第五章 勇者の名前 ④ 敵を作る紙
三日後の報告を作る前に、黒い人影の危険度審査が開かれた。
ラグ・テインの家を訪ねた翌朝。
塔下審査室の机には、見慣れない紙が置かれていた。
縁が赤い。
上部に、大きな王都文字が並んでいる。
「何の紙ですか」
朔が尋ねた。
グラド・ウェンが答える。
「敵対対象判定書です」
「もう、敵なんですか」
「敵かどうかを判定するための書式です」
「でも、紙の名前には敵対対象と書いてある」
グラドは紙を見る。
「この書式は、攻撃、殺害予告、侵入、流路破壊などが確認された場合に使用します」
「黒い人影について、確認されたのは?」
「殺害予告です」
「誰への?」
「勇者候補へ」
「攻撃は?」
「今回の接触では、確認されていません」
「侵入は?」
「黒い線を越えていません」
「道を壊した?」
「因果関係は未確認です」
敵かどうかを調べる紙。
だが、その紙を使う時点で、読む者はすでに敵を思い浮かべる。
***
審査に参加する者は、一人ずつ名乗った。
「グラド・ウェン。中央審査記録官。本日の進行と、既存規定との照合を行います」
「セオ・ラグナ。これまでの接触記録を提出し、事実と証言を分けます」
「ネラ・ヴォス。旧記録と、後から加えられた分類の経緯を確認します」
「ベド・カル。外郭警備の伝達上、必要な警戒情報を説明します」
「勇者候補第一位、イサラ・ベルン。勇者候補が現地へ接近する場合の危険と、対応条件について意見を述べます」
「エリオ・レイスです。黒い人影を現地で目撃しました」
肩書きを言わなかった。
だが、全員がエリオの立場を知っている。
「黒川朔です。ツヅリ村では、サクと呼ばれています。俺も、人影を見ました」
机には空席が一つあった。
ラグの家族は、審査には参加しない。
代わりに、家族が記録へ残すことを許可した二つの希望が、別の紙に書かれていた。
モナ・テイン。
ラグの名を、討伐の理由に勝手に使わないこと。
リサ・テイン。
ラグを害した者がいるなら、その事実を知りたいこと。
家族の意見という一つの欄には入っていない。
***
「最初に、確認された事実を読みます」
セオが言った。
黒い道の向こうに、人に見える黒い影が現れた。
朔、ノエ、エリオ、セオの四人が目撃。
四人全員が、
「勇者は、来るな」
「次に来た勇者は、殺す」
という発言を、同じ内容として知覚。
その後、人影は朔を「サク」と呼んだ。
人影は黒い線を越えていない。
武器は確認されていない。
攻撃行動は確認されていない。
こちらも黒い線を越えていない。
エリオは剣を抜いていない。
人影の名前、目的、正体は未確認。
原板余白の未確定語「ヴァルハ」との関係も未確認。
「六年前の記録は?」
グラドが尋ねた。
「別に読みます」
セオは紙を替えた。
六年前、黒い道の近くで子どもほどの黒い人影が目撃された。
勇者候補ラグ・テインが肩書きと名を述べた後、人影が「勇者は、来るな」と発言したとの証言あり。
ラグの剣は先端から黒く消失したと、ガウ・メイルが証言。
ラグ、フィオナ・セルク、記録員ミトは帰還していない。
人影が三人を殺害した事実は確認されていない。
現在目撃された影と、六年前の影が同一であることも確認されていない。
「一つの事件として扱いますか」
グラドが聞く。
「扱いません」
ネラが答えた。
「照合対象にはします。しかし、同一の者による継続行為とは書きません」
「理由は」
「近い場所で、似た姿を見たからです」
「それは同一性を支持しませんか」
「支持する材料です」
「では」
「確定する材料ではありません」
似ていることを消さない。
同じと決めない。
***
グラドが敵対対象判定書を中央へ動かした。
「書式に沿って確認します」
一つ目の欄。
対象名称。
「黒い人影」
セオが言った。
「短縮名称が必要です」
グラドが答える。
「なぜ?」
朔が尋ねた。
「警備指示、通行制限、緊急連絡を、同一の判定へ結びつけるためです」
「長い呼び方では?」
「記録上は可能です。現場の伝達では不便です」
ベドが口を開く。
「本人名未確認。警戒上の仮呼称ヴァルハ。現在、外郭ではそう伝えています」
「未確定呼称ではなく、警戒上の仮呼称?」
「警戒板を改訂した時の表現です」
「この紙には、どこまで入りますか」
「名称欄の幅では、ヴァルハまでです」
朔は赤い縁の紙を見る。
欄が短い。
最初から、長い説明を入れる場所ではない。
「では、紙の形が、未確認という言葉を落とすんですね」
「備考欄へ記載できます」
グラドが答える。
「名称を先に読む?」
「通常は」
「備考まで読まない人もいる」
「います」
「それでも、名称欄へ入れる?」
グラドはすぐには答えなかった。
***
「名称欄を空白にはできませんか」
エリオが尋ねた。
「空白の判定書は、ほかの警戒記録と照合できません」
「番号を使う?」
朔が言う。
「人影の番号を作れば、今度は番号が名前として使われます」
ネラが答えた。
Y.I.
K.K.
欄へ入った記号が、人へ貼られていった。
「では、どうすればいいんですか」
朔が尋ねる。
「完全に名前にならない短い呼称はありません」
ベドが言った。
「警備では、何かを呼びます」
「呼ばなければ伝えられない」
「はい」
「呼べば、名前になる可能性がある」
「はい」
どちらかを選べば、片方の危険は残る。
***
「名称と、本人名を分ける欄を作れませんか」
イサラが言った。
「本人名は未確認です」
「だから書くんです」
「どのように?」
「識別のために使用する言葉と、本人が名乗った名前を、同じ欄へ入れない」
イサラは紙を指した。
「この書式は、対象名称が本人名である場合と、管理上の呼称である場合を分けていません」
「多くの場合、同じだからです」
グラドが答える。
「今回は違います」
「新しい欄を追加すれば、既存書式との照合に時間がかかります」
「どれくらい?」
「今日中の判定が難しくなる可能性があります」
待つことの代償。
イサラは黙らない。
「では、今日の警備判断と、名称の登録を分けてください」
「判定書が完成しなければ、正式な通行制限を出せません」
「仮の安全指示は?」
「可能です」
「なら、危険への備えは今日出す。名称欄の作り方は、別に決める」
急ぐ側のイサラが、判定を遅らせた。
何もしないためではない。
今必要な部分だけを先に動かすためだった。
***
「先に、危険行為を判定します」
グラドが紙の二つ目の欄を読む。
敵対意思。
選択肢は三つ。
確認。
推定。
なし。
「未確認がありません」
朔が言った。
「推定に含まれます」
「殺すと言ったから、敵対意思は確認では?」
ベドが尋ねた。
「勇者へは」
イサラが答えた。
「それ以外へは確認されていません」
「特定対象への敵対意思」
グラドが言う。
「書式上は、確認になります」
「敵対意思という言葉が広すぎます」
エリオが言った。
「人影は、勇者を近づけないために脅した可能性があります」
「脅しも敵対行為です」
「はい」
「では確認でよいのでは?」
「勇者を殺そうとしていることと、勇者を殺すと言って退かせようとしていることは、同じですか」
グラドの指が止まる。
言葉としては、同じ殺害予告。
目的は違うかもしれない。
「結果として、勇者候補が近づけば生命の危険があると判断すべきです」
イサラが言った。
「本人の本当の目的が防御でも?」
「はい」
「敵とする?」
「いいえ」
イサラは続ける。
「危険であることと、敵であることを分けます」
***
グラドが別の紙を出した。
「行為別の補記を作ります」
「新しい手順ですか」
朔が尋ねる。
「既存判定書だけでは、今回の事実を十分に分けられないためです」
「何を書く?」
「発言。対象。条件。確認された行為。未確認の能力」
敵対意思という一つの名詞を、行ったことへ分ける。
セオが書き始める。
発言。
勇者は来るな。
次に来た勇者は殺す。
発言対象。
現地にいたエリオ・レイスを含む、勇者と呼ばれる者。
発言時の条件。
黒い線を挟んだ対面。
こちら側に勇者候補一名。
勇者候補は剣を抜いていない。
人影は線を越えていない。
確認された危険行為。
殺害予告。
未確認。
実行能力。
攻撃手段。
勇者以外への意図。
黒い線外での行動能力。
六年前の行方不明者との関係。
「この方が、現場で使いにくい」
ベドが言った。
「はい」
セオが答える。
「ですが、最初の記録には必要です」
「現場用は?」
「ここから必要な部分を抜き出す」
「また短くする時に、意味が落ちます」
朔が言う。
「落とさず短くする方法はありません」
ベドは答えた。
「では、何を落としたか残します」
ネラが言った。
完全には防げない。
だから、変わった場所を残す。
***
三つ目の欄。
危険能力。
六年前の剣の消失。
サナの腕の傷。
道の切断。
戻らなかった三人。
紙の上では、すべてが近くに並ぶ。
「この四つを、同じ人影の能力として入れますか」
朔が尋ねた。
「関連事象として」
グラドが答える。
「関連という言葉を読まない人は?」
「能力一覧として受け取る可能性があります」
ネラが言う。
「では、誰が見たかを先に書いてください」
朔は一つずつ確認する。
ラグの剣が黒く消えた。
ガウ・メイルの証言。
サナの腕の傷。
本人は人影を見ておらず、黒い線へ測定具を入れた際に発生。
道の切断。
サナが流路上の切断を確認。
人影との因果関係は未確認。
三人の所在不明。
六年前の調査後、帰還していない。
死亡は未確認。
人影による殺害も未確認。
「それでは、能力欄を埋められません」
グラドが言った。
「埋めないといけない?」
「危険度を決めるには、必要です」
「分からない能力を、分かる形へしなければ判定できない?」
「不明として判定します」
「不明は低い危険ですか」
「逆です」
グラドは答えた。
「殺害予告があり、能力が不明である場合、安全側へ高く見積もります」
「できると決める?」
「できないと決めないためです」
朔はイサラを見る。
「どう思いますか」
「正しいと思います」
イサラは答えた。
「人影を強く見せることになっても?」
「現場へ行く者に、能力がないと思わせるよりは」
「街では?」
「危険度だけが広がれば、怪物の物語になります」
「では」
「警備の備えは高くする。市民への説明は、確認された行為だけにする」
「同じ判定を、相手によって変える?」
「必要な情報が違います」
全員へ同じ紙を渡すことが、公平とは限らない。
***
「勇者候補への接近制限を提案します」
イサラが言った。
「内容は?」
グラドが尋ねる。
「単独で黒い線へ近づかない。勇者を示す外套、旗、銀環、抜身の剣を持ち込む場合は、事前審査を必要とする」
「持ち込まない場合は?」
「勇者候補であることが消えるわけではありません」
エリオが言った。
「はい」
「では、装備を外す意味は?」
「刺激条件を一つ減らす」
イサラは答える。
「相手が外套や銀環を勇者の印として見ている可能性があります」
「人を隠すためではない」
「はい」
「相手を欺く?」
ベドが尋ねる。
「勇者ではないと名乗るなら、欺きです」
イサラは答えた。
「勇者候補であることを問われれば、隠しません」
「では、見た目だけ変える?」
「戦う形で近づかないためです」
***
「エリオさんは、どうしますか」
朔が聞いた。
「次の調査から外れますか」
「まだ決めません」
「殺すと言われています」
「はい」
「だから、ほかの人を危険にする可能性がある」
「あります」
「行かない方が安全?」
「私がいなければ、反応条件を確かめられない可能性もあります」
「自分を試験にする?」
「その危険があります」
エリオは紙を見る。
「だから、一人では決めません」
「本人の意思だけでは足りない?」
「私が行きたいと思う理由に、知りたいという欲求が含まれます」
「勇気を示したい気持ちは?」
イサラが尋ねた。
エリオは少し考えた。
「ないとは言いません」
「それも記録しますか」
「判断に影響する可能性として」
エリオは自分で答えた。
***
敵対対象判定書の最後には、対応を選ぶ欄があった。
観察継続。
接近制限。
拘束。
討伐。
四つ。
「討伐を選ぶ条件は?」
朔が尋ねた。
「重大な危害が確認され、拘束または回避が困難な場合です」
グラドが答える。
「殺害予告だけでは?」
「通常は、接近制限です」
「通常」
「王都内部へ侵入する能力がある場合は、引き上げられます」
「その能力は?」
「未確認」
「では」
「現時点では、接近制限が妥当です」
イサラが言った。
「異議は?」
グラドが一人ずつ問う。
ベド。
「外郭警備として、異議なし。ただし緊急時の防御行動は制限しないでください」
セオ。
「異議なし。殺害予告の対象と、未確認事項を併記します」
ネラ。
「異議なし。六年前の記録を、現人影の行為として転記しないことを条件に」
エリオ。
「異議なし。勇者候補への接近制限は、保護ではなく、他者への危険低減も目的に含めてください」
朔。
「敵だと決めないなら」
「その言葉を、判定書へ入れますか」
グラドが尋ねた。
「入れられますか」
「備考へ」
「最初に読まれますか」
「通常は最後です」
また、後ろへ落ちる。
「では、表題を変えられませんか」
「敵対対象判定書を?」
「はい」
「既存規定との照合ができなくなります」
「この紙を使うと、敵だと決めていない人も敵対対象になる」
「書式名は、判定の結果ではありません」
「読む人は、そう思わないかもしれない」
グラドは紙の赤い縁を見る。
***
「副表題を付けます」
セオが提案した。
「何と?」
「危険行為および接近条件の暫定判定」
「敵対対象判定書の下に?」
「はい」
「小さい字で?」
朔が聞く。
「同じ大きさで」
グラドが答えた。
古い書式は消せない。
だが、今回何を決めた紙なのかを、同じ位置へ置く。
「結果欄にも書きます」
グラドは自分で筆を取った。
対象を敵と確定する判定ではない。
確認された殺害予告に基づき、勇者候補を含む接近者の生命保護と、対象への不要な刺激を避けるため、接近条件を定める。
「対象への保護も入れるんですか」
ベドが尋ねた。
「不要な討伐行動を防ぐことも、危険管理です」
イサラが答えた。
***
名称欄は、最後まで空いていた。
「本日中に警備指示を出します」
グラドが言う。
「名称が必要です」
朔は、細い欄を見る。
ヴァルハ。
すでに街を歩いている言葉。
使わなければ、別の呼び名が作られる。
使えば、本人の名前として固まる。
「欄を二つにしてください」
朔が言った。
「先ほどのイサラの案ですか」
「はい」
「識別呼称と、本人名」
「本人名は未確認と書く」
「既存書式には入りません」
「紙を貼り足せますか」
グラドは、ネラを見る。
「原板を傷つけない形なら」
ネラが答えた。
小さな紙片を、名称欄の上へ重ねる。
元の欄は消さない。
下に何があったかも分かるようにする。
新しい紙片には、二つの行。
警戒伝達上の仮呼称:ヴァルハ
本人名:未確認。本人と仮呼称との関係も未確認。
「順番は?」
朔が尋ねた。
「本人名を先にしますか」
エリオが言う。
グラドは書き直す。
本人名:未確認。
警戒伝達上の仮呼称:ヴァルハ。本人との関係は未確認。
短い欄からはみ出す。
それでも、切らなかった。
***
「この言葉は、正式名称になりますか」
朔が聞いた。
「なりません」
グラドが答える。
「検索では?」
「ヴァルハで照合されます」
「警備員は?」
「短く呼ぶ場合があります」
「市民は?」
「勇者殺しヴァルハと呼び続ける者もいるでしょう」
「では、この紙で止められることは?」
グラドは少し考えた。
「管理局が、ヴァルハを本人名として確定したとは言わせません」
「それだけ?」
「それは小さいことですか」
朔は答えなかった。
噂は止まらない。
子どもの遊びも。
討伐への期待も。
それでも、公式の紙が敵の名前を確定すれば、噂は根拠を得る。
その一歩だけは止められる。
***
「危険度は、接近制限」
グラドが読み上げる。
「討伐対象には指定しない」
「拘束は?」
「黒い線を越えず、現在地から離れない限り行わない」
「王都側へ越えた場合は?」
「行動を観察し、生命への危険が差し迫る場合は防御する」
「勇者候補が近づいた場合は?」
「事前審査。単独接近禁止。装備と名乗り方を含む接触条件を決める」
「市民への説明は?」
ベドが答える。
「黒い道への立入禁止。人影を見ても呼びかけない。勇者殺しという呼称は、管理局が確認した事実ではないと伝える」
「殺害予告は?」
「隠しません」
イサラが言った。
「勇者候補へ殺害予告があったことは伝えます」
「怖がらせます」
「はい」
「討伐を求める声が増える」
「可能性があります」
「それでも?」
「安心させるために消しません」
***
モナとリサの希望も読み上げられた。
モナ・テイン。
息子の名を、討伐の正当化へ勝手に使わないこと。
リサ・テイン。
ラグを害した者がいるなら知りたいこと。
「危険度判定の理由に、ラグ・テインの名を入れますか」
グラドが尋ねた。
「入れません」
イサラが答えた。
「六年前の所在不明者としては?」
「別記録で照合します」
「黒い人影の危険を説明する材料には?」
「未確認のため使いません」
「家族の希望に従うから?」
「それだけではありません」
イサラは言う。
「事実として確認されていないからです」
家族が許せば、未確認の死を危険度へ使ってよいわけではない。
***
判定書が完成する頃には、日が傾いていた。
赤い縁。
古い表題。
その下に加えられた新しい表題。
貼り足された名称欄。
長い備考。
別紙の行為記録。
六年前の照合記録。
家族の異なる希望。
一枚では収まらない。
「現場では、どれを持ちますか」
ベドが尋ねた。
「短い警戒指示を一枚」
グラドが答える。
「また、一枚にする?」
朔が言う。
「門番が、この全部を持つことはできません」
「何を残しますか」
ベドが自分で読み上げる。
本人名未確認。
警戒上の仮呼称ヴァルハ。
黒い道の向こうに現れる、人に見える影。
勇者候補への殺害予告を確認。
過去の殺害行為は未確認。
単独接近禁止。
呼びかけ、挑発、武器を抜く行為を避ける。
黒い線を越えない。
人影が線を越えた場合、まず退路を確保。
生命への差し迫った危険がある場合のみ防御。
原記録照合印。
「勇者殺しではない、と書きますか」
朔が尋ねた。
「殺していないとも確認されていません」
セオが答える。
「では」
「勇者殺しという呼称は、確認された事実ではない」
ベドが書き加えた。
否定しすぎない。
肯定もしない。
***
審査が終わる。
全員が役目を外す前に、グラドが確認した。
「この判定書を、新しい標準書式の参考にしますか」
「何を参考に?」
朔が聞く。
「本人名と仮呼称を分ける欄。危険行為と意図を分ける補記。未確認の過去事例を能力へ転記しない方法」
「同じ紙にする?」
「案として」
ネラが答える。
「今回の紙を、そのまま標準にはしません」
「なぜ?」
「次も同じ問題とは限らないからです」
第四章で、ユイが言ったことと同じだった。
「では、何を残しますか」
「この書式では足りなかったこと」
ネラは赤い縁の紙を見る。
「どこを貼り足したか。なぜ足りなかったか。誰が異議を出したか」
完成した形だけではなく、直した跡を残す。
***
審査室を出ると、廊下に若い職員が待っていた。
完成した警戒指示を、外郭へ運ぶ者だった。
「ヴァルハ対策書は、できましたか」
職員が尋ねる。
その言葉に、全員の足が止まる。
本人名未確認。
仮呼称。
関係未確認。
何枚もの紙を使って分けたものが、廊下へ出た瞬間、一つの言葉へ戻っていた。
「何と聞きましたか」
グラドが尋ねる。
「ヴァルハの危険度審査だと」
「誰から?」
「中央伝令室です」
もう、最初の場所は分からない。
「この紙の対象は、本人名が確認されていない黒い人影です」
グラドは言った。
「ヴァルハは、警戒上の仮呼称です」
「はい」
職員は頷く。
「では、ヴァルハ対策書を外郭へ運びます」
言い直されなかった。
悪意はない。
伝達するには、その方が短い。
***
「止めますか」
朔が尋ねた。
「何を?」
グラドが聞き返す。
「あの呼び方を」
「止めれば、別の職員が同じように呼びます」
「では、何もしない?」
「いいえ」
グラドは職員を呼び止めた。
「原記録照合印があることを、受取人へ口頭で伝えてください」
「全員に?」
「最初の責任者へ」
「分かりました」
「本人名ではないことも」
「はい」
職員は今度こそ、最後まで聞いた。
それでも、次にどう話すかは分からない。
***
エリオが、廊下の窓から街を見る。
「紙を直しても、言葉は先に行きますね」
「はい」
朔が答える。
「では、無駄でしたか」
「討伐対象にはなりませんでした」
「はい」
「ラグさんたちを殺したことにもされなかった」
「はい」
「本人の名前だとも」
「はい」
止められたものはある。
「でも、ヴァルハという呼び方は残った」
「はい」
「敵ではないと決めたわけでもない」
「はい」
エリオは白い外套の襟へ触れる。
「危険だと書かれた者が、敵になるとは限りません」
「でも、危険から守る人は、勇者にされる」
「私たちですね」
「イサラさんも」
エリオは否定しなかった。
***
外郭へ警戒指示が届く頃、王都の広場には新しい掲示が出ていた。
管理局の正式な紙ではない。
巡回商人が作った手書きの紙。
黒い人影の絵。
白い剣を持つ勇者。
大きな文字。
勇者殺しヴァルハに、第一位イサラが挑む。
誰が描いたかは、下に小さく書かれている。
酒場の語り手の名。
絵師の名。
紙を売る商人の名。
それでも、黒い人影の本人名はない。
イサラが戦うと言った記録もない。
***
「剥がしますか」
巡回職員がイサラへ尋ねた。
イサラは紙を見る。
「通行を妨げていますか」
「いいえ」
「虚偽記載として罰する規定は?」
「王都の役人を騙った場合は。これは、物語紙として売られています」
「では、今すぐ剥がす権限はありません」
「討伐すると誤解されます」
「はい」
「どうしますか」
「明日の報告で、討伐は決定していないと伝えます」
「この紙より遅いです」
「はい」
イサラは認めた。
「でも、私の言葉として残します」
***
朔は、赤い縁の判定書を思い出した。
敵対対象判定書。
その紙は、人影を討伐対象にはしなかった。
本人名も確定しなかった。
確認された危険と、未確認の意図を分けた。
慎重に作られていた。
だが、街へ歩いたのは、その長い判定ではない。
勇者殺しヴァルハ。
第一位イサラ。
敵と勇者。
二つの短い名前だった。
紙だけが、人を敵にするわけではない。
紙を短く読む口。
安心を求める人。
危険を伝えたい人。
物語を売る人。
守ってほしい人。
それぞれが、少しずつ敵を作る。
だから、誰か一人を罰しても終わらない。
朔は掲示を剥がさなかった。
正しいからではない。
今、剥がせば、書かれたことが消えたように見えるからだった。
代わりに、誰が、いつ、何を根拠に書いたかを確認した。
敵を作った紙も、なかったことにはしない。
どこで、未確認だった人影が勇者殺しへ変わったのか。
その道を残すために。




