第四章 眠りの道 ⑪ 名を運ぶ者
次に黒い道へ行くまで、一日を空けた。
眠りの区画では、新しい発声はなかった。
十一人の呼吸は、それぞれ違う速さを保っている。
ユイは名前を呼ばず、身体だけを見た。
マレアは朔の目と脈を確認した。
白い文字は見えない。
声も聞こえない。
頭痛もない。
「昨日、聞いた声を思い出しますか」
「はい」
「今、聞こえているのではなく?」
「思い出しています」
「区別できますか」
「今は」
今は。
マレアは、その言葉まで記録した。
***
黒い道で行うことは、一つだけにした。
前回、自分たちの名前と現在の行動を確認した後、黒い線の外側に流れが現れた。
今回は、同じ順序を繰り返す。
ただし、何かを通そうとはしない。
木片も使わない。
測定具を黒い線へ近づけない。
眠っている者の名前を呼ばない。
戻らなかった者の名前も呼ばない。
「名前を使った試験ですか」
セオが尋ねた。
「そうしたくありません」
朔は答えた。
「ですが、名前を言った後に流れが現れています」
「順番が同じだっただけかもしれない」
「だから、再現するかを確かめる?」
「はい。ただし、誰かの名前を外から呼びません」
「全員が、自分の名前を言う」
エリオが確認する。
「自分が今していることも」
「前回と同じですね」
「同じにできる範囲だけです」
サナの測定石は、一つ欠けている。
黒い道の手前へ置いてきた。
完全に同じ条件ではない。
「結果が違っても、前回が誤りだったとはしない」
サナが言った。
「はい」
「同じ結果でも、名前が原因だとは決めない」
「はい」
起きた順番を確かめる。
意味は、あとから考える。
***
役割表は作り直さなかった。
前回の紙をそのまま使うこともしなかった。
一度終わったものを、続いていることにはしない。
全員が、今日することをもう一度選んだ。
ノエは火を運ぶ。
サナは黒い線の手前で、流れの変化だけを見る。
マレアは身体を見て、止める。
エリオは扉と帰路を確認する。
セオは誰が何を見たかを分けて残す。
ユイは眠りの区画に残る。
アナとトエがそばにいる。
リオは外で時刻と、朔の名前が書かれた紙を持つ。
朔は、自分の名前を自分で言う。
知らない名前へ返事をしない。
「今日も、終われば外しますか」
朔が聞いた。
「外します」
ノエ。
「外します」
マレア。
「外します」
サナ。
「外します」
エリオ。
「外します」
セオ。
伝達板の向こうから、ユイの返答が届く。
「終わったら、次に見るかは次に決める」
リオからは、
「戻ったら、時刻を見るのをやめる」
と返ってきた。
***
入塔前、リオの伝言が届いた。
「名前を鍵みたいに使うな。鍵にしたら、合う穴を見つけた奴に持っていかれる」
朔は二度読んでもらった。
「返事は?」
ルカが聞く。
「名前を開けるためには使いません」
「では、何のために?」
「誰がここにいるかを、互いに確認するためです」
そのまま送った。
リオから追加の返答はなかった。
***
黒い道までの経路に、変更はなかった。
旧観測室の黒い板も沈黙している。
PATHも、K.K.も見えない。
三重の横線で止まる。
黒い線は、前回と同じ場所にあった。
床。
壁。
天井。
向こう側にも道は見える。
灯りだけが届かない。
「前回残した測定石は?」
朔が聞く。
「見えます」
サナが答えた。
黒い線から二歩手前。
淡い石。
表面は黒く曇っている。
「回収しますか」
「今日はしません」
「理由は?」
「回収は、今日の目的ではない」
それからサナは付け加えた。
「触れた時に何が起きるか、分からないからです」
自分が置いた物でも、同じ状態で待っているとは限らない。
***
新しい測定石を二つだけ置いた。
黒い線から六歩。
四歩。
二歩の位置には、前回の石がある。
それを三つ目として使うことはしない。
「反応は?」
セオが尋ねる。
「奥から塔へ向かう流れがあります」
サナが言う。
「前回と同じ?」
「方向は近い。強さは弱い」
「数値は?」
「前回の七割ほど」
「七割という値に、意味は?」
「今は比較だけです」
サナは右腕を使わない。
左手も石には触れていない。
「外側の流れは?」
「まだありません」
***
最初に、ノエが名乗った。
「ノエ・ハーラです。ツヅリ村の火を、封を開けず、見える状態で持っています」
火種入れは鳴らない。
次にサナ。
「サナ・リトです。黒い線の手前で、流れを見ています。今日は繋ぎません」
測定石に変化はない。
マレア。
「マレア・ソンです。ここにいる者の身体を見ています。続けられない変化があれば止めます」
朔の手首の青布は動かない。
エリオ。
「エリオ・レイスです。帰路を確認しています。剣は抜いていません」
赤い封は残っている。
セオ。
「セオ・ラグナです。誰が何を見たか、何を見なかったかを記録し、外へ伝えます」
筆が板へ触れる。
何も起きない。
朔の番になった。
***
「黒川朔です」
黒い線を見る。
「ツヅリ村では、サクと呼ばれています」
まだ変化はない。
「今、白い塔の内塔、巡礼路断絶区画の手前にいます」
床の灯り。
三重の横線。
ノエの網箱。
サナの測定石。
「日が最も高くなる前に、外へ戻ります」
火種入れが鳴った。
かた。
測定石の一つが、淡く光る。
「流れが変わります」
サナが言った。
黒い線の手前から、壁に沿って細い光が走る。
前回と同じ。
線の向こうへは行かない。
黒い線と並ぶように、横へ伸びる。
「外側の流れを確認」
セオが記録する。
「前回より細い」
サナが続けた。
「朔の身体に変化は?」
マレアが聞く。
「ありません」
「表示は?」
「まだ――」
答えかけた時、壁に文字が現れた。
PATH
その下に、
EXTERNAL
前回と同じ。
「同じ表示です」
朔が言った。
「ほかには?」
「ありません」
文字を読み続けない。
黒い線へ近づかない。
ここまでで、目的は果たしている。
「戻りますか」
エリオが聞いた。
「外へ報告してから戻ります」
朔が答えた。
***
セオが連絡板を開いた。
その瞬間、外側の流れが折れた。
壁に沿っていた光が、床へ落ちる。
水のようには広がらない。
細い線のまま、朔の足元へ向かう。
「サク、動かないで」
マレアが言った。
朔は動かない。
「流れがサクさんの位置へ」
サナの声。
「身体へ触れていますか」
「まだ分かりません」
光は朔の靴の手前で止まった。
黒い線から伸びたのではない。
その外側を通り、横から来ている。
「戻る」
マレアが言った。
理由の確認はしない。
全員が帰路へ向けて動き始める。
ノエが網箱を持ち直す。
サナは測定具を置く。
エリオが後方の灯りを確認する。
セオは連絡板を閉じる。
朔も足を引こうとした。
だが、足元の感覚がなかった。
***
「動けません」
朔は言った。
「痛みは?」
「ありません」
「足の感覚」
「ない」
マレアが近づく。
「左腕へ触れます」
「はい」
触れられた感覚はなかった。
マレアの手は見える。
自分の腕に置かれている。
だが、温度がない。
「触られているのは見えます」
「感じない?」
「はい」
「サク、私を見てください」
朔はマレアを見る。
顔は見える。
言葉も聞こえる。
その後ろで、床の灯りが消えた。
一つ。
また一つ。
帰路側からではない。
朔の周囲だけが暗くなる。
「経路灯に変化」
エリオが言う。
「サクの位置を囲むように消えています」
「全員、三重線まで下がります」
マレアが指示する。
「サクは?」
ノエが尋ねる。
「私とエリオで動かします」
「本人の同意は」
「あります」
朔は頷こうとした。
身体が動いたか分からない。
***
白くなった。
床が消えたのではない。
黒い線も、塔の壁も、目の前にある。
だが、それらの上へ、白い光が重なった。
透明な布を何枚も掛けられたように、輪郭が薄くなる。
「マレアさん」
朔は呼んだ。
返事は聞こえた。
「ここにいます」
声は近い。
だが、顔が見えない。
白い光がもう一枚重なる。
「サク、内塔の断絶区画手前です」
エリオの声。
「帰路へ移動しています」
今いる場所。
今していること。
決めた確認。
朔は返事をしようとした。
白い場所に、文字が現れる。
SUBJECT:K.K.
その下。
RESPOND
返事をしろ。
誰へ。
何に。
分からない。
朔は口を閉じた。
***
「サク」
ノエの声がする。
「火を持っています」
網箱は見えない。
火種入れの音も聞こえない。
「戻る時刻は、まだ過ぎていません」
セオの声。
「外への異常報告を送ります」
声は届いている。
だが、それが本当に今いる人のものか、朔には確認できない。
昨日、眠る者たちは本当の言葉を使った。
今いる場所。
戻る時刻。
決めたことさえ、知られている可能性がある。
言葉だけでは足りない。
朔は、白い場所の中で考える。
何を知っている。
誰を知っている。
***
ノエ・ハーラ。
火を持つ人。
違う。
それだけでは、役目になる。
ノエは、朔が走った時、火種入れが倒れそうになったのを一緒に支えた。
次は先に腕をつかむと言った。
規定に従っただけだと言いながら、火を見える位置で持ち続けた。
ノエ。
名前の後ろへ、行ったことを置く。
白い光の中に、網箱の形が少しだけ浮かんだ。
***
サナ・リト。
流れを測る人。
それだけではない。
切れているものを繋ぐのが仕事だと思い、右腕を傷つけた。
今日は繋がないと、自分で決めた。
火を渡されたら、測定具を置くと言った。
サナ。
白い場所の足元に、置かれた測定具の箱が見えた。
回収しなかった石。
道具を置いて戻ることを選んだ人。
***
マレア・ソン。
止める人。
それだけではない。
検査を始める前に、止められると説明した。
朔が拒否した深い接続を、理由なしに再開させなかった。
何もなかった時間も残すために、身体を見た。
今、左腕へ触れると言った。
朔には温度がない。
それでも、マレアなら触れる前に告げる。
白い場所の中で、左腕の青い布が見えた。
わずかに引かれている。
本当に触れられているのか。
それもまだ分からない。
だが、布は今、朔の腕に結ばれている。
***
エリオ・レイス。
扉を開ける人。
勇者候補。
どちらも一部でしかない。
自分の肩書きを省いて名乗った。
泥のついた裾で、宿まで来た。
ユノの通行許可を、朔の判断から切り離した。
条件付同行という、なかった言葉を記録へ作った。
今日は白い外套を着ていない。
剣には赤い封がある。
白い場所に、細い赤が見えた。
切れていない。
エリオは、剣を抜いていない。
***
セオ・ラグナ。
記録する人。
管理する人。
それだけではない。
ユイの記録を見せた理由に、朔の反応を試す意図もあったと認めた。
自分の判断が変わったことを、不利になる可能性ごと書いた。
今は、誰が何を理由に決めたかを分けている。
白い場所で、筆の音がした。
実際の音か。
記憶か。
決めない。
***
ユイ。
眠っている人を見る者。
安定者ではない。
眠り番とも、本人は言わなかった。
ここにいれば静かになるから、いただけ。
名前を返してと言った。
窓のある部屋へ、少しだけ動く試行を求めた。
今はこの道にいない。
眠りの区画に残っている。
だから、ユイの声がここで聞こえても、すぐには返事をしない。
ユイがいる場所を、朔は知っている。
ここではない。
***
リオ。
外で待つ人。
名前の紙を持つ人。
だが、それだけではない。
危ない情報は高く売れると言いながら、朔の名前を売らなかった。
逃げ道を探し、逃げるかどうかは別だと言った。
存在を確認した紙を、自分のものにはしなかった。
今は塔の外にいる。
この白い場所にはいない。
朔の名前が書かれた紙も、ここにはない。
だから、ここで何かがK.K.と呼んでも、朔の名前は外に残っている。
***
白い場所に、別の影が見えた。
青い布。
子どもの手。
「サク」
息を弾ませた声。
ハル。
そう呼びたくなる。
名前を出せば、白い場所の輪郭が定まるような気がした。
黒い道の向こうへ続くものが、見えるような気がした。
呼べば、返事があるかもしれない。
その返事が本物かもしれない。
だから、呼ばない。
「ハルの名前は」
朔は、自分の声を確かめながら言った。
「まだ持っています」
白い影が止まる。
「ここへ渡しません」
呼び寄せるために使わない。
道を開くためにも。
声の正体を確かめるためにも。
ハルの名前は、答えを得るための鍵ではない。
「忘れていません」
朔は言った。
「でも、今ここにいると決めません」
青い影が薄くなる。
白い場所は消えない。
それでも、ハルの名は白の中へ置かれなかった。
***
RESPOND
文字が強くなる。
K.K.へ返事を求めている。
あるいは、朔へ。
どちらかは分からない。
「黒川朔です」
朔は言わなかった。
今、名前を名乗れば、それが返事として扱われるかもしれない。
自分の名前を守ることは、いつでも声に出すことではない。
白い場所の向こうから、音がした。
かた。
火種入れ。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
かた。
同じ間隔。
それだけでは確認にならない。
眠りの区画でも、火種入れの音に呼吸が揃った。
***
「サク」
マレアの声。
「左腕に触れています。青い布の結び目の下です」
具体的な場所。
「ノエは、あなたの右側で火を持っています」
ノエの声。
「封印紐は切れていません。網箱の左下に、昨日ついた擦り傷があります」
昨日ではない。
もっと前。
朔が逃げ、箱が倒れかけた時についた傷。
白い場所の外にいる者しか、今それを見て言えないとは限らない。
だが、一つ増える。
「サナは測定具を置きました」
サナの声。
「右腕は使っていません。残した石を取りに戻りません」
「エリオ・レイスです」
エリオの声。
「剣の赤い封は残っています。私はあなたの後ろではなく、帰路側にいます」
「セオ・ラグナです」
「外郭へ、予定外の知覚反応と移動不能を送信しました。送信時刻は、最初の砂が半分落ちる前です」
一人の声ではない。
同じ言葉の繰り返しでもない。
それぞれが、今自分に見えることを別々に言っている。
誰かの記憶を再生しているだけなら、今この瞬間の違いまで揃える必要がある。
不可能とは言えない。
だが、白い場所だけを信じる理由もない。
「戻る」
ユイの声が聞こえた。
朔は返事をしなかった。
ユイはここにいない。
その直後、セオの声が続く。
「眠り区画のユイから、連絡板を通して届きました」
声の経路が示された。
「言葉は、『サクの名前を呼ばないで。本人が返事をするまで、今していることを言って』です」
ユイは、朔を呼ばなかった。
名前を使わず、今いる者たちへ方法を伝えた。
***
白い場所に、細い線が現れた。
道ではない。
ノエの網箱。
サナの置いた道具。
マレアの青布。
エリオの赤い封。
セオの記録板。
それぞれの位置を結ぶように、短い線が浮かぶ。
一本にはならない。
途中で途切れている。
それでよかった。
全部が一つへ繋がる必要はない。
朔は、自分が立っていた場所を思い出す。
三重の横線より前。
黒い線から離れた位置。
右側にノエ。
後方にエリオ。
左腕にマレア。
サナの道具は床。
セオは帰路側。
「今、どこにいますか」
朔は問いかけた。
K.K.へではない。
外にいる人へ。
「内塔、巡礼路断絶区画の手前です」
マレアが答える。
「黒い線は、あなたの前方です」
エリオ。
「帰路は、あなたの後方です」
ノエ。
「戻る時刻は、まだ過ぎていません」
セオ。
「全員、戻る途中です」
サナ。
朔は、初めて返事をした。
「ここにいます」
白い文字へではない。
今いる五人へ。
***
左腕に温度が戻った。
最初は痛みに近い熱だった。
青い布の下。
マレアの指。
次に、足裏。
硬い床。
右側から、土の器が網箱へ当たる音。
正面には黒い線。
後ろには、床の灯り。
白い光が薄くなる。
SUBJECT:K.K.
文字は残っている。
朔は見た。
だが、返事はしない。
「足を動かせますか」
マレアが聞く。
「右から」
朔は右足を引いた。
床を擦る音。
「動きました」
「左」
左足。
「動きます」
「自分で歩けますか」
「一歩ずつなら」
「戻ります」
「はい」
***
全員が帰路へ移った。
サナの測定具は床へ残した。
前回とは別の箱。
回収しない。
朔は、マレアに左腕を支えられている。
右側にはノエ。
エリオは先に扉を開ける。
セオは歩きながら記録しない。
今は前を見る。
三重の横線を越えたところで、朔は一度だけ振り返った。
黒い線。
床に残った測定具。
外側の光は消えている。
文字もない。
人影も見えなかった。
***
内塔連絡所へ戻ると、マレアが朔を椅子へ座らせた。
目。
脈。
呼吸。
「頭痛」
「少し」
「白い視界」
「消えました」
「手足の感覚」
「戻っています」
「声」
「今は、ここにいる人の声だけです」
「それをどう確認しますか」
朔は答えを急がなかった。
「完全には確認できません」
「では」
「見える身体と、今していることと、互いに違う内容を確認しています」
声だけではない。
全員の位置。
道具。
傷。
封。
触れられている場所。
同じ記憶を繰り返すのではなく、それぞれが今見ているもの。
***
セオが、現地で起きたことを読み上げた。
外側の流れが再現した。
朔の足元へ向きを変えた。
朔は移動不能と感覚低下を申告。
周囲の経路灯が一時的に消えた。
他の参加者には、朔の身体がその場に立っていることが見えていた。
朔は目を開けていた。
問いかけへの反応が途切れた時間があった。
マレアが本人の事前同意に基づき左腕へ触れ、エリオとともに帰路側へ身体を移そうとした。
「実際に動きましたか」
朔が聞く。
「半歩だけ」
マレアが答えた。
「あなたの足が床から離れなかったため、それ以上は行いませんでした」
「俺には、動かされた感覚がありませんでした」
「記録します」
参加者が各自の現在位置、行動、物の状態を伝えた。
ユイから、朔の名前を呼ばず、現在の行動を伝えるよう提案が届いた。
朔が「ここにいます」と返答。
その後、身体感覚と応答が回復。
全員帰還。
負傷者なし。
測定具一式を現地へ残置。
「名前を思い出したことで戻った、と書きますか」
セオが尋ねた。
「書きません」
「では、何が起きたと?」
「白い場所で、今ここにいる人の名前と、その人が実際にしたことを思い出しました」
「それが回復に関係した可能性は?」
「あります」
「外からの呼びかけは?」
「関係した可能性があります」
「現場から離れたことは?」
「それも」
「どれが原因かは」
「分かりません」
セオが記録した。
***
ユイは、眠りの区画から連絡板越しに聞いた。
「名前、使った?」
「呼びませんでした」
「思い出した?」
「はい」
「名前だけ?」
「その人が何をしたかも」
少し間があった。
「名前だけなら、声も言える」
ユイの言葉が届く。
「はい」
「今してることは、今いる人が言う」
「それも真似されるかもしれません」
「うん」
「でも、一人の声だけよりは、戻る場所が多かったです」
ユイはすぐに返さなかった。
やがて、短い言葉が来る。
「一人の道にしなかったから」
白い場所では、線は一本に繋がらなかった。
途切れたまま、複数の場所を示していた。
それで戻れた。
少なくとも、朔にはそう感じられた。
***
「ハルの声は聞きましたか」
エリオが尋ねた。
「姿と声に似たものを見ました」
「呼びましたか」
「呼びませんでした」
「なぜ?」
「名前を使えば、何かがはっきりする気がしました」
「それなら」
「はっきりさせるために、ハルの名前を渡したくなかった」
朔は腰の青い布を見る。
「白い場所で、何と言ったのですか」
記録へ残すかを決めるために聞いている。
「ハルの名前は、まだ持っています」
朔は答えた。
「ここへ渡しません。忘れていません。でも、今ここにいると決めません」
セオが筆を止める。
「記録しますか」
朔は少し考えた。
「俺が、白い場所でそう言ったことは」
「ハル本人の状態を示す言葉としてではなく?」
「はい」
「サクさんが名前をどう扱ったかとして」
「お願いします」
***
外郭へ報告を送る。
リオから返事が来たのは、砂時計がほとんど落ちた頃だった。
「名前だけ持って帰ったら、荷札と変わらん。誰が何を預けたか、何を止めたか、どこで待っとるかまで持て。それでも重すぎるなら、一人で持つな」
朔は、最後の一文をもう一度読んでもらった。
一人で持つな。
ハルの名前。
ミナトの名前。
眠っている者たちの名前。
全部を、一人で道へ持ち込めばいいわけではない。
誰に預けるか。
どこまで伝えるか。
いつ返すか。
それを問わなければ、名前もまた荷物になる。
***
その日の帰還記録が終わると、全員が役目を外した。
ノエは網箱を保管台へ置いた。
サナは残した測定具の損失届を書いた。
マレアは朔の青い布を外さなかった。
接続を行っていないことと、感覚の消失が起きたことを示すため、次の確認まで残す。
エリオは剣の赤い封をノエに確認してもらった。
切れていない。
セオは記録板を閉じた。
外したあとも、今日したことは消えない。
***
朔は観察室へ戻り、窓の外を見た。
白い塔。
その外側に、夕方の空がある。
塔の中で見た白は、どこまでも続いているように見えた。
だが、実際には外があった。
名前も同じだった。
一つの白い場所へ集めれば、すべてが繋がるわけではない。
離れた場所にいる人。
違うことをしている人。
今は呼ばない方がよい名前。
本人へ返した名前。
外で持ってもらっている自分の名前。
それらは一本の道にはならない。
それでも、朔がどこへ戻るかを示していた。
名を運ぶ者は、名前を唱えて道を開く者ではなかった。
誰の名前を、どこへ運ばないか。
誰へ返すか。
誰と分けて持つか。
それを忘れない者だった。




