第四章 眠りの道 ⑦ 道を切る者
K.K.の記録を読み直した翌日、朔は内塔へ入らなかった。
午前は、観察室で巡礼路の写しを見た。
紙を机へ置かず、膝の上で広げる。
火の印。
手の印。
眠りの印。
白い塔の下へ続くように見えた線は、途中で一度細くなり、その先で黒く塗り潰されている。
最初に見た時は、汚れだと思った。
古い紙。
煤。
湿気。
誰かの指の跡。
だが、塔の中でPATHという文字を見たあとでは、黒い部分にも意味があるように見えてしまう。
だから、見すぎない。
意味があると決めない。
朔は写しを畳んだ。
網箱の中で、火種入れは静かだった。
腰の青い布にも変化はない。
「今日は、鳴らないんですね」
扉の近くにいたノエが言った。
「鳴らないことも、記録しますか」
「必要なら」
「必要だと思いますか」
ノエは少し考えた。
「昨日まで、特定の記録や場所で反応したと申告されています。今日は、同じ写しを見ても反応しなかった」
「同じ条件ではありません」
「場所が違いますね」
「見ている人の状態も」
「では、反応なし。ただし過去と同一条件ではない」
「お願いします」
何も起きなかった。
それだけでも、前に起きたことを固定しすぎないための材料になる。
***
午後、セオが三枚の記録を持ってきた。
「PATHに関連する照合結果です」
「俺が見た文字ですか」
「それだけではありません」
セオは机へ板を置かない。
先に朔へ見せる。
「古い巡礼路と思われる線と、現在の内塔経路の一部を重ねたところ、位置が近い区画がありました」
「同じ道ですか」
「確認できていません」
「近いだけ」
「はい」
「黒くなっているところは?」
「現在の管理局では、巡礼路断絶区画と呼ばれています」
「誰が付けた名前ですか」
「六年前の調査記録が最初です」
「調査した人は?」
「生存者が二人います。今日、話を聞けます」
記録だけではなく、人。
「本人たちは、俺に話すと同意していますか」
「はい。伝えた内容は、古い道の印を持つ子どもが、当時何を見たのか聞きたいと求めている、です」
「K.K.やY.I.のことは?」
「伝えていません」
「黒い人影については?」
「記録にあるため、質問する可能性があると伝えました」
黒い人影。
朔の手が、腰の青い布に近づいた。
触れなかった。
「会います」
***
面談は、外郭寄りの小さな休憩室で行われた。
窓がある。
白い塔は見えない。
代わりに、王都の屋根と、洗濯物を干す細い縄が見えた。
一人目は、痩せた男だった。
左脚を引きずっている。
杖の先には、何度も修理した跡がある。
「ガウ・メイル」
男は椅子へ座る前に名乗った。
「当時は塔路調査員。今は外壁の測量補助をしています」
役目が変わっている。
「黒川朔です。今はサクと呼んでください」
「分かった」
同席するのは、セオ、エリオ、ノエ。
リオは外郭待合所の窓越し。
部屋の中には入れないが、声は伝達管を通して聞ける。
火種入れは、ノエの足元。
「何から聞きたい」
ガウが言った。
「ガウさんが見たものだけを、先に聞きたいです」
「記録は読まないのか」
「あとで比べます」
「順番が逆では?」
「記録を先に読むと、その通りに聞こえるかもしれないので」
ガウは少し笑った。
「面倒な子どもだな」
「よく言われます」
***
「六年前、何を調べに行ったんですか」
「内塔の経路灯が、同じ場所で何度も消えた」
「故障?」
「そう思われていた」
「調査員は何人?」
「七人」
「名前を教えてもらえますか」
ガウの表情が変わる。
「全部か」
「覚えている範囲で」
「自分の記録に持つのか」
「今は、話を聞いた人として覚えます。ほかへ伝える時は、先に範囲を決めます」
ガウは杖の握りを指で叩いた。
「俺。ガウ・メイル」
一人ずつ言う。
「設備技官のサナ・リト。治療官のペル・オウダ。記録員のミト。運搬補助のジェン。勇者候補のラグ・テイン。もう一人の勇者候補、フィオナ・セルク」
七人。
「戻ったのは?」
「俺とサナとジェン。ペルは途中まで運ばれたが、三日後に死んだ」
「ミトさんは?」
「戻らなかった」
「ラグさんとフィオナさんも?」
「ああ」
朔は名前を急いで繰り返さなかった。
今は、証言を聞く。
あとで一人ずつ持ち直す。
***
「道は、どうなっていましたか」
「灯りが消えていた」
「完全に?」
「先へ続く線が、途中で切れていた」
「床が壊れていた?」
「床も壁もある。歩こうと思えば歩ける」
「では、何が切れていたんですか」
ガウは杖を床へ置く。
「道として、続いていなかった」
「意味が分かりません」
「俺も、うまく言えん」
ガウは窓の外を見る。
「向こう側が見える。床もある。だが、進むと、同じ場所へ戻る」
「曲がって?」
「真っ直ぐ歩いたつもりでも、気づけば切れた灯りの前に立っとる」
「印は?」
「黒い線があった」
朔の写し。
黒く塗り潰された場所。
「どこに?」
「床。壁。天井にも」
「同じ線が繋がっていましたか」
「そこまでは覚えていない」
「覚えていないことも記録します」
セオの筆が動く。
***
「最初に人影を見たのは?」
「二度目に道へ入った時だ」
「誰が?」
「俺と、ラグ」
「ほかの人は?」
「後ろにいた。灯りの切れ目より手前」
「人影は、どこに?」
「切れた道の向こう」
「大人ですか」
「子どもに見えた」
「どれくらいの背丈?」
ガウは朔を見る。
「今のお前より、少し大きいくらい」
朔の胸が、一度強く鳴った。
ハル。
名前が浮かぶ。
まだ置かない。
「顔は?」
「黒くて見えなかった」
「肌が黒い?」
「違う」
ガウは首を振る。
「影がまとわりついていた。服の色も、髪も、顔も分からん」
「声は?」
「聞いた」
「何と言いましたか」
ガウはすぐには答えなかった。
杖の握りを強くする。
「ラグが、自分の名を言った」
「どのように?」
「王都殻管理局所属、勇者候補第四位、ラグ・テイン。道を開けろ、と」
エリオの右手が、わずかに動いた。
順位。
役目。
名前。
「そのあと、人影が言った」
ガウは低い声で再現した。
「勇者は、来るな」
部屋が静かになった。
「ラグさんの名前には反応しなかった?」
「分からん。あいつが全部一度に言ったからな」
名前と肩書き。
順位。
どこに反応したかは分けられない。
「攻撃したのは、その後ですか」
「ああ」
「武器は?」
「見えなかった」
「ラグさんは、何をされた?」
「剣を抜いた。次の瞬間、剣の先が黒くなった」
「壊れた?」
「消えた」
「剣全体が?」
「先から、少しずつ」
ガウは自分の左脚を見る。
「逃げろと言われて、俺は下がった。ラグは進んだ」
「誰に逃げろと言われたんですか」
「サナだ」
「人影ではない?」
「ああ」
都合よく、黒い人影がガウを逃がしたことにはしない。
***
「ガウさんは、どこで脚を怪我しましたか」
「戻る時だ」
「人影に?」
「違う」
ガウは杖を床へ鳴らした。
「消えた灯りを飛び越えようとして、足をひねった。戻った時には骨が折れていた」
「飛び越えた時には?」
「痛みはなかった」
「あとで?」
「ああ」
道が、傷の時刻まで曖昧にする。
「黒い人影が攻撃したと、記録されていますか」
ガウはセオを見る。
「俺の脚については、そう書かれた」
「訂正しましたか」
「当時は、そうかもしれんと思っていた」
「今は?」
「分からん」
人影が何かをした可能性はある。
道そのものの影響かもしれない。
ガウが着地を誤っただけかもしれない。
「今の言葉も加えます」
セオが言った。
「当時の記録は消すな」
「はい」
「俺が、最初は人影の攻撃だと思っていたことも」
「残します」
過去の判断。
今の判断。
どちらかで塗り替えない。
***
「ほかの人は、人影を見ましたか」
「サナは見ていない。ジェンは、黒いものが動いたと言っていた」
「ペルさんは?」
「声だけ」
「何と聞いた?」
「分からない。本人が話せる前に死んだ」
「フィオナさんは?」
ガウの指が止まる。
「三度目に入った」
「二度目で戻らなかったんですか」
「ラグが消えた。ミトも、記録を取りに近づいて戻らなかった。それで一度退いた」
「三度目に、救助へ?」
「フィオナが行くと言った」
「一人で?」
「俺たちも手前まで行った」
「人影は?」
「またいた」
「同じだと分かりましたか」
「黒い子どもに見えた。それだけだ」
同じ背丈。
同じ場所。
同一の存在とは確認できない。
「フィオナさんは、何と名乗りましたか」
「名前は言わなかった」
朔はガウを見る。
「なぜ?」
「ラグの時を見ていたからだ」
「勇者候補とも?」
「言わなかった」
「攻撃されましたか」
「最初は、されなかった」
部屋の空気が変わる。
「フィオナさんは、何と言いましたか」
「連れを返してほしい、と」
「人影は?」
「何も答えなかった」
「その後は」
「フィオナが、ラグの剣を見つけた」
「道の向こうに?」
「黒い線の手前だ」
「拾った?」
「ああ」
ガウの喉が動く。
「剣を持った瞬間、腕が黒くなった」
「それで人影が動いた?」
「近づいた」
「攻撃した?」
「分からん」
ガウは目を伏せた。
「フィオナは、俺たちに戻れと言った。自分は剣を離さなかった」
「その後を見ましたか」
「道が切れた」
床も壁も残っている。
だが、向こうが見えなくなった。
「フィオナさんが勇者候補だと、人影が知ったかは?」
「分からん」
「では、勇者だけを狙ったと確認できたわけではない」
「そうだ」
ガウは苦い顔をする。
「だが、王都はそう記録した」
***
面談の途中で、網箱の中から小さな音がした。
かた。
ノエが火種入れを見る。
朔も見る。
「今、鳴りました」
「いつから?」
セオが聞く。
「フィオナさんが剣を持った話の途中です」
ノエが答えた。
「原因は?」
「不明です」
朔は腰の青い布へ手を当てた。
温かくはない。
だが、布の端が、わずかに引かれた気がした。
手を離す。
「青い布にも反応が?」
エリオが聞く。
「引かれたように感じました」
「動いたのですか」
「見ていません」
「では、本人の感覚」
「はい」
ハル。
名前が、また浮かぶ。
布。
黒い子ども。
勇者は来るな。
繋げる材料が増えていく。
増えるほど、都合よく一つへまとめたくなる。
「ハルだと思いますか」
セオが聞いた。
朔はすぐには答えなかった。
「思いました」
「今も?」
「可能性はあると思っています」
「根拠は?」
「子どもに見えること。勇者を拒む言葉。青い布が反応したように感じたこと」
「反対の材料は?」
「顔を見ていない。声を知っている人が確認していない。布の反応も測っていない。ハルがそこへ行った記録もない」
セオが一つずつ書く。
「同一とは判断しない」
「はい」
***
二人目の証言者は、サナ・リトだった。
設備技官。
短い銀髪の女性で、右腕を肘から先まで厚い布で覆っている。
「火傷ですか」
朔が聞く。
「調査の時のものです」
「人影に?」
「分かりません」
最初から、そう答えた。
「私は人影を見ていません」
「では、何を見たんですか」
「道が切れるところ」
「ガウさんと同じ?」
「彼より、設備の方を見ていました」
サナは自分で持ってきた図面を広げる。
朔には読めない。
だが、線の形は分かる。
一本の経路。
途中で黒く途切れている。
「灯りが消えた?」
「違います」
「では」
「灯りが、向こうへ届かなくなった」
「同じことでは?」
「灯りそのものは点いていました」
サナは図面の線を指す。
「こちら側で光を増やしても、切れ目から先へ進まない。消えるのではなく、返ってくる」
「跳ね返る?」
「いいえ。元の灯りへ戻る」
返り。
「道が、先へ送らなかった」
「誰かが切ったと?」
「切断痕がありました」
「物理的な傷?」
「流路上の傷です」
「誰が作ったかは?」
「分かりません」
「黒い人影を見ていないのに、道を切る者の記録があります」
「私は書いていません」
サナはセオを見る。
「後の照合記録で、人影と切断が一つにまとめられました」
また、近い欄。
近い出来事。
同じ場所で起きたから、一つの原因にされた。
***
「道が切れたことで、何が起きましたか」
「奥からの流れが止まりました」
「悪いことですか」
「当時は、そう考えました」
「今は?」
「分かりません」
サナは覆った右腕を見る。
「切断前、奥から強い流れが来ていた記録があります」
「何の流れ?」
「祈りに似ています。だが、方向が逆です」
「逆?」
「塔から奥へ送るのではなく、奥から塔へ来ていた」
朔の頭に、旧観測室が浮かぶ。
透明な壁。
黒い板。
DO NOT WAKE。
「道が切れたあと、その流れは?」
「止まりました」
「塔は不安定になった?」
「一部は」
「眠っている人は?」
「当時の記録では、声の発生が減っています」
朔はサナを見る。
「減った?」
「はい」
「では、道が切れたことで静かになった人もいる?」
「可能性はあります」
道を壊した。
塔への流れを妨害した。
そう記録されていた。
だが、何かが塔へ流れ込むのを止めたとも読める。
***
「サナさんの腕は、いつ傷ついたんですか」
「流路へ測定具を入れた時です」
「人影は関係ない?」
「少なくとも、私は見ていません」
「黒い線に触れた?」
「測定具が触れました」
「何が起きましたか」
「熱ではないのに、火傷のように皮膚が剥がれた」
サナは布の上から腕を押さえる。
「道を繋ぎ直そうとした?」
「はい」
「なぜ?」
「切れているなら、戻すのが設備技官の仕事だと思ったからです」
「戻す前に、何のために切られたか調べましたか」
「調べませんでした」
サナの声は平らだった。
「今なら、どうしますか」
「まず、切断前後の流れを比べます。奥から何が来ていたかを調べます」
「人影に聞く?」
「話せる相手なら」
セオが、その言葉を記録する。
***
二人の証言を聞いたあと、朔は記録を読んでもらった。
王都の現在の呼称。
巡礼妨害反応。
付随記録。
黒色人型個体。勇者候補を選択的に攻撃。経路を破壊し、内塔調査を阻害。
「確認されたことと、まとめられたことを分けてください」
朔が言った。
セオが記録板を開く。
「どこからですか」
「黒色人型個体」
「人影を見た証言があります」
「人だったと確認された?」
「いいえ」
「同じ影が二度現れたとも?」
「いいえ」
「では、黒い子どもに見える人影が、少なくとも二度目と三度目の調査時に目撃された」
「はい」
「勇者候補を選択的に攻撃」
「ラグ・テインは、勇者候補を名乗った後に攻撃を受けています」
「フィオナさんは?」
「勇者候補を名乗っていません。攻撃を受けたかも確認できません」
「なら、勇者だけを選んだとはまだ言えません」
「はい」
「経路を破壊した」
「切断と人影の因果関係は確認されていません」
「調査を阻害した」
「結果として、調査は継続不能になりました」
「でも、来るなと言った」
朔はガウを見る。
「それは聞きましたか」
「ああ」
「では、少なくとも、ラグさんへ進まないよう求めた」
「そうだ」
「勇者は来るな、と」
「そう言った」
セオが新しい文章を作る。
「六年前の調査において、黒い子どもに見える人影が目撃された。人影は、勇者候補を名乗ったラグ・テインに対し、『勇者は来るな』と発言したとガウ・メイルが証言。経路切断との因果関係、同一人影の継続出現、勇者候補のみを攻撃したかは未確認」
「道についても」
「内塔へ向かっていた流れが止まった?」
サナが訂正する。
「奥から内塔へ向かっていた流れです」
「それを記してください」
方向が違えば、意味も変わる。
「経路切断後、奥から内塔へ流入していた反応が停止。一部設備は不安定化した一方、眠り区画での発声記録は減少。切断が防御、妨害、または別の目的によるものかは未確認」
「はい」
***
面談が終わる前に、ユイが来た。
今日、話を聞く予定ではなかった。
アナと一緒に、扉の外へ立っている。
「入っていい?」
ユイ自身が聞く。
「はい」
朔は答えかけて止める。
「ガウさんとサナさんにも聞いてください」
ユイは二人を見る。
「入っていい?」
ガウが頷く。
「いい」
サナも答える。
「どうぞ」
ユイは部屋へ入った。
椅子には座らない。
机に広げられた図面を見る。
「ここ」
黒く切れた線を指す。
「知っていますか」
朔が聞く。
「音が来なくなるところ」
「行ったことがある?」
「近くまで」
「黒い人影を見ましたか」
「見てない」
「では、何を知っていますか」
ユイは、サナの図面を見たまま言う。
「道を壊してるんじゃない」
サナの指が止まる。
「なぜ、そう思うのですか」
「向こうから来る音が、そこで止まるから」
「向こうから塔へ?」
「うん」
「切れる前は?」
「呼ぶ音が多かった」
眠っている者たち。
母を呼ぶ声。
知らない名前。
やめてという声。
「道が切れたあと、静かになった?」
「少し」
「では、誰かが守るために切った?」
朔が聞く。
ユイは首を横に振る。
「そこまでは知らない」
「では」
「来させないように、切ってる」
「誰を?」
「こっちから行く人」
ユイは黒い線へ指を置かず、少し手前で止める。
「向こうから来るものも止めてる。こっちから行く人も止めてる」
両方。
「守っているのは、どちら側ですか」
セオが聞く。
「知らない」
塔を守っているのか。
奥を守っているのか。
眠っている者を守っているのか。
黒い人影自身を守っているのか。
「でも、壊したなら、何も通れなくする」
ユイは言った。
「まだ、道はある」
「切れているのに?」
「戻る道だけある」
朔は顔を上げた。
進めば、同じ場所へ戻る。
ガウの証言。
真っ直ぐ歩いても、切れ目の前へ戻された。
「先へは行けない。でも、戻れる」
「うん」
「閉じ込める道ではない?」
「塔の方から行った人は」
ユイは答えた。
向こう側から来た者が戻れるかは分からない。
***
朔は腰の青い布へ触れた。
今度は、引かれない。
温度も変わらない。
「ハルのことを話してもいいですか」
ユイが聞く。
朔は驚いた。
「何を?」
「サクが、黒い子がハルかもしれないって思ってること」
「どうして分かりましたか」
「布を触ったから」
朔は手を離した。
「思っています」
「名前を呼ぶ?」
「今は呼びません」
「どうして」
「人影がハルだと決まっていない。道の向こうにいるかも分からない。呼んで、こっちへ来るものがハルだけとも限らない」
ユイは頷く。
「それでいい」
「ユイも、ハルだと思いますか」
「知らない」
「可能性は?」
「サクが思ったことは分かる」
肯定ではない。
否定でもない。
「青い布と、子どもと、勇者は来るな」
ユイは一つずつ言った。
「似てるものを繋いだ」
「はい」
「繋がることと、分かることは違う」
第四章の言葉を、ユイが先に言った。
朔は青い布から手を離したまま頷く。
「はい」
***
「この道を見に行きたいですか」
セオが朔へ聞いた。
行きたい。
すぐに答えが浮かぶ。
黒い人影。
勇者を拒む言葉。
ハルかもしれない誰か。
「行きたいです」
朔は答えた。
「いつ?」
「今日は行きません」
「なぜですか」
「今日は、人の話を聞く日です」
ガウ。
サナ。
ユイ。
それぞれが、違うものを見た。
「それから、条件が足りません」
「何が必要ですか」
「道が切れた時の流れを測れる人。身体の変化を止める人。戻る道を確認する人。外で時刻を持つ人」
「勇者候補は?」
セオが聞く。
エリオを見る。
「人影が勇者という言葉に反応した可能性があります」
「私を外しますか」
エリオが聞いた。
声は静かだった。
「まだ決めません」
「危険を減らすなら、外すべきでは?」
「エリオさんが勇者候補であることと、エリオさんが必要な扉を開けることを、分けて考えます」
「人影は、分けないかもしれません」
「はい」
エリオ自身が危険になる。
同時に、エリオがいなければ開かない扉がある。
「本人の意見も聞きます」
朔が言う。
「私の?」
「はい」
「私は行きたいです」
「なぜ?」
「勇者は来るなと言った者に、なぜか聞きたい」
「勇者として?」
エリオは少し考えた。
「エリオ・レイスとしてです」
「相手が分けてくれなければ?」
「その危険も含めて、行くか決めます」
今すぐではない。
一人でもない。
***
外郭へ送る報告には、三人の証言を分けて載せた。
ガウが見た黒い人影。
サナが測った逆向きの流れ。
ユイが感じた、呼ぶ音の減少。
同じ記録へまとめる。
だが、一つの原因とは書かない。
リオからの返事は、いつもより長かった。
「道を塞ぐ奴が敵とは限らん。崖の先に縄を張る奴も、火を止めるために森を切る奴もおる。だが、通す相手を選ぶ奴は、選び方を間違える。行くなら、何を止めとるかだけやなく、誰を通そうとしとるかも見ろ」
朔は二度読んでもらった。
黒い人影は、勇者を拒んだ。
それだけなら、勇者以外を通すのかもしれない。
誰も通さないのかもしれない。
エリオだけを狙うのかもしれない。
朔を呼んでいるのかもしれない。
そう思いたくなる。
だから、今は行かない。
***
夜、観察室で火種入れが一度だけ鳴った。
かた。
朔は網箱へ近づかなかった。
「何に反応した」
問いは、声にしない。
腰の青い布も触らない。
代わりに、今日聞いた名前を一人ずつ持ち直す。
ガウ・メイル。
サナ・リト。
ペル・オウダ。
ミト。
ジェン。
ラグ・テイン。
フィオナ・セルク。
そして、まだ名前を知らない黒い人影。
ハルの名は、別の場所に置いた。
重ねない。
黒い道の向こうにいるものが何であっても、今はまだ、ハルと呼ばない。
道は切れていた。
だが、戻る道は残されている。
それが敵意なのか、警告なのか、守るための線なのか。
答えは、まだ黒い部分の向こうにあった。




