第四章 眠りの道 ⑩ 起こすな
黒い道から戻ったあと、誰もすぐに再調査を提案しなかった。
黒い線に並んで現れた流れ。
EXTERNAL
眠っている十一人の呼吸が、一度だけ揃ったこと。
名前を呼ばれていない一人が、
「ここにいる」
と発したこと。
先に確かめるべきなのは、道ではなかった。
声を出した身体だった。
***
眠りの区画へ入る前に、ユイが条件を出した。
「名前を呼ばない」
「全員ですか」
朔が聞く。
「今日は、全員」
「ユイが知っている名前も?」
「呼ばない」
「理由は?」
「昨日、呼んでないのに返事をしたから」
何に反応したのか分からない。
名前を呼べば、原因が増える。
「声が出ても、返事しない」
「内容に関係なく?」
「うん」
「助けを求めても?」
ユイは、すぐには答えなかった。
「先に身体を見る」
それは、声を無視するという意味ではない。
声だけで、その身体の望みを決めない。
「分かりました」
朔は条件を復唱する。
名前を呼ばない。
声へ返事をしない。
身体の状態を先に確かめる。
祈らない。
寝台や手へ勝手に触れない。
「火は?」
ノエが尋ねる。
「見えるところ」
ユイは答えた。
「遠くへ持っていかないで」
「開けません」
「うん」
***
区画へ入るのは、ユイ、朔、マレア、トエ、ノエ。
セオとエリオは入口の布の外へ残る。
エリオは扉と帰路を見る。
セオは、内側から伝えられたことだけを記録する。
「全員で入らないんですね」
朔が言う。
「見る人が増えると、変化の原因も増えます」
マレアが答えた。
「エリオさんを外す理由は?」
「勇者候補だからではありません」
エリオ自身が答える。
「扉を開けた状態で保持する者が必要だからです」
「俺も、外にいた方がいいですか」
朔が尋ねる。
ユイが首を横に振る。
「声が、サクのことを知ってるかもしれない」
「だから中に?」
「サクが何を聞いたか、サクにしか分からない」
危険だから外す。
必要だから入れる。
どちらかだけではない。
「嫌なら、入らなくていい」
ユイが加えた。
「入ります」
「今、自分で決めた?」
「はい」
***
灰色の布を抜ける。
塔の低い振動。
水の音。
十一人の呼吸。
昨日は一度、揃った。
今は、それぞれ違う。
深い息。
浅い息。
途中で少し止まる息。
人ごとに違う呼吸だった。
ユイは腰の青い袋へ手を置く。
今日は石を移さない。
「数えないんですか」
朔が小声で聞く。
「あとで」
「なぜ?」
「最初に、あの子を見る」
ユイが奥の寝台を示した。
前回、名前を呼ばなかった人物。
顔の半分が、灰色の布に隠れていた。
身体は小さい。
朔と同じくらいか、少し年上。
髪は黒く、長さが揃っていない。
右手だけが、掛け布の外へ出ている。
枕元の板には、王都の文字。
名前は書かれていないように見えた。
「この人が話したんですか」
朔が尋ねる。
ユイが頷く。
「名前は?」
「知ってる」
「今日は聞きません」
「うん」
知りたい。
だが、今日の目的は名前を受け取ることではない。
声と身体を分けて見ることだった。
***
マレアとトエが寝台の両側へ立つ。
「触れます」
トエが、眠る本人へ告げた。
返事はない。
それでも、無言で始めない。
手首。
首筋。
呼吸。
目の反応。
「脈は、普段より少し速い」
トエが言う。
「昨夜の記録と比べて?」
「一刻あたり、七つほど多い」
「発熱」
「なし」
「流れは?」
マレアが、触れない測定環を手首の上へ置く。
淡い光が一度だけ揺れた。
「複数方向に返っています」
「昨日と同じ?」
「昨夜は、一度まとまった後に消えています。今は細く分かれたまま」
「どこへ?」
「道具では追えません」
本人の身体は眠っている。
だが、流れは一つの場所へ返っていない。
***
眠る人物の唇が動いた。
全員が止まる。
「ここにいる」
昨日と同じ言葉。
小さな声だった。
朔の胸が強く鳴る。
声は、目の前の身体から出た。
唇も動いた。
息も、その言葉を作った。
だが、朔には別の人の声に聞こえた。
ハル。
少し息を弾ませた時の声。
走ったあと。
笑う前。
「聞こえましたか」
マレアが、朔へではなく全員へ問う。
声へ返事をしない。
今いる者同士で確認する。
トエが頷く。
「言葉は、ここにいる」
「声は?」
マレアが聞く。
トエは少し黙った。
「この子の普段の声を知りません」
「ユイは?」
「違う人」
「誰に聞こえましたか」
ユイは答えなかった。
「今は言わない」
「分かりました」
言わなくてもよい。
知覚を記録するために、個人的な記憶まで渡す必要はない。
「ノエさんは?」
朔が聞く。
網箱を持つノエの指が、少し強く持ち手を握っている。
「言葉は同じです」
「声は?」
「記録には残しません」
「知っている人?」
ノエは一度だけ頷いた。
同じ口。
同じ言葉。
だが、聞こえた声は同じではない。
***
眠る人物の身体に、目覚める動きはなかった。
まぶたは閉じたまま。
脈は少し速い。
右手の指が、一度だけ曲がった。
朔の方へ向いたように見えた。
手。
本物は温度。
第一章から、何度も確かめてきたこと。
声より、目の前にある手を信じる。
だが、朔は近づかなかった。
身体が本物であることと、その手が朔へ向けられたことは同じではない。
「触れていいですか」
朔は本人へ聞いた。
返事はない。
指が、もう一度だけ動く。
「反応があった」
トエが言う。
「今の質問への?」
朔が聞く。
「時刻は近いです」
「答えだと確認できますか」
「できません」
「では、触りません」
手も、勝手に意味を入れれば声と同じになる。
***
隣の寝台から、息が漏れた。
「……二人で」
朔の身体が固まる。
声は小さい。
言葉の前後が欠けている。
だが、朔の中では続きを持っている。
逃げる時は、二人で逃げる。
ハルとの約束。
誰にも話していないわけではない。
記録へは残していない。
少なくとも、白い塔の誰にも、全文は渡していない。
「サク」
ノエの声。
近い。
網箱を持ったまま、朔の左後ろにいる。
「ここは、内塔の眠り区画です」
今いる場所。
「日が最も高くなる前に、外郭へ報告します」
戻る時刻。
決めた事実。
朔は隣の寝台を見ない。
ノエを見る。
網箱。
封印紐。
土の器。
足元にある影。
「ここにいます」
朔は答えた。
眠る声へではない。
ノエへ。
「確認しました」
ノエが言う。
***
隣の寝台の少女は、眠ったままだった。
唇はもう動いていない。
「今の言葉を、全員が聞きましたか」
マレアが尋ねる。
トエは首を横に振る。
「私には、短い呼吸音だけでした」
ユイも言う。
「言葉は聞こえなかった」
「ノエさんは?」
「『二人で』と聞こえました」
「俺もです」
朔は答えた。
同じ言葉を聞いた者が二人。
聞かなかった者が二人。
「声は?」
ノエが朔を見る。
「ハルに聞こえました」
言わない選択もできた。
だが、朔の身体が反応した理由を伏せれば、次の判断が欠ける。
「同じ人物の声に聞こえたかは、私は分かりません」
ノエが言う。
「私には、特定の人の声ではありませんでした」
同じ言葉でも、同じ声ではない。
***
火種入れが鳴った。
かた。
眠っていた一人の呼吸が、その音へ合わせるように深くなる。
次の一人。
さらに次。
順番に、息が揃っていく。
「同期が始まっています」
トエが言う。
「十一人?」
「今、七人」
「八人」
マレアが別の寝台を見る。
「九人」
ユイは部屋の中央へ移る。
誰にも触れない。
目を閉じない。
「名前は呼ばないで」
「呼んでいません」
朔が答える。
「頭の中でも?」
朔の胸には、ハルの名があった。
声にしていない。
だが、強く思った。
「考えました」
「捨てなくていい」
ユイが言う。
「でも、その声のところへ置かないで」
ハルの名前を、今聞こえた声へ重ねない。
朔は胸の中で場所を分ける。
ハル。
眠っている少女。
別々に置く。
***
十一人の呼吸が揃った。
吸う。
止まる。
吐く。
同じ間隔。
眠っている身体が、一つの大きな身体になったように見える。
枕元の板が、一斉に淡く光った。
王都の数字。
名前のない欄。
朔には、その上へ別の文字が重なって見えた。
OBSERVATION
SYNC
数字が変わる。
読もうとした。
「サク」
マレアの声。
「表示ですか」
「はい」
「読み続けますか」
目的を問われる。
数字を読むために来たのではない。
「今は、読みません」
「視線を外せますか」
朔は枕元の板から目を離す。
マレアの顔。
疲れた目。
束ねた髪。
「外せます」
「頭痛」
「ありません」
「声」
「増えています」
言葉になる前の声。
喉の奥。
十一人分。
***
最初の寝台から、女の声がした。
「サク」
朔は返事をしない。
次の寝台。
「聞こえてる?」
三つ目。
「戻ってこい」
ダンの声に似ていた。
四つ目。
「まだ起こすな」
三門に似た低い声。
五つ目。
「お母さん」
カイが以前に出した言葉。
六つ目。
「ここにいる」
七つ目。
「足掻け」
ミナト。
最後の一言だけ。
息の使い方まで、記憶と重なる。
朔の足が、半歩動いた。
どの寝台へ向かったのか、自分でも分からない。
「サク」
今度はユイ。
「ここにいる人を見て」
ユイ。
マレア。
トエ。
ノエ。
今、目を開けて立っている人。
「はい」
朔は止まる。
***
「全員、同じ言葉を聞いていますか」
マレアが問う。
「違う」
ユイが言った。
「私には、違う」
「何と?」
ユイの唇が一度閉じる。
「オル爺の声」
「言葉は?」
「聞こえん者だけが残ることもある」
朔も、その言葉を知っている。
北の村で、本人から聞いた。
「俺には、その言葉は聞こえませんでした」
「私には聞こえた」
「トエさんは?」
「子どもの声で、戸を開けて、と」
「知っている声?」
トエは答えなかった。
「記録には、内容だけ残します」
自分で範囲を選ぶ。
「ノエさんは?」
「名前を呼ばれました」
「誰の声かは?」
「残しません」
「分かりました」
同じ部屋。
同じ身体。
違う記憶。
***
「声が、それぞれの記憶を読んでいる?」
朔が言う。
「分かりません」
マレアが答える。
「同じ音を、それぞれが違う言葉として受け取っている可能性もあります」
「眠っている人が、別々の声を出している可能性も」
トエが加える。
「塔が見せている?」
ユイが聞く。
「それも、まだ」
どの説明も決められない。
「でも、言葉は本物です」
朔は言った。
「少なくとも、俺が聞いたものは、実際に言われた言葉です」
「私も」
ユイが答えた。
「オル爺が言った」
嘘ではない。
存在しなかった言葉を作ったわけではない。
だからこそ、返事をしたくなる。
「嘘だけなら、簡単だった」
ユイが言った。
「本当のことを混ぜるから、返事をしたくなる」
***
一人のまぶたが開いた。
カイ。
以前、「かあさん」と呼んだ少女。
目は開いている。
だが、焦点が合っていない。
「覚醒反応」
トエが近づく。
ユイが止める。
「まだ」
「呼吸が変わっています」
「起きてない」
「目が開いています」
「向こうを見てる」
カイの目は天井へ向いている。
朔たちの誰も見ていない。
唇が動く。
「起こして」
今度は、全員に同じ言葉として聞こえた。
トエの手が、治療具へ向かう。
「何をしますか」
朔が聞く。
「覚醒を促す光を使うか判断します」
「起こしてと言ったから?」
「目が開き、呼吸が不安定になったためです」
声だけではない。
身体の変化もある。
「光を使えば、起きますか」
「通常なら」
「今も通常ですか」
「分かりません」
ユイがカイを見る。
「起こすな」
強い声だった。
全員がユイを見る。
「理由を聞く前に戻りますか」
ノエが問う。
ユイは首を横に振る。
「ここから出るんじゃない」
「では」
「起こすための光を使わないで」
「なぜ?」
トエが聞く。
「起きようとしてるんじゃない」
ユイはカイの開いた目を見る。
「呼ばれたところへ行こうとしてる」
確定ではない。
ユイの感覚。
「身体は、ここにあります」
マレアが言う。
「うん」
「意識が別の方向へ向いていると感じる?」
「うん」
「光を使うことで、そちらへ進む可能性がある?」
「分からない」
「戻る可能性も?」
「分からない」
どちらも分からない。
「今、呼吸は危険ですか」
朔が尋ねる。
トエがカイの胸を見る。
「速いですが、今すぐ処置しなければ止まる状態ではありません」
「では、待てますか」
「短時間なら」
「光は使わない」
マレアが判断する。
「現在の身体状態を見ながら、声と流れへの刺激を減らします」
ユイの命令に従ったのではない。
ユイの感覚。
トエの観察。
マレアの判断。
それぞれを重ねた。
***
「火をどうしますか」
ノエが聞く。
火種入れは、一定の間隔で鳴っている。
かた。
十一人の呼吸。
かた。
呼吸。
「遠ざけると変化が増えるかもしれない」
ユイが言う。
「近づけても?」
「分からない」
「位置を変えずに、見える布だけ掛けますか」
ノエが提案する。
「完全には隠さない?」
「薄い布で、光と音の変化を見ます」
「新しい試験になります」
朔が言う。
「今ここで必要ですか」
マレアが問う。
声は増えている。
呼吸も揃ったまま。
何も変えず待つことも、一つの選択ではある。
「火種入れが原因とは確認できていません」
ノエが言う。
「ですが、鳴るたびに呼吸が揃っています」
「同じ流れへ、両方が反応しているだけかもしれない」
トエ。
「因果は分かりません」
誰も、火を消せとは言わない。
ツヅリの火を、危険物として扱わない。
「位置は変えない」
ユイが言う。
「布も掛けない」
「では」
「サク、火を見て」
朔は網箱を見る。
「眠ってる子じゃなく?」
「今は」
火。
名前。
声。
一つずつ分ける。
「分かりました」
***
カイの口が動く。
「逃げる時は」
朔の身体が反応する。
続き。
二人で逃げる。
だが、言葉は続かなかった。
代わりに、別の寝台から男の声。
「まだ起こすな」
さらに別の寝台。
「起こして」
反対の言葉。
どちらも、眠る身体から出ている。
どちらかが正しいとは限らない。
どちらかが本人の希望とも限らない。
「声を基準にしない」
マレアが言った。
「身体を見ます」
トエがカイの脈を取る。
「少し下がっています」
「呼吸」
「まだ速い」
「目」
「開いています」
ユイは、声ではなくカイの胸を見る。
「戻ってきてる」
「何が?」
朔が聞く。
「息」
カイの呼吸が、十一人の揃った間隔から少しずれた。
一人分の呼吸へ戻る。
次に、隣。
さらに次。
揃っていた息が崩れていく。
乱れではない。
それぞれの速さへ戻る。
***
声が減った。
完全には止まらない。
誰かが、母を呼ぶ。
誰かが、知らない名を口にする。
誰かが笑う。
だが、一つの流れとして重なる声ではなくなった。
カイの目が閉じる。
「眠りました」
トエが言う。
「起きていた?」
ユイが聞く。
「医学的な覚醒だったとは断定できません」
「では」
「開眼反応があり、呼吸が速くなった。その後、光による覚醒処置を行わず、閉眼し、呼吸が個別の状態へ戻った」
「そのまま書いて」
ユイが言う。
「起きた、戻ったって、決めないで」
「分かりました」
***
ユイは、ようやく腰の袋から石を取り出した。
一つ目の寝台。
呼吸を見る。
石を移す。
二つ目。
指先。
三つ目。
声ではなく、身体。
一人ずつ確かめる。
朔は名前を呼ばない。
知っているミアも。
カイも。
声の中にあったハルも、ミナトも、ダンも。
今ここにある身体へ、別の人の名前を置かない。
***
最初に「ここにいる」と言った人物の前へ戻る。
右手は、掛け布の外。
指はもう動いていない。
呼吸は穏やか。
ユイが石を移す。
「名前を呼ばないんですか」
朔が聞く。
「今日は」
「名前を知っていても?」
「うん」
「この人が、ここにいるか確かめるために?」
「身体を見た」
「名前は?」
ユイは少し考えた。
「今、声の中に混ざってるかもしれない」
本人の名前を呼ぶことで、その名前まで道へ流れる可能性。
「では、呼ばないことが守ることになる」
「今日は」
いつもではない。
今日の状態では。
***
十一個の石が移った。
空の寝台はない。
治療区画へ移された者も、今は元の場所へ戻っている。
外側の紐に結ばれていた石も、袋の中へ戻った。
「全員いますか」
朔が聞く。
「身体は」
ユイが答える。
「名前は?」
「今日は確かめてない」
「では、全員いるとは書かない?」
「身体が十一ある」
セオへ渡す言葉を分ける。
十一の寝台に身体を確認。
呼吸を確認。
名前による確認は行っていない。
「声が本物だったかは?」
「言葉は本当だった」
ユイが言う。
「声が誰のものだったかは、分からない」
***
区画を出たあと、入口の待機場所で一人ずつ確認した。
朔。
頭痛なし。
白い視界は一時あり。
OBSERVATION、SYNCを知覚。
数字は読まなかった。
ユイ。
頭痛なし。
眠る者の声が、自分の記憶にあるオル爺の声として聞こえた。
内容は本人から過去に聞いた言葉と一致。
ノエ。
身体異常なし。
一部の声が、個人的に知る人物のものとして聞こえた。
人物名は記録しない。
トエ。
身体異常なし。
「戸を開けて」という言葉を知覚。
声の人物については開示しない。
マレア。
「私は、言葉としては聞いていません」
「雑音だけ?」
朔が尋ねる。
「息と、複数の音です」
「では、全員が記憶の言葉を聞いたわけではない」
「はい」
聞こえなかった人がいる。
それも必要な記録だった。
***
セオが、入口の外で記録を読み返す。
「声の内容を、すべて残しますか」
「本人が残していいと言ったものだけ」
朔が答えた。
「眠っている者の発声として?」
「それも分けてください」
「では」
「どの寝台の口が動いたか確認できた言葉。音源を特定できなかった言葉。朔だけが聞いた言葉。複数人が同じ内容を聞いた言葉」
「声の人物については?」
「聞いた人の主観」
「ハル、ミナト、ダン、三門」
セオが確認する。
「俺には、そう聞こえました」
「本人たちの声が記録されていた可能性は?」
「分かりません」
「サクさんの記憶を使った可能性」
「それも分かりません」
「眠っている者が同じ記憶を持っていた可能性」
「消しません」
低い可能性に思えても、確認していない。
***
「今後、眠っている者を起こしますか」
セオがマレアへ聞いた。
「今日の反応だけを理由には行いません」
「声が助けを求めても?」
「声と身体の意思が一致していると確認できないためです」
「本人の意思を確認する方法は?」
「まだありません」
セオはユイを見る。
「ユイは?」
「今は、起こさない」
「DO NOT WAKEという表示と同じ判断ですか」
「違う」
ユイは即座に答えた。
「白い部屋が言ったからじゃない」
「では」
「身体が、まだ戻ってないから」
「どこから?」
「分からない」
「分からないまま、起こさない?」
「うん」
「命令に従うのではなく?」
朔が聞く。
「待つ」
短い言葉だった。
起こすなという命令。
起こしてという声。
どちらにも従わない。
目の前の身体を見ながら待つ。
***
外郭への報告には、声の内容をすべて送らなかった。
個人の記憶に関わるものは、本人が許可した範囲だけ。
リオへは、次のように伝えた。
眠っている十一人の呼吸が一時的に揃った。
複数人が、同じ発声を異なる人物の声として知覚した。
発声内容には、聞いた者が過去に実際に受け取った言葉と一致するものが含まれていた。
声へ返事はしていない。
強制的な覚醒処置は行わなかった。
呼吸は個別の状態へ戻った。
現在、十一人の身体と呼吸を確認している。
リオからの返事は、すぐには来なかった。
板の上の砂が落ちきる少し前に、文字が浮かぶ。
「本当のことを言う声が、本当の相手とは限らん。次に声を聞くなら、何を言ったかだけやなく、誰の口が動いて、誰が聞いて、誰が答えそうになったかを分けろ」
朔は二度読んでもらった。
***
観察室へ戻ったあとも、耳の奥に声が残っていた。
逃げる時は、二人で。
足掻け。
戻ってこい。
どれも、朔が実際に受け取った言葉だった。
嘘ではない。
だが、今それを言った者が、ハルやミナトやダンだったとは限らない。
朔は腰の青い布へ触れなかった。
名前も呼ばない。
代わりに、今日目の前にいた人を一人ずつ思い出す。
ユイ。
マレア。
トエ。
ノエ。
寝台にいた十一の身体。
名前を知っている者。
まだ知らない者。
声が「起こして」と言っても、その身体が起きることを望んだとは決めない。
声が「起こすな」と言っても、その命令に従ったことにはしない。
眠らせることと、見捨てることは違う。
起こすことと、救うことも、同じではなかった。




