第五章 勇者の名前 ① 余白から出た名
ヴァルハという文字は、記録室から持ち出されていなかった。
六年前の原板は、ネラ・ヴォスが管理する棚へ戻された。
写しには、
原板余白に存在する未確定語。表記はヴァルハ。筆者、対象、意味は未確認。
とだけ記された。
名称欄には入っていない。
黒い人影の記録とも、別の紙に分けられている。
だから朔は、少なくともすぐには、その言葉が誰かの名前として使われることはないと思っていた。
翌朝までは。
***
観察室の窓から、中庭が見えた。
治療区画へ薬草を運ぶ荷車。
干された灰色の布。
交代を終えた職員。
その間を、二人の子どもが走っている。
片方は木の棒を持っていた。
銀色の布を肩へ掛け、もう一人を追っている。
「待て、ヴァルハ!」
朔は窓へ近づいた。
追われている子どもは、黒い布を頭から被っている。
「勇者は来るな!」
黒い布の子が叫ぶ。
木の棒が振られる。
黒い布が翻る。
「勇者殺しだぞ!」
笑い声。
遊んでいる。
誰かを本当に殺そうとしているわけではない。
子どもたちは、聞いた話へ身体を与えているだけだった。
それでも、その言葉ははっきり聞こえた。
ヴァルハ。
記録室の余白にあったはずの文字。
***
「セオさんを呼んでもらえますか」
朔は扉の外にいた職員へ頼んだ。
「急ぎですか」
「今、決められません」
「では、通常の連絡で?」
「子どもが、ヴァルハという言葉を使っていました」
職員の顔が変わる。
「分かりました。急ぎとして送ります」
何が起きているか分からない。
だが、普段と違うことは伝わった。
***
セオが来る前に、中庭の遊びは終わった。
子どもたちは職員らしい女性に呼ばれ、荷車の向こうへ消えた。
黒い布だけが、地面に残されている。
風で端が動いていた。
「どのように使っていましたか」
到着したセオが尋ねた。
「黒い影を、ヴァルハと呼んでいました」
「ほかには?」
「勇者殺し、と」
セオの筆が止まった。
「誰が言ったか、分かりますか」
「子どもです。でも、その子が作ったとは限りません」
「本人へ聞きますか」
「叱るためではなく?」
「情報の出所を確かめるためです」
「本人が話したくなければ、そこで止めてください」
「分かりました」
***
子どもは二人とも、職員の家族だった。
黒い布を被っていた子は、ネムと名乗った。
木の棒を持っていた子は、ロウ。
朔は、二人を観察室へ呼ばなかった。
中庭の端にある長椅子へ、自分たちが出向いた。
管理局の職員が囲めば、問いかけも取り調べに見える。
同席するのは、朔とセオ。
少し離れた場所に、二人の保護者。
「悪いことをした?」
ネムが先に聞いた。
「遊んだことについて、俺は決めません」
朔は答えた。
「ヴァルハという言葉を、どこで聞いたか知りたいです」
「門の人」
「誰ですか」
「名前は知らない」
「どの門?」
「北の門。父さんにお昼を持っていった時」
ネムの父親は、外郭警備の補助員だった。
「その人が、何と言いましたか」
「勇者を食べる黒いのがいるって」
「食べる?」
セオが聞き返す。
「食べるって言った?」
ネムはロウを見る。
「殺すだったかも」
「僕は、勇者殺しって聞いた」
ロウが言う。
「ヴァルハが?」
「うん」
「ヴァルハは、その黒いものの名前だと言われましたか」
二人は少し考えた。
「みんな、そう呼んでた」
誰か一人が教えた言葉ではない。
その場にいた人たちが、すでに同じ言葉を使っていた。
「誰が最初かは?」
「知らない」
「分かりました」
朔は言った。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「ヴァルハって、本当はいないの?」
ロウが尋ねる。
朔は答えを急がなかった。
「黒い道の向こうに、人に見える影はいました」
「やっぱりいる」
「ヴァルハと名乗ったわけではありません」
「でも、勇者を殺すって言った?」
「次に来た勇者は殺す、と言いました」
事実を隠さない。
だが、一つへまとめない。
「じゃあ、勇者殺しじゃん」
ネムが言う。
「そう呼びたくなる理由はあります」
「違うの?」
「その人が、今まで勇者を殺したかは確認できていません」
「でも、殺すかもしれない」
「はい」
「じゃあ、悪いやつ?」
朔は黒い布を見る。
「危険かもしれません」
「悪いかは?」
「まだ、その人に聞いていません」
子どもには、長い答えだった。
ネムは納得した顔をしなかった。
それでも、朔は短くするために嘘をつかなかった。
***
北門へ向かうことは、朔の現在の移動条件には含まれていなかった。
セオが警備記録を調べる。
朔は中庭の待機場所で、回答を待った。
午後になって、エリオが来た。
白い外套を着ている。
今日は内塔調査ではない。
王都内での通常任務を終えて戻ったところだった。
「外で、何か聞きましたか」
朔が尋ねる。
「ヴァルハについてですか」
エリオは、すでに知っていた。
「どのように?」
「西側の巡回所で、注意事項として説明を受けました」
「何と?」
「勇者候補に敵対する黒色人影。未確定呼称ヴァルハ」
「未確定呼称まで?」
「説明では、そうでした」
「そのあと、ほかの人は?」
エリオは少し黙る。
「衛兵の一人が、『勇者殺しヴァルハ』と言いました」
「訂正しましたか」
「未確定だと伝えました」
「変わりましたか」
「その場では」
「その場では?」
「次の巡回所では、すでに『黒い道のヴァルハ』と呼ばれていました」
公式の説明には、未確定という言葉がある。
口から口へ渡る時、その部分から落ちていく。
「エリオさんは、どう呼びましたか」
「黒い人影と」
「ヴァルハは?」
「使いませんでした」
「それで伝わりましたか」
「相手から、ヴァルハのことですか、と聞き返されました」
呼ばないだけでは、消えない。
***
「討伐について聞かれました」
エリオが続けた。
「誰に?」
「巡回所の責任者です」
「何と答えましたか」
「討伐は決定していない。再調査も未定だと」
「相手は?」
「安心したようには見えませんでした」
危険な存在がいる。
勇者を殺すと言った。
それなのに、王都はまだ何もしない。
そう聞こえたのかもしれない。
「エリオさんに倒してほしいと言いましたか」
「直接は」
「直接ではなく?」
「『勇者候補がいるなら安心ですね』と」
願い。
期待。
命令ではない。
だが、断れば不安を置いていく言葉。
「何と返しましたか」
「危険に備えることと、すぐに攻撃することは同じではない、と」
「伝わりましたか」
「分かりません」
エリオは、自分の白い外套を見る。
「私は名前だけで名乗ることを選べます」
「はい」
「しかし、この服で街を歩けば、相手が先に勇者候補だと知っています」
紙から肩書きを外しても、他人の目からは外れない。
「今日は着ない方がよかったと思いますか」
朔が尋ねる。
「任務上、着る必要がありました」
「では」
「着たことと、街が私をどう見るかは、両方残ります」
自分が選んだ服。
制度が求めた服。
街が見た勇者。
どれか一つではない。
***
セオが戻ったのは、夕方だった。
警備引継ぎ板の写しを三枚持っている。
「発生経路を完全には追えませんでした」
「追えたところまで教えてください」
最初の一枚。
中央管理局から外郭警備へ送られた注意書き。
セオが読む。
「巡礼路断絶区画において、人に見える黒い影を複数名が確認。影は勇者候補に対し、『勇者は来るな』『次に来た勇者は殺す』と発言。武器の有無、正体、経路切断との関係は未確認。原板余白に未確定語『ヴァルハ』あり。対象との関係は未確認」
「そこまでは、分かれています」
「はい」
二枚目。
外郭警備用に作られた短縮版。
「黒い道の人影。勇者候補への殺害予告あり。警戒呼称ヴァルハ。接近、応答を避けること」
「警戒呼称?」
「外郭で迅速に共有するため、当番記録員が作った言葉です」
「本人の名前ではないことは?」
「省かれています」
「誰が作りましたか」
「外郭記録員、ベド・カル」
「本人へ聞きましたか」
「はい」
「何と?」
「長い説明では、交代時に重要部分を読み落とす者がいる。短い呼称が必要だった、と」
「ヴァルハを選んだ理由は?」
「原板に残っていた唯一の短い語だからです」
消さないために残した文字。
使いやすかったから、呼び名になった。
「悪意は?」
「確認できません」
「本人は、意味を変えたと思っていますか」
「警戒のための仮の呼び方で、名前ではないと言っていました」
「聞く人も、そう受け取りましたか」
「受け取らなかった者がいたのでしょう」
三枚目。
北門の口頭引継ぎを、後から聞き取った記録。
「勇者を襲う黒い影、ヴァルハに注意。勇者候補は単独で近づかないこと」
「殺すは?」
「その後の会話で加わったようです」
「誰が?」
「六年前の行方不明者の話を知る衛兵が、ラグ・テインたちもヴァルハに殺されたのではないか、と発言しています」
「確認されていない」
「はい」
「それが、勇者殺しになった?」
「可能性が高いです」
人影の発言。
未確定語。
六年前に戻らなかった勇者候補。
警戒のための短縮。
すべて、別の紙では分かれていた。
同じ場所で話された時、一つの物語になった。
***
「ベドさんに会えますか」
朔が尋ねた。
「本人は同意しています」
「今から?」
「外郭勤務を終えたあと、こちらへ来る予定です」
「責めるためではありません」
「そう伝えています」
「でも、責任がないと決めるためでもありません」
「それも」
***
ベド・カルは、日が沈んだあとに来た。
三十代ほどの男。
厚い指。
右耳に、小さな欠けがある。
制服の袖には、乾いた泥。
「ベド・カルです。外郭記録員です」
「黒川朔です。ツヅリ村ではサクと呼ばれています」
「知っています」
「どこで?」
「注意書きに」
朔の名も、外郭へ出ている。
「何と書かれていますか」
「黒い人影を目撃した、条件付観察中の殻由来児童」
朔はセオを見る。
「その説明は、誰が作りましたか」
「別に確認します」
今は、ベドの話。
問いを増やしすぎない。
***
「警戒呼称ヴァルハという言葉を作りましたか」
「はい」
「なぜ、警戒呼称にしたんですか」
「名前と書くのは正確でないと思ったからです」
「未確定語のままでは?」
「現場で使えません」
「なぜ」
「警備では、同じものを同じ言葉で呼ばないと伝達が遅れます」
「人影、と呼ぶのでは駄目でしたか」
「どの人影か分からない」
「黒い道の人影」
「長い」
「長いと危険ですか」
ベドは少し苛立ったように息を吐いた。
「門で異常が起きた時、説明に時間を使えません」
「ヴァルハと呼べば、何が分かりますか」
「勇者候補を脅した黒い影だと、すぐ共有できる」
「六年前の人影と同じだと?」
「同じ可能性が高い」
「確認は?」
「されていない」
「では、別の影でもヴァルハと呼ぶ?」
ベドは黙った。
「同じ場所で、同じように勇者を拒めば」
「同じように、ですか」
「現場では、完全な確認を待てないことがあります」
イサラはまだ来ていない。
だが、急ぐ側の理屈はすでにここにある。
「呼ばないことで、警備員が死ぬ可能性も考えました」
ベドが言った。
「はい」
「私は、紙をきれいにするためにいるのではありません」
「はい」
「門にいる人間を帰すために、短くしました」
完全には間違っていない。
短い呼び名が、命を守る場合もある。
「その呼び名で、別の人を攻撃する可能性は?」
朔が聞いた。
「あります」
「勇者殺しという噂が広がる可能性は?」
「そこまでは考えませんでした」
「今は?」
「考えています」
「警戒呼称を消しますか」
ベドは即答しなかった。
「消せば、現場では別の呼び名が作られます」
「もっと悪い名前になるかもしれない」
「はい」
紙から消すだけでは、口から消えない。
***
「では、どうしますか」
セオが尋ねた。
朔へだけではない。
ベドにも。
「警戒呼称を残すなら」
朔は言った。
「使うたびに、本人名ではないことも一緒に伝えられますか」
「長くなります」
「最初の引継ぎでは?」
「可能です」
「口頭では省かれる?」
「おそらく」
「では、聞き返せる形を残す」
「どういう意味ですか」
「ヴァルハという言葉だけを見た人が、何を指す言葉か、どこで意味が増えたか確認できるようにする」
K.K.と同じ。
最初の板へ戻れるようにする。
「警戒板から、原記録へ辿れる印をつける?」
セオが言う。
「はい」
「現場の衛兵が、毎回原記録を読む時間はありません」
ベドが答える。
「全員が読むためではありません」
「では」
「疑問を持った人が戻れるためです」
近い欄へ入った経緯。
誰が、なぜ短くしたのか。
それが消えなければ、最初から名前だったことにはなりにくい。
「名前ではない、と板の上部に入れます」
ベドが言った。
「上部?」
「ヴァルハの前に置きます」
「警戒呼称より先に?」
「はい」
ベドは自分の言葉を考える。
「本人名未確認。警戒上の仮呼称、ヴァルハ」
「勇者殺しは?」
「使用しません」
「六年前の行方不明者との関係は?」
「未確認」
「黒い影が同一かは?」
「未確認」
長くなる。
だが、最初に一度は読む。
「現場で短く呼ぶ時は?」
「ヴァルハになるでしょう」
「それを止められますか」
「止められないと思います」
ベドは正直に答えた。
「では、短く呼んだ人を罰しますか」
「しません」
「なぜ?」
「私も使わせるために書いたからです」
作った者が、使った者だけへ責任を渡さない。
***
「俺の記録にある、殻由来児童という言葉も確認してください」
朔が言った。
「今日の目的と違います」
セオが答える。
「でも、俺の名前も同じ紙から外へ出ています」
「別の調査にしますか」
「はい」
混ぜない。
今は、ヴァルハという言葉。
朔自身の呼ばれ方は、別に問う。
***
ベドが帰ったあと、ネラが記録室から来た。
警戒板へ原板照合印を付ける作業を引き受ける。
「名前欄へ入れなくても、口には欄がありませんね」
ネラが言った。
「どういう意味ですか」
「人は話す時、毎回『未確定語』『筆者不明』『対象不明』とは言いません」
「はい」
「一番短いものを、名前の場所へ置く」
「止められますか」
「完全には」
「では、余白へ残したことは間違いでしたか」
ネラは原板の写しを見る。
「書かなければ、ヴァルハという音は消えていたかもしれません」
「はい」
「書いたから、人影の名前にされた」
「はい」
「どちらが正しかったですか」
朔が尋ねる。
ネラは答えなかった。
「今、消しますか」
「消しません」
「なぜ?」
「ミトが書いた可能性があるから?」
「それもあります」
「では」
「誰かが、六年前に何かを見て、その言葉を残した。今、その意味を勝手に決める人がいるからといって、最初に残した人の行為まで消したくありません」
書いたこと。
使われたこと。
意味を変えられたこと。
分けて残す。
「書かなければ消える」
朔は言った。
「はい」
「でも、書けば、その通りに使われるとは限らない」
「はい」
「それでも書く?」
「書いたあとに、どう読まれたかも書きます」
ネラは答えた。
記録だけでは、言葉の歩き方を止められない。
だが、どこで道を曲がったかは残せる。
***
翌朝、警戒板は書き換えられた。
本人名未確認。警戒上の仮呼称:ヴァルハ。
その下に、
黒い道の向こうに現れた、人に見える影。
勇者候補に対する殺害予告あり。
六年前の人影との同一性、経路切断との関係、過去の殺害行為は未確認。
原板余白の未確定語を、外郭記録員ベド・カルが警戒伝達のため仮呼称として採用。
原記録照合印。
作った者の名前も入った。
理由も。
意味が増えた場所も。
***
「これで噂は止まりますか」
朔が尋ねた。
「止まらないでしょう」
セオが答える。
「では、意味がない?」
「警備員が、公式に確認できる内容は変わります」
「街の人は?」
「公式記録を読まない者もいます」
「では」
「人から聞くしかありません」
記録で作られたものでも、記録だけでは直せない。
誰かが口で渡した言葉は、別の誰かの口から問い直す必要がある。
***
中庭では、昨日と同じ子どもたちが遊んでいた。
今日は黒い布を使っていない。
木の棒もない。
地面へ丸を描き、石を投げ入れている。
朔は声を掛けなかった。
ヴァルハ遊びをやめた理由も聞かなかった。
親に叱られたのかもしれない。
別の遊びがしたくなっただけかもしれない。
子どもの遊びが変わったから、噂が消えたとは決めない。
***
昼過ぎ、塔の外から長い鐘が鳴った。
王都の正門が開く時の鐘。
中庭にいた職員たちが顔を上げる。
「誰か帰ったんですか」
朔が尋ねる。
エリオが、塔の上の旗を見る。
「東方巡礼隊です」
「誰が?」
「勇者候補第一位、イサラ・ベルン」
周囲の空気が変わった。
荷車を押していた男が、隣の職員へ言う。
「第一位が戻ったなら、ヴァルハも終わりだな」
声は大きくなかった。
誰かを煽るためでもない。
安心したかっただけかもしれない。
だが、その一言の中で、まだ名前を持たない黒い影は敵になり、まだ何も決めていないイサラは、それを倒す勇者になった。
どちらにも、本人の言葉はなかった。
***
ヴァルハという文字は、余白から出ていた。
警戒板へ。
門番の口へ。
子どもの遊びへ。
そして、帰還した勇者候補へ向けられる期待の中へ。
一度歩き始めた言葉を、元の余白へ押し戻すことはできない。
だから朔は、消そうとはしなかった。
誰が書いたか。
誰が短くしたか。
どこで勇者殺しという意味が加わったか。
その道を一つずつ残す。
名前ではなかったものが、名前にされた場所を忘れないために。
正門の鐘が、もう一度鳴った。
まだ会っていない勇者の名前が、街へ広がる。
同じ街で、本人から受け取っていない敵の名前も、すでに歩いていた。




