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第四章 眠りの道 ② 名前を聞く



 内塔連絡所は、入ってきた扉のすぐ手前にあった。


 壁の窪みに机が一つ。


 記録板。

 小さな砂時計。

 経路を示す細い線が刻まれた灰色の板。


 その前に、一人の男が座っていた。


 年齢はセオより少し若く見える。


 短い黒髪。

 右の耳に、小さな銀環。

 指先には青い染料がついている。


 朔たちが戻ると、男は椅子から立った。


「予定より早いですね」


「経路灯に異常がありました」


 セオが答える。


「異常と決める前に、確認をお願いします」


 朔が言う。


 男の視線が朔へ移る。


「失礼しました。予定と異なる点灯があった、ですね」


「はい」


「ルカ・フェンです。内塔受付で、経路の登録と変更履歴の確認を担当しています」


 目的地を登録した人。


「黒川朔です。ツヅリ村ではサクと呼ばれています」


「記録で確認しています」


 ルカは言ってから、少し間を置いた。


「ですが、本人からも聞きました。サクさん」


 記録を読んだことと、本人から名前を受け取ることを分けた。


***


 セオが、分かれ道で起きたことを説明する。


 本来は右の面会区画だけが点灯する予定だった。


 だが、左の記録路も同時に点いた。


 朔だけが、左にK.K.、右にY.I.という文字を見た。


 ルカは経路板へ銀札を差し込んだ。


 板の上に、細い光が走る。


 二本の線。


 一方は内塔面会区画。


 もう一方は記録路。


「登録した順序は?」


 朔が聞く。


「面会区画。次に記録路。最後に旧設備路の入口確認です」


「二つ同時に開くよう登録しましたか」


「いいえ」


「誰かが変更した?」


「確認します」


 ルカの指が板の端をなぞる。


 王都の文字が、線の横に浮かぶ。


 朔には読めない。


 エリオとセオが覗き込む。


「変更履歴はありません」


 ルカが言った。


「登録後に、順序を書き換えた者はいない?」


「はい」


「設備の故障ですか」


「今の段階では判断できません」


「では、異常とも正常とも決められない」


「そうなります」


 ルカは、経路板の二本の線を見る。


「ただし、二経路が同時に点灯すること自体はあります」


「どんな時に?」


「緊急避難路が開いた時。複数の銀札に別々の経路が登録されている時。それから、塔が現在地を一つの目的地として扱わなかった時です」


「最後のは、どういう意味ですか」


 ルカは少し考えた。


「説明が難しいのですが」


「分かる範囲で」


「内塔の経路灯は、部屋だけを目的地にしていません。人、設備、保管記録など、登録されたものが移動すると、それに合わせて道が変わることがあります」


「誰かが動いたから、二本目が開いた?」


「可能性はあります」


「誰が?」


「分かりません」


 白い髪の少女。


 Y.I.の記録。


 それらが、朔たちの近くを移動した可能性。


 そう考えたくなる。


 だが、まだ結べない。


「今、面会を申請した人は、どこにいますか」


 朔が聞いた。


「その情報は、私は開示できません」


「知らないのではなく?」


「登録上の現在地は確認できます。ですが、本人の同意なしに伝える権限がありません」


 答えない人。


 知らない人ではない。


 その違いも、分けておく。


***


「右の道だけを使うことはできますか」


 朔が聞いた。


「可能です」


 ルカが答える。


「左の記録路を、一時的に経路から外します」


「消す?」


「通行候補から外すだけです。登録自体は残ります」


「誰が外したかも残りますか」


「私の名前で変更履歴に残します」


「理由は?」


「予定外の同時点灯があり、同行者間で経路選択を再確認するため」


「朔が怖がったから、とは書かない?」


 マレアが聞いた。


 ルカは朔を見る。


「それも理由に含めますか」


 朔は少し考えた。


 怖かった。


 右へ行けばユイ。

 左へ行けばK.K.


 そう見せられたことが。


「俺にだけ文字が見え、その文字が目的に合いすぎていたため、知覚に誘導される可能性を疑った」


「誘導されたと断定はしない」


「はい」


 ルカが記録する。


「それから、外への報告を先にします」


 セオが言った。


「約束の時刻前ですが」


「予定が変わりました」


 ルカはすぐに通信板を準備した。


***


 内塔連絡所から外郭待合所へ、直接声は届かなかった。


 細長い板へ言葉を記し、外郭側で別の職員が読み上げる。


 返答も、同じ手順で戻ってくる。


 誰かの口を通る。


 それなら、伝える言葉を一つずつ決める必要がある。


「サクさんたちは内塔へ入った」


 ルカが記録する。


「最初の分かれ道で、予定外に二経路が点灯した」


「俺だけが、道の上にK.K.とY.I.の文字を見ました」


 朔が続ける。


「ほかの四人には見えなかった」


「身体の急変なし」


 マレア。


「接続板への接触なし」


 ノエ。


「予定していない道は選ばず、連絡所まで戻った」


 エリオ。


「右の面会区画のみ再設定し、経路を確認してから進む予定」


 セオ。


 ルカが全文を読み返す。


 誰の言葉かも分けてある。


「送ります」


 板が淡く光った。


 返事が来るまで、少し時間がかかった。


 砂が細く落ちる。


 誰も、その間に先へ進もうとはしなかった。


 やがて、板へ新しい文字が浮かぶ。


 ルカが読む。


「外部立会人リオより」


 朔は顔を上げた。


「戻ったなら、道を間違えたことにはならん。次に進む前に、誰が右を開け、誰が左を閉じたか聞け。帰る時刻は変えん」


 短い。


 励ましではない。


 今、確かめることだけが書かれている。


「右を開けるのは?」


 朔が聞く。


「エリオ・レイスの銀札です」


 ルカが答える。


「左を外すのは?」


「私、ルカ・フェンが経路登録を変更します」


「帰りに戻す人は?」


「記録路へ進むと決めた場合、セオ審査官の申請を受け、私か次の受付担当者が再登録します」


「次の人へ替わる時は、名前を教えてください」


「分かりました」


 ルカは左の線へ指を置く。


 光が消える。


 右だけが残った。


「変更しました」


「記録は?」


 エリオが確認する。


「ルカ・フェン。本人および同行者との再確認に基づく一時変更」


「ありがとうございます」


 朔が言う。


 ルカは青く染まった指先を見た。


「礼を言われるほどのことではありません」


「それを決めるのは、俺です」


 セオが、ごく小さく息を吐いた。


 以前、自分が言われた言葉を覚えていたらしい。


***


 再び内塔へ入る。


 床の灯りは、今度は分かれなかった。


 一本だけ。


 右へ続いている。


 分かれ道の壁には、K.K.もY.I.も見えない。


 灰色の壁。


 細い継ぎ目。


「消えています」


 朔が言う。


「経路変更後、表示なし」


 セオが記録する。


「表示が経路灯と関係していた証明にはなりません」


「はい」


 消えたからといって、ルカが消したとも限らない。


 ただ、今は見えない。


 それだけ。


 右へ曲がる。


 床の灯りが、少しずつ暗くなった。


 先へ進むほど、壁の色が濃くなる。


 白い塔の内側なのに、白から離れていく。


「面会区画は暗いんですか」


 朔が聞く。


「長く内塔にいる者は、強い光を嫌う場合があります」


 ノエが答える。


「全員ですか」


「いいえ。本人ごとに調整します」


 本人ごと。


 少なくとも、光については同じものを押しつけていない。


***


 面会区画の入口に、一人の女性が待っていた。


 濃い灰色の長衣。


 髪は赤茶色で、左の頬に小さなほくろがある。


 胸元には、内塔の円い銀札。


「アナ・セルです」


 女性は名乗った。


「内塔生活区画で、面会と移動の調整を担当しています」


「黒川朔です。今はサクと呼んでください」


「承知しました」


 アナは朔だけでなく、同行者全員を見る。


「面会申請を受けた本人から、返答があります」


 朔の胸が少し硬くなる。


「会うと言いましたか」


「はい。ただし、条件が二つあります」


「聞きます」


「一つ。扉を完全には閉めないこと」


 朔は扉を見る。


 内側へ開く薄い灰色の扉。


「本人が決めたんですか」


「はい」


「理由は?」


「本人は伝えていません」


 理由を言わなければ、条件を出せないわけではない。


「もう一つは、最初に一人だけが話すこと」


「一人だけで部屋に入る?」


「いいえ。同行者は見える場所にいて構いません。ただし、同時に質問しないでほしい、と」


 朔は四人を見る。


「俺が最初に話してもいいですか」


「あなたの申請です」


 セオが答える。


「異論はありません」


 エリオ、ノエ、マレアも頷いた。


「面会中止の判断は?」


 朔はマレアへ聞く。


「身体状態に変化があれば、私が止めます」


「本人が止めたいと言ったら?」


 アナが答える。


「すぐに終了します。理由は求めません」


「俺が止めたい時も?」


「同じです」


「時間は?」


「最初は四分の一刻。双方が続けたい場合のみ延長します」


「外への報告時刻には間に合いますか」


「現在の予定なら」


「予定が変われば、先に伝えます」


 朔が言うと、アナは一度だけ目を細めた。


「聞いていた通りですね」


「何をですか」


「予定が変わることを、予定時刻まで黙っていない人だと」


 誰から聞いたのかは問わなかった。


 たぶん、記録にある。


***


 アナが扉を叩く。


「入ります」


 返事は聞こえなかった。


 アナはすぐには開けない。


 少し待つ。


 内側から、扉が指一本分だけ動いた。


 許可。


 アナはその隙間へ手を掛け、ゆっくり開いた。


 部屋は小さかった。


 観察室より狭い。


 窓はない。


 壁には、薄い青の布が掛けられている。


 机が一つ。


 椅子が二つ。


 奥に、白い髪の少女が座っていた。


 昨日、窓の向こうで見た子。


 同じ白い長衣。


 手首には、薄い灰色の札。


 髪は肩より少し長い。


 今は下を向いていない。


 朔を見ている。


 間に窓はない。


 声を遮るものもない。


 それでも、温度を確かめられる距離ではなかった。


 朔は入口で止まった。


 勝手に近づかない。


「ここに座ってもいいですか」


 入口に近い椅子を指す。


 少女が頷いた。


 朔は座る。


 エリオたちは扉の外。


 見える。


 扉は開いたまま。


 アナだけが壁際に立つ。


 網箱の火種入れは、ノエが廊下から見える位置で持っている。


 少女が、そちらを一度見た。


 火は鳴らない。


***


 何から聞く。


 白い髪。

 Y.I.。

 北の村。

 内塔。


 全部を一度に持ってきてはいけない。


 今、聞くのは一つ。


「あなたの名前を聞いてもいいですか」


 朔は言った。


 少女は、すぐには答えなかった。


 朔の顔を見る。


 腰の青い布。


 手首の薄い青。


 開いた扉。


「昨日、言った」


 小さな声だった。


「窓の向こうで?」


 少女が頷く。


「聞こえませんでした」


「そう」


「口が動いたのは見えました。でも、何と言ったかは分かりませんでした」


「勝手に入れなかった?」


「入れませんでした」


 少女の目が、少しだけ動く。


 驚いたのかもしれない。


「では、今、聞いてもいいですか」


 もう一度問う。


 少女は答えた。


「ユイ」


 短い。


 静かな声。


 王都の記録板ではない。


 照合符でもない。


 本人の口から出た名前。


「ユイさん」


「さんはいらない」


「では、ユイ」


 朔は名前を呼んだ。


 少女が振り向く必要はない。


 最初から、こちらを見ていた。


 それでも、呼ばれた名前を受け取るように、少しだけ頷いた。


「俺は、黒川朔です」


「サク?」


「ツヅリ村では、そう呼ばれています」


「どっちが本当?」


「どちらもです」


 ユイはしばらく考える。


「面倒」


「はい」


「でも、自分で決めた?」


「黒川朔は、前から持っていた名前です。サクは、ツヅリ村で呼んでもらった名前です」


「じゃあ、サク」


「はい」


 互いに、今使う名前が決まった。


***


「昨日、どうして手を上げたんですか」


 朔は聞いた。


「名前を言った」


「手で?」


「先に、ここにいるって見せた」


 声より手。


 本物は温度。


 ユイが同じ教えを知っているとは限らない。


 ただ、声の届かない窓の向こうで、先に自分の存在を示した。


「窓に、線と点を描きましたか」


「描いた」


「意味を聞いても?」


「ユイの、最初と最後」


 朔には分からなかった。


「文字ですか」


「村で使っていた印」


 ユイの名を示す、二つの印。


 王都の文字ではない。


 昨日、朔は意味をつけなかった。


 それでよかった。


「俺は、文字だと決めませんでした」


「どうして?」


「違ったら、ユイの言ったことを別のものにするから」


「今は?」


「ユイが説明したので、ユイの印だと分かりました」


 ユイは青い布の前で指を動かす。


 縦に一本。


 横に小さな点。


「これ」


「覚えてもいい?」


「いい」


「誰かに見せても?」


 ユイは少し考えた。


「まだ駄目」


「分かりました」


 覚えることと、渡すことは違う。


***


 朔は息を整える。


 次の名前。


 今度は、自分が持ってきたもの。


「オル爺を知っていますか」


 ユイの表情が、初めてはっきり変わった。


 目が少し大きくなる。


「どこで聞いたの」


「北の村で会いました」


「いた?」


「俺が村へ着いた時には」


 生きていたと言い切りそうになって、止める。


 あれから時間が経っている。


「俺が会った時には、生きていました」


 ユイは膝の上で手を握った。


「聞こえなかったから」


「何がですか」


「呼ばれても、行かなかった」


 オル爺の言葉。


 聞こえん者だけが残ることもある。


「森の声?」


「殻の声」


 ユイは言った。


「みんな、知ってる声で呼ばれた。オル爺だけ、聞こえなかった」


「ユイも呼ばれましたか」


 すぐに答えは返らなかった。


 ユイの指が、灰色の札へ触れる。


「今は、その話をしない」


「分かりました」


 答えだけ奪わない。


 拒まれた問いを、形を変えてすぐ聞き直さない。


***


「オル爺から、ユイの名前を聞きました」


 朔は言った。


「北の村に、白い髪の子がいた。村の人がユイと名づけたと」


「うん」


「王都へ行ったと聞きました」


「来た」


「自分で?」


 ユイの目が、扉の外へ向く。


 アナ。

 エリオ。

 白い外套。


「最初は、連れてこられた」


「その後は?」


「今は、ここにいる」


 自分でいる。

 出られないからいる。


 どちらとも言わなかった。


 その区別は、次に聞くことだった。


 今、名前を確認する場面へ、全部を重ねない。


「オル爺から、ユイの名前を持ってきました」


 朔は言った。


 ユイが首を少し傾ける。


「持ってきた?」


「忘れないように」


「じゃあ、返して」


 朔は言葉を失った。


「返す?」


「私の名前でしょ」


「はい」


「持ってきたなら、私に返して」


 名前を運ぶ。


 誰かの名前を持つ。


 これまで、それは忘れないための行為だった。


 だが、持ったままにすることが、いつも正しいとは限らない。


 本人へ届いたなら、返す。


「どうすればいいですか」


 朔は聞いた。


「呼んで」


 ユイが言う。


 朔は彼女を見る。


 白い髪でもない。

 Y.I.でもない。

 北方第六殻の保護女児でもない。


「ユイ」


「うん」


 返事があった。


 声だけではない。


 目の前にいる。


 手がある。

 呼吸がある。

 椅子の上に置かれた足がある。


 温度には触れていない。


 それでも、今は人として確かめられるものがあった。


「返しました」


「うん」


「もう、持っていてはいけませんか」


 ユイは少し考えた。


「誰に持っていくの」


「オル爺。ツヅリ村の人たち。外で待っているリオさん」


「オル爺には」


 ユイの声が止まる。


「生きてるって言って」


「今、生きていると?」


「今日、サクに会った時は」


「分かりました」


 現在の生存を、未来まで伸ばさない。


 今日。

 この面会の時。


「塔にいることは?」


「言っていい」


「何をしているかは?」


「まだ言わないで」


「分かりました」


「リオって人には」


 ユイは扉の向こうを見る。


 そこにリオはいない。


「私が名前を言ったことまでなら、いい」


「白い髪の子がユイだった、と?」


「違う」


 ユイは朔を見る。


「私が、ユイだって言った」


 外見から確認したのではない。


 記録と一致したからでもない。


 本人が自分の名前を渡した。


「その通り伝えます」


***


「オル爺は、何か言っていましたか」


 今度はユイが聞いた。


 問いを持つのは、朔だけではない。


「ユイには、村の人が名前をつけたと」


「うん」


「祈りが上手だったと」


 ユイの指が止まる。


「ほかには」


「王都が保護したと聞いた、と」


「それだけ?」


 朔は迷った。


 北の村。


 空の家。


 黒くなった殻。


「村へ戻りたいと言っていた、とは聞いていません」


「聞いてないことは、言わなくていい」


「はい」


「村は?」


 その問いが来た。


 朔は都合のいい順番を探さなかった。


「俺が着いた時には、オル爺しかいませんでした」


 ユイは動かなかった。


「家は残っていました。人はいませんでした」


「殻は?」


「黒くなっていました」


 ユイの視線が、膝の上へ落ちる。


「そう」


 それだけだった。


 泣かなかった。


 驚かなかった。


 知っていたのかもしれない。


 予想していたのかもしれない。


 何も感じていないわけではない。


 外から決めない。


「火は」


 ユイが聞いた。


「火?」


「村の火」


「北の村の火は、分かりません」


 朔は扉の外の網箱を見る。


「これは、ツヅリ村の火です」


 ユイも見る。


「まだ生きてる」


「分かるんですか」


「音が違う」


 火種入れは鳴っていない。


 朔には、何も聞こえない。


「俺には聞こえません」


「聞こえる音じゃない」


 ユイは、それ以上説明しなかった。


 分かることと、言葉にできることは違う。


***


 砂時計の砂が、ほとんど落ちている。


 アナが言う。


「最初の面会時間が終わります」


 朔はユイを見る。


「続けますか」


 決めるのは、朔だけではない。


 ユイはすぐには答えなかった。


「今日は、ここまで」


「分かりました」


 聞きたいことは残っている。


 なぜ塔にいる。

 Y.I.を知っているか。

 返りが消えた時に何が起きた。

 白い部屋を見たか。


 だが、名前を聞くために来た。


 今日は、名前を聞いた。


 目的を混ぜない。


「次に、また話してもいいですか」


「何を聞くの」


「ユイが、ここにいる理由」


「私が決めたことも聞く?」


「はい」


「決められなかったことも?」


「はい」


 ユイは少しだけ朔を見る。


「じゃあ、次」


「ありがとうございます」


「まだ約束してない」


 朔は口を閉じる。


 ユイは考えている。


 会いたいかどうか。

 何を話すか。


 今すぐ答えを求めない。


「返事は、アナさんに伝えますか」


「うん」


「分かりました」


 朔は椅子から立つ。


 勝手に手を差し出さない。


 触れなくても、名前は聞けた。


***


 扉を出る前に、ユイが呼んだ。


「サク」


 朔は振り返る。


 目の前にいる。


「はい」


「K.K.って呼ばれても、返事しない方がいい」


 部屋の空気が止まった。


 セオの手が、記録板へ動きかける。


 だが、すぐには書かない。


 エリオも口を開かない。


 最初に一人だけが話す。


 その条件は、まだ続いている。


「K.K.を知っているんですか」


 朔が聞く。


 ユイは灰色の札へ指を置く。


「知ってるとは言ってない」


「では、なぜ」


「私も、Y.I.って呼ばれたから」


 朔の胸が冷える。


「返事をしましたか」


「最初は」


「その後は?」


 ユイの目が、扉の外ではなく、部屋の壁へ向く。


「私の名前じゃなかった」


 それだけ言った。


 アナが時間を示す。


 ユイは、もう続けなかった。


「今の言葉を、記録してもいいですか」


 朔は聞いた。


「誰が読むの」


「今ここにいる人。増える時は、先に伝えます」


「オル爺には?」


「K.K.やY.I.のことは、言いません」


 ユイは少し考えた。


「じゃあ、いい」


 セオが記録する。


「本人の言葉として。そのまま」


 朔が言う。


 セオが読み上げる。


「ユイは、Y.I.という呼称に最初は返事をした。後に、自分の名前ではないと判断した。K.K.と呼ばれても、サクは返事をしない方がよいと伝えた」


「判断した理由は?」


 セオが聞く。


 ユイは答えない。


「分からないままにしてください」


 朔が言った。


 セオは筆を止めた。


***


 扉が閉じる。


 完全には閉めないという条件だった。


 最後まで、指二本分の隙間が残る。


 その向こうに、薄い青の布が見えている。


 朔たちは廊下へ戻った。


 誰もすぐには話さない。


 最初に話したのは、アナだった。


「面会は終了しました」


 終了したことを、誰かの拒絶や失敗にはしない。


 ただ、決めた時間が終わった。


「外へ報告します」


 朔は言った。


「何を伝えますか」


 セオが聞く。


「本人から名前を聞いた」


 白い髪が一致した、ではない。


 記録と一致した、でもない。


「ユイが、自分をユイだと名乗った」


「北方第六殻の記録上のユイと同一と?」


「オル爺のことを知っていました。聞こえなかったから呼ばれても行かなかった、と」


「同一性を確認した、と記録しますか」


 朔は少し考える。


「本人の名乗りと、北の村に関する記憶が一致した。だから俺は、北の村のユイだと考えています」


「管理局としての確定ではない」


「はい」


 自分の判断として言う。


 王都に、同じ判断を強制しない。


「オル爺へ伝えていい内容は」


「今日、ユイが生きていて、自分の名前を言ったこと。塔にいること。何をしているかは、まだ言わない」


「リオには」


「ユイが自分の名前を言ったところまで」


「K.K.については?」


 朔は閉じた扉を見る。


「今ここにいる人だけ」


 ユイが、読み手を選んだ。


 名前を返したあと、自分で渡す範囲を決めた。


***


 帰りの分かれ道には、右の灯りだけが残っていた。


 左は暗い。


 K.K.の文字も見えない。


「左を見ますか」


 エリオが聞いた。


「見ています」


「行きたいですか」


「はい」


 朔は答えた。


「でも、今日は行きません」


 今日の目的は、名前を聞くこと。


 それは果たした。


 Y.I.についても、新しい言葉を受け取った。


 これ以上を一度に持てば、どこで何を知ったのかが混ざる。


「連絡所へ戻ります」


 朔は言った。


 床の灯りを辿る。


 前にはエリオ。


 火を持つノエ。


 後ろにマレアとセオ。


 誰も欠けていない。


 扉もまだ開く。


 帰る時刻にも間に合う。


***


 外郭待合所へ送る報告の最後に、朔は自分の言葉を一つ加えた。


「オル爺から持ってきた名前を、本人へ返した」


 ルカが筆を止める。


「そのまま送りますか」


「はい」


「意味が伝わらない可能性があります」


「リオさんには伝わります」


 板が光る。


 返答は短かった。


「返したなら、次に持つ時は本人から預かれ」


 朔はその言葉を、二度読んでもらった。


 名前を運ぶことは、持ち続けることではなかった。


 本人へ届いたなら返す。


 その後、どこへ運ぶかは本人に問う。


 朔は、ユイの名前を持って内塔へ入った。


 出る時には、一度その名前を手放していた。


 そして今、朔が持っているユイの名は、オル爺から預かったものではない。


 ユイ本人が、伝えてよい範囲とともに、もう一度渡した名前だった。

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