第五章 勇者の名前 ⑧ 門の外
朔の塔外移動許可が出たのは、黒い線へ向かう条件案がまとまった翌日だった。
許可書の最初の見出しは、
観察対象の限定的外出
になっていた。
「観察対象というのは、俺ですか」
朔が尋ねた。
書類を持ってきたのは、アナ・セルだった。
「この書式では、そうなります」
「外出の目的は?」
「心身状態の確認。王都外郭環境への段階的な適応。同行者との関係維持」
ユイの記録で、一度消した言葉が入っている。
「適応というのは?」
「書式にある言葉です」
「俺が、王都の外に合う身体になるため?」
「そういう意味ではありません」
「でも、そう読めます」
アナは許可書を机へ置いた。
「書き直します」
「全部を?」
「今回行うことに合わせます」
新しい見出しは、
黒川朔本人の希望による塔外への短時間移動
になった。
目的。
リオと王都外郭を歩く。
自分に認められた移動範囲と、帰還経路を確認する。
現在、街で使用されている黒い人影に関する呼称を、会話を強制せず確認する。
「噂を調べるための外出ですか」
アナが尋ねた。
「それだけにしたくありません」
「では」
「歩くためです」
「調査と散歩を分けますか」
「分けられますか」
歩けば、言葉は聞こえる。
見ないふりはできない。
だが、噂を追うためだけに人へ近づけば、歩く目的は変わる。
「聞こえたものは記録する」
朔は言った。
「でも、出所を調べるために道を変えない」
「話しかけられた場合は?」
「必要なら答えます」
「何を必要としますか」
「俺のことを聞かれた時。間違った事実を、俺自身に確認された時」
「黒い人影について聞かれたら?」
「見たことと、分からないことを分けます」
***
移動時間は、半刻。
白い塔の外門を出てから数える。
帰還時刻ではなく、帰路へ向き始める時刻も決めた。
四分の一刻を過ぎた時点で、現在地を確認する。
半刻の四分の三で、塔へ向かう。
異常がなくても。
面白いものを見つけても。
誰かとの話が途中でも。
「同行者はリオだけですか」
マレアが尋ねた。
「それを希望しています」
「治療官は?」
「必要ですか」
「白い場所での感覚消失以降、初めての塔外です」
「何か起きた場合は?」
「戻ります」
「戻れない場合」
朔は答えられない。
「同行治療官を一名付ける案があります」
「リオさんと二人で歩くことにはならない」
「安全を優先するなら」
「安全のために、何を確かめる外出かが変わります」
マレアは否定しなかった。
「では、治療官を同行させず、外門の治療所に待機させます」
「俺たちの後をついてきませんか」
「ついていきません」
「異常時の連絡は?」
小さな音札。
紐を引けば、外門の同じ印が鳴る。
「使った時点で、外出は終了します」
「原因を現地で調べない?」
「はい」
以前と同じだった。
処置が必要になれば、観察は終わる。
***
「ノエさんは?」
朔が尋ねた。
「同行を希望していますか」
「いいえ」
ノエはすぐに答えた。
「どうして?」
「今回は、火を運ぶ目的がありません」
「俺を見張るためには?」
「必要なら行きます」
「必要だと思いますか」
ノエは朔を見る。
「リオさんと歩くことを、王都側の人間が見続けない時間も必要だと思います」
「俺が逃げる可能性は?」
「あります」
「正直ですね」
「はい」
「逃げたら?」
「私が同行していても、止められるとは限りません」
ノエは言った。
「同行しないことを、信頼の証明にはしません」
「では」
「今回の目的に、私が必要ではないから行きません」
守るためでも。
自由を与えるためでもない。
今することに必要かどうか。
***
リオは、外門の待合所で待っていた。
古い茶色の上着。
肩から道具袋。
片手には、薄い紙。
朔の名前が書かれた紙だった。
「今日は持って歩くんですか」
「いつも持っとる」
「塔の外でも?」
「お前が塔の中におる間だけの紙やない」
「返してもらうことは?」
リオは紙を見る。
「返してほしいんか」
朔は少し考える。
「今日は、持っていてください」
「理由は?」
「外へ出るからではありません」
「なら」
「俺が自分の名前を言えなくなる可能性が、なくなったわけではないからです」
リオは紙を折り直す。
「外に出たら自由になると思っとったか」
「少しは」
「門一枚で人間は変わらん」
「はい」
「でも、景色は変わる」
リオは外門の方を見る。
「行くか」
***
門を出る前に、ルカ・フェンが経路を確認した。
塔外門。
薬草通り。
南の共同井戸。
旧紙市場。
外郭広場の手前。
そこから同じ道を戻る。
「市場の中へ入る場合は?」
ルカが尋ねた。
「道から見える範囲だけにします」
「人が多い場合は?」
「迂回します」
「迂回路は?」
「決めていません」
「では、人が多ければ戻る」
「はい」
「街の門までは?」
「行きません」
塔の門を出る。
王都の外へ出るわけではない。
それでも、朔にとっては久しぶりの、白い塔の管理された廊下ではない道だった。
***
外門が開く。
最初に入ってきたのは、匂いだった。
焼いた油。
濡れた石。
荷車の獣。
薬草。
煙。
人の汗。
塔の中にも生活の匂いはあった。
だが、種類ごとに部屋へ分かれていた。
外では、全部が同じ風に混じっている。
「どうした」
リオが尋ねる。
「臭いです」
「帰るか」
「いいえ」
「なら、歩け」
感動を求められなかった。
空を見ろとも。
自由だとも。
それでよかった。
***
石畳は、塔の床より不揃いだった。
右足の下が少し高い。
次は左が沈む。
子どもの身体になってから、朔は足元の差を以前より大きく感じる。
「下ばっかり見るな」
「転びます」
「前も見ろ」
前から荷車。
左から籠を持った女性。
背後から走る子ども。
決められた経路灯はない。
誰も、朔のために止まらない。
自分で避ける。
リオは朔の腕を引かなかった。
荷車が近づいた時だけ、身体を半歩外側へ入れた。
「今、守りましたか」
「荷車に轢かれたら面倒や」
「俺を?」
「荷車の持ち主を」
朔は少し笑った。
塔へ入ってから、リオと同じ道を歩くのは初めてだった。
***
薬草通りでは、店先に乾燥した葉が吊られている。
マレアが使った安い熱冷まし。
ユノへ渡した草。
同じ種類が、束にされていた。
「ユノは、どうしていますか」
「ミラから伝言が来とる」
「何と?」
「熱は下がった。治療区画への通行許可も継続しとる」
「ミラさんは?」
「宿へ戻った」
「俺のことは?」
「聞かれた」
「何と答えましたか」
「塔で生きとる」
「それだけ?」
「ほかに何を言えっちゅうねん」
条件付観察。
K.K.
白い場所。
黒い道。
すべてを渡す必要はない。
「会いたいと言っていましたか」
「言っとらん」
「では」
「会いたくないとも言っとらん」
空白。
だが、次にすることを決める必要がある空白ではない。
今は、そのままにする。
***
共同井戸の近くで、人が集まっていた。
水を待つ列ではない。
壁へ貼られた一枚の絵を見ている。
黒い人影。
白い剣。
赤い文字。
勇者殺しヴァルハ、白塔へ迫る。
前に見た物語紙とは、絵が違う。
今度は、黒い人影が塔の上に立っている。
下には、小さく描かれたエリオとイサラ。
「塔へ迫ったんですか」
朔の隣で、老人が尋ねる。
誰へともなく。
「そう書いてある」
水桶を持った男が答える。
「南門じゃ、夜に黒い影を見たって話だ」
「どの影?」
「ヴァルハに決まっとる」
「顔を見たんか」
「顔はないらしい」
顔がないと聞いた。
だから、見えなくても同じものにできる。
「塔には入っていません」
朔は言った。
数人がこちらを見る。
「何だ、坊主」
「黒い人影が、黒い線を越えたことは確認されていません」
「管理局の子か?」
「サクです」
それ以上を先に言わない。
「見たのか」
「はい」
人が少し近づく。
リオは朔の前へ出なかった。
肩だけを、朔へ触れない位置に置く。
***
「本当にヴァルハだったのか」
「本人は、そう名乗っていません」
「でも、勇者を殺すって言ったんだろ」
「次に来た勇者は殺す、と言いました」
「同じじゃないか」
「今まで勇者を殺したことが確認された、という意味ではありません」
「ラグ様たちは?」
「帰っていません」
「殺されたんだろ」
「生死は確認されていません」
「六年も?」
「はい」
「六年帰らなけりゃ、死んだのと同じだ」
リサとモナの家。
捨てた寝台。
使われた靴。
今もパンを切る刃。
「家族が、同じように考えているとは限りません」
朔は答えた。
「家族を知ってるのか」
「話を聞きました」
「討伐してほしいって?」
「同じ家族でも、希望は違いました」
「面倒だな」
男が言った。
悪意ではない。
理解するのに時間がかかる。
短い答えを求めている。
「結局、危険なんだろ」
「危険へ備える必要はあります」
「なら倒せばいい」
「危険だから、すぐ敵だと決めることはしていません」
「襲われてからじゃ遅いぞ」
イサラの恐れ。
待つ代償。
「はい」
「じゃあ、どうするんだ」
「黒い線へ近づく条件を決めています」
「勇者を行かせる?」
「まだ決まっていません」
男の顔に、苛立ちが浮かぶ。
「何も決まってないじゃないか」
「決まったこともあります」
「何だ」
「単独で近づかない。黒い線を越えない。殺害予告を隠さない。過去に殺したと確認されていないことも隠さない」
「そんなので守れるのか」
「分かりません」
人々の間に、短い沈黙が落ちる。
安心する言葉を渡せなかった。
***
「この子を囲むな」
リオが初めて口を開いた。
声は大きくない。
だが、人々が少し下がる。
「聞いたんは自分らや。答えが気に入らんからって、近づいて正解に変わるわけやない」
「誰だ、あんた」
「道案内や」
「管理局の?」
「違う」
「じゃあ、何でその子と」
「一緒に歩いとる」
説明はそれだけだった。
リオは朔の保護者とも。
監視者とも。
証人とも名乗らない。
「行くぞ」
「まだ、帰る時刻では」
「場所を変えるだけや」
目的を終わらせるのではない。
人が増えすぎた場所から離れる。
***
井戸を離れてから、朔は尋ねた。
「止めるのが遅くなかったですか」
「お前が答えとったからや」
「危ないと思わなかった?」
「思った」
「では」
「危ないからって、最初から口を塞いだら、塔と変わらん」
リオは歩きながら答える。
「でも、囲まれたら話やなくなる」
「どの時点で?」
「お前が一歩下がった時や」
朔は気づいていなかった。
「下がりましたか」
「右足だけ」
「見ていた?」
「一緒に歩いとるからな」
***
旧紙市場へ近づくにつれ、道幅が狭くなった。
古書。
写本。
古い地図。
紙袋。
文字の薄れた看板。
シオの店がある地区とは別の入口だった。
朔は足を止める。
露店の一つに、黒い布が並んでいた。
細い紐。
腕へ巻ける長さ。
端に白い糸で、小さな剣の印が縫われている。
「魔除けだよ」
店主が言った。
「黒いのを追い払う?」
「逆だ」
「逆?」
「ヴァルハは勇者を襲う。これを巻けば、勇者じゃないと分かる」
朔は布を見る。
黒い影の側へ似せるための物ではない。
勇者ではないと示すため。
「それで襲われないんですか」
「北門の兵士も買った」
「効果を確認しましたか」
「黒いのに襲われた奴はいない」
「黒いのに会った人は?」
店主は黙る。
「いないね」
「では、布が守ったかは」
「分からん」
「それでも売る?」
「怖い奴が買う」
「怖さを売っている?」
「安心を売ってるんだ」
店主は悪びれなかった。
「安心できるんですか」
「巻いてる間はな」
***
「買いますか」
朔がリオへ尋ねた。
「何のためや」
「どう作られているか確認する?」
「買うたら売れた数が増える」
「では、買わない?」
「必要ないならな」
店主が二人を見る。
「坊主、塔から来たんだろ。今なら安くするぞ」
「なぜ俺に?」
「白い塔の子は、ヴァルハに狙われるって聞いた」
「誰から?」
「客だ」
「どの客?」
「いちいち覚えとらん」
言葉の出所は、もう追えない。
「俺が狙われていることは確認されていません」
「でも、名前を呼ばれたんだろ」
井戸とは別の場所。
別の人。
同じ情報。
「誰から聞きましたか」
「物語紙に書いてあった」
店主は机の下から紙を出す。
新しい絵。
黒い人影が、青い布を持つ子どもへ手を伸ばしている。
題。
ヴァルハが呼ぶ、殻の子サク。
朔の姿は似ていない。
だが、青い布。
白い塔。
子ども。
それだけで、朔だと分かるように作られている。
***
「殻の子というのは、どこから?」
朔が尋ねた。
「塔の記録だろ」
「見ましたか」
「語り手が言ってた」
「誰ですか」
紙の下に名前がある。
語り手、デン・マウロ。
絵師、ヒル・ネス。
版元、東広場紙工房。
「この人たちに会いに行くんか」
リオが尋ねる。
朔は紙を見る。
自分の呼ばれ方。
黒い人影との関係。
物語の中で、すでに決められている。
「今日は行きません」
「理由は?」
「決めた道から外れます」
「もう一つ」
「今日は、俺の呼ばれ方を調べる外出ではありません」
以前、別の調査にすると決めた。
見つけたからといって、すぐ追わない。
「紙だけ買いますか」
「買いたいんか」
「記録のために」
「売れた数は増える」
「でも、持ち帰らないと、内容を正確に伝えられない」
リオは店主へ値段を聞いた。
「誰が払いますか」
朔が尋ねる。
「お前」
「金を持っていません」
「なら借りや」
「管理局が買うべきでは?」
「管理局が買うたら、紙屋は『白塔公認』って言うぞ」
どの行動にも、意味が増える。
「俺個人が買った記録を残します」
「買った理由もな」
リオが代金を払い、朔へ紙を渡した。
紙は薄い。
簡単に折れる。
物語は、その薄さで街を歩いていた。
***
市場の奥から、拍子木の音がした。
人が円を作っている。
中央には、緑の上着を着た語り手。
手に白い木剣。
「勇者殺しは、白い塔を見上げた!」
朔とリオは、輪の外で止まった。
予定の経路から外れていない。
語り手は黒い布を肩へ掛ける。
「塔の奥には、眠りの姫!」
ユイ。
そう思わせる言葉。
「十一の命を、その手に握る!」
眠っている人たち。
数。
握る手。
誰かが笑う。
子どもが前へ出る。
「勇者は?」
「第一位イサラが剣を掲げる!」
木剣が上がる。
「第二位エリオは剣を捨てた!」
見物人から声が飛ぶ。
「裏切ったのか!」
「いや、黒き者へ近づくため、勇者の名を捨てたのだ!」
エリオは何も捨てていない。
権限不行使を検討した。
剣を置く条件を決めた。
紙の上の細い違いは、語りの中では消える。
***
「止めますか」
朔が尋ねた。
「何を言う」
リオが聞き返す。
「違うと」
「何が」
「エリオさんは、勇者の名を捨てていません」
「眠りの姫もおらん」
「ユイは姫ではありません」
「十一人を握ってもない」
「はい」
「全部言うか」
人の輪。
拍子木。
金を入れる籠。
ここは審査室ではない。
訂正を始めれば、語りの一部になる可能性もある。
「今日は聞くだけにします」
「逃げたと思われるぞ」
「はい」
「それでも?」
「ユイさんのことを、本人の許可なく人前で説明したくありません」
訂正するために、別の情報を渡してはいけない。
***
語り手は続ける。
「殻の子サクは、ヴァルハの弟だった!」
朔の身体が止まる。
ハル。
弟のようだった者。
黒い影。
「帰るか」
リオが言う。
「まだ時刻は」
「時間の話やない」
「聞けます」
「聞けることと、聞いた方がいいことは違う」
シオの言葉に似ていた。
「でも、どこまで話が増えたか」
「紙は買うた」
「語りは変わるかもしれない」
「全部拾う気か」
朔は答えられない。
「名前だけやないぞ」
リオは言った。
「噂も、一人で持つな」
***
朔は輪から離れた。
背中で、語り手の声が続く。
ヴァルハ。
眠りの姫。
殻の子。
勇者の裏切り。
事実の欠片はある。
だから、全部を嘘として捨てにくい。
ハルが弟のような存在だったこと。
人影が朔をサクと呼んだこと。
ユイが眠り区画にいること。
エリオが剣を置く案を検討したこと。
それぞれは、どこかにある。
一つへ繋がった瞬間、別の物語になる。
***
旧紙市場の出口に、小さな食べ物屋があった。
平たいパンへ、煮た豆を挟んでいる。
「食うか」
リオが尋ねた。
「時間は?」
「まだ戻り始める前や」
「買っていいんですか」
「外へ出て、何も食わずに帰る決まりか」
「書いていません」
「なら食え」
二人は道の端に立ったまま食べた。
パンは少し焦げている。
豆は塩が強い。
塔の食事より、味が揃っていない。
「おいしいです」
「腹減っとるだけや」
「それでも」
隣で荷運びの男たちが話している。
仕事の値段。
壊れた車輪。
今夜の雨。
ヴァルハの名は出ない。
王都のすべてが、黒い人影の噂で動いているわけではなかった。
***
「街の人は、みんなヴァルハのことを話していると思っていました」
朔が言う。
「塔におったら、塔へ届く話ばっかり聞く」
「外では?」
「飯の値段の方が大事な奴もおる」
「危険を知らない?」
「知っとっても、今日の荷車は動かさなあかん」
噂は広がっている。
だが、街を全部覆ってはいない。
物語紙を買わない人。
見ても忘れる人。
魔除けを巻く人。
笑う人。
怖がる人。
関心のない人。
同じ街にいる。
***
半刻の四分の三。
リオが砂時計を確認する。
「戻るぞ」
話は途中ではなかった。
食べ物も食べ終えている。
異常もない。
「もう少し歩けます」
「歩けるかは聞いとらん」
「はい」
朔は塔の方へ身体を向けた。
市場の奥へは行かなかった。
語り手デン・マウロを探さない。
版元へも。
魔除けの出所も。
次に調べるなら、別の目的と時刻を決める。
***
戻る道で、朔は足を止めた。
古い壁の下。
石が一つ、ほかと違う向きに置かれている。
表面に、薄い印。
手。
火。
その下に、欠けた線。
「リオさん」
「見えとる」
「巡礼路の印に似ています」
「似とるな」
「なぜ、ここに?」
「昔の道は、今の門を通っとらんかったんかもしれん」
「旧紙市場の下を?」
「決めるな」
「はい」
印の横には、新しい釘穴がある。
何かの看板で、長く隠れていた跡。
「記録しますか」
「場所だけ覚えろ」
「紙にしない?」
「今日は持っとる紙が多い」
物語紙。
許可書。
朔の名前の紙。
今ここで写せば、別の調査が始まる。
「次に見に来る?」
「目的を決めてからや」
リオは壁の位置を確認する。
共同井戸から旧紙市場へ向かう角。
補修石。
欠けた排水溝。
道標を、名前だけで持たない。
***
塔の外門へ戻った時、砂はまだ少し残っていた。
待機していたマレアが、先に時刻を見る。
「帰還予定内です」
「異常は?」
「ありません」
朔が答える。
「頭痛」
「なし」
「声」
「街の声は聞きました」
「現在、ここにいない者の声は?」
「確認していません」
「白い文字」
「なし」
マレアは脈を取る。
「移動中に恐怖は?」
「ありました」
「何に?」
「人に囲まれた時。物語で、俺と黒い人影が兄弟だと言われた時」
「戻りたいと思いましたか」
「リオさんに言われるまで、聞き続けようとしていました」
「判断が遅れた?」
「はい」
リオが横から言う。
「遅れたと決めるな。聞ける範囲を本人が分かっとらんかっただけや」
「次は?」
マレアが尋ねる。
「人に囲まれた時は、距離を取ります」
「物語を聞く時は?」
「一人で最後まで聞こうとしません」
***
外出記録は、塔外移動が成功したとは書かなかった。
朔は決めた経路を、リオと歩いた。
共同井戸付近で、黒い人影に関する質問を受けた。
複数人に囲まれ、朔が右足を一歩後退。
リオの判断で場所を移動。
旧紙市場で、黒い人影、ユイ、エリオ、朔について、確認されていない関係を含む物語紙と口頭の語りを確認。
朔個人が、記録目的で物語紙一枚を購入。代金はリオが貸与。
物語の出所調査は、本日の目的に含めず実施しなかった。
市場入口付近で、古い巡礼印に類似する印を確認。
詳細調査、接触、写し取りは行っていない。
予定時刻内に帰還。
「噂を確認した、とまとめますか」
セオが尋ねた。
「何を確認したことになりますか」
朔が聞く。
「勇者殺しヴァルハという物語が、市場で流通していること」
「それだけではありません」
「では」
「関心のない人もいました」
「記録しますか」
「はい」
「噂が街全体を支配しているわけではない、と?」
「そこまでは分かりません」
朔は言葉を選ぶ。
「確認した経路上で、ヴァルハに関する会話をした人と、しなかった人がいた」
当たり前の記録。
だが、物語に街全体を入れないために必要だった。
***
「殻の子サクという呼称は、別調査にしますか」
セオが尋ねた。
「はい」
「いつ?」
「今は決めません」
「物語紙は?」
「原物を保管します」
「誰の記録として?」
「俺が見つけて買った紙として」
「管理局の押収物ではなく?」
「はい」
「公開しますか」
「ユイさんとエリオさんのことが書かれています」
「本人へ確認しますか」
「先に見せるかどうかを聞きます」
知る権利。
知らないでいる権利。
どちらも、朔だけでは決めない。
***
リオは、塔へ入る前に朔の短刀を返さなかった。
「今日使わなかったから?」
朔が尋ねた。
「次の黒い道まで預かる約束やろ」
「はい」
「外へ出るたび返すとは言っとらん」
「ミナトのものです」
「お前のや」
「では」
「大切やから、毎回腰に戻さなあかんのか」
朔は短刀を包んだ布を見る。
「分かりません」
「なら、次に決めろ」
リオは道具袋へ戻した。
名前の紙とは、別の場所へ。
***
外門が閉じる。
朔は塔の中へ戻った。
外に出たから、監視が終わったわけではない。
自由になったわけでも。
噂を正せたわけでもなかった。
だが、塔の中から見ていた街とは違っていた。
街には、勇者と敵の物語を売る人がいた。
それを信じる人。
怖さを和らげる布を買う人。
正しい答えを求めて朔を囲む人。
関係なく豆の値段を話す人。
同じ道を歩いていた。
ヴァルハという言葉は広がっていた。
だが、王都そのものが一つの口になったわけではない。
朔は、街を一つの物語へ入れないことも覚えなければならなかった。
そして、旧紙市場の壁には、古い印が残っていた。
火。
手。
欠けた線。
今の門とは違う場所へ続いていたかもしれない道。
噂の中では、勇者とヴァルハがすでに戦っていた。
その足元に、誰にも語られていない古い道が埋もれていた。




