第三章 白い塔の街 ⑪ 逃げ道
二度目の報告時刻まで、あと半刻だった。
中庭の木は、白い壁の影へ半分沈んでいる。
向かい側の廊下に、白い髪の少女は現れない。
火種入れも、あれから鳴らなかった。
朔は窓から離れ、観察室の中をもう一度見た。
扉。
寝台。
机。
水差し。
網箱。
部屋の扉は、内側から開く。
廊下へは出られる。
区画の外へは出られない。
それが、今いる場所だった。
扉が叩かれた。
「入ってもいいですか」
ノエの声。
「はい」
朔は自分で扉を開けた。
ノエのほかに、白い服の局員が一人立っている。男だった。胸に四角い銀札をつけ、両手で細長い記録板を持っている。
ノエの表情は、いつもより少し硬い。
「移動の準備をしてください」
「どこへ?」
「内塔前観察室です」
朔の手が、腰の青い布へ触れた。
「なぜですか」
男の局員が記録板を読む。
「照合記録Y.I.との類似反応が確認されたため、照合規定に基づき、より詳細な観察設備を備えた区画へ移送します」
Y.I.
ユイと呼ばれた白い髪の少女。
一年七か月前に、内塔へ歩いていた。
「会わせてほしいという申請は?」
朔が聞く。
「審査中です」
ノエが答えた。
「名前を聞きたいという申請も?」
「同じです」
「結果が出る前に、俺だけ内塔へ近づけるんですか」
「面会のためではありません」
男の局員が言う。
「観察のためです」
「リオさんへの報告は?」
「次回から、内塔側の担当者が行います」
「二度目の報告は、まだです」
「移送後に引き継ぎます」
「誰が伝えるんですか」
「担当者です」
「名前は?」
男は記録板へ目を落とした。
「現時点では決まっていません」
担当者。
まだ名前のない誰か。
リオと約束したのは、エリオだった。
火と小刀の状態も見せると言った。
「エリオさんは?」
「中央記録室にいます」
「セオさんは?」
「内塔への閲覧申請中です」
二人とも、ここにはいない。
「戻るまで待ってください」
朔は言った。
「移送指示は、すでに出ています」
「誰が出したんですか」
男は記録板の上部を見る。
「照合規定です」
「人の名前を聞いています」
「個人による指示ではありません。該当条件が記録された場合、自動的に発行される手続きです」
誰も決めていない。
それでも、朔は移される。
「規定が俺を運ぶんですか」
「私たちが案内します」
「誰も俺を内塔へ入れると決めていないのに、俺だけが動かされる」
男は答えなかった。
ノエが網箱へ手を伸ばす。
「火種入れも一緒に運びます。封は開けません」
約束は守る。
だが、行き先は変わる。
守られる条件と、守られない条件が同じ手続きの中にある。
「俺は、移動に同意しません」
朔は言った。
「同意がないことは記録します」
「それでも運ぶ?」
「はい」
ノエの答えは短かった。
怒ってはいない。
謝りもしない。
自分が今、何をするのかを曖昧にしない声だった。
***
朔は荷物を持った。
巡礼路の写し。
ハルの青い布。
手首の薄い青の布。
小刀は保管庫。
火種入れは、ノエが網箱ごと持つ。
観察室を出る。
廊下の右は、外郭待合所へ続く方向。
左は、内塔連絡路。
ノエたちは左へ曲がった。
朔も、最初は従った。
歩きながら、印を見る。
二重の円。
四つの点。
細い青線。
来た時には通っていない道だった。
「この道を進むと、リオさんから遠くなりますか」
「距離としては、そうなります」
ノエが答える。
「次の報告より先に着きますか」
「はい」
「報告してからでは駄目ですか」
「移送指示が優先されます」
朔は足を止めた。
男の局員も止まる。
「進んでください」
「進みません」
「力による移送は避けたいと考えています」
「俺も避けたいです」
「では」
「先にリオさんへ伝えます」
「許可できません」
ノエが網箱を持つ手を少し下げた。
火種が、朔から見える高さ。
それは変えない。
「サクさん」
「はい」
「走れば、止めます」
白い髪の少女を見た時と同じ言葉。
あの時、朔は走らなかった。
名前を間違えるかもしれなかったから。
今は違う。
約束が、説明されないまま別の誰かへ渡されようとしている。
リオは、朔の名前を持っている。
「約束を守らせに行きます」
朔は言った。
「それでも、許可はできません」
ノエの言葉が終わる前に、朔は動いた。
***
正面へは走らない。
男の局員の肩がわずかに右へ向いた瞬間、左足の外側へ入る。
子どもの身体は、力が弱い。
だが、小さい。
腕の下を抜けるには十分だった。
「サク!」
ノエの声。
呼ばれた。
だが、止まらない。
目の前にいることは分かっている。
森の声ではない。
それでも今は、返事をする時ではなかった。
角を右へ曲がる。
三本の線。
欠けた円。
管理局へ入った時に見た印。
この先が外郭側。
そう覚えていた。
朔は走る。
床は滑らかで、靴音が響く。
息が上がる。
今の身体は、昔の身体ではない。
長くは走れない。
次の角を左。
短い下り。
その先に、白い扉。
朔は足を止めた。
扉には取っ手がない。
脇の板へ手を当てても、何も起こらない。
閉じている。
道を間違えた。
「違う」
朔は呟いた。
同じ印だった。
三本の線。
欠けた円。
だが、来た道ではない。
印は行き先ではなく、区画の種類を示していたのかもしれない。
見た。
覚えた。
それだけで、分かったつもりになった。
後ろから足音が近づく。
戻る道は一つ。
扉は開かない。
逃げ道ではなかった。
***
ノエが角を曲がった。
息は乱れていない。
網箱を両手で持っている。
男の局員は少し遅れている。
「戻ってください」
ノエが言う。
「道を間違えました」
「はい」
否定も慰めもしない。
事実だけを受け取った。
「この印は、外郭への道ではないんですね」
「検査関連区画を示す印です。複数の廊下にあります」
「聞いていませんでした」
「あなたも聞きませんでした」
その通りだった。
扉の形。
角の数。
印の並び。
覚えようとした。
だが、印が何を意味するかを、人に問わなかった。
見ることだけで、足りると思っていた。
「俺が間違えました」
朔は言った。
「記録しますか」
「必要なら」
「必要です」
逃げた理由だけを正しく残せと言いながら、自分の間違いを消してはいけない。
ノエが一歩近づく。
「戻りましょう」
朔は身を低くした。
ノエの手が伸びる。
その時、後ろから来た男が、網箱の端へ肩をぶつけた。
箱が傾く。
土の器が中で滑った。
かたん。
朔は反射的に手を伸ばした。
金属の枠を下から支える。
ノエも両腕で抱え直す。
火種入れは倒れなかった。
二人の手が、同じ箱を支えていた。
ノエの手は温かい。
力が入っている。
「離してください」
ノエが言った。
「安定してから」
「もう大丈夫です」
朔はゆっくり手を離す。
今なら、もう一度走れる。
男の局員は体勢を崩している。
ノエは火を持っている。
だが、走らなかった。
火を落とさせてまで通る道は、逃げ道ではない。
少なくとも、今の朔にはそう思えた。
***
「何をしているんですか」
廊下の奥から、エリオの声がした。
白い外套が角から現れる。
朝の泥は、もう乾いて薄くなっている。
手には記録板。
エリオは、閉じた扉と、朔と、網箱を順に見る。
「無許可で観察区画を離れました」
男の局員が言った。
「内塔前観察室への移送中に逃走を試みています」
「逃走」
朔はその言葉を繰り返した。
「違いますか」
エリオが聞く。
「走りました。許可も取りませんでした」
「では、記録上は逃走です」
「外へ消えるためではありません」
「目的が違っても、許可なく移動した事実は変わりません」
「はい」
朔は認めた。
「でも、理由も書いてください」
「何のために走ったんですか」
「リオさんに、約束より先に内塔へ移されることを伝えるためです」
エリオの目が記録板へ落ちる。
「移送?」
「Y.I.との類似記録による照合規定です」
ノエが説明した。
「二度目の報告は、内塔側へ引き継ぐ予定でした」
エリオの顔から、わずかに表情が消えた。
「私は、次の報告も行うと約束しました」
「移送後の報告担当については、内塔側で再設定されます」
「私への連絡は?」
「指示にはありません」
エリオは黙った。
自分の名前で引き受けた約束が、規定の中では引き継ぐべき項目になっていなかった。
「移送を決めたのは誰ですか」
エリオが聞く。
「個人ではありません。照合規定による発行です」
「セオ審査官の承認は?」
「不要とされています」
誰も決めていない。
誰にも尋ねない。
記録が条件に触れれば、次の扉が開く。
「サク」
エリオが言った。
「あなたが走ったことは、消せません」
「消さないでください」
「道を間違えたことも?」
「はい」
「職員の制止に従わなかったことも?」
「はい」
「報告条件が履行される前に、説明のない移送が開始されたことも記します」
エリオは記録板へ筆を走らせる。
「それから」
朔は言った。
「火種入れを落としかけた。俺も支えた」
男の局員が気まずそうに顔を伏せる。
「誰が落としかけたかを責めたいわけではありません」
「では、なぜ」
「走ったことで、火が危なくなったことも残してください」
自分の選択には、結果がある。
正しい理由があれば、起きたことまで消えるわけではない。
「記します」
エリオは書いた。
***
「これからどうしますか」
ノエが聞く。
エリオは朔を見る。
「内塔前観察室への移送を続ければ、報告の約束は履行できません」
「規定上、報告は別担当へ引き継がれます」
「約束を引き継ぐことと、担当を替えることは同じではありません」
エリオの言葉に、ノエは口を閉じた。
朔が何度も言ってきた区別。
今度はエリオが使っている。
「外郭待合所まで同行します」
エリオは言った。
男の局員が顔を上げる。
「移送指示が出ています」
「二度目の状況報告を先に行います」
「優先順位が」
「報告まで、あとどれくらいですか」
エリオが朔に聞く。
「半刻より短いです」
「予定時刻前です。禁止されていますか」
男は記録板を確かめる。
「明確な禁止はありません」
「では、条件付同行の保証者として、私が外郭待合所まで連れていきます」
「命令ですか」
ノエが聞く。
エリオは少しだけ考えた。
「私の判断です」
役目ではなく。
規定でもなく。
自分が名前で引き受けた約束のために。
「逃走の追認になりませんか」
「逃走は止まりました」
エリオが朔を見る。
「今からは、報告のための同行です」
出来事を都合よく書き換えるのではない。
走ったところまでは逃走。
止まった後は、許可された移動。
境目を残す。
「ノエも同行してください」
「火種のためですか」
「それもあります」
エリオは答えた。
「サクが、あなたから逃げたのではなく、あなたと約束の扱いが違ったことも説明するためです」
ノエはしばらく黙っていた。
やがて、網箱を持ち直す。
「分かりました」
***
外郭待合所へ向かう道は、朔が選ばなかった。
エリオが先を歩く。
角を右。
短い上り。
二本線の印を越え、青い布の掛かった扉を左。
朔が覚えていた道とは違う。
「入ってきた時の道ではありませんね」
「時間帯によって閉じる区画があります」
エリオが答える。
「道が変わる?」
「通行できる道が変わります」
「では、一度覚えただけでは」
「戻れないことがあります」
朔は黙った。
逃げ道を覚える。
ミナトに最初に教えられたこと。
だが、道は動く。
扉は閉じる。
同じ印が、別の場所にもある。
「どうすれば覚えられますか」
「印の意味を知る。扉が開く時間を知る。開けられる人を知る」
エリオは歩きながら言った。
「道順だけでは足りません」
「知っていたなら、先に教えてください」
「あなたが、道順だけを見ているとは思っていませんでした」
「思っていないことを、確かめなかった」
「はい」
エリオも認めた。
朔だけの間違いではない。
だが、だからといって朔の間違いが消えるわけでもない。
***
外郭待合所との窓が見えた。
向こう側には、リオが立っている。
椅子には座っていない。
窓の前。
腕を組み、こちらを見ていた。
朔たちの姿を認めると、まず人数を数えた。
朔。
エリオ。
ノエ。
白い服の局員。
それから網箱を見る。
「今度は何を変えられた」
リオの最初の言葉だった。
「内塔の前へ移されるところでした」
「同意したか」
「していません」
「記録は?」
「同意なし。途中で俺が走りました」
リオの眉が動く。
「走った?」
「リオさんへ伝えに来ようとして」
「道は?」
「間違えました」
「火は?」
「落としかけました。落ちてはいません」
リオは朔を見た。
怒っているようには見えない。
安心しているようにも見えない。
「全部、記録したか」
「はい」
「なら、あとで読む」
責めるより先に、記録を確かめる。
朔の理由だけでなく、起きたこと全部を。
「小刀は?」
リオが聞く。
「保管状態に変更はありません」
エリオが保管証の写しを窓へ示す。
「火は見えているな」
ノエが網箱を少し持ち上げる。
封印紐。
土の器。
蓋。
すべて見える。
「次は、内塔への移送指示を見せろ」
リオが言う。
「指示書は、個人名によるものではありません」
エリオが答える。
「なら、誰が責任を取る」
「照合規定を運用する中央審査室です」
「部屋が責任を取るんか」
誰も答えなかった。
***
「私から説明します」
背後からセオの声がした。
白い外套。
手には、複数の記録板。
歩みは速かったが、息は乱れていない。
「移送指示を知っていましたか」
朔が聞く。
「先ほど知りました」
「俺へ説明する前に、動き始めました」
「はい」
「あなたが申請している間に?」
「Y.I.記録との類似点が照合庫へ登録され、内塔移送の条件を満たしました」
「誰も決めていないのに」
「過去に定められた規定が、判断の代わりをしています」
「過去の誰が決めたんですか」
「複数の中央審査官と、塔の技術官です」
「名前は?」
「規定の制定記録を確認しなければ分かりません」
「分からないまま使っている?」
セオは少し黙った。
「はい」
壁の中の流路を、局員が知らなかった。
検査石が何を見ているか、エリオも知らなかった。
今度は、人を内塔へ移す規定を、審査官のセオも誰が作ったのか知らない。
「説明より先に、人を動かす仕組みですね」
朔は言った。
「そうなっています」
「改善すべきですか」
セオは、以前自分が使った言葉を向けられたと気づいた。
「はい」
「でも、今は止まらない」
「止める方法はあります」
セオは記録板を一枚開く。
「治療官が緊急性なしと判断し、条件付同行の保証者が翌朝までの観察継続を引き受ければ、一時停止を申請できます」
「申請」
リオが低く言う。
「今からまた待たせるんか」
「私の権限で、申請中は現在区画へ戻せます」
「誰が保証者になるんですか」
朔が聞いた。
「私がなります」
エリオが答えた。
セオが彼を見る。
「内塔照合例との類似が出ています」
「知っています」
「保証者には、異常時の初動責任が生じます」
「私の名前で引き受けます」
肩書きではない。
順位でもない。
名前。
「治療官の判断は?」
リオが聞く。
「マレア・ソン治療官が、現時点で緊急接続の必要なしと記録しています」
セオが答える。
「なら、止めろ」
「手続きを行います」
「止めてから、手続きしろ」
リオの声は大きくない。
だが、待合所にいた何人かがこちらを見た。
セオは記録板へ筆を走らせる。
「内塔移送を、明朝の審査まで一時停止します」
「今、書いた内容を読んでください」
朔が言う。
セオが読み上げる。
「Y.I.類似照合に基づく内塔前観察室への自動移送指示。本人への事前説明および外部同行者への予定変更報告前に移送開始。本人は同意せず、報告条件の履行を求めて区画を離脱。経路を誤り、職員により停止――」
「エリオさんに止められたのではありません」
朔が訂正する。
「自分で止まりました。火種入れが傾いたからです」
セオが書き直す。
「火種保護のため本人が移動を停止。その後、エリオ・レイスの判断により、状況報告のため外郭待合所へ同行」
「道を間違えたことも」
「記載されています」
「俺が印の意味を聞かなかったことは?」
リオが初めて、わずかに眉を上げた。
「そこまで書くのか」
「見たものを分かったつもりになりました」
「なら書け」
セオが追記する。
「本人は、標識の意味を確認せず、以前の経路と同一であると判断した」
間違いが、紙に残る。
恥ずかしさはあった。
だが、消すよりよかった。
***
「今夜は、元の観察室へ戻ります」
セオが言った。
「内塔へは移しません」
「明日になれば?」
「審査します」
「また、説明より先に動きませんか」
「今回の移送停止条件に、本人および外部同行者への説明前に移送を再開しない、と加えます」
「読み手は?」
「中央審査室、内塔観察担当、外郭待合所担当」
「担当者の名前が決まったら?」
「伝えます」
朔はリオを見る。
「これでいいですか」
「よくはない」
リオは答える。
「だが、今よりましや」
ましな危険。
宿へ入った夜と同じだった。
安全ではない。
それでも、今選べる中で、少しでも悪くない方へ寄せる。
「名前はありますか」
朔は聞いた。
リオが荷物の内側へ手を当てる。
「ある」
走っている間も。
道を間違えた間も。
閉じた扉の前にいた間も。
名前は、外に残っていた。
***
観察室へ戻る道では、朔はエリオの隣を歩いた。
今度は、道順だけを見なかった。
「この二本線は?」
「来訪者が通行できる区画です」
「青い布は?」
「治療区画との境界。夜は一部が閉じます」
「四つの点は?」
「内塔へ繋がる流路の交差地点です」
「扉を開けられるのは?」
「ノエの銀札では二つ先まで。私は内塔前まで」
「セオさんは?」
「審査区画と記録区画。治療区画の一部には入れません」
役目によって、開く扉が違う。
一番偉い人間が、すべてを開けられるわけではない。
知っている人。
開けられる人。
止められる人。
それぞれ違う。
「逃げたのではない、と言うつもりですか」
エリオが聞いた。
朔は少し考える。
「走りました。規則も破りました」
「はい」
「道も間違えました」
「はい」
「でも、外へ消えるためではありませんでした」
「では、何のために?」
「名前を持っている人との道を、勝手に切らせないためです」
エリオは前を向いたまま歩く。
「それを逃走と記録するのは、間違いだと思いますか」
「逃走したことだけなら、間違いではありません」
「理由を書かなければ?」
「別の人になります」
朔は答えた。
「約束を守らせようとして間違えた俺と、ただ逃げようとした俺は、同じじゃない。でも、間違えたことまで消したら、それも俺じゃない」
エリオはしばらく黙っていた。
「記録することが増えますね」
「面倒ですか」
「はい」
素直な答えだった。
「でも、必要だと思います」
***
観察室に戻る。
扉は同じ。
寝台も、水差しも、変わっていない。
ノエが網箱を机へ置く。
火種入れの封印を確認する。
「倒れていません」
「はい」
「火も消えていません」
「はい」
朔はノエを見る。
「困らせて、すみません」
「私は止めると言いました」
「はい」
「あなたは走りました」
「はい」
「次に同じことがあれば、今度は先に腕を掴みます」
「分かりました」
優しくなったわけではない。
許したわけでもない。
ただ、次に何をするかを伝えた。
「火を落とさなくてよかったです」
朔が言う。
ノエは網箱を見る。
「あなたが支えました」
「走らなければ、傾きませんでした」
「それも記録されています」
「はい」
ノエは扉の外へ出る前に、一度だけ振り返った。
「標識の意味を知りたい時は、聞いてください」
「教えてくれますか」
「私が知っている範囲なら」
「ありがとうございます」
扉が閉じた。
***
朔は窓の前に立った。
外はもう暗い。
向かい側の廊下に、人影はない。
白い髪も見えない。
今日、逃げ道を一つ間違えた。
見た印を、分かったつもりになった。
走れば進めると思った。
だが、道は曲がるだけではない。
時間で閉じる。
人によって開く。
規定によって行き先が変わる。
逃げ道は、廊下だけではなかった。
時間を数えるリオ。
火を運ぶノエ。
扉を開くエリオ。
検査を止められるマレア。
変更を記録するセオ。
信じきれるという意味ではない。
名前を知ったから、安全になるわけでもない。
だが、誰が何を開き、何を閉じるのかを知らなければ、戻れない。
朔は、閉じた扉を思い出した。
三本の線。
欠けた円。
間違えた角。
火を落としかけた場所。
そこも、忘れない。
逃げ道は、正しい道だけではなかった。
間違えた時に、どこまで戻ればいいか。
それを覚えることまで含めて、逃げ道だった。




