第三章 白い塔の街 ⑨ Y.I.の記録
「K.K.も、俺の世界の文字です」
「意味は?」
「分かりません」
セオの筆が止まる。
「あなたの名前を示している可能性は?」
「黒川朔なら、俺の世界では普通、K.S.になります」
「K.K.にはならない」
「はい」
自分に関係する記号だとは思っていた。
白い場所で、何度も自分と一緒に表示された。
だが、そう思うことと、意味が分かることは違う。
「別の名前かもしれない」
朔は言った。
「管理するための記号かもしれない。俺ではない誰かを指しているのかもしれない」
「あなたに見せられた理由も不明」
「はい」
セオが筆を動かす。
「何と記しましたか」
「K.K.は、サクさんの世界で使用される文字による記号。ただし、黒川朔という名前の一般的な頭文字とは一致せず、意味および対象は不明」
「俺に関係すると思っていることも」
「根拠は?」
「白い場所を見る時、俺の近くに出るからです」
「では、本人は自身との関連を疑っている。ただし、同一性を示す根拠はない」
「はい」
エリオが記録を確認する。
「そのように書かれています」
分からないものが、一つ増えた。
だが、分からないまま残せた。
K.K.を自分の名前で埋めなかった。
Y.I.をユイ本人だとも、まだ決めていない。
***
「なぜ、この記録を俺に見せたんですか」
朔は聞いた。
「俺と似ているから?」
「それが一つです」
セオは板の上へ手を置いた。
「もう一つは、あなたが塔記号を読める可能性を確認するためです」
「俺に情報を渡して、俺からも情報を取る」
「はい」
否定しなかった。
「交換ですね」
「一方的に検査するよりは、その方が正確です」
「公平だからではなく?」
「完全に公平だとは言いません」
セオの手元には記録がある。
閲覧を許すか決める権限もある。
朔には、自分が見たものと言葉しかない。
同じ量を持っているわけではない。
「それでも、あなたに何も伝えず、読めるかだけを確かめるべきではないと思いました」
「なぜですか」
「答えを得るためだけに、あなたを使うことになるからです」
シオ婆の言葉。
答えだけ奪うな。
同じ考えなのかもしれない。
だが、同じ考えを持つことと、同じ側に立つことは違う。
「それを考えたのは、俺が何度も条件を言ったからですか」
「それもあります」
セオは答えた。
「あなたと話す前なら、私は結果だけを伝えていたかもしれません」
変わったと、セオ自身が言った。
朔は、それだけで信用しなかった。
だが、なかったことにもしなかった。
「今の答えも記録してください」
「私の発言を?」
「はい」
「必要ですか」
「あなたが、最初から同じ考えだったことにされたくありません」
セオはしばらく朔を見た。
それから、筆を動かす。
「サクさんとの面談を経て、審査官セオ・ラグナが情報開示の必要性に関する判断を変更した」
「はい」
「私にとって、不利な記録になる可能性があります」
「訂正前を残すのは、間違いを隠さないためだと言いました」
リーネの記録を直した時、セオ自身が言ったことだった。
「そうでしたね」
セオは、書いた文字を消さなかった。
***
朔は、もう一度Y.I.を見る。
「内塔へ移された後の記録を、確認できませんか」
「申請はできます」
「見せてもらえる?」
「許可されるとは約束できません」
「誰が決めますか」
「内塔記録官と中央審査官です」
「理由が必要ですか」
「はい」
「俺と似た反応が記録されているから」
「それだけでは、あなたの検査資料としての申請になります」
「ユイの今を知りたいから」
「個人的な関係を示す必要があります」
「会ったことはありません」
北の村で名前を受け取っただけ。
オル爺から。
紙ではなく、声で。
「でも、名前を持っていくと約束しました」
「誰に?」
「ユイを知っていた人に」
セオはすぐには書かなかった。
「管理局の申請理由としては、弱いと判断される可能性があります」
「弱くても、そのまま書いてください」
「あなた自身の検査との関連も、併記します」
「混ぜないでください」
朔は言った。
「俺に役立つから知りたいことと、ユイの名前を持ってきたから知りたいことは、別です」
セオの筆先が止まる。
「理由を二つに分ける」
「はい」
「一つは、類似する反応を持つ記録として。もう一つは、北方第六殻周辺の証言を受け取った者として、現在の状況確認を求める」
「同じ人だとは、まだ決めていないことも」
「記します」
紙の上では、理由が二つに分かれた。
自分のため。
ユイの名前を預けた人のため。
混ぜれば、どちらも便利な理由に変えられてしまう。
***
エリオの右手が、またわずかに動いた。
握ろうとして、やめる。
朔はその手を見た。
「エリオさん」
「はい」
「何を知っていますか」
エリオは、すぐには答えなかった。
「記録についてですか」
「ユイについてです」
部屋が静かになる。
セオは口を挟まない。
「答えられないなら、そう言ってください」
「答えられないのではありません」
エリオは板のY.I.を見る。
「どこまでが、私の見たことなのかを考えていました」
記録ではなく。
自分が見たこと。
「私は一度、ユイと呼ばれる子どもを見ています」
朔の胸が鳴った。
「いつですか」
「この記録にある、内塔への移送の日です」
「白い髪でしたか」
「はい」
「歩いていましたか」
「自分の足で歩いていました」
「話しましたか」
「いいえ」
エリオは短く答えた。
「私は任務訓練の途中で、移送の列とすれ違っただけです」
「名前を、どうして知ったんですか」
「職員が仮番号で呼びましたが、反応しませんでした」
自称名への反応保持。
記録にあった言葉。
「それから、別の職員がユイと呼びました」
「振り向いた?」
「はい」
エリオの指が、今度はゆっくり開いた。
「その時、私は、反応する呼称を使っただけだと思っていました」
「名前ではなく?」
「記録上は、そう扱われていました」
呼称。
管理に必要な音。
その程度にしか考えていなかった。
エリオは、そう認めている。
「なぜ、前に言わなかったんですか」
「北の村で保護されたユイと、私が見た子どもが同じだと確認できなかったからです」
「今も、確認はできていない」
「はい」
「もう一つは?」
朔が聞くと、エリオの目がわずかに揺れた。
「内塔へ移送された者について、任務外で話すことは禁止されています」
「今は話した」
「閲覧を許された記録の内容と、私の目撃が一致したからです」
「規則に触れませんか」
「私が見た範囲を証言することまでは、禁じられていません」
規則の中で、言える場所を選んだ。
エリオらしい答えだった。
「それでも、前なら言わなかったかもしれません」
エリオは続けた。
セオの発言と似ていた。
「なぜ変わったんですか」
「記録に残っていなくても、覚えていることはあると、あなたに言いました」
「はい」
「覚えているのに、記録にないという理由だけで黙れば、その言葉が嘘になります」
エリオは、自分の名前の後ろから肩書きを外した。
今度は、自分の記憶を役目の後ろへ隠さなかった。
***
「その時、ユイは生きていた」
朔は言った。
「はい」
「一年七か月前に」
「はい」
「今は?」
「分かりません」
希望が、一瞬だけ先へ走ろうとする。
止める。
一年七か月前に歩いていた。
それは現在の生存を示さない。
だが、保護直後に死んだということでもない。
一つの点。
そこから今へ線を引いてはいけない。
「エリオさんが見たことを、記録へ加えられますか」
朔はセオに聞いた。
「本人が証言として残すなら」
「残します」
エリオが答えた。
「ただし、私が見たのは、白い髪の女児がユイという呼び方に反応し、自力で内塔へ向かって歩いていたことだけです」
「推測は加えない」
「はい」
セオは、新しい紙を出した。
「目撃者名は?」
問いかけられ、エリオは姿勢を正す。
「エリオ・レイス」
それだけを先に言った。
「当時の立場は、勇者候補訓練生です」
名前。
その後ろに、当時の役目。
セオが書く。
「目撃時点での生存は確認。ただし、移送後および現在の状態は不明」
朔は確認する。
「空白を埋めていませんか」
「埋めていません」
エリオが記録を読み返す。
「その通りです」
***
扉が叩かれた。
ノエが顔を出す。
「外郭待合所への第一報告時刻が近づいています」
リオとの約束。
二刻。
数字が、戻る場所を繋いでいる。
「何を伝えますか」
朔はセオに聞いた。
「身体状態に急変なし。追加検査は実施していない。類似記録の照合を行った。内塔記録への閲覧申請を予定」
「ユイの名前は?」
「伝えることもできます」
朔は少し考えた。
「今は、俺から話します」
「なぜですか」
「別の人の記録から得た名前だからです」
リオはユイを知っている。
北の村で聞いた。
それでも、王都の紙に何が書かれていたかを、誰がどこまで受け取るかは選びたかった。
「類似する記録があったことだけ、伝えてください」
「分かりました」
セオはノエへ内容を告げる。
ノエが一つずつ復唱する。
名前を間違えないためではない。
今は、伝える範囲を間違えないために。
「エリオも同行してください」
セオが言った。
「約束しています」
「はい」
エリオは立ち上がった。
部屋を出る前に、板のY.I.を一度だけ見る。
それから朔を見る。
「戻ります」
「はい」
戻る。
その言葉を、先の保証にはしない。
だが、今の約束として受け取る。
***
セオは照合記録を持って、部屋を出た。
Y.I.の文字も、扉の向こうへ消える。
手元には残らない。
写すことも許されていない。
それでも、朔は見た。
Y.I.
ユイ。
二つは近い。
だが、まだ同じではない。
K.K.
自分と一緒に現れる。
だが、黒川朔という名前とは一致しない。
分からないものを、似ている形だけで結ばない。
それでも、今日増えたものがある。
一年七か月前。
白い髪の少女が、ユイという名前に振り向いた。
自分の足で、内塔へ歩いていた。
今へ続く線ではない。
古い一点。
それだけだった。
だが、何もない空白ではなくなった。
空白の中に、誰かが確かに歩いた足跡が、一つだけ残った。




