第四章 眠りの道 ⑤ 白い部屋の外
旧観測室へ行くことを決めたのは、翌日の朝だった。
ユイの頭痛は消えていた。
マレアが目と呼吸と脈を確かめる。
「昨日の夜から、痛みは?」
「ない」
「声が増えた感じは?」
「同じ」
「同じ、というのは普段と変わらない?」
「うん」
「普段の状態が安全だとは決めません」
「知ってる」
同じやり取りを、昨日もしている。
ユイは嫌そうな顔をしなかった。
慣れたのではない。
マレアが同じ言葉を省かずに伝えることを、確かめているように見えた。
「今日は窓のある部屋への移動試行ではありません」
マレアが言う。
「旧観測室を見るだけ」
「入らない?」
ユイが聞く。
「本人たちが入ると言わない限り、入室は行いません」
「触らない?」
「扉や観測板には触れません」
朔も確認する。
「接続のためではありません。外から部屋を見るためです」
「中で何があったかは聞く?」
「ユイが話していいと思ったところだけ」
ユイは少し考えた。
「じゃあ、行く」
***
旧観測室へ向かう者は、昨日より一人少なかった。
アナは生活区画に残る。
代わりに、旧観測室の扉を開けられるセオが同行する。
先頭はエリオ。
火種入れを持つノエ。
ユイ。
朔。
マレア。
最後にセオ。
「ユイが先ではないんですね」
朔が聞く。
「今日は、私も道を知らない」
ユイが答えた。
眠っている者の場所では、ユイが先頭だった。
誰がどこにいるか知っていたから。
今向かうのは、ユイが中へ連れていかれた場所。
外から歩く道は知らない。
「分からない道で、先頭にはならない」
「うん」
役目を固定しない。
知っている人が前に立つ。
知らない時には、下がることも選べる。
***
経路灯は、内塔のさらに奥へ続いた。
昨日通った眠りの区画とは逆の方向。
床の光は淡い緑から、少しずつ白へ変わっていく。
壁も明るくなる。
だが、生活の白ではなかった。
扉の傷も、布も、水差しもない。
人が立ち止まった跡が少ない。
「ここから先は、待機場所がないんですか」
朔が聞く。
「旧観測区画は、長く滞在する場所として作られていません」
セオが答えた。
「観測する人は?」
「別の通路から入ったと記録されています」
「その通路は?」
「現在は閉鎖されています」
「なぜ」
「壁内流路の損傷です」
「誰が確認しましたか」
「設備担当の記録があります。名前は、帰ってから確認します」
名前を知らないまま、担当者の判断だけを借りる。
今は必要だった。
だが、あとで問う。
***
旧観測室の手前には、細い灰色の線が床へ引かれていた。
エリオがその前で止まる。
「ここから先は、旧設備の反応範囲です」
「線を越えると、接続されますか」
「その記録はありません」
セオが答える。
「ないと確認された?」
「いいえ。接続が起きたという記録がないだけです」
朔は灰色の線を見る。
床へ塗られたものではない。
石そのものの色が変わっている。
「越えなくても、部屋は見えますか」
「見えます」
「では、最初はここから見ます」
誰も異論を言わなかった。
ユイも線の前で止まる。
自分が以前、どこまで歩いたのかを確かめるように、足元を見ている。
***
観測室は、透明な壁の向こうにあった。
窓というより、部屋の一面が透けている。
内側は白い。
天井。
床。
壁。
継ぎ目がないように見える。
中央に、細長い台が一つ。
寝台にも、椅子にも見える。
背を起こす部分があり、両側には人の腕を置けそうな細い板がついている。
その前に、黒い長方形。
文字は出ていない。
部屋には誰もいなかった。
「ここですか」
朔が聞く。
「うん」
ユイの答えは小さかった。
白い部屋。
朔が何度も見た場所。
目を開けると、平らな光があった。
黒い文字が浮かんだ。
誰かの声が聞こえた。
内側から見た時、壁はどこまでも白かった。
だが、今は外から見ている。
透明な壁の縁には、金属の細い留め具がある。
床の下には、何本もの管が走っている。
天井の裏にも、影がある。
内側では見えなかった継ぎ目。
外からなら見える傷。
「同じですか」
マレアが聞く。
「俺が見た部屋と?」
「はい」
「似ています」
「違うところは?」
「中にいる時は、外がありませんでした」
透明な壁はなかった。
見えなかっただけかもしれない。
「今は、外から中が見えます」
朔は続ける。
「でも、中からここが見えるかは分かりません」
***
ユイが透明な壁の向こうを見ている。
「中にいた時、外の人は見えましたか」
朔が聞く。
「見えなかった」
「声は?」
「近くの声は聞こえた」
「何人いましたか」
「分からない」
「同じ人が話していましたか」
「二人」
「名前は?」
「聞いてない」
ユイは首を横に振る。
「私の名前も、先に聞かなかった」
Y.I.
そう呼ばれ、最初は返事をした。
「何と説明されましたか」
「手を置けば、終わるって」
「何が終わると?」
「検査」
「終わったら、出られると?」
「そう思った」
「言われたんですか」
ユイは少し考える。
「検査が終わったら、次を決めるって言われた」
出られるとは言われていない。
ユイがそう受け取った。
説明した者が、そう受け取られることを分かっていたかは不明。
「それを言った人の名前を、知りたいですか」
セオが尋ねる。
ユイは透明な壁を見たまま答える。
「知って、どうするの」
「当時の記録を確認できます」
「謝ってほしいわけじゃない」
「では?」
「次の子に、何て言うか聞きたい」
過去を責めるためだけではない。
同じ言葉を、別の子どもへ渡すのか。
「調べます」
セオが言う。
「名前と、その後の説明手順の変更履歴を」
「変わってなかったら?」
「変える必要があると記録します」
「記録するだけ?」
「それで終わらせない方法を考えます」
できるとは言わなかった。
だが、紙だけに閉じ込めるとも言わなかった。
***
「二回目の時、どこへ座りましたか」
朔が聞く。
ユイは中央の台を指す。
「あそこ」
「腕は?」
「両方、板の上」
「縛られましたか」
「留められた」
「自分で外せましたか」
「試してない」
「怖くなかった?」
「最初は、早く終わると思った」
怖さより、終わることを信じていた。
「途中では?」
「呼ばれた」
「Y.I.と?」
「うん」
「返事をした」
「うん」
「そのあと、道ができた」
ユイが自分の胸へ手を置く。
「白いところから、私の中へ?」
「違う」
「では」
「私の中から、白いところへ開いた」
前に聞いた言葉と、少し違う。
「前は、ここから向こうまで、と言いました」
「うん」
「今は、ユイから開いたと思う?」
「そう感じた」
記録上の事実ではない。
ユイが今、思い出して感じていること。
「その道を通って、何かが眠っている子へ流れた」
「あとで分かった」
「その時は?」
「遠くで、誰かが息をした」
眠っていた者の呼吸。
あるいは別の何か。
分からない。
***
朔は透明な壁へ近づかなかった。
灰色の線の手前。
そこから、部屋を見る。
黒い長方形。
今は何も表示していない。
「俺が見た文字は、あそこに出ていました」
「ORPHES?」
エリオが聞く。
「はい。それから、K.K.、Y.I.、OBSERVATION」
「今日は見えますか」
「まだ」
朔は黒い板を見る。
自分から見ようとしすぎない。
見たいものを、暗い面へ置かない。
「内塔の記録では、この部屋は旧観測室と呼ばれています」
セオが言う。
「何を観測する部屋ですか」
「接続時の魔素反応、身体状態、内塔下層への流れ」
「人を見る?」
「人も含みます」
「中の人が、外を見られないまま?」
「当時の構造では、そのようです」
観測する側。
観測される側。
透明な壁は、外からだけ見える。
「中にいた人は、誰が見ているか分からない」
「はい」
「見ている人は、中の人を見られる」
「はい」
朔の声が、少し硬くなる。
「今は使っていない?」
「一部は稼働しています」
「この部屋も?」
「観測板への接続は停止されています」
「停止を確認したのは?」
「設備記録です」
「今、動かないと確認できますか」
セオは答えなかった。
「外部から状態を見るためには、設備担当が必要です」
「今日は呼んでいない」
「観測するだけで、装置を調べる予定ではなかったためです」
目的を分けた。
その結果、確認できないことが残った。
「では、動いていないとは決めません」
「はい」
***
黒い板に、白い点がともった。
朔は息を止める。
「何か変わりましたか」
マレアが聞く。
「黒い板に、光が」
「私には見えません」
エリオも首を横に振る。
ユイは黒い板ではなく、朔を見ている。
「近づかないで」
「はい」
白い点が、横へ伸びる。
文字になる。
ORPHES
その下。
OBSERVATION
さらに小さな文字。
SUBJECT:K.K.
朔は読み上げた。
セオが記録する。
「ほかには?」
文字が一度消える。
次に現れたのは、
DO NOT WAKE
「起こすな」
朔は日本語へ直して言った。
その瞬間、部屋の中から音がした。
低い男の声。
『まだ起こすな』
会社の会議室。
黒い画面。
顔を見せずに指示を出した男。
三門社長の声に似ていた。
同じだと決めるには、短すぎる。
だが、聞き覚えがある。
「何が聞こえましたか」
マレアが聞く。
「男の声です」
「私には、短い雑音だけでした」
エリオが言う。
「私もです」
ノエ。
セオも頷く。
ユイは、何も言わない。
「ユイには?」
朔が聞く。
「言葉は聞こえなかった」
「では、俺だけ」
「何て言ったの」
「まだ起こすな」
ユイの指が、腰の青い袋を握る。
「誰を?」
「分かりません」
朔は黒い板を見る。
SUBJECT:K.K.
その下に、DO NOT WAKE。
並んでいる。
だからといって、K.K.を起こすなという意味とは限らない。
「K.K.に向けた命令だと思いますか」
セオが聞く。
「そう読めます」
「では」
「でも、文字が並んでいるだけです」
別の記録かもしれない。
現在の表示かもしれない。
過去の命令かもしれない。
そしてK.K.が誰なのかも分からない。
「声を知っていますか」
エリオが聞く。
「俺がいた世界で、聞いた人の声に似ています」
「名前は?」
「三門」
朔は答えた。
「会社の社長です」
異世界へ来てから、初めて王都の記録へ渡す現代側の名前。
セオの筆が止まる。
「記録しますか」
朔はすぐには答えなかった。
三門という名を王都へ渡す。
その名前が、何を開くかは分からない。
だが、今聞いた声との関連を伏せれば、記録が欠ける。
「俺が、三門社長の声に似ていると感じた」
「同一人物と確認したわけではない」
「はい」
「三門の名以外に、記録する情報は?」
「今はありません」
「分かりました」
セオが書く。
名前を渡した。
答えではなく、照合するための一つの点として。
***
ユイが灰色の線の前で、半歩下がった。
「戻る」
短く言う。
マレアがすぐにユイを見る。
「頭痛ですか」
「違う」
「声が増えた?」
「まだ」
「では」
「増える前に戻る」
危険が起きてからではない。
自分が、ここにいたくないと感じた。
それだけで戻る理由になる。
「分かりました」
朔も答えた。
「今日は、ここまでにします」
セオが黒い板へ目を向ける。
「表示が続いています」
「だから戻ります」
朔は言った。
「今なら、続きを確認できる可能性があります」
「予定は、外から見ることです」
「追加情報が」
「目的が変わりました」
文字を読むために残るなら、もう外観確認ではない。
表示を観測する試験になる。
「別に決めます」
セオは一度、目を閉じた。
それから記録板を下げる。
「同意します」
黒い板には、まだ文字がある。
DO NOT WAKE。
答えが目の前に残っている。
それでも、朔たちは背を向けた。
***
灰色の線を離れると、ユイの肩から少し力が抜けた。
マレアが歩きながら問う。
「頭痛は」
「ない」
「吐き気」
「ない」
「胸の流れは?」
「少し遠くなった」
「部屋の近くでは強かった?」
「眠ってる子の息が、近くに聞こえた」
「実際に声が増えたわけではない?」
「まだ」
まだ。
増える可能性を、ユイは感じていた。
「部屋へ近づいたことで、下層の反応が強くなる可能性」
セオが記録しようとする。
「ユイの感覚として」
朔が加える。
「はい」
「旧観測室が原因とは、まだ書かないでください」
「記録しません」
***
待機場所で一度休んだ。
薄い水。
硬い小さなパン。
内塔で働く者のために置かれたものだった。
ユイはパンを半分だけ食べ、残りを青い袋へ入れようとした。
「石と一緒になります」
朔が言う。
ユイは袋を見る。
見た場所を数える石。
眠る者の名前。
そこへ食べ物を入れる。
「駄目?」
「ユイがいいなら」
「石は石。パンはパン」
同じ袋に入れても、同じものにはならない。
ユイは片側の空いた場所へパンを入れた。
「その袋、何を入れるか決めていないと言っていましたね」
「うん」
「今は?」
「持って帰るもの」
「石も?」
「見たことを持って帰る」
ユイはパンの入った袋を閉じた。
「食べなかった分も」
大きな象徴にはしなかった。
ただ、あとで食べるために持って帰る。
白い部屋を見たあとにも、腹は減る。
休まなければ歩けない。
***
内塔連絡所へ戻ると、ルカが経路変更の有無を確認した。
「旧観測室への往復中、経路の変更はありません」
「表示は?」
朔が聞く。
「経路板には、何も記録されていません」
「音声は?」
「旧観測室からの作動報告もありません」
朔たちが見聞きしたものは、設備記録に残っていない。
「俺の知覚だけ?」
「表示と声については」
マレアが答える。
「ユイの流れが近く感じられたことは、ユイ本人の知覚。ほかの者は雑音を聞いています」
「全員が、何もなかったわけではない」
セオが言う。
共有されなかった文字。
共有された短い雑音。
ユイだけが感じた、眠る者の近さ。
同じ場所で、それぞれ違うものを受け取った。
***
外郭へ送る報告を、朔たちは一つずつ決めた。
旧観測室を外側から確認したこと。
部屋は、朔が幻視で見た白い場所と類似していたこと。
朔だけが、ORPHES、OBSERVATION、SUBJECT:K.K.、DO NOT WAKEを知覚したこと。
同行者には同じ表示が見えなかったこと。
全員が短い雑音を聞いたこと。
朔には、それが「まだ起こすな」という男の声に聞こえたこと。
三門という人物の声に似ていると感じたこと。
ユイが退出を求め、全員で戻ったこと。
「誰が中止を決めた、と書きますか」
ルカが聞く。
「ユイが戻ると言った」
朔が答える。
「俺が終了を提案した。マレアさんが身体状態を確認した。セオさんが同意した」
「全員の判断?」
「同じ理由ではありません」
ユイは、いたくなかった。
朔は目的が変わったと判断した。
マレアは身体を確認した。
セオは追加観測を続ける必要と、条件変更の必要を比べた。
「理由を分けてください」
「記録します」
***
リオからの返事は、少し遅れて届いた。
「外から見に行って、向こうから声を掛けられたなら、どっちが見とったかを決めるな。次は、部屋やなく、見ていた人間を探せ」
朔は、もう一度読んでもらった。
白い部屋の外に立った。
初めて、自分が見ていた場所を外から見た。
継ぎ目。
管。
透明な壁。
観測する側の通路。
だが、観測した者の名前は、まだ分からない。
そして、停止しているはずの黒い板は、朔へ文字を見せた。
外から部屋を見ていたはずだった。
最後には、透明な壁のどちら側が見られていたのか、朔には分からなくなっていた。




