第三章 白い塔の街 ⑩ 白い髪の影
Y.I.の記録が部屋から持ち出されたあと、観察室は急に広くなった。
机の上には、火種入れの網箱だけが残っている。
板も、記録紙もない。
セオとエリオの声もない。
残ったのは、窓の向こうの中庭と、白い壁。
朔は椅子へ座らなかった。
窓の前に立つ。
一年七か月前。
白い髪の少女が、ユイという呼び方に振り向いた。
自分の足で、内塔へ歩いていた。
それだけ。
今も生きているとは限らない。
北の村にいたユイと同じ人物とも、まだ決まっていない。
分かっている。
何度も胸の中で確認する。
それでも、視線は向かい側の廊下へ引かれた。
白い髪を探している。
記録を読んだばかりだから。
見たいと思っているから。
そういう目で見れば、白い布も、人の髪に見えるかもしれない。
朔は窓から一歩離れた。
今、探すな。
見えたものだけを見ろ。
***
中庭では、局員が石溝へ水を流していた。
木の根元に溜まった枯れ葉が、細い水に押されて動く。
一枚。
二枚。
端で止まる。
王都の中にも、風は吹く。
管理局の中でも、葉は決められた線だけを流れるわけではない。
朔は、その動きをしばらく見ていた。
網箱の中で、火種入れが鳴った。
かた。
流路のそばで聞いた音より小さい。
朔は振り返る。
器は動いていない。
蓋も閉じたまま。
「どうした」
声には出さない。
火へ問うても、答えは返らない。
朔は網箱へ近づきすぎない場所で、器を見る。
もう一度。
かた。
今度は、中庭側からだった。
そう感じただけかもしれない。
朔は窓を見る。
向かい側の廊下に、人影があった。
***
二人の局員が歩いている。
一人は白い服。
もう一人は灰色。
その間に、小さな人影がいた。
子ども。
白い長衣を着ている。
背は、今の朔と同じくらい。
最初に見えたのは、髪だった。
白い。
外套の白とは違う。
壁の白とも違う。
柔らかく、少し長い。
歩くたび、肩の近くで揺れている。
朔の手が、腰の青い布へ動いた。
触れる直前で止める。
ユイ。
名前が胸の中に浮かんだ。
まだ呼ぶな。
白い髪だけでは足りない。
年齢も近い。
管理局の中にいる。
内塔へ向かう廊下かもしれない。
それでも足りない。
少女は下を向いて歩いていた。
手首に、細い札が巻かれている。
白ではない。
薄い灰色。
書かれているものまでは見えない。
番号かもしれない。
名前かもしれない。
局員たちは少女を引いていない。
腕も掴んでいない。
だが、少女が立ち止まれるような歩き方でもなかった。
三人は同じ速さで進む。
決められた道を、決められた順で。
朔は呼吸を抑えた。
少女の横顔が見える位置まで来る。
白い頬。
伏せた目。
細い首。
北の村でユイを見たことはない。
比べる顔がない。
自分が知っているのは、オル爺の言葉だけだった。
静かな子。
祈りが上手だった。
白い髪。
それだけで、目の前の子をユイにしてはいけない。
***
少女が、足を止めた。
局員たちも止まる。
呼び止められた様子はない。
少女は、ゆっくり顔を上げた。
中庭を挟んで、朔のいる窓を見る。
目が合った。
距離がある。
間には、中庭と二枚の窓。
それでも、こちらを見ていることは分かった。
朔ではなく、窓を見ただけかもしれない。
火種入れの網箱を見たのかもしれない。
だが、少女の視線は動かなかった。
朔も動けない。
森の中で、声に呼ばれた時とは違う。
声はない。
目の前に人がいる。
それでも、確かめられる温度はない。
本物は、手。
本物は、温度。
だが、今は触れられない。
少女が右手を上げた。
掌を窓へ向ける。
朔の胸が強く鳴った。
古い巡礼路の手の印。
声ではなく、手。
そう思った瞬間、自分の願いが混ざったことに気づく。
ただ窓へ触れようとしただけかもしれない。
別れの合図かもしれない。
止まれという印かもしれない。
朔は手を上げかけた。
だが、窓には触れなかった。
胸の高さで止める。
二枚の窓を挟んで掌を重ねても、温度は分からない。
手の形だけなら、真似できる。
少女の唇が、わずかに動いた。
声は届かない。
一音か。
二音か。
名前を呼んだようにも見えた。
そう見たいだけかもしれなかった。
「聞こえない」
朔は小さく言った。
答えではない。
少女へ届かせる言葉でもない。
今の事実を、自分へ伝えただけ。
火種入れが、網箱の中で鳴る。
かた。
同時に、腰の青い布が温かくなった。
ほんの一瞬。
体温が移っただけかもしれない。
手を近づけていないのに。
朔は青い布を握った。
熱はもうない。
ハル。
今度は、別の名前が胸に浮かぶ。
白い髪の少女と、ハルの布。
繋げるな。
火と布が何に反応したのかは分からない。
少女へか。
塔の流路へか。
朔自身の動揺へか。
分からない。
***
白い服の局員が、少女へ何かを言った。
少女は窓から目を離さない。
もう一人が、廊下の先を指す。
急かしているようには見えない。
だが、待ち続ける気もない。
少女の手が窓から離れた。
その指先が、ガラスの表面を短く滑る。
一本の線。
その横に、小さな点。
曇りも汚れもない窓には、何も残らなかった。
ただの動き。
文字ではない。
意味をつけてはいけない。
少女は再び歩き出す。
白い髪が揺れる。
廊下の曲がり角へ近づく。
「待って」
声が喉まで出た。
朔は飲み込んだ。
何を待たせる。
名前を確かめるためか。
ユイであってほしいからか。
自分に似た誰かを見失いたくないからか。
答えが混ざっている。
少女は角を曲がった。
白い髪が最後に消える。
空になった廊下だけが残った。
***
朔はすぐに観察室の扉を開けた。
廊下にはノエがいた。
「どうしました」
「向かい側の廊下に、白い髪の子がいました」
ノエが中庭側の窓を見る。
角度のせいで、ここから向かい側はほとんど見えない。
「移送ですか」
「分かりません」
「局員が二人。一人は白い服で、一人は灰色。子どもは白い長衣。手首に灰色の札」
見たことだけを言う。
「どちらへ行きましたか」
朔が指す。
「右です」
ノエの顔が少し固くなる。
「内塔連絡路です」
「ユイですか」
「私には分かりません」
「名前を確認できますか」
「担当区画が違います。問い合わせはできますが、回答されるとは限りません」
「行けますか」
「サクさんは、この区画から出られません」
退出不許可。
今度は、管理局の外ではなく、目の前の廊下へも行けない。
「少しだけでも」
「できません」
ノエの声は強くない。
だが、譲らなかった。
「走れば、止めます」
「力で?」
「必要なら」
人の名前を知った。
火を守ってくれた。
それでも、止める役目を持っている。
ノエが悪い人になったわけではない。
「……分かりました」
朔は廊下へ出なかった。
走れば、少女を追えるかもしれない。
同時に、追加の拘束理由を与える。
誰かを巻き込む。
何より、ユイだと決まっていない人を、自分の願いで追うことになる。
「見たことを、記録してもらえますか」
朔が言った。
「セオ審査官へ?」
「はい。でも、ユイを見たとは書かないでください」
「では、どのように」
「白い髪の女の子を見た。俺と目が合ったように見えた。窓へ手を上げた。口が動いたが、声は聞こえなかった」
ノエは紙板を取り出す。
「年齢は?」
「俺と同じくらいに見えました。でも、正確には分かりません」
「本人確認は」
「していません」
「ユイとの関連は?」
朔は息を整える。
「Y.I.の記録を見た直後だったので、ユイかもしれないと思いました」
「そう記しますか」
「はい」
そこで終わらせず、続ける。
「でも、そうであってほしい気持ちによる見間違いの可能性もある」
ノエの筆が一瞬止まった。
「ご自身の証言の確かさを下げることになります」
「下げるためではありません」
「では?」
「見た時の俺の状態も、見たことの一部だからです」
記録する者が、何を期待していたか。
それを消せば、紙だけが確かに見えてしまう。
「分かりました」
ノエは書き加える。
「火種入れと、青い布の反応は?」
「火種入れが二度鳴りました。青い布が一瞬温かく感じました」
「測定しましたか」
「していません」
「では、本人の感覚」
「はい。何に反応したかは不明」
ノエは最後まで書いた。
「読み上げます」
朔の証言。
見た姿。
手の動き。
聞こえなかった声。
期待による誤認の可能性。
火と布の反応。
本人確認なし。
「それでいいです」
「ユイという名前は、推測としてだけ残します」
「はい」
見た少女から、名前を奪わない。
同時に、見なかったことにもしない。
***
しばらくして、エリオが戻ってきた。
一人だった。
「第一報告は終わりました」
「リオさんは?」
「納得はしていません」
「そうでしょうね」
「火種入れと小刀の保管状態を、次の報告で見せるよう求められました」
「約束したんですね」
「はい。私の名前で」
エリオは朔の表情を見る。
「何かありましたか」
ノエが記録板を渡す。
エリオは読む。
途中で、向かい側の廊下へ目を向けた。
「白い髪の女児」
「見ました」
「ユイだと思いますか」
朔はすぐには答えなかった。
さっき見た目。
上げられた手。
動いた唇。
火種入れの音。
青い布の温度。
「思いました」
正直に言う。
「でも、まだそう呼びません」
エリオが記録へ視線を戻す。
「なぜですか」
「名前を間違えることも、名前を奪うことになるからです」
ユイではない少女へ、ユイの名前を押しつける。
それも分類と同じかもしれない。
本人の名前を聞く前に、自分の探している誰かへ変えてしまう。
「本人に聞ければ」
「聞きます」
「許可が必要です」
「分かっています」
「許可されない可能性もあります」
「それでも、記録だけで決めません」
エリオは向かい側の空の廊下を見る。
「口は、どう動きましたか」
「分かりません」
「名前を呼んだように?」
「そう見えました」
「何という名前を?」
朔は首を横に振る。
「そこから先は、俺の願いになります」
サク。
そう呼ばれたように見えた。
あるいは、別の言葉。
ユイ。
助けて。
来ないで。
何にでもできる。
声が届かなかった以上、空白にしておくしかない。
「記録へは、読唇不能とあります」
エリオが言う。
「はい」
「正しいと思います」
それだけ言った。
***
セオが戻ったのは、さらに少しあとだった。
朔の証言記録を読み、内塔連絡路の移動記録を照会すると言った。
「名前を教えてもらえますか」
「本人の同意か、審査上の必要性が認められれば」
「本人に、俺が名前を聞きたがっていると伝えることは?」
セオは考える。
「申請できます」
「では、それをお願いします」
「ユイかどうかの確認ではなく?」
「先に、その子の名前を聞きたいです」
セオの目が、わずかに細くなる。
「理由を記しますか」
「俺が探している名前を、その子へ勝手に置かないため」
「分かりました」
「会うことも申請します」
「通るとは約束できません」
「知っています」
申請の理由が紙へ書かれる。
会わせてほしい。
ユイだからではない。
誰なのかを、本人に問うために。
***
夕方に近づくにつれ、中庭の影が長くなった。
向かい側の廊下には、もう誰も現れなかった。
火種入れも鳴らない。
青い布にも、温度は戻らない。
朔は窓の前に立った。
白い髪の少女を見た。
それは事実。
ユイを見た。
それはまだ、事実ではない。
目が合ったように見えた。
手を上げた。
唇が動いた。
そこまでは持てる。
届かなかった声に、自分の望む言葉を入れない。
同時に、ただの見間違いとして捨てもしない。
名前を呼ばなかったからといって、その子を見失ったわけではない。
朔は、まだ名前のない一人分の場所を、胸の中に空けておいた。




