第四章 眠りの道 ⑬ 約束の時刻
翌朝、ユイは窓のある部屋へ移った。
外へ出たわけではない。
内塔の生活区画から、渡り廊下を二つ越えた先。
空が見える、小さな観察室。
最初の移動試行は、四分の一刻だけだった。
扉を完全には閉めない。
アナが室内に残る。
マレアが移動前後の身体を見る。
眠りの区画にはトエが残り、十一人の呼吸を一人ずつ確認する。
異常が起きた場合、誰に、何が起きたかをユイへ伝えてから戻る。
前に決めた条件だった。
「行きますか」
アナが尋ねる。
「うん」
「途中で戻りたくなったら?」
「言う」
「理由は?」
「言える時は言う」
ユイは自分の足で部屋を出た。
***
観察室の窓は、高くなかった。
ユイの目の高さに合わせて、壁の途中から始まっている。
外には王都の屋根。
煙突。
乾かされた白い布。
その向こうに、薄い青の空があった。
ユイは窓へ近づいた。
触れない。
少し離れた場所で止まる。
「空です」
朔が言った。
「見れば分かる」
「はい」
ユイは、しばらく何も言わなかった。
鳥が一羽、塔より低い場所を横切る。
「小さい」
「遠いからです」
「塔の中では、もっと大きな音がする」
「鳥の?」
「羽の音みたいなもの」
実際の鳥の羽音ではないのかもしれない。
ユイは、空を見たまま呼吸を続けている。
速くない。
肩にも力は入っていない。
マレアが後ろから観察する。
「頭痛は?」
「ない」
「眠っている者の声は」
「いつもより遠い」
「聞こえなくなった?」
「違う。遠い」
消えたわけではない。
距離がある。
「不安ですか」
朔が聞く。
「少し」
「戻りますか」
「まだ」
ユイは自分で時間を選んだ。
***
四分の一刻が終わる少し前。
眠り区画から連絡が来た。
十一人の呼吸に変化なし。
手の動きなし。
新しい発声なし。
ユイは、伝達板の言葉を最後まで聞いた。
「もう少しいられますか」
アナが尋ねる。
延長の申請は可能だった。
身体にも、眠る者にも、今のところ変化はない。
ユイは窓の外を見る。
雲の端が、ゆっくり動いている。
「戻る」
「何かありましたか」
「時間」
「延長できます」
「最初は、少しって決めた」
安全だから、約束を伸ばす。
嬉しいから、戻るのを遅らせる。
それをしなかった。
「次は、もう少し長くしますか」
朔が聞く。
「次に決める」
ユイは窓へ背を向けた。
自分で歩いて来た道を、自分で戻った。
***
移動後の確認でも、異常はなかった。
ユイの頭痛なし。
眠っている十一人にも、確認できる変化なし。
セオは記録の見出しを、
短時間外景観察
と書こうとした。
「外景って何」
ユイが聞く。
「外の景色です」
「私は、空を見た」
「では、空を見るための短時間移動試行」
「うん」
「成功と書きますか」
セオが問う。
ユイは少し考えた。
「今日、行って戻った」
「成功ではなく?」
「次も同じか分からない」
セオはそのまま書いた。
ユイは、窓のある部屋へ移動した。
空を見た。
本人が決めた時刻に戻った。
移動中および帰還直後に、確認できる身体的異常なし。
眠り区画の十一人にも、確認できる変化なし。
「次の移動範囲は?」
「この記録を見てから、ユイ本人と改めて協議します」
マレアが答えた。
範囲は広がった。
だが、自由になったとは書かなかった。
***
昼前、サナから連絡が来た。
黒い道へ残した測定石が、一度だけ光った。
誰も近づいていない。
旧観測室の接続具も使われていない。
眠り区画にも変化はない。
「いつですか」
朔が聞く。
「昨日、帰還時刻として定めていた時刻です」
サナが答えた。
「時刻に反応した?」
「そう見えます」
「昨日の時刻を、道が知っていた?」
「分かりません」
「今日も同じ時刻に確認しますか」
セオが尋ねる。
黒い道へ行けば、何かが現れるかもしれない。
外側の流れ。
PATH。
黒い人影。
「何をするためですか」
朔が聞く。
「測定石の反応が、同じ時刻に再現するかを見る」
「回収は?」
「しません」
「黒い線へ近づく?」
「三重の横線までです」
「人影が現れたら?」
部屋が静かになる。
「話せる相手かを確かめる」
セオが答えた。
「昨日の調査と目的が混ざります」
「では、分けます」
サナが言った。
「測定石の時刻反応を確認する。人影が現れても、今回は接触を目的にしない」
「声を掛けられたら?」
「聞こえたことだけを持ち帰る」
エリオが答えた。
「問い返さない?」
「相手が危険を告げる場合、確認が必要になるかもしれません」
「では、全く話さないとは決められない」
「はい」
完全な沈黙も、現地で判断を奪う。
「こちらから名前は押しつけない」
朔が言った。
「相手に何と呼べばよいかを問うことは?」
「今回はしません」
「なぜ?」
「答えを聞くために行くのではないからです」
近くに現れても、全部を聞かない。
***
参加する者は、前回より少なくした。
サナは内塔連絡所で測定板を見る。
眠り区画にはユイ、アナ、トエ、マレアが残る。
黒い道へ向かうのは、
朔。
ノエ。
エリオ。
セオ。
マレアは朔の身体を確認した後、言った。
「私は同行しません」
「止める人がいなくなります」
「身体の異常を現地で診る人は、必要です」
朔が答える。
「では、同行者を増やす?」
「今回の目的に、私が必要だと思います」
マレアは眠り区画を見る。
「ですが、昨日の反応後です。十一人の身体から治療官を二人とも離せません」
どちらも必要。
同じ人が二つの場所には立てない。
「調査をやめますか」
朔が聞く。
「それも選択です」
セオが言った。
「現地の身体確認を誰が行えますか」
「ノエは基礎確認の訓練を受けています」
ノエが答える。
「脈、呼吸、意識の確認まで。治療判断はできません」
「異常があれば?」
「その場で戻る」
マレアが言う。
「診断しようとしない。原因も探さない」
「それを条件にします」
朔は答えた。
***
リオへ、目的と参加者を送った。
返事は早かった。
「時刻を見るために行って、時刻を越えるな」
朔は一度だけ読んでもらった。
「帰還時刻は?」
ルカが聞く。
「測定石が光ると予想される時刻の、四分の一刻後までに内塔連絡所へ戻ります」
「人影が現れても?」
「戻ります」
「答えが途中でも?」
エリオが問う。
朔は頷く。
「途中で帰ります」
それを先に決める。
***
黒い道は、前と変わらなかった。
三重の横線。
その先に、黒い線。
向こう側の床。
届かない経路灯。
前回残した測定石と、測定具の箱。
どちらも同じ場所にある。
「人影は?」
セオが尋ねる。
「見えません」
朔は答えた。
PATHもない。
K.K.も。
火種入れも鳴らない。
四人は、三重の横線より前に立つ。
誰も測定具へ近づかない。
***
サナの声が連絡板から届く。
「奥から塔へ向かう流れは、普段より弱い状態です」
「外側の流れは?」
「確認できません」
「眠り区画は?」
ユイの言葉を、アナが送る。
「十一人の呼吸に変化なし。手も動いていない」
時間が進む。
黒い道には何も起きない。
待つことだけが続く。
エリオは剣へ触れない。
白い外套もない。
ノエは網箱の擦り傷を親指で確かめている。
セオは、何も起きていない時間も記録する。
「あと、どれくらいですか」
朔が聞く。
「測定石が前回光った時刻まで、砂一つ分」
セオが答えた。
***
砂が落ちる。
測定石は光らない。
「時刻です」
セオが言った。
「変化なし」
サナからも届く。
「測定板上、反応なし」
「前回と同じ結果ではない」
「はい」
同じ時刻。
同じ場所。
だが、条件は違う。
「待ちますか」
ノエが尋ねる。
帰還まで、まだ四分の一刻ある。
「決めた範囲まで」
朔が答えた。
反応がないから、すぐに失敗としない。
反応を得るために、何かを加えもしない。
名前を呼ばない。
火を開けない。
黒い線へ触れない。
***
半分の砂が落ちた。
変化なし。
リオから時刻が届く。
「帰り始める時刻や」
約束した帰還時刻ではない。
そこへ間に合うために、動き始める時刻。
「戻ります」
朔が言った。
誰も異議を出さない。
答えはなかった。
だから帰るのではない。
答えが出る時刻を、自分たちで伸ばさないために帰る。
ノエが網箱を持ち直す。
セオが記録板を閉じる。
エリオが帰路へ向く。
***
黒い線の向こうで、何かが動いた。
朔が最初に見た。
「止まってください」
四人が止まる。
帰路へ向いたまま。
振り返るかどうかを、確認する時間はなかった。
朔だけが身体を半分戻す。
黒い線の向こう。
灯りのない道。
そこに、小さな影が立っていた。
子どもに見える。
朔より、少し背が高い。
輪郭へ黒いものがまとわりつき、服も髪も見えない。
顔の位置だけが、さらに暗い。
腕は身体の横。
武器は見えない。
「人影」
朔が言う。
「全員、見えますか」
エリオが振り返る。
「見えます」
ノエ。
「黒い影。子どもほどの背丈」
セオも見る。
「確認しました」
今度は、朔だけではない。
***
火種入れが鳴った。
かた。
一度。
腰の青い布が温かくなる。
朔は触れない。
「布に変化を感じます」
「温度?」
ノエが尋ねる。
「はい。本人の感覚だけです」
影が、わずかに首を傾けた。
その動き。
何かを考える時、ハルがしていた仕草に似ている。
似ているだけ。
黒い影から声がした。
「勇者は、来るな」
六年前の証言と同じ言葉。
声は若い。
子どものようにも聞こえる。
だが、黒い道の振動が重なり、本人の声かは分からない。
***
エリオが、一歩出ようとした。
赤い封は切れていない。
朔が腕を伸ばす。
触れない。
動きだけで止める。
エリオは自分で足を止めた。
「エリオ・レイスです」
肩書きを先に置かない。
「今日は、道を越えません」
影は動かない。
「聞きたいことがあります」
朔がエリオを見る。
帰り始める時刻は、もう来ている。
「今は聞きません」
朔が言った。
エリオの唇が閉じる。
影の方へではなく、朔を見る。
「戻る時刻ですね」
「はい」
***
黒い影が、もう一度声を出した。
「勇者」
その一語だけ。
エリオは答えない。
「次に来た勇者は、殺す」
脅し。
予告。
警告。
何のためかは分からない。
「聞こえました」
セオが言う。
「全員、同じ内容ですか」
「はい」
ノエ。
エリオも頷く。
朔にも、同じ言葉として聞こえた。
「理由を聞きますか」
エリオが朔へ問う。
聞きたい。
なぜ勇者を拒む。
誰を守っている。
ラグやフィオナに何が起きた。
ハルなのか。
全部、目の前にある。
「帰ります」
朔は答えた。
***
影が一歩近づく。
黒い線は越えない。
向こう側の床。
その上で止まる。
朔の腰の青い布が、さらに温かくなる。
今度は、火種入れが鳴らない。
「ハ――」
口の中で、最初の音が生まれた。
声になる前に止める。
青い布。
子どもの影。
勇者への拒絶。
首を傾ける仕草。
繋がって見える。
それでも、分かったわけではない。
「あなたの名前は、今は聞きません」
朔は言った。
影へ、自分の名前も渡さない。
「今日、あなたを見たことは持ち帰ります」
黒い影は答えない。
「次に来るかは、戻ってから決めます」
今ここで、次を約束しない。
来ないとも。
来るとも。
***
「サク」
影が言った。
朔の身体が固まる。
エリオが帰路側から声を出す。
「今、内塔の巡礼路断絶区画です」
ノエが続ける。
「帰還のため、移動を始めています」
セオ。
「外郭へ、予定時刻どおり帰路移動を送ります」
影が、朔の呼び名を知っている。
それは強い材料だった。
だが、ハルだけが知っている名前ではない。
王都の記録にもある。
この道が、朔たちの声を聞いていた可能性もある。
白い場所も、名前を知っていた。
「誰から、その名前を聞きましたか」
朔は問いそうになる。
目的が変わる。
時間も過ぎる。
口を閉じた。
***
黒い影が、腕を上げた。
掌をこちらへ向ける。
手の印。
声より手。
だが、意味を急いで決めない。
止まれ。
戻れ。
待て。
ここにいる。
どれにも見える。
朔は手を上げ返さなかった。
「見ました」
それだけを伝える。
返事にはしない。
黒い影の掌が、ゆっくり下がる。
***
「戻る」
ノエが言った。
一人でも言えば、理由より先に帰路へ移る。
全員が動く。
エリオが先に帰路を確認する。
ノエは火を持つ。
セオは人影を見ながら後退しない。
前を向いて歩く。
朔も黒い線へ背を向けた。
青い布の温度は残っている。
振り返らない。
「次に来た勇者は、殺す」
背後から、もう一度聞こえた。
同じ言葉。
返事はしない。
***
三重の横線を越える。
人影は追ってこない。
床の灯りも消えない。
旧観測室の前。
白い板に文字は見えない。
内塔連絡所へ着く。
ルカが扉を開けて待っていた。
「帰還時刻まで、砂半分です」
間に合った。
「人影が現れました」
セオが言う。
「全員が確認しています」
「負傷者は?」
ノエが答える。
「なし」
「剣の封」
エリオが見せる。
「切れていません」
「火」
「保持」
「サクさんの身体」
「異常は感じていません」
朔は答えた。
「青い布に温度変化を感じました。測定はしていません」
「声は?」
「全員が同じ言葉を聞きました」
セオが記録板を開く。
「『勇者は、来るな』『次に来た勇者は、殺す』。その後、影はサクと呼んだ」
「本人の名前は?」
「聞いていません」
ルカが朔を見る。
「聞かなかった?」
「帰る時刻だったので」
***
外郭へ帰還報告を送る。
全員帰還。
負傷者なし。
人影を四人が目撃。
発言を三人ではなく、四人全員が同一内容として知覚。
人影は黒い線を越えなかった。
こちらも越えていない。
武器の使用なし。
接続なし。
人影の名前、目的、正体は未確認。
リオからの返事は、一文だけだった。
「名前を聞かずに帰れたなら、次も人として聞ける」
朔は目を閉じた。
聞かなかったから、失ったわけではない。
時間を守ったから、問いが消えたわけでもない。
***
塔下審査室では、グラドが仮記録の表題を読み上げた。
「巡礼妨害個体との接触」
「まだ個体とは書かないでください」
朔が言った。
「人であることも確認されていません」
グラドが答える。
「では、黒色人型反応」
「反応したものと決める?」
「黒い人影」
セオが提案する。
「それで」
「巡礼妨害は?」
朔は考える。
人影は勇者へ来るなと言った。
調査を進めさせなかった。
だが、道を切ったのがその影かは確認されていない。
「道を妨害したとは、まだ確認できていません」
「では、何と」
「黒い道の向こうに現れた、人に見える影」
「長いですね」
「今は、それでいいです」
呼びやすくするために、意味を急がない。
***
「発言は、勇者候補への殺害予告です」
グラドが言う。
「脅威判定を上げます」
「必要だと思います」
エリオが答えた。
朔はエリオを見る。
「反対しないんですか」
「殺すと言われました」
「人影の事情を聞く前に?」
「事情があっても、危険が消えるわけではありません」
「では、討伐しますか」
「それは別です」
エリオは赤い封の残った剣を見る。
「脅威として備えることと、敵だと決めて攻撃することは同じではありません」
「次も行きますか」
朔が聞く。
エリオはすぐには答えなかった。
「私が行けば、ほかの者を危険にする可能性があります」
「はい」
「だから外れた方がよいかもしれない」
「エリオさんが決める?」
「私だけでは決めません」
自分の勇気を証明するために行かない。
誰かに守られるためだけに外れもしない。
「次に決めます」
エリオが言った。
ユイと同じ言葉だった。
***
セオは六年前の記録を持ってきた。
ガウとサナの証言を加えるため、原板を調べ直していた。
「一つ、読み取れない補記があります」
板の端。
公式の記録欄ではない。
余白に、薄い文字が残っている。
「誰が書いたんですか」
朔が聞く。
「筆跡が、記録員ミトのものに似ています」
「確認は?」
「署名がないため、断定できません」
「内容は?」
セオが音を拾うように読む。
「ヴァルハ」
初めて聞く言葉だった。
「名前ですか」
「分かりません」
「王都の言葉?」
「現在の王都語ではありません」
「古い巡礼語?」
「ネラが照合中です」
「意味は?」
「後世の注釈では、『道を断つ者』または『勇者を退ける者』とされています」
「どちらですか」
「原義は確認できていません」
また、後から増えた意味かもしれない。
「黒い人影の名前として書かれた?」
「それも不明です」
「道の名前かもしれない」
「はい」
「状態を示す言葉かもしれない」
「はい」
「ミトさん自身が、向こう側で聞いた言葉かもしれない」
「可能性はあります」
ヴァルハ。
意味を持ちすぎている。
だから、まだ誰にもつけない。
***
「公式記録へ入れますか」
グラドが尋ねた。
「余白の文字として」
朔が答える。
「名称欄には?」
「入れないでください」
「検索できなくなります」
セオが言う。
「別の欄を作れますか」
ネラが、K.K.の記録にしたように。
分類不能の文字を、近い欄へ入れないための場所。
「原板余白に存在する未確定語」
セオが提案する。
「表記はヴァルハ。筆者、対象、意味は未確認」
「それでお願いします」
ヴァルハは、誰かの名前にはならなかった。
だが、消されもしなかった。
***
ユイは、窓のある部屋から戻った後、眠りの区画にいた。
十一人の身体を見終えてから、朔の報告を聞いた。
「黒い子、いた?」
「いました」
「みんなに見えた?」
「はい」
「何て言った?」
「勇者は来るな。次に来た勇者は殺す」
ユイはエリオを見る。
「行くの?」
「次に決めます」
「怖い?」
「はい」
エリオは答えた。
「私が行くことで、ほかの人が傷つくことも」
「行かなくても、分からないまま」
「はい」
ユイは朔を見る。
「ハルって呼んだ?」
「呼びませんでした」
「サクって呼ばれた?」
「はい」
「それでも?」
「はい」
ユイは青い袋の紐を直す。
「よかった」
「どうして?」
「ハルじゃなかった時、違う名前を取らないで済んだ」
「ハルだったら?」
ユイは少し考えた。
「次に、本人から聞けばいい」
次があるとは限らない。
それでも、今奪わなかったから、問える可能性は残った。
***
「窓はどうでしたか」
朔が尋ねる。
「空があった」
「また行きますか」
「次に決める」
「時間どおり戻ったと聞きました」
「うん」
「もっと見たくなかった?」
「なった」
「それでも?」
「帰ったら、次も行けるかもしれない」
答えの前で戻る。
空の前でも。
黒い影の前でも。
帰ることは、諦めることではない。
***
第四章の最後の記録は、セオが一枚へまとめなかった。
ユイの移動試行。
黒い道の時刻観察。
人影の目撃。
エリオへの発言。
朔の青い布の主観的な温度変化。
未確定語ヴァルハ。
すべて、別の紙へ残した。
近い時刻に起きた。
互いに関係している可能性はある。
だが、一つの出来事とは確認されていない。
***
夜、朔は観察室の窓から白い塔を見た。
腰には、ハルの青い布。
机には、リオが外で持っている名前の紙の写し。
自分の手元にはない。
ヴァルハという文字も、ここにはない。
記録室の余白に残っている。
黒い影は、朔をサクと呼んだ。
ハルかもしれない。
ハルではないかもしれない。
黒い道を切った者かもしれない。
切れた道の向こうに立っているだけかもしれない。
勇者を憎んでいるのか。
何かから勇者を遠ざけようとしているのか。
まだ分からない。
朔は、ハルの名前を呼ばなかった。
ヴァルハという新しい言葉も、影へ押しつけなかった。
空白のまま、持ち帰った。
約束の時刻に帰ったからこそ、その空白は閉じなかった。
次に会う時、もう一度、名前を問うための場所として残った。




