第四章 眠りの道 ① 内塔の灯
扉の向こうに、白はなかった。
薄い灰色の壁。
黒に近い床。
天井には灯りがない。
代わりに、床の端を細い光が走っていた。
一本。
人の指ほどの幅しかない灯りが、暗い廊下の奥へ続いている。
すべてを照らしてはいない。
足を置く場所だけを示している。
「暗いですね」
朔が言った。
「内塔では、上から光を当てません」
エリオが答える。
「眠っている者への刺激を減らすためです」
「誰が決めたんですか」
「現在の運用は、内塔治療官と設備担当です」
「最初にそうした人は?」
エリオは少し考えた。
「知りません」
また、分からない。
だが、今は問いを重ねなかった。
扉が閉じる前に、確かめることがある。
「帰りに使う板は?」
ノエが扉の内側を示した。
壁と同じ色の板。
目立たない場所に、指二本分の溝がある。
「この溝へ銀札を入れます」
ノエは胸の札を外し、途中まで差し込んだ。
板の端に、小さな光がともる。
すぐに札を抜く。
「私の札でも、ここは開けられます」
「外側では、二人の手が必要でした」
「外から入る時と、内側から出る時で手順が違います」
「なぜですか」
「緊急時に、内側から避難できるように」
「内側にいる子どもも使えますか」
「銀札が必要です」
避難できる。
ただし、開けられる者と一緒なら。
「エリオさんも?」
「開けられます」
「セオさんは?」
「はい」
「マレアさんは?」
「この扉は開けられません」
マレアが答えた。
「治療区画の扉なら開けられます」
誰が、どこを開けられるか。
同じ塔の中でも違う。
朔は解除板の位置を覚えた。
床からの高さ。
扉の右側。
二本の浅い傷。
「戻る時刻は」
セオが小さな砂時計を取り出す。
「日が最も高くなるより、一刻前にはこの扉へ戻ります」
「外への報告は?」
「最初の一刻が経過する前に、内塔連絡所から行います」
「誰が」
「私が記録を送り、エリオがリオへ説明します」
「二人とも戻れない時は?」
セオの手が止まる。
「ノエが連絡板を使います」
「私も動けなければ」
ノエが続ける。
「マレアが治療区画の呼出具を使います」
「それも使えなければ?」
四人が黙った。
考えすぎなのかもしれない。
すべての失敗へ、あらかじめ答えを作ることはできない。
「その時は、約束が途切れます」
セオが言った。
「今は、それ以上の手段を用意できていません」
ないものを、あるとは言わなかった。
「分かりました」
朔は答えた。
「途切れる可能性があることも、外へ伝えてください」
「記録します」
扉が閉まる。
最後に見えた外側の白い光が、細くなって消えた。
内塔の灯だけが残った。
***
歩き始めると、床の光が一つ先へ伸びた。
後ろの光は消えない。
通った場所にも、薄く残っている。
「人が通ると点くんですか」
朔が聞く。
「そう教わっています」
ノエが答えた。
「誰に反応しているんですか」
「魔素です」
「俺の魔素は測れなかった」
ノエは足元を見る。
朔の前にも、同じように灯りが伸びている。
「今は反応しています」
「俺に?」
「全員のうち、誰に反応したかは分かりません」
試すために離れることはしなかった。
今は五人で進むと決めている。
確かめるために隊列を崩す必要はない。
先頭はエリオ。
その後ろに、網箱を持ったノエ。
朔。
マレア。
最後にセオ。
床の灯りは、足首より上をほとんど照らさない。
顔は暗い。
朔は、靴音で誰がどこにいるかを確かめた。
エリオは一定。
ノエは、網箱を揺らさないよう少し狭い歩幅。
マレアは静かだが、時々、長衣の裾が床へ触れる。
セオは歩きながら記録を見ない。
今は前を見ている。
白い塔の中でも、人の歩き方は同じではなかった。
***
廊下には、扉が少なかった。
代わりに、壁の途中へ浅い窪みがある。
椅子が一つ。
蓋のついた水差し。
畳まれた布。
「休む場所ですか」
「待機場所です」
ノエが言う。
「内塔で働く者が、交代を待ちます」
椅子の脚には擦れた跡がある。
水差しの下には、円い染み。
誰かがここで座り、水を飲んだ。
暗い内塔にも、生活の傷がある。
だが、外の白い廊下より少ない。
傷がないのではない。
傷をつけるほど、多くの人が通らない。
「ここで、少し止まりますか」
マレアが聞いた。
「身体の確認です」
「まだ歩けます」
「歩けるかではなく、変化がないかを見ます」
朔は頷いた。
椅子には座らず、壁から離れた場所で止まる。
マレアが顔を見る。
「眩暈は」
「ありません」
「白い視界は?」
「扉が開いた時に一度」
「その後は?」
「ありません」
「頭痛」
「少しだけ」
「入る前と比べて」
「変わっていません」
マレアは手首の青い布を確かめる。
外れていない。
「次の待機場所でも確認します」
「何もなくても?」
「何もなかったことを残すためです」
異常が起きた時だけ記録すれば、それ以前が空白になる。
何もなかった時間も、判断には必要なのだろう。
「お願いします」
***
歩き始めて間もなく、壁の一部が淡く光った。
床の灯りが、横へ反射しただけに見えた。
薄い灰色の壁。
細い線。
朔は足を止める。
線ではなかった。
文字。
黒ではない。
白い光より、さらに薄い色。
それでも読めた。
ORPHES
その下に、
K.K.
Y.I.
そして、
PATH
「止めてください」
朔が言う。
全員が止まった。
エリオが振り返る。
「見えましたか」
「はい」
「どこに」
朔は壁を指す。
「ここです」
エリオが近づく。
壁へ触れる前に、朔が言う。
「まだ触らないでください」
エリオの手が止まる。
「分かりました」
五人が、同じ壁を見る。
朔には文字が見えている。
ORPHES。
K.K.。
Y.I.。
PATH。
光は揺れていない。
はっきりと、そこに並んでいる。
「何が見えますか」
朔が聞いた。
「細い傷です」
ノエが答えた。
「横に三本。縦に二本」
「文字には?」
「見えません」
マレアも壁を見る。
「光の反射があります。ただ、形は読めません」
「エリオさんは」
「何も」
エリオが位置を変える。
朔の隣。
同じ高さまで膝を曲げる。
「今も見えますか」
「はい」
「私には、壁の継ぎ目しか見えません」
「セオさん」
セオはすぐに答えなかった。
目を細め、壁から少し離れる。
「文字は見えません」
「何かは?」
「床の灯りが、ここだけ弱く反射しています」
同じ場所を見ている。
だが、同じものは見えていない。
***
「近づきます」
マレアが言った。
「サクに触れるのではなく、目の反応を見ます」
「はい」
マレアが横へ立つ。
「文字を見たまま、私の指を追えますか」
朔は壁から目を離し、動く指を見る。
右。
左。
上。
「追えています」
「視野の一部だけに見えている?」
「壁を見るとあります。マレアさんを見ると消えます」
「戻すと?」
朔は壁を見る。
文字はまだある。
「見えます」
「頭痛は」
「変わりません」
「声は?」
「聞こえません」
「触れられている感覚は?」
「ありません」
マレアはセオを見る。
「現時点で、身体的な急変はなし。視覚上の申告のみ」
セオが記録する。
「視覚上の申告だけにしてください」
朔が言った。
「表示を確認した、とは書かないで」
「他者による確認がないため?」
「はい」
「サクさんが、壁面に文字を知覚した。同行者四名には同一の表示を確認できず」
「内容も」
「ORPHES。K.K.。Y.I.。PATH」
セオが一つずつ復唱する。
「位置は?」
「床から、俺の肩くらい。壁の継ぎ目の上」
「出現の時刻は」
砂時計を見る。
「入塔から、およそ四分の一刻」
「触れていないことも」
「記録します」
見た内容だけではない。
見た条件。
誰に見えなかったか。
何をしていないか。
それらも残す。
***
「PATHは、道という意味でしたね」
エリオが聞いた。
「はい」
「この廊下を指している可能性は?」
「あります」
「K.K.とY.I.が、この道を通った記録かもしれない」
「それも考えました」
「違う可能性は?」
「道の名前かもしれない。進めという指示かもしれない。通れないという警告かもしれない」
「四つの文字が、別々のものを示している可能性もある」
セオが言う。
「はい」
文字は並んでいる。
だからといって、すべてが一つの意味になるとは限らない。
「Y.I.の記録には、識別符が塔との接続時に現れたとありました」
エリオが言う。
「サクは、接続していない」
マレアが続ける。
「この場所を通ること自体が、接続と扱われている可能性は?」
ノエの問いに、誰もすぐには答えなかった。
床の灯り。
人が通ると伸びる光。
誰に反応しているかは分からない。
「接続板には触れていません」
朔は言った。
「でも、塔の中に入っています」
「入ることと、繋がることは同じかもしれない?」
エリオが聞く。
「同じかもしれません」
朔は答える。
「でも、同じだとはまだ言えません」
繋がることは、分かることではない。
身体へ何かが触れていなくても、道の中へ入った時点で、何かに見られているのかもしれない。
だからといって、自分からすべてを渡したわけではない。
***
壁の文字が消えた。
薄くなったのではない。
一度、床の灯りが揺れた。
次の瞬間には、ただの灰色の壁へ戻っていた。
「消えました」
朔が言う。
「何をした時に?」
セオが聞く。
「何も」
「誰かが動きましたか」
全員が、自分の位置を確かめる。
動いていない。
「床の灯りが、一度暗くなりました」
ノエが言う。
「私も見ました」
エリオが頷く。
文字は共有されなかった。
灯りの変化だけは、共有された。
「壁へ印をつけますか」
セオが聞く。
朔は壁を見る。
「消えない印ですか」
「記録用の細い布を、床へ置きます」
「壁には触れない?」
「はい」
「お願いします」
セオが小さな灰色の布を、壁際の床へ置いた。
場所を示す。
壁そのものは変えない。
「帰りにも確認します」
「表示がなくても?」
「なくなったことを確認します」
先ほどマレアが言ったことと同じだった。
***
さらに奥へ進む。
床の灯りは、五人の足元を追う。
後ろを振り返ると、灰色の布が暗い廊下に残っている。
目印。
だが、扉のように時間で動くかもしれない。
帰りにも同じ場所にある保証はない。
「この灯りは、道を選びますか」
朔が聞いた。
「一本道では、そのまま先へ続きます」
ノエが答える。
「分かれ道では?」
「許可された区画の方だけ点灯します」
「誰の許可ですか」
「先頭を歩く者の銀札です」
エリオの銀札。
「では、今はエリオさんが選んでいる?」
「目的地は事前に設定されています」
エリオが答える。
「設定したのは?」
「セオです」
「私が申請した三つの目的に基づいて、内塔受付が経路を割り当てました」
セオが説明する。
「内塔受付の人の名前は?」
「ルカ・フェン」
名前が出た。
今、この場にはいない人。
「その人が道を決めた?」
「正確には、ルカが目的地を登録し、塔の経路灯が通行可能な道を示しています」
「灯りが最後に選ぶ?」
「そうなります」
人が目的を登録する。
灯りが道を示す。
誰も、すべてを選んでいない。
だが、誰の判断も入っていないわけではない。
「帰りの道も、同じ人が設定しましたか」
「帰路は、入塔時に同時登録されています」
「変更されたら?」
「変更履歴が残ります」
「誰が変更できる?」
「内塔受付、中央審査官、緊急時の治療官」
朔は三人の名前を聞いた。
内塔受付のルカ。
中央審査官は、まだ名前を知らない。
治療官は、この場ではマレア。
「中央審査官の名前も、あとで教えてください」
「確認します」
セオが答えた。
***
廊下の先で、灯りが二つに分かれた。
左。
右。
どちらも淡く点いている。
エリオが足を止める。
「二つ?」
ノエも驚いている。
「通常、許可された経路だけが点くはずです」
セオが記録板を確認する。
「登録された最初の目的地は、内塔面会区画です。右のはずです」
「左は?」
「内塔記録路へ続きます」
二つ目の目的。
Y.I.の記録を読む。
両方が点いた。
「三つの目的を分けて登録しました」
セオが言う。
「ただし、順番も指定しています。面会の確認が先です」
「灯りが、順番を無視した?」
「そう見えます」
見えるだけ。
灯りが意思を持っているとは決められない。
登録の誤り。
設備の異常。
別の権限による変更。
どれもあり得る。
「進まないでください」
朔が言った。
誰も動かなかった。
「経路の変更履歴を確認できますか」
「この場所ではできません」
セオが答える。
「連絡所まで戻る必要があります」
「戻りますか」
マレアが聞く。
まだ、入塔から半刻も経っていない。
先には、名前を聞きたい少女がいるかもしれない。
記録もある。
だが、決めた順番と違う道が開いた。
「今は選びません」
朔は言った。
「二つ点いていることを、先に外へ伝えてください」
「一刻前ですが」
「予定が変わりました」
第三章で、自動移送が始まった時と同じだった。
予定が変わったなら、報告の時刻まで待たない。
エリオが頷く。
「連絡所へ戻ります」
***
向きを変える。
床の灯りも、すぐに後ろへ伸び直した。
左と右の二本は、そのまま残っている。
朔は一度だけ振り返った。
分かれ道の上。
暗い壁に、また文字が見えた。
左の灯りの上に、
K.K.
右の灯りの上に、
Y.I.
今度は、PATHという文字がない。
「待ってください」
朔が言う。
四人が振り返る。
「また見えました」
「内容は?」
セオが聞く。
朔は二つの道を見る。
「左にK.K.。右にY.I.」
「私には見えません」
エリオが言う。
他の三人も同じだった。
「経路を示していると思いますか」
セオが聞く。
朔の中で、答えが動く。
右へ行けば、ユイがいる。
左へ行けば、K.K.の答えがある。
そう思いたくなる。
文字の位置と、朔の目的が合いすぎている。
「そう見えます」
朔は答えた。
「でも、俺がそう読んでほしい道を見せられている可能性もあります」
「罠という意味ですか」
「分かりません」
ただの表示かもしれない。
幻視かもしれない。
塔が朔の知りたいものを知っているのかもしれない。
朔自身が、知りたいものを壁へ重ねているのかもしれない。
「戻りましょう」
朔は言った。
「右へ行かなくていいのですか」
エリオが聞く。
ユイ。
本人へ名前を聞く。
そのために入った。
「行きます」
「では」
「誰が道を変えたのか確認してからです」
近くに答えが見えても。
帰る道と、約束がどこへ繋がっているかを先に確かめる。
朔たちは分かれ道へ背を向けた。
誰も左も右も選ばなかった。
床の灯りは、帰路を照らしている。
だが朔には、その光が単に道を示しているのではなく、誰にどの道を見せるかを選んでいるように見えた。




