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第四章 眠りの道 ⑨ 繋がらない道

 調査の朝、エリオは白い外套を着ていなかった。


 青と白の軽い長衣。


 額の銀環。


 腰には剣がある。


 鞘と鍔の間を、細い赤布が結んでいた。


「封は?」


 朔が聞く。


「抜けば切れます」


「自分で結びましたか」


「ノエに確認してもらいました」


 ノエが頷く。


「入塔前に異常なし。帰還後にも確認します」


 網箱の中には、ツヅリの火。


 封印紐。

 土の器。

 蓋。


 どれも昨日と変わっていない。


 サナは左手で測定具の箱を持っていた。


 右腕は厚い布に覆われている。


「持てますか」


 朔が尋ねる。


「今は」


「途中で無理になれば?」


「置いて戻る」


「火を引き継ぐ時は?」


「測定具を先に置く」


 昨日決めたことを、今日の身体でもう一度確かめる。


 決めたから大丈夫なのではない。


 今もできると確認してから始める。


***


 マレアが一人ずつ身体を見る。


 脈。

 目。

 呼吸。


「サク。頭痛なし」


「はい」


「壁面表示なし」


「今は」


「声なし」


「はい」


「エリオ。睡眠は」


「十分です」


「剣を抜く必要を、今感じていますか」


「いいえ」


「サナ。右腕の痛み」


「普段と同じ」


「増えたら?」


「戻ると言います」


「ノエ」


「異常ありません」


「セオ」


「同じく」


 最後に、マレア自身。


「私は、左肩に軽い張りがあります。動作への支障なし」


「自分のことも記録するんですね」


 朔が言う。


「止める側が動けなくなる可能性もあります」


 マレアは薄い青布を、朔の手首へ結び直した。


「今日は接続しない」


「はい」


「切断部を越えない」


「はい」


「灰色線や黒い線へ、身体を触れさせない」


「はい」


 同じことを、言葉にする。


 緊張すれば、知っていた条件も抜け落ちる。


***


 内塔連絡所には、ルカ・フェンがいた。


 経路板には、一本の灯り。


 旧観測室を越え、巡礼路断絶区画の手前まで。


「目的地は、切断部から十二歩手前に設定しています」


 ルカが言う。


「誰の十二歩ですか」


 朔が尋ねる。


「設備記録上の標準歩幅です」


「サナさんの歩幅とは違う」


「はい」


「エリオさんとも」


「はい」


「では、床の印で止まる?」


「停止位置に、三重の横線があります」


「その線が見えなければ?」


「最初に気づいた者が止まると言ってください」


 ルカは経路板を指した。


「切断部から先の灯りは登録していません」


「向こうが勝手に点いたら?」


「進まない」


 セオが答える。


「経路変更として、すぐに戻ります」


「報告時刻は?」


「最初は半刻後」


「その前に変化があれば?」


「時刻を待たず伝える」


 ルカは全員の顔を見た。


「帰路登録に変更はありません」


「変更できる人は?」


「私。中央審査官。緊急時の内塔治療官」


「今日の中央審査官は?」


「グラド・ウェン」


「治療官は?」


「トエ・ラン」


 ユイと眠りの区画に残る人。


 朔は二人の名前を持った。


***


 外郭待合所から、リオの伝言が届いた。


「時刻は持った。名前もある。遅れるなら、遅れる前に言え」


 短い。


「返事は?」


 ルカが聞く。


「行ってきます」


「それだけ?」


「はい」


 戻ると約束した。


 だから、行くことまで長く説明する必要はない。


***


 扉を越える。


 床の灯りは白くなり、やがて青みを失った。


 旧観測室の前を通る。


 透明な壁。


 白い台。


 黒い観測板。


 今日は、何も見えない。


「表示なし」


 朔が言う。


 セオが記録する。


 ユイはいない。


 白い部屋の前で止まりたい者もいなかった。


 今日見るのは、黒い道。


 目的を混ぜない。


***


 旧観測室を越えると、空気が変わった。


 冷たいのではない。


 乾いている。


 口の中から、少しずつ水分が奪われるような空気。


 壁の色も均一ではなくなる。


 白い補修材の下から、古い灰色の石が露出していた。


 王都の印。


 それより古い、浅い線。


 火。

 手。

 眠り。


 巡礼路の写しにあったものと似ている。


「見えますか」


 朔が聞く。


「火のような形は」


 エリオが言う。


「手の印もあります」


 ノエ。


「眠りの印は?」


 サナが壁を見る。


「私には、円と横線に見えます」


 同じ形を見ている。


 意味は一致していない。


「古い巡礼路の印と類似。ただし同一とは未確認」


 セオが記録する。


 朔は布袋へ手を置いた。


 写しは出さない。


 まず、この道をそのまま見る。


***


 三重の横線が床に現れた。


「停止」


 サナが言う。


 全員が止まる。


 誰が最初だったかは、あとで記録できる。


 今は止まる方が先。


 経路灯は、横線の先へもう少し続いていた。


 十歩ほど先。


 黒い線の手前で途切れている。


 サナが図面を開く。


「ここから先は、一人ずつ動きます」


「先頭は?」


 朔が聞く。


「私が測定位置を示します。全員が同じ場所へ来る必要はありません」


 サナだけが前へ出るのではない。


 まず、長い棒を床へ置く。


 棒の先には白い布。


 三歩先。


 変化なし。


 次に、細い金属片を棒の先から落とす。


 床へ当たる。


 乾いた音。


「流れの反応なし」


 サナが言う。


「進んでも?」


 マレアが尋ねる。


「次の停止位置まで」


 全員が三歩だけ進んだ。


 ノエは火を身体へ近づける。


 エリオは最後尾へ下がった。


 人影が現れた場合、先に勇者の印を見せないため。


 剣の封は切れていない。


***


 黒い線が見えた。


 床を横切る一本。


 塗料ではない。


 石が焼けたようにも、影が染み込んだようにも見える。


 壁へ上がり、天井まで続いている。


 部屋を切る線ではない。


 道そのものを輪のように囲んでいる。


 その向こうにも床はある。


 壁もある。


 経路灯の続きらしき細い溝もある。


 だが、光は届いていない。


「ガウさんの言った通りです」


 朔が言う。


「床は続いている」


「道としては続いていない」


 サナが答えた。


***


 サナは三つの測定石を置いた。


 一つ目は、黒い線から六歩手前。


 二つ目は四歩。


 三つ目は二歩。


 右腕を使わない。


 左手だけ。


 置くたび、マレアが呼吸と顔色を見る。


「痛みは」


「増えていません」


「指先」


「動きます」


「続けますか」


「続けます」


 サナは細い糸を三つの石へ繋いだ。


 糸そのものは、黒い線へ届かない。


「流れは?」


 セオが聞く。


「まだ待ちます」


 サナは目を閉じない。


 三つの石の表面を見る。


 一番遠い石は静か。


 中央の石に、淡い光。


 一番近い石は、一度だけ黒く曇った。


「奥から来ています」


「塔へ向かって?」


「はい」


 サナは糸へ触れない。


「ただし、線の手前で止まっているのではありません」


「では」


「横へ流れています」


「どこへ?」


 サナが壁を見る。


 黒い線の左右。


「分かりません。床の下か、壁の中へ」


「塔へ入らないよう、別の道へ送られている?」


「そう見えます」


「誰が送っているかは」


「分かりません」


 道は切れている。


 だが、流れは消えていない。


 進む方向だけが変わっている。


***


 セオが連絡板を開く。


 最初の報告時刻にはまだ早い。


 だが、測定結果が出た。


「外へ送ります」


「ユイにも」


 朔が言う。


「眠り区画へ同じ内容を伝えます」


 送る言葉を分ける。


 黒い線は現在も存在する。


 床と壁は物理的に続いている。


 経路灯は線の手前で消えている。


 奥から塔へ向かう反応はある。


 反応は黒い線の手前で横方向へ変わる。


 原因と行き先は不明。


「人影は?」


 ルカから返答が届く。


「現時点で未確認」


 セオが送る。


***


 ユイからは、アナを通して返事が来た。


「眠っている者の声に変化なし。呼吸にも、トエが確認できる変化なし」


「今のところ」


 朔が言う。


「今のところ、と加えます」


 変化がない。


 調査が安全だと証明されたわけではない。


 ただ、今の時点では変化が見えない。


***


「物を向こうへ置く試験をします」


 サナが言った。


「線へ触れずに?」


 マレアが確認する。


「柄の長い棒で、木片を一つ押し出します」


「目的は?」


「物理的な床が、どのように戻すかを見る」


「先ほどの合意に含まれていますか」


 セオが記録を確認する。


「経路の現在状態の観察に含まれると考えます」


「新しい操作では?」


 朔が聞く。


「物を越えさせるのは、まだしていません」


 観察から、試験へ変わる。


 目的が少し動く。


「今ここで決めますか」


 エリオが尋ねる。


「戻ってからでは、今日の流れの状態と比べられない可能性があります」


 サナが答える。


 急ぐ理由はある。


 だが、急ぐ理由があることと、今すぐ行うことは同じではない。


「木片に、流れを測るものはつけますか」


 朔が聞く。


「いいえ。ただの木です」


「戻らなければ?」


「回収しません」


「燃えたり、黒くなったら?」


「測定を止めます」


「人影が現れたら?」


「全員で止まります」


 マレアが全員を見る。


「身体を越えさせる試験ではありません。現在の位置から動かない。異議は?」


 ノエ。


「ありません」


 エリオ。


「ありません」


 セオ。


「記録します」


 朔は木片を見る。


 名前のない道具。


 人の代わりにはしない。


「俺も、異議はありません」


***


 サナが棒の先へ木片を置く。


 白い印が一つ描かれている。


「印は?」


 朔が聞く。


「今日ここで使った木片だと分かるためです」


「番号ではなく?」


「一つしか使いません」


 棒が伸びる。


 木片が黒い線へ近づく。


 一歩。


 半歩。


 線へ触れた。


 音はしない。


 木片の先が向こう側へ出る。


 床は続いている。


 押せる。


「越えています」


 サナが言う。


 木片全体が、黒い線の向こうへ出た。


 その瞬間、棒の先が軽くなる。


 木片が消えた。


「手を離して」


 マレアが言う。


 サナは即座に棒を床へ置いた。


 取り戻そうとしない。


 全員が自分の位置を確かめる。


 火。

 剣。

 測定石。


 異常なし。


「木片は?」


 ノエが言う。


 朔たちの後ろ。


 三重の横線の手前に、白い印の木片が落ちていた。


 向こうへ押したものが、帰路側へ戻っている。


***


「移動したところを見た人は?」


 セオが聞く。


「消えたところだけ」


 サナ。


「後ろへ現れた瞬間は?」


 ノエが首を横に振る。


「見ていません」


 エリオも同じ。


「俺も」


 朔は答える。


「では、向こうから後方へ移動した過程は未確認」


 セオが書く。


「戻ったと呼びますか」


 エリオが聞く。


「元の場所ではありません」


 朔は木片を見る。


「俺たちが通ってきた側へ移った」


「帰された?」


 ノエが言う。


「誰かの意思とは決めません」


「結果として、先へ残らなかった」


 サナが言い直す。


 黒い道は、物を飲み込まない。


 向こうへ置いたものを、こちら側へ戻す。


「閉じ込める道ではない」


 朔は言った。


「少なくとも、この木片には」


 人にも同じとは限らない。


 六年前、戻らなかった者がいる。


***


 網箱の中で、火種入れが鳴った。


 かた。


 一度。


 続けて、もう一度。


 かた。


 ノエは動かない。


「封印に変化なし」


「持ち手は?」


「温度上昇なし」


「サク」


 マレアが朔を見る。


「頭痛なし」


「視界」


「変化――」


 言い終える前に、黒い線の上に文字が現れた。


 朔にだけ見える、白い文字。


 PATH


 その下。


 UNLINKED


「見えました」


 朔が言う。


「内容は?」


「PATH。道」


 次の言葉を、すぐには日本語へしなかった。


 綴りを読み直す。


「UNLINKED」


「意味は」


「繋がっていない」


「切れている、ではなく?」


 セオが尋ねる。


「俺の知っている言葉では、繋がっていない、に近いです」


 壊れたとは書かれていない。


 切断とも。


 道はある。


 だが、何かと何かが繋がっていない。


「何と何が?」


 エリオが聞く。


「分かりません」


 塔と奥。


 人と道。


 名前と身体。


 今と過去。


 どれかは決められない。


***


 朔の腰の布袋が、わずかに温かくなった。


 青い布ではない。


 巡礼路の写し。


「紙が反応しています」


「開きますか」


 セオが聞く。


 朔は黒い線を見る。


 目的は、道の状態を見ること。


 写しとの照合も、事前の申請には含まれている。


 ただし、全体は見せない。


「ここに関係する部分だけ開きます」


「誰が見ますか」


「今ここにいる人」


「記録範囲は?」


「見えた印だけ。線の全体配置は写さない」


 朔は膝をつかない。


 マレアが、安全な位置へ小さな台を置く。


 その上で、布袋から写しを出した。


 紙の端。


 黒く塗られた線。


 その手前に、三つの印がある。


 火。


 手。


 名。


「前に見せた時より、線が濃くありませんか」


 エリオが言う。


「俺も、そう見えます」


「変化した?」


「前の状態を正確に測っていません」


 記憶だけ。


 濃くなったように見える。


 断定しない。


***


「火の位置は、ここです」


 ノエが写しを指さずに言う。


 黒い線から離れた場所。


 今、ノエが立っている位置に近い。


「手の印は?」


 エリオが壁を見る。


 古い石の一部。


 薄く削られた掌の形。


「あります」


「触りません」


 マレアが先に言う。


「今日の条件に、旧設備への接触は含まれていません」


「はい」


 エリオは近づかない。


「名は?」


 セオが尋ねる。


 写しの上には、文字ではなく、短い縦線が複数並んでいる。


「名前を書く場所かもしれない」


 朔は言った。


「人の数を示すだけかもしれません」


「今、名前を呼びますか」


 ノエが聞く。


 ハル。


 黒い人影。


 戻らなかった七人。


 呼ぶ理由はいくつもある。


 だが、遠くにいる人を呼ぶために来たのではない。


「今ここにいる人の名前だけを確認します」


 朔は答えた。


「呼びかけるためではなく、誰がここにいるかを確かめるためです」


「全員が自分で言う?」


 エリオが尋ねる。


「はい」


 名前を朔一人のものにしない。


***


 ノエが網箱を持ったまま言う。


「ノエ・ハーラ。火を持っています」


 火種入れが、一度鳴る。


 サナ。


「サナ・リト。黒い線の手前で、流れを測っています。線には触れていません」


 最も近い測定石が淡く光る。


 マレア。


「マレア・ソン。全員の身体を見ています。必要なら止めます」


 朔の手首の青布が、少し揺れた。


 風はない。


 エリオ。


「エリオ・レイス。扉と帰路を確認しています。剣は抜いていません」


 赤い封は切れていない。


 セオ。


「セオ・ラグナ。誰が何をしたかを記録し、外へ伝えます」


 筆が板の上で止まる。


 最後に、朔。


「黒川朔です」


 黒い線を見る。


「ツヅリ村では、サクと呼ばれています」


 K.K.とは言わない。


「今、白い塔の内塔、巡礼路断絶区画の手前にいます。戻る時刻は、日が最も高くなる前です」


 今いる場所。


 戻る時刻。


 互いに決めた事実。


***


 黒い線は消えなかった。


 床の灯りも、向こうへは伸びない。


 何も繋がらない。


 失敗かもしれない。


 そもそも、何かを起こすための行為ではなかった。


 ただ、自分たちが誰で、何をしているかを確認しただけ。


「変化なし」


 セオが記録しようとした。


「待ってください」


 サナが言う。


 壁の測定石。


 置いていないはずの場所に、淡い光が走っている。


 床ではない。


 黒い線の手前から、壁に沿って横へ。


 細い。


 人一人が歩ける幅もない。


 光は黒い線を越えない。


 その外側を回るように、壁の奥へ続いている。


「流れが変わりました」


 サナが言う。


「塔へ?」


「違います」


「奥へ?」


「それも違う」


 サナは三つの石を見る。


「黒い線の外側を、並ぶように流れています」


「道が繋がった?」


 エリオが聞く。


「繋がっていません」


 サナは答えた。


「別の線が現れただけです」


 元の道を直したのではない。


 黒い線を消したのでもない。


 その横へ、もう一つの細い流れができた。


***


 朔には、壁に新しい文字が見えた。


 PATH


 その下に、今度は別の言葉。


 EXTERNAL


「外側」


 朔が読み上げる。


「何の外側ですか」


 セオが聞く。


「分かりません」


 道の外。


 塔の外。


 繋がりの外。


 意味は決めない。


「表示は、黒い線を越えていますか」


「いいえ」


 文字も、光も、こちら側にある。


 向こうへ渡る道ではない。


「進めますか」


 エリオが聞く。


「人が通れる幅ではありません」


 サナが答える。


「流れだけです」


 身体を道具にしない。


 人を接続しない。


 それでも、何かが外側を流れている。


***


 連絡板が強く光った。


 セオが手に取る。


「眠り区画からです」


 誰も質問しなかった。


 先に読む。


「ユイより」


 セオの顔が変わる。


「戻って」


 その一言。


 理由はない。


 確認もしない。


「戻ります」


 マレアが言う。


 全員が動いた。


 ノエは網箱を胸へ寄せる。


 サナは測定具の糸を切った。


 一番近い測定石は残す。


 回収しない。


 エリオが帰路側へ移る。


 剣には触れない。


 セオは記録を閉じる。


 朔は巡礼路の写しを畳む。


 壁の光を見続けない。


 答えが現れていても、ユイが戻れと言った。


 それだけで十分だった。


***


 三重の横線を越える。


 誰も走らない。


 だが、止まらない。


 旧観測室。


 白い光。


 黒い板。


 今日は見ない。


 内塔連絡所の扉が開く。


 ルカが立っている。


「何がありましたか」


「先に外へ」


 セオが言う。


「全員帰還途中。眠り区画からの『戻って』に従い、測定を中止。一部器具を現地へ残した」


「負傷者は?」


 マレアが答える。


「現時点でなし」


「火は?」


「保持しています」


 ノエ。


「剣の封は?」


 エリオが見せる。


「切れていません」


「写しは?」


 朔は布袋へ手を置く。


「あります」


***


 安全区画へ戻ってから、初めて理由を聞いた。


 ユイの言葉は、アナを通して届いた。


「壁の外側に流れができた時、眠っている者の呼吸が一度そろった」


「全員ですか」


 マレアが尋ねる。


「トエが確認できた範囲では、十一人」


「その後は?」


「元へ戻った」


「声は?」


 アナが次の文を読む。


「名前を呼んでいない一人が、返事をした」


 朔の喉が硬くなる。


「何と言いましたか」


「言葉は一つ」


 アナは、ユイから受け取った通りに読む。


「ここにいる」


 誰の問いにも答えていない。


 名前も呼ばれていない。


 それでも、眠っていた誰かが、現在地を告げた。


「声は、本人の声ですか」


 朔が聞く。


「ユイには、違う人の声に聞こえた」


「誰の?」


 返答まで、少し時間があった。


「まだ言わない。先に、本人の呼吸を見る」


 ユイは、声の正体より、目の前の身体を確かめることを選んだ。


「分かりました」


 朔は答えた。


「今は、聞きません」


***


 現地へ残した測定石は、回収しなかった。


 戻ると言われたあとに、道具のために戻らない。


 サナは損失として記録した。


「必要な情報は取れましたか」


 朔が聞く。


「途中まで」


「石を置いてきたことを、失敗だと思いますか」


「設備技官としては、回収したい」


「今は?」


「戻った方がよかった」


 役目は、もう外れ始めている。


***


 セオは、調査記録の最後へ書いた。


 黒い線は現在も物理経路と塔内経路灯を隔てている。


 奥から塔へ向かう流れは、線の手前で横方向へ変化する。


 木片を線の向こうへ置いた結果、木片は帰路側に現れた。移動過程は未確認。


 参加者が自分の名前と現在の行動を確認した後、黒い線に並行する細い流れが壁側へ生じた。


 朔のみ、PATH、UNLINKED、EXTERNALの表示を知覚した。


 経路の再接続は行われていない。


 人影は確認されていない。


 眠り区画からの中止要請により、理由の確認前に全員が帰路へ移った。


 帰還後、眠っている十一人の呼吸が一時的に同期し、名前を呼ばれていない一人が「ここにいる」と発声したとの報告を受けた。


「外側の道、と呼びますか」


 セオが聞いた。


「まだ」


 朔は答えた。


「道だと確認されたわけではありません」


「では、何と」


「黒い線に並んで現れた流れ」


 長い。


 呼びにくい。


 だが、今はそれでよい。


 呼びやすい名前を急いでつければ、また近い欄へ入る。


***


 外郭へ報告を送る。


 リオからの返事が届いた。


「繋がらん道を、無理に繋ぐな。横に道が出たなら、まず誰が通ったか見ろ。誰も通ってないのに声だけ来たなら、なおさらや」


 誰も黒い線を越えていない。


 誰も向こうへ手を伸ばしていない。


 それでも、眠っている者の声が変わった。


 道は繋がっていない。


 だから安全なのではなかった。


 繋がらないまま届くものがある。


 朔はその日の記録へ、自分の言葉を一つ加えた。


 身体が通れないことと、声が通れないことは同じではない。


 そして、その声へ誰も返事をしていないことも、続けて残した。

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