・テイン、フィオナ・セルク、ミトの帰還を確認しないまま、道を離れた」
言葉は重い。
だが、「見捨てた」とは書かない。
判断を先に入れない。
***
「リサさんとモナさんへ伝えてもいいですか」
朔が尋ねた。
「ラグの家族か」
「はい」
「全部?」
「どこまで許可しますか」
ジェンは少し考える。
「俺がペルを運んだこと」
「はい」
「フィオナの言葉」
「はい」
「ラグを一度呼んだこと」
「はい」
「返事がなかったこと」
「はい」
「それから」
ジェンは、朔を見る。
「助けられたとは言わんかったこと」
「誰が?」
「俺が」
「家族へ?」
「六年前、言えんかった」
「今は?」
「今も言えん」
朔は頷く。
「そのまま伝えます」
「謝ったとも書くな」
「謝らない?」
「謝りに行ったら、許すか許さんかを家族へ渡すことになる」
「では」
「聞かれたことに答える」
ジェンは言った。
「それだけや」
***
帰還時刻が近づく。
石壁は開けなかった。
車輪溝の位置。
三つの印。
二つの文。
欠けたヴァルハ。
六年前の経路。
ジェンの証言。
持ち帰るものは十分に増えていた。
「もう一つだけ」
朔が言う。
「何や」
「六年前、戻る時に、この道の印を見ましたか」
「見てへん」
「剣を持つ者を返す」
「ラグのことを考えとった」
「名を持つ者を待つ」
「ペルの息を数えとった」
古い言葉は、帰還する者を導かなかった。
少なくとも、ジェンには。
「戻らなかった三人のための道だと思いますか」
朔が尋ねた。
「道は誰かのために残るんか」
「分かりません」
「俺も分からん」
***
帰路。
旧紙市場では、語り手がまだ人を集めていた。
今日の演目は、イサラと黒い人影の戦いではない。
六年前の勇者候補たちの最期。
「三人の勇者は、ヴァルハの前に立った!」
ジェンの足が止まる。
語り手は続ける。
「運び手たちは恐れ、彼らを置いて逃げ帰った!」
笑う者はいない。
重い物語として聞いている。
ジェンは輪へ入らなかった。
「訂正しますか」
朔が尋ねる。
「今、俺が言うたらどうなる」
「生き残った運搬補助の証言になります」
「見世物の続きや」
「では」
「今日は帰る」
朔も声を掛けなかった。
訂正しないことが、同意になるとは限らない。
だが、訂正する場所を選ばなければ、事実も物語の一部になる。
***
市場を出たところで、ジェンが言った。
「逃げ帰ったのも、間違いではないかもしれん」
「逃げたんですか」
「怖かった」
「でも、ペルさんを運んだ」
「怖くなかったことにはならん」
「はい」
「英雄みたいに書くなよ」
「書きません」
「臆病者にも」
「はい」
ジェンは、自分の手を見る。
車輪を直す手。
荷車を引いた手。
倒れたペルを載せ直した手。
「したことを書け」
「はい」
***
塔へ戻る前に、リオが朔へ尋ねた。
「二つの文、どう読む」
「剣を持つ者を返す」
「もう一つ」
「名を持つ者を待つ」
「繋げるか」
「今は」
「ほな、何やと思う」
朔は答えを探す。
「勇者という形では通れない道なのかもしれません」
「もう繋げとるぞ」
「はい」
「剣を持つ者が、誰かを返す道かもしれん」
「はい」
「名前を持つ者が、待つ側かもしれん」
「はい」
「道そのものが返して、待っとるかもしれん」
「はい」
「何も分からんな」
「はい」
リオは頷いた。
「なら、分からんまま持って帰れ」
***
帰還後、ネラが三枚の写しを確認した。
剣を持つ者を返す。
名を持つ者を待つ。
欠けたヴァル――。
「書体は近いです」
ネラが言う。
「同じ人が書いた?」
「そこまでは分かりません」
「ヴァルハは、古い道の言葉?」
「可能性があります」
「人の名前ではない?」
「それも、まだ決められません」
「でも、黒い人影が現れる前に、ミトさんが読んでいた可能性がある」
「はい」
「記録へ?」
ネラは新しい紙を用意した。
ジェンの記憶では、記録員ミトは黒い人影との接触前、旧紙市場周辺の古い石から「ヴァルハ」と読める語を写していた。
現存する石には「ヴァル――」まで確認。末尾欠損。
原板余白の「ヴァルハ」がこの石に由来するかは未確認。
語が人物名、道名、役目、行為、その他の何を示すかは未確認。
「街へ公表しますか」
グラドが尋ねた。
「今はしません」
朔が答える。
「なぜ?」
「ヴァルハは人の名前ではない、とだけ広がるかもしれません」
「それは誤りですか」
「まだ、そこまで確認できていません」
「では、家族へは?」
「六年前の道を確認したことを、約束した時刻に伝えます」
「石の言葉も?」
「伝えます。ただし、意味は決めずに」
***
その日の記録では、古い道を黒い道への別経路とは呼ばなかった。
旧紙市場周辺に、巡礼路類似印と、古い車輪溝を確認。
六年前の調査隊が同経路を通ったというジェンの証言あり。
現在、白い塔旧資材区画との境界は石壁で閉鎖。
壁の向こうは未確認。
開放作業は行っていない。
井戸縁の転用石に、
剣を持つ者を返す
と読める断片。
乾燥場の転用石に、
名を持つ者を待つ
と読める断片。
両者が一つの文章、同一時期、同一経路の指示であるかは未確認。
同じ乾燥場の石端に、
ヴァル――
と読める欠損語。
六年前には末尾が残っていたというジェンの記憶あり。
その下へ、次にすることが書かれた。
石の移設時期と旧図面の確認。
ミトの出発前記録の再照合。
石壁の所有および閉鎖時期の確認。
家族への報告。
開放または通行の判断は、別に行う。
***
ジェンについても、別の紙が作られた。
生還者。
最初の見出しは、そうなっていた。
「変えてください」
朔が言う。
「何と?」
セオが尋ねる。
「ジェンさんが、今日名乗った役目と、したこと」
新しい見出し。
六年前の調査に運搬補助として参加したジェンの証言。
その下に、
ペル・オウダの呼吸を確認。
荷車へ載せる。
ガウ・メイル、サナ・リトと帰路へ移動。
ラグ・テインを一度呼ぶ。
返答は確認できず。
ラグ・テイン、フィオナ・セルク、ミトの帰還を確認しないまま、経路を離れる。
怖かったという本人の申告。
恐怖と帰還判断の因果関係は、本人にも分からない。
英雄とも。
臆病者とも書かなかった。
***
夜。
朔は、三枚の写しを別々に置いた。
剣。
名。
ヴァルハ。
一つの紙へ並べれば、意味があるように見える。
だから、重ねなかった。
だが、同じ日に見つけたことは消さない。
六年前、ラグたちはその道を進んだ。
ジェンたちは、その道を戻った。
同じ道だった。
途中で分かれたのではない。
同じ場所を、誰かは奥へ進み、誰かは荷車を引いて帰った。
戻った者の道。
戻らなかった者の道。
名前を変えれば、別の道になるわけではない。
旧紙市場の下には、今も車輪の溝が残っている。
その先は石壁で閉じられている。
壁の手前で、古い言葉が向きを失っていた。
剣を持つ者を返す。
名を持つ者を待つ。
誰を返し。
誰が待つのか。
まだ分からない。
それでも、戻らなかった者の道は消えていなかった。
噂の下で。
店の壁の中で。
花鉢と紙を干す石の下で。
帰った者が、したことを言葉にするのを待つように残っていた。




