第五章 勇者の名前 ⑤ ユイの空
ユイが中庭へ行く計画は、外出許可とは呼ばれなかった。
塔の中庭は、外壁に囲まれている。
正門の外へ出るわけではない。
管理局の敷地から離れるわけでもない。
それでも、屋根はなかった。
空との間に、透明な板もない。
記録の見出しは、最初、
屋外環境への段階的適応試行
と書かれていた。
「適応って、何」
ユイが尋ねた。
「外の環境に身体を慣らすことです」
セオが答える。
「外に合う身体になるの?」
「そういう意味ではありません」
「でも、今の言い方だと、私が外に合ってないみたい」
セオは見出しを消した。
「では、何と書きますか」
「中庭へ行く」
「それだけ?」
「何をするかは、それだけ」
新しい見出しは、
ユイ本人の希望による中庭への移動
になった。
***
移動時刻は、昼前。
眠り区画の十一人が、比較的安定している時間。
ユイが決めた滞在時間は、四分の一刻。
前回、窓のある部屋にいた時間と同じだった。
「長くしないんですか」
朔が尋ねる。
「場所が違う」
「窓の部屋では異常がなかった」
「中庭でも同じかは分からない」
「短くする?」
「同じ時間から始める」
前回うまくいったから、次を長くするとは限らない。
条件が変われば、最初から見る。
***
眠り区画へ残るのは、アナとトエ。
ユイがいなくても、二人で十一人を見る。
これまでもユイが眠っている間や、身体確認を受けている時間には、二人が見ていた。
だが今回は、ユイが自分の希望で離れる。
その違いを、なかったことにはしない。
「私がいない間に変わったら」
ユイが言う。
「すぐ呼び戻します」
アナが答えた。
ユイは首を横に振った。
「先に、何が変わったか見て」
「緊急の場合は?」
「緊急なら戻る」
「何を緊急としますか」
トエが尋ねる。
「息が止まる。脈が急に落ちる。身体が寝台から落ちそうになる」
「声が出た場合は?」
「声だけなら、先に身体を見る」
「複数人の呼吸が揃った場合は?」
「何人かを見る」
「全員ではなく?」
「全員って聞こえても、近くで見たら違うかもしれない」
第四章で起きたこと。
十一人の呼吸は、一つの音に聞こえた。
だが一人ずつ見れば、少しずつ違っていた。
***
アナは十一枚の紙を机へ並べた。
第四章で使った記録方法。
名前を知っている者。
名前をまだ知らない者。
本人が名前を出すことを許可していない者。
すべて別の紙。
「この通りに確認します」
アナが言う。
ユイは紙を見る。
「この通りって?」
「前回と同じ順番で」
「順番も同じ?」
「違う方がいいですか」
「分からない」
「では」
「紙から先に見ないで」
アナの手が止まる。
「どういう意味ですか」
「最初に、その人を見て」
「そのあと紙を?」
「うん」
「紙と違う場合は?」
「今日の方を書く」
以前の記録は、今日の身体を決めるものではない。
「前回、ミアは二つ吸って、一つ長く吐くと」
「今日もそうとは限らない」
「では、紙は何のため?」
「前と違うか見るため」
同じ動きをさせるためではない。
違いを見つけるため。
***
トエがカイの寝台を見る。
「カイが開眼した場合は、覚醒処置を行わない」
ユイが首を傾げた。
「いつも?」
「前回、行わなかったためです」
「前は、息が止まりそうじゃなかった」
「今回は、状態によって判断する?」
「うん」
「では、前回と同じ行動を手順にはしない」
トエは紙に書き加える。
「開眼した場合、呼吸、脈、視線、身体の動きを確認。覚醒処置の必要性をその時点で判断」
「私がいなくても決められる?」
ユイが尋ねる。
「医療判断は行えます」
「怖かったら?」
トエは少し考える。
「怖いことを、アナへ言います」
「それで?」
「一人で決めず、必要ならマレアを呼びます」
「私を呼ぶ前に?」
「はい」
ユイは頷いた。
***
「全部教えれば、ユイと同じように見られますか」
朔が尋ねた。
「無理」
ユイはすぐに答えた。
「どうして?」
「私とアナは違う」
「トエとも?」
「違う」
「では、教える意味は?」
「私が見たことを渡す」
「同じようにしてもらうためではなく?」
「同じにしないで」
ユイはアナとトエを見る。
「その人を見て」
それは手順ではなかった。
手順を使う時に、紙より先に身体を見るという約束だった。
***
移動前の確認が始まった。
ユイ。
頭痛なし。
耳鳴りなし。
白い文字なし。
眠り区画から離れることへの不安あり。
「どれくらい?」
マレアが尋ねる。
「少しより多い」
「戻りたいですか」
「まだ行ってない」
「今やめることもできます」
「行く」
「理由は?」
「空を、板なしで見る」
窓のある部屋では、透明な板があった。
空は見えた。
風は来なかった。
「ほかには?」
「風が、どこから来るか見る」
「身体へ触れるのが怖くなったら?」
「戻る」
「眠り区画で何か起きたら?」
「内容を聞く」
「内容を聞く前に戻る場合は?」
「息が止まった時」
ユイ自身が条件を言う。
誰かに連れ出されるのではない。
戻されるのでもない。
***
中庭までの道は、ルカが登録した。
内塔生活区画。
渡り廊下。
短い階段。
中庭東側の扉。
帰路も同じ。
「途中で経路灯が変わったら?」
ルカが尋ねる。
「戻る」
「別の道を出した場合は?」
「使わない」
「扉が開かなければ?」
「その日は行かない」
開けるために、別の経路へ入らない。
***
同行するのは、朔、マレア、ノエ、アナ。
アナは中庭までユイを送り、すぐ眠り区画へ戻る。
トエを一人で長く残さないため。
「一緒に中庭へいないんですね」
朔が言う。
「ユイが離れたあと、二人で見ると決めました」
アナが答える。
「中庭を見たくありませんか」
「見たことはあります」
「ユイと一緒には?」
アナはユイを見る。
「少し」
ユイが言った。
「少しだけ?」
「扉まで」
「分かりました」
アナは、自分の希望も隠さなかった。
それでも、眠り区画へ戻る時刻を先に決めた。
***
中庭の扉が開いた。
風が入ってきた。
ユイの白い髪が、顔の前へ流れる。
足が止まる。
「閉めますか」
ノエが尋ねる。
「まだ」
ユイは目を細めた。
風は一定ではない。
一度、頬へ当たる。
次は来ない。
髪だけが、遅れて動く。
「どこから?」
ユイが聞く。
「今は、西からです」
朔が答える。
「西は?」
朔は中庭の向こうを指ささない。
「正面より少し右です」
ユイは自分で見る。
白い壁。
その上に、空。
窓枠がない。
透明な板もない。
雲が、壁の端から端まで続いている。
「大きい」
窓の部屋で鳥を見た時と同じ言葉。
今度は鳥ではなかった。
「空が?」
「開いてるところ」
空という名前より先に、開いている場所として見ている。
***
ユイは扉の内側から、一歩だけ出た。
石の床。
壁際には、小さな木が植えられている。
葉の裏が風で白く見える。
水桶。
乾かされている布。
中庭の端で、職員が二人、壊れた椅子を直している。
特別な場所ではない。
人が働く場所だった。
「ここで止まる」
ユイが言った。
中庭の中央へは行かない。
背中に扉と壁がある位置。
「椅子を持ってきますか」
アナが尋ねる。
「いらない」
「立ったまま?」
「今は」
アナは、もう少し一緒にいたそうに見えた。
だが、決めた時刻が来る。
「戻ります」
アナが言う。
「うん」
「眠り区画へ」
「うん」
「変化があれば、事実を先に伝えます」
「うん」
アナは、ユイへ大丈夫だとは言わなかった。
ユイも、任せたとは言わなかった。
それでも、アナは一人で帰路へ向いた。
***
中庭へ残ったユイは、アナが扉の向こうへ消えるまで見ていた。
「追いかけますか」
朔が尋ねる。
「行かない」
「不安?」
「ある」
「戻りますか」
「まだ」
不安があるから戻るとは限らない。
不安を我慢して進み続けるとも限らない。
ユイは、足元の石を見る。
一つだけ、薄い青色。
ほかは灰色。
「どうして違うの」
「補修した石だと思います」
「壊れた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「誰が替えたか、今は知りません」
ユイは青い石へ乗らなかった。
避けたわけでもない。
ただ、その手前で止まった。
***
網箱の中の火は静かだった。
ノエは入口に近い場所で持っている。
「火を、ここへ持ってきた理由は?」
ユイが聞く。
「見える場所に置くという、これまでの条件を続けるためです」
「眠ってる人はいない」
「ユイがいます」
「私のため?」
ノエはすぐに肯定しなかった。
「私たちが、戻る場所を確認するためでもあります」
火は、ユイだけを安定させる道具ではない。
同行者も見る。
「持たなくても来られた?」
「分かりません」
「次は?」
「次に決めます」
ユイは小さく頷いた。
***
中庭の反対側で、扉が開いた。
洗った布を抱えた女性と、五歳ほどの子どもが出てくる。
子どもはユイを見た。
白い髪。
青い袋。
管理局の同行者。
「白い子だ」
母親らしい女性が、子どもの肩へ手を置く。
「見続けないの」
子どもは目を逸らさなかった。
「眠ってる人を、起こさない子?」
ユイの肩が少し上がる。
母親が頭を下げる。
「すみません。職員の話を聞いたようで」
「どこで?」
ユイが尋ねた。
母親は答えるべきか迷う。
「食堂で、眠り区画の人が話していました」
「何て?」
「白い髪の子がいると、眠っている方たちが静かになる、と」
「私は、静かにしてない」
「はい」
「いる時に静かなことがあるだけ」
「そうですね」
女性は言い直した。
「私は、そう聞いただけです」
子どもが尋ねる。
「眠らせてるんじゃないの?」
「見てる」
「ずっと?」
「ずっとじゃない」
「じゃあ、今は?」
「アナとトエが見てる」
ユイは、自分が離れた場所を言葉にした。
今、誰も見ていないわけではない。
「起きたら?」
「起きた人を見る」
「起こさないの?」
「その人による」
子どもには難しい答えだった。
「ふうん」
子どもは、それ以上聞かなかった。
母親と一緒に布干し場へ向かう。
***
「嫌でしたか」
朔が尋ねる。
「何が」
「眠らせる子と言われたこと」
「違う」
「訂正した?」
「うん」
「全部は伝わったと思いますか」
「分からない」
「追いかけて、もう一度説明しますか」
「しない」
「なぜ」
「今は、中庭にいる時間だから」
噂を正すために来たのではない。
ここでも、目的を混ぜない。
***
伝達板が淡く光った。
眠り区画から。
ノエが読み上げる。
「アナ・セルより。入口から四番目の人物に、右手指の伸展を一度確認」
ユイの顔が変わる。
「呼吸は?」
「続きがあります。呼吸、脈に急変なし。開眼なし。ほかの十人に同様の動きなし」
「何をした?」
「トエが右手の落下位置を確認。身体へ触れず観察継続」
「紙は?」
「以前の状態と異なるため、新しい記録として追記」
アナは、変化があったとだけ言わない。
誰に。
何が。
何は変わっていないか。
何をしたか。
分けて送った。
「戻りますか」
マレアが尋ねる。
ユイは中庭の扉を見る。
「息は?」
「急変なし」
「手は?」
「一度動いた。その後は、伝達時点で動きなし」
「私が戻らないと危ない?」
「今の報告だけでは、そう判断しません」
「アナたちは?」
「戻ってほしいとは言っていません」
ユイは自分の手を握る。
いつもなら、自分で見に行く。
石を移す。
呼吸を聞く。
身体を見る。
「あと、どれくらい?」
「最初に決めた時間まで、砂三つ分です」
戻れば、決めた時刻より早い。
残れば、アナとトエへ任せることになる。
「もう一回、聞いて」
「何を?」
「その人の今」
ノエが伝達する。
***
返答が来るまで、風が二度通った。
ユイの髪。
木の葉。
干された布。
同じ風でも、動き方は違う。
伝達板が光る。
「入口から四番目の人物。右手は寝台上。指の伸展なし。呼吸は本人の通常範囲。脈に急変なし」
「本人の通常って?」
「アナから補足。直近三日間の記録と比較。本人を見た上で、記録を照合した」
紙から先に見ていない。
「トエは?」
「医療処置不要と判断。観察継続」
「私を呼ばない?」
「呼び戻しを求めていません」
ユイは扉から目を離した。
空を見る。
「戻らない」
「今は?」
「決めた時間まで」
眠っている者を見捨てたのではない。
アナとトエが見ている事実を受け取った。
それでも、不安は消えていない。
不安があるまま、ユイは中庭に残った。
***
「何かしますか」
朔が尋ねる。
「何を?」
「空を見るとか」
「見てる」
「歩く?」
ユイは中庭の中央を見る。
十歩ほど。
そこには日が当たっている。
壁際の石は冷たい。
「行かない」
「怖い?」
「うん」
「では、次に?」
「次も行かないかもしれない」
「分かりました」
進むことだけが試行の成功ではない。
今日は、扉から一歩。
それを自分で決めた。
***
空を鳥が横切った。
窓の部屋で見た鳥より、大きく見える。
羽音がした。
本物の音。
塔の内部で聞こえる、羽音に似た音とは違う。
短い。
遠ざかる。
「前に聞いた音と同じですか」
朔が尋ねる。
「違う」
「どう違う?」
「終わる」
鳥の羽音は、通り過ぎれば終わる。
塔の音は、どこから来たか分からないまま残る。
「空の音は、終わるんですね」
「この鳥のは」
全部の空を決めない。
***
決めた時刻が来た。
「戻る」
ユイが言う。
異常はない。
眠り区画からも、戻れとは言われていない。
もっと空を見ていられる。
それでも、戻る。
「理由は?」
マレアが尋ねる。
「時間」
「ほかには?」
「眠ってる人を、自分でも見る」
心配だから走って戻るのではない。
決めた帰路を歩く。
ユイは中庭へ背を向けた。
扉を越える前に、一度だけ振り返る。
空は、まだそこにある。
「閉めます」
ノエが告げる。
「うん」
扉が閉じた。
空が消えたのではない。
見えなくなっただけだった。
***
眠り区画へ戻ると、アナとトエがいた。
十一人の身体。
それぞれの呼吸。
入口から四番目の人物の右手は、胸の横に置かれている。
ユイは寝台へ近づく。
「触った?」
「落下しそうになった時だけ、手の下へ布を置きました」
トエが答える。
「手は動かした?」
「本人の指が止まったあと、寝台の縁から落ちない位置へ布ごと戻しました」
「何て言った?」
「触れる前に、手を支えます、と」
「返事は?」
「なし」
「息は?」
「直近三日間の範囲内」
ユイは本人の胸を見る。
紙はまだ見ない。
呼吸。
瞼。
指。
それから、アナの記録を読む。
「違うところは?」
アナが尋ねた。
「今は、指が少し曲がってる」
「記録時は?」
「伸びたあと、まっすぐだった」
「では、その後に変化しています」
「うん」
アナは新しい行を加える。
ユイが戻った時点で、右手指は軽度屈曲。
戻ったから変わったとは書かない。
***
「私がいなくても、見られましたか」
ユイが尋ねる。
「見ました」
アナが答えた。
「私と同じに?」
「同じかは分かりません」
「何を見た?」
「右手。呼吸。脈。目。ほかの十人に同じ動きがないこと」
「怖かった?」
「はい」
「私を呼びたかった?」
アナは少し黙った。
「呼べば早いと思いました」
「呼ばなかった」
「ユイが中庭にいることと、この人の状態を分けると決めていたからです」
「悪くなったら?」
「呼び戻しました」
「その前に、マレア?」
「医療上の変化なら」
「私じゃなく?」
「ユイは、医療処置をする人ではありません」
ユイは、その言葉を聞く。
拒絶ではない。
役目を奪った言葉でもない。
「うん」
小さく答えた。
***
トエが言う。
「ですが、この人の普段の手の動きを、私はユイほど知りません」
「知らない?」
「はい」
「これから見る?」
「見ます」
「同じにするため?」
「違いを見つけるために」
ユイは腰の青い袋から石を出す。
一つ。
入口から四番目の寝台を見た側へ移す。
「この人、前にも右手が動いた」
「いつですか」
「雨が強かった日の夜」
「記録にありますか」
「分からない」
「では、ユイの記憶として残してよいですか」
「うん。でも、雨が原因とは書かないで」
「時刻と天候が近かったという記憶」
「うん」
知識を渡す。
結論としてではない。
次に比較できる材料として。
***
十一人を見終えたあと、ユイ自身の身体確認を行った。
頭痛なし。
脈に大きな変化なし。
中庭で一度、眠り区画へ戻りたい衝動あり。
伝達内容を確認し、本人の判断で滞在継続。
帰還時刻どおり帰路へ移動。
「成功と書きますか」
セオが尋ねた。
「書かない」
ユイが答える。
「では、異常なし?」
「怖かった」
「身体異常は?」
「なかった」
「眠り区画は?」
「一人の手が動いた」
「中庭への移動との関係は?」
「分からない」
「アナとトエは対応できた?」
「見た」
「では」
「私と同じではない」
「不足がありましたか」
ユイは考える。
「違うものを見た」
「それは問題ですか」
「分からない」
「次も任せられますか」
「次に決める」
***
セオは見出しの下へ、結果を書いた。
ユイは本人が決めた経路を通り、中庭の扉から一歩進んだ位置で空と風を確認した。
滞在中、眠り区画の一名に右手指の動きを確認。
アナ・セルおよびトエ・ランが身体状態を個別に確認し、ユイへ事実を伝達。
ユイは報告を受けた上で、本人が決めた時刻まで中庭に滞在した。
帰還後、ユイ自身が十一人の身体を確認。
中庭への移動と、眠り区画の変化との因果関係は未確認。
「次に行うことは?」
セオが尋ねる。
空白の横。
次にすること。
決める者。
時刻。
「アナとトエが、一人ずつ見たことを私に教える」
ユイが言う。
「ユイが教えるのではなく?」
「私も教える」
「では、相互に?」
「難しい」
「何と書けば?」
「三人で、違ったところを言う」
セオは、そのまま近い言葉へ直した。
ユイ、アナ、トエが、それぞれの観察内容の相違を確認する。
「手順を統一するため?」
「違う」
「では」
「違いを消さないため」
***
中庭でユイを見た子どもの話は、夕方には食堂へ広がっていた。
白い髪の子が外へ出た。
眠り番が塔を離れた。
眠っている者を起こせるようになった。
空を見れば力が戻る。
どこで加わったのか分からない話もあった。
「訂正しますか」
アナが尋ねた。
ユイは食堂の入口から、人々の声を聞いている。
「眠り番じゃない」
「はい」
「外へ出てない」
「中庭です」
「起こしてない」
「はい」
「空で力も戻ってない」
「では、記録へ?」
「食堂で言う」
「ユイが?」
「うん」
***
ユイは人の多い食堂の中央へは行かなかった。
入口の近く。
戻れる扉のそば。
セオも、管理局からの訂正として先に話そうとはしなかった。
ユイが自分で声を出す。
「今日、中庭に行きました」
大きな声ではない。
それでも、近くの人が黙る。
「外には行ってません」
誰かが頷く。
「眠ってる人を、私が眠らせてるんじゃありません」
「でも、ユイがいない時に手が動いたって」
食堂の奥から声がした。
「動いた」
「やっぱり」
「アナとトエが見た」
「ユイが戻ったら静かになった?」
「戻った時には、もう止まってた」
意味が増える前に、順番を伝える。
「じゃあ、ユイがいなくても大丈夫?」
別の声。
ユイはすぐには答えない。
「大丈夫って、何」
「眠ってる人が」
「変わることはある」
「では」
「私がいても、ある」
ユイは言った。
「私がいない時は、アナとトエが見る。私がいる時は、私も見る」
「誰が一番分かるの?」
「その人を見る人」
「ユイじゃなく?」
「私だけじゃない」
食堂は静かだった。
その静けさが、理解なのかは分からない。
***
あとから、子どもがユイへ近づいた。
中庭で会った子。
「外、どうだった?」
「外じゃない」
「中庭」
「空があった」
「前からあるよ」
「うん」
「また行く?」
「次に決める」
「今度、木のところまで行けばいいよ」
子どもは中庭の中央にある木を知っている。
「行かないかもしれない」
「怖いから?」
「うん」
「木、動かないよ」
「葉は動いてた」
「風で」
「うん」
会話はそこで終わった。
子どもは、ユイを眠り番とは呼ばなかった。
それだけで噂が直ったとは決めない。
***
夜。
ユイは眠り区画にいた。
十一人を見終えたあと、窓のない壁へ背をつける。
「今日は外へ出ましたか」
朔が尋ねた。
「中庭」
「空を見た」
「うん」
「眠っている人から離れた」
「うん」
「戻ってきた」
「うん」
「自由になったと思いますか」
ユイは朔を見る。
「自由って、戻らないこと?」
「分かりません」
「私も」
ユイは腰の袋を持ち上げる。
十一個の石。
今日は、アナとトエも一人ずつ見た。
「外へ出るんじゃない」
「では?」
「戻れる場所を増やす」
眠り区画。
窓のある部屋。
中庭の扉の内側。
一歩だけ進んだ石の床。
どれか一つを捨てて、次へ行くのではない。
「中庭も、戻れる場所ですか」
「まだ分からない」
「では」
「次に行って、戻れたら」
今日一度帰れたから、永遠に帰れる場所になったとはしない。
それでも、場所は一つ増えかけている。
***
朔は、眠っている十一人を見る。
ユイが離れていた間も、アナとトエが見ていた。
ユイが戻ったあとも、二人がしたことは消えなかった。
知識を渡すことは、同じ人を増やすことではない。
ユイの代わりを作ることでもない。
違う目で見た事実を、重ねずに持ち寄ることだった。
ユイは空を見た。
眠っている者を見捨てずに。
アナとトエは十一人を見た。
ユイになろうとせずに。
その日、誰かが完全に自由になったわけではない。
ただ、ユイがいなければ何もできないという一つの物語が、少しだけ崩れた。
そしてユイ自身も、眠り区画だけが帰る場所ではないかもしれないと知った。
空は、彼女を呼ばなかった。
行けとも、戻るなとも言わなかった。
ただ、扉の向こうにあり続けた。




