第三章 白い塔の街 ⑧ 検査
「ミナト・ゲンザ」
セオは、もう一度その名前を読み上げた。
朔には文字が読めない。
だが、紙の一番上に、ミナトの名前が置かれていることは分かった。
その横には、まだ何も書かれていない。
村長。
元戦士。
死亡。
どの言葉も、今は置かれていなかった。
「最後まで、あなたを名前で呼んだ」
セオが確認する。
「はい」
「亡くなった経緯を聞いても?」
朔の手が、膝の上で少し固くなる。
森。
黒。
ハルの手。
ミナトの背中。
話せば、記録になる。
言葉の順番を間違えれば、ミナトが別の人間になる。
「その前に、ハル・ミナトと書いてください」
朔は言った。
セオの筆が止まる。
「同じ姓ですね」
「ミナトさんの孫です」
「生存状況は?」
「分かりません」
セオは紙へ目を落とす。
「行方不明」
「それも少し違います」
「では、どのように?」
朔はすぐに答えられなかった。
黒へ引かれた。
消失した。
連れ去られた。
どの言葉も、見たことの一部しか持たない。
「黒い場所へ引き込まれました」
朔は言った。
「俺の指が、一度だけ届きました。でも、連れ戻せなかった」
セオの筆が動く。
「その後の所在および生死は不明」
「はい」
「死亡とは記さない」
「はい」
セオは一行を書き終え、少し間を空けた。
「空白を残しておきますか」
朔は顔を上げる。
「知っているんですか」
「古い巡礼名簿に、その形式があります」
「管理局でも使うんですか」
「現在の標準様式にはありません」
「では、今のは」
「備考欄を空けました」
正式な空白ではない。
ただ、セオが何も書かなかった場所。
それでも、死亡という言葉で埋められるよりはよかった。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
「それを決めるのは、俺です」
セオの筆が一瞬止まった。
「そうですね」
短く答え、次の行へ移る。
「続けてください」
***
朔は、ツヅリ村で起きたことを話した。
殻から出たこと。
ハルに見つけられたこと。
ミナトが、すぐには自分を信じなかったこと。
それでも食べ物と眠る場所を与えたこと。
逃げ道を覚えさせられたこと。
祠の黒い斑点。
森から返る声。
リーネの祈りが届かなくなったこと。
火を守ったこと。
子どもたちを先に逃がしたこと。
ハルが手を伸ばしたこと。
ミナトが朔を引き戻したこと。
そして、最後に残した言葉。
「足掻け、と言いました」
セオの筆が止まる。
「そのまま記しますか」
「はい」
「意味は?」
「まだ、全部は分かりません」
「では、解釈は加えません」
セオは言葉だけを書いた。
足掻け。
紙の上では、ただの短い言葉になる。
ミナトの声の低さも。
血の匂いも。
握った手の重さも。
記録には残らない。
それでも、言葉自体を別の表現へ置き換えられるよりはよかった。
「次の名前を」
セオが言う。
「リーネ」
「家名は?」
「知りません」
「役目は?」
「祠を守っていました。人を治していました」
「祈術師」
「そう呼ばれていたと思います」
セオが書こうとする。
「でも、祈れなくなってからも、人を治しました」
筆が止まる。
「祈術不能後も治療を継続」
「不能ではなく」
「では?」
「祈らずに、手を使った」
セオは朔を見る。
「結果としては、同じでは?」
「違います」
朔は即答した。
「祈れなかったことを書くなら、手を使ったことも同じ場所に書いてください」
祈れない者。
使えない者。
そう記されれば、リーネが欠けた人間のように残る。
だが、リーネは欠けたまま止まらなかった。
「分かりました」
セオは先ほどの文字へ線を引いた。
消したのではない。
読める形で訂正し、その横へ新しい言葉を書く。
「祈りを用いず、手当てを継続」
「はい」
「訂正前の文字も残します」
「なぜですか」
「どのように記録が変わったかを残すためです」
間違いを隠さないため。
それもまた、記録の使い方だった。
***
ダン。
トウマ。
村の子どもたち。
朔が名前を知っている者から話した。
全員ではない。
知らない名前もある。
顔は覚えているのに、名を聞かなかった人もいる。
セオは、その者たちを「村人複数」と書こうとした。
「名前を知らない人、と書いてください」
「人数は?」
「正確には分かりません」
「村人複数の方が簡潔です」
「俺が知らなかったことを、消したくありません」
セオは筆先を紙の上で止めた。
「あなたの知識の範囲を明示するためですか」
「それもあります」
「ほかには?」
「名前を聞けなかった人がいたことを、俺が忘れないためです」
セオは新しい行へ書いた。
サクが名を知らない村人たち。
少し奇妙な記録。
だが、「村人複数」よりは人に近く見えた。
エリオは、途中からほとんど口を挟まなかった。
セオが書くたび、文字を確かめる。
朔の言葉と違えば、短く指摘する。
「そこは、サクが見たとは言っていません」
「リーネから聞いた内容です」
「では、伝聞と記してください」
エリオが訂正を求める。
第二章で会った時の彼なら、記録の整合性のために同じことをしたかもしれない。
今も、理由の一部はそうだろう。
だが、朔が何を自分の目で見て、何を誰かから受け取ったのかを分けることは、名前を守ることにも繋がっていた。
***
話し終える頃には、紙が三枚に増えていた。
セオは筆を置く。
「疲れましたか」
「少し」
「水を飲みますか」
朔は机の水差しを見る。
先ほど飲んだものと同じ。
「飲みます」
自分で注ぐ。
一口だけ。
セオは記録を一枚ずつ並べた。
「読み上げます」
「全部ですか」
「要約すれば、要約した者の判断が入ります」
セオは最初から読み始めた。
ミナト・ゲンザ。
ハル・ミナト。
リーネ。
ダン。
トウマ。
名前を知らない村人たち。
朔は一つずつ聞いた。
言葉が違えば止めた。
「ヨビモノを魔物と書かないでください」
「分類上は、魔物に含まれる可能性があります」
「まだ分からない」
「では、現地呼称ヨビモノ。分類未確定」
「はい」
「祠の崩壊」
「崩れたのではなく、黒くなりました」
「物理的な損壊もあったと」
「ありました。でも、先に黒くなった」
「黒化後に損壊」
「はい」
細かい。
面倒だと思われても仕方がない。
だが、順番が変われば原因も変わる。
原因が変われば、誰が責められるかも変わる。
「ハルが子どもたちを避難させた」
セオが読む。
「命令を受けて?」
「自分で選びました」
セオは記録を見る。
「自主判断、とあります」
「役目を与えられたからではないことも」
「そこまで記す必要がありますか」
朔は少し考える。
「あります」
「理由を」
「後から、勇者候補だったとか、手引きだったとか、そういう名前でハルの選択を持っていかれたくないからです」
エリオの視線が朔へ向く。
勇者候補。
自分の肩書き。
「本人が、当時の状況で選択した」
セオは追記した。
「これで?」
「はい」
***
読み上げが終わる。
セオは三枚を重ねた。
「この記録は、ツヅリ村の正式な調査記録へ加えることができます」
「誰が読みますか」
「現地調査担当者。殻反応の分析官。必要があれば、中央審査官」
「必要があれば、ではなく、読んだら教えてください」
「約束通り、記録します」
「ツヅリ村の人にも見せられますか」
「申請があれば」
「読めない人には?」
「読み上げる担当者をつけられます」
「俺が訂正したことも残りますか」
「残ります」
セオは紙の端を示した。
どこに何が書いてあるのか、朔には分からない。
エリオが確認する。
「訂正履歴、読み手の通知、現地側への開示申請可。すべてあります」
朔は息を吐いた。
これで安全ではない。
王都の記録へ入った。
誰かが別の目的で使うかもしれない。
それでも、街道で聞いた噂だけが、ツヅリ村のすべてになるよりはよかった。
「記録してください」
朔は言った。
「ただし」
「何でしょう」
「これが、ツヅリ村の全部ではないことも」
セオは少しだけ目を細めた。
「当然です」
「当然なら、書かなくてもいい?」
「……いいえ」
セオは紙の最後に一行を加えた。
「本記録は、証言者サクが認識し、現在言葉にできた範囲に限る」
エリオが読み上げる。
今、言葉にできた範囲。
言えなかったものがある。
知らないものがある。
紙の外に、人が残っている。
「それでいいです」
朔は言った。
***
セオが記録を布の袋へ収める。
袋の口を閉じ、印を押す。
塔の印。
その動作を見ていると、名前たちが白い塔に飲み込まれるようにも見えた。
同時に、外で形を変えていた噂から、少しだけ守られたようにも思えた。
どちらになるかは、まだ分からない。
「次に、検査について説明します」
セオが言った。
部屋の空気が変わる。
「門での鏡板検査では、通常の返りが確認できませんでした」
「異常ですか」
「通常とは異なります」
「同じでは?」
「異常という言葉には、危険または障害という意味が含まれることがあります。今は、差異としか言えません」
朔はセオを見る。
言葉を選んでいる。
朔が何を指摘するか知っているからかもしれない。
それでも、違いを違いのまま置いた。
「検査では、何をしますか」
「身体状態の確認。魔素の流れの外部観測。既知の祈術への反応確認」
「触れますか」
「身体状態の確認では、脈と皮膚温を測ります。拒否する場合は目視で代替しますが、精度は下がります」
「誰がしますか」
「治療官です。本人から説明させます」
「痛みは?」
「通常ありません」
「通常ではなかった例を、その人に聞きます」
「分かりました」
セオは立ち上がる。
金属片は机の上に残っている。
「この部屋から移動します。取っ手は戻しますか」
「次の人が知らずに閉じ込められませんか」
「通常は、局員が同席します」
「俺は、出せるままがいいです」
「では、面談終了後にノエへ伝えます」
自分が使わなくなった後の出口。
そこまで考える必要があるのかは分からない。
だが、隠された取っ手があることを知った。
なかったことにはしたくなかった。
***
検査室は、面談室より少し広かった。
壁は薄い灰色。
中央に寝台。
端に、小さな台と水桶。
白い鏡板に似たものが三枚、壁へ立てかけられている。
火種入れの網箱は、朔から見える場所へ置かれた。
ノエが、その隣に立つ。
「ここからは、治療官の指示に従って運びます」
「お願いします」
しばらくして、茶色い長衣の女が入ってきた。
白い外套ではない。
髪を後ろで短く束ねている。
年齢はリーネより少し上に見えた。
腕には細い傷が何本もある。
「マレア・ソンです」
女は言った。
「治療官。身体状態と魔素反応の検査を担当します」
名前が先。
朔は小さく頷く。
「サクです」
「記録は読みました。触れられることに警戒があるそうですね」
「はい」
「当然です」
あっさり言った。
「検査される側は、検査する側ほど道具を知りません。怖くない方がおかしい」
朔は少し驚いた。
「では、止めたい時は『止めて』と言ってください。理由はいりません。止めた後で、続けるか、別の方法にするかを決めます」
「本当に止まりますか」
「私が止めます」
「ほかの人が続けろと言ったら?」
マレアはセオを見る。
「治療官の検査中止判断は、審査官には覆せません」
「規定ですか」
「規定です」
規定が、止める側を守ることもある。
朔はそのことを覚えておいた。
***
最初は、目を見る検査だった。
マレアが小さな光石を掲げる。
「目へ光を当てます。眩しかったら閉じて構いません」
「何を見ますか」
「瞳の動き。左右差。光を追えるか」
光が動く。
朔は目だけで追う。
白い部屋は見えない。
「次は呼吸。胸には触れません。数えるだけです」
マレアは少し離れた場所から朔を見る。
脈は、手首へ指を当てて測る。
「触れます」
「はい」
指先は温かかった。
リーネの手とは違う。
それでも、人の温度だった。
「速い」
「緊張しています」
「その分を記録します」
皮膚温。
傷。
力の入り方。
一つずつ説明する。
朔が止める必要はなかった。
「身体は、年齢相応に見えます」
マレアが言う。
「見えるだけ?」
「骨や内臓まで調べていません。今言えるのは、外から確認した範囲です」
セオと同じ。
紙の外に、分からないものを残す言い方。
「次に、魔素の流れを見ます」
マレアは、壁際から細い輪を持ってきた。
金属ではない。
白く濁った石を糸で繋いだような道具。
「身体へ触れません。胸の前に置きます」
「何が起きますか」
「通常は、石の一つか二つが光ります。魔素の流れが強い場所によって、光る位置が変わります」
「全部光ったら?」
「珍しいですが、あります」
「光らなければ?」
マレアは少し考える。
「魔素が極端に弱い。流れが閉じている。道具が合っていない。そのどれかです」
「危険という意味ではない?」
「それだけでは判断しません」
「お願いします」
***
輪が、朔の胸の前へ置かれる。
触れていない。
マレアが短い言葉を唱える。
祈りというより、合図に近い。
輪の下側にある石が淡く光った。
次に、右。
左。
光が一周する。
朔の胸の前で止まった。
「動かないで」
マレアの声が少し低くなる。
石の光が、一つずつ消えていく。
下。
右。
左。
上。
最後に、中央の小さな石だけが残る。
その光も、外へ広がらない。
朔の身体へ向かって、細く縮んでいくように見えた。
やがて、消えた。
「返らない」
マレアが呟く。
門の係員と同じ言葉。
「魔素がないんですか」
「違う」
マレアはすぐに答えた。
「なければ、最初から光らない」
「では」
「輪から出した流れを受け取っている。だが、こちらへ返さない」
「中に残っている?」
「それも違うと思う」
マレアは朔を見た。
「消えているように見える」
部屋が静かになる。
網箱の中で、火種入れが小さく鳴った。
かた。
マレアがそちらを見る。
「火も反応していますね」
「開けません」
「まだ、開けるとは言っていません」
「先に言いました」
「それでいい」
マレアは輪を下ろす。
「もう一度はしません。今の反応で十分です」
朔は少しだけ息を吐いた。
「怖くないんですか」
「何が?」
「普通と違う」
「治療官は、普通と違うものを見る仕事です」
「管理局は、違うものを危険にする」
「管理局は大きい。私はその全部ではない」
マレアは淡々と答えた。
制度の中にいる。
だが、制度そのものではない。
***
「既知の祈術への反応を見ます」
マレアは続けた。
「治療用の弱い光を、手の甲へ近づけます。傷を治すほどの強さではありません」
「触れますか」
「触れません。熱や痛みが出たら止めます」
「何を見るんですか」
「受け入れるか、弾くか、流れが変わるか」
朔は右手を台の上へ置いた。
手の甲を上へ。
ハルの温度を感じた場所。
マレアが二本の指をかざす。
淡い光が生まれる。
リーネの祈りより弱い。
エリオの光ほど鋭くない。
小さな灯りのような光。
それが朔の手へ近づく。
触れる直前。
光が横へ逸れた。
風はない。
マレアの手も動いていない。
光は、朔の指先を避けるように曲がり、手首の横を通り過ぎて消えた。
「もう一度?」
マレアが聞く。
朔は少し考える。
「一度だけ」
二度目。
今度は反対側から。
光はまた逸れた。
弾かれたのではない。
強く跳ね返りもしない。
ただ、そこに道がないように、朔の身体を避けた。
「治療を拒絶している?」
エリオが聞く。
「拒絶反応なら、光が乱れる」
マレアは言う。
「これは、流れが繋がっていない」
「魔素の流れが違う?」
「違うという言葉でも足りない」
マレアは朔の手を、触れずに見る。
「入口が、こちらに向いていない」
朔の頭の奥で、何かが擦れた。
入口。
出口。
白い部屋。
殻。
視界の端が、一瞬白くなる。
文字。
K.K.
その下に、短い表示。
NO RETURN
返りなし。
次の瞬間には消えた。
「サク」
エリオが呼ぶ。
目の前にいる。
白い外套。
袖口の泥は、少し乾いている。
「ここにいます」
朔は答えた。
「何が見えましたか」
セオが聞く。
「文字です」
「内容は?」
「K.K.」
セオの表情は変わらない。
エリオは知らない言葉を聞いた顔をした。
「ほかには」
「返りがない、という意味の言葉」
「どの文字で?」
「俺がいた世界の文字です」
筆が動く。
「見えたのは、検査の結果だと思いますか」
「分かりません」
「記憶かもしれない?」
「分かりません」
「何者かが見せた可能性は?」
「分かりません」
三度。
だが、それが今の答えだった。
セオは、推測を記録へ加えなかった。
***
マレアが道具を片づける。
「ここまでの検査では、通常の魔素経路と接続していない可能性があります」
「危険ですか」
「この結果だけでは決められません」
セオが言う。
「だから、追加検査が必要です」
朔はセオを見る。
「どんな検査ですか」
「塔の流路へ、ごく弱く接続します」
「接続」
「今の道具より、広い範囲の反応を確認できます」
「触れますか」
「接続板へ手を置きます」
白い窪み。
門で拒んだもの。
古い巡礼路の手の印。
「しません」
朔は答えた。
「説明を聞く前に?」
「手を置く検査は、今はしません」
「理由は」
「知らない流れに、自分から繋がりたくない」
「しかし、現在の検査ではあなたが安全であることを確認できません」
その言葉が来た。
朔はゆっくり息を吸う。
「証明できないものは、全部危険ですか」
セオは答えなかった。
「返りがない。治療の光も繋がらない。だから、危険かもしれない」
「はい」
「危険ではない証明ができないから?」
「周囲へ影響する可能性を否定できません」
「では、俺が危険だという証明は?」
「まだありません」
「ないのに、危険な側へ置く」
「被害が出てからでは遅い場合があります」
「分からないものを、分からないままにして手遅れになる」
エリオの言葉。
エリオがわずかに顔を上げる。
「それが怖いんですね」
朔はセオを見る。
「あなたも」
セオは少しだけ目を細めた。
「管理する者は、それを恐れなければなりません」
「急いで答えを埋めて、人を違うものにすることは?」
「それも恐れています」
「どちらを選ぶんですか」
「被害の大きさと可能性を比較します」
「数字で?」
「数字も使います」
「俺の名前より先に?」
「名前だけでは、危険を測れません」
「数字だけでも、人を守れません」
「承知しています」
セオは否定しない。
だが、引きもしない。
「だから、あなたの話を聞きました」
「話を聞いても、最後は検査ですか」
「話だけで身体の反応は分かりません」
正しい。
それも一部は正しい。
朔は手を握った。
この男は、言葉を聞く。
名前も先に書く。
出口も見せる。
そのうえで、必要だと判断すれば繋ごうとする。
丁寧だからこそ、拒む場所を自分で決めなければならない。
***
「塔への接続は、今日でなければいけませんか」
朔は聞いた。
「早い方が望ましい」
「今日でなければ、誰かがすぐ危険になりますか」
「現時点で、具体的な兆候はありません」
「なら、今日はしません」
「代わりに、局内の観察区画へ滞在してもらいます」
「帰れない?」
「判定が保留されている間は、外出を制限します」
「閉じ込めるんですね」
「外出制限です」
「扉を自分で開けて、門から出られますか」
「許可がなければ、出られません」
「なら、俺にとっては閉じ込められることです」
セオは少し黙った。
「そう感じることは理解します」
「感じ方の話ではありません」
朔は言った。
「出られないという事実の話です」
マレアが、道具を持つ手を止めた。
エリオは何も言わない。
「では、記録上も外出制限ではなく、退出不許可と書いてください」
セオは朔を見る。
「強い表現です」
「俺から出られないなら、近い表現です」
「医療上の観察でもあります」
「それも書けばいい」
セオは、しばらく考えた。
そして記録用紙へ筆を置く。
「判定保留。医療観察のため、本人の同意なく退出を許可しない」
エリオが読み上げた。
「それで、事実に近いですか」
セオが聞く。
「はい」
「同意したわけではないことも?」
「記します」
筆が動く。
朔はその音を聞いた。
閉じ込められる。
言葉を正しても、扉が開くわけではない。
だが、「自ら保護を望んだ」とは残されない。
今は、それを守る。
***
「リオさんへの報告は」
朔が聞く。
「約束通り行います」
「何を伝えますか」
「検査結果が判定不能であること。追加検査に本人が同意していないこと。医療観察として滞在が必要であること」
「退出不許可も」
「伝えます」
「俺が話せますか」
「扉越しになりますが、可能です」
「二刻になる前に?」
セオが壁の小さな砂時計を見る。
「あと半刻あります」
「今、伝えてください」
「なぜですか」
「予定が変わったからです」
セオはノエを見る。
「待合所へ連絡を」
「はい」
ノエが退出する。
規定を動かす人。
名前を呼ばれた人。
朔は網箱の火を見る。
まだ消えていない。
***
マレアは最後に、朔の手首へ細い布を巻いた。
白ではない。
薄い青。
「これは?」
「検査中止の印です」
「中止?」
「追加接続検査を、本人が現時点で拒否。治療官による緊急性なしの確認済み」
「それをつけると?」
「別の担当者が、説明なしに同じ検査を始めることを防ぎます」
布には小さな文字が書かれている。
朔には読めない。
「エリオさん」
エリオが確認する。
「現時点で接続検査を実施しない。再提案には本人への説明が必要、とあります」
「ありがとうございます」
マレアは結び目を確かめる。
「これは拘束の印ではありません」
「分かっています」
「分からなくなったら、誰かに読ませてください」
「はい」
互いの名前を持つ。
読めない言葉を、一人で抱えない。
ここにも、その方法があった。
「マレアさん」
「何ですか」
「俺は、何だと思いますか」
マレアは少しだけ眉を上げた。
「患者ではありません」
「では」
「今のところ、検査を受けた子どもです」
殻児でもない。
危険対象でもない。
被験者でもない。
「それ以上は、私の仕事では決めません」
朔は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
***
検査室を出る前、セオがエリオへ言った。
「待合所への報告に同行してください」
「私が?」
「あなたの名で条件付同行を認めました。状況が変わった説明も、あなたがするべきです」
エリオは一瞬だけ黙る。
「分かりました」
朔を見る。
「サクも、扉越しなら話せます」
「行きます」
火種入れはノエが戻るまで、検査室に置かれる。
朔は立ち止まる。
「火は?」
「私が残ります」
マレアが言った。
「開けません」
「約束できますか」
「治療官マレア・ソンの名前で」
役職だけではない。
名前を置いた。
「お願いします」
朔はエリオとセオに続き、廊下へ出た。
白い廊下。
戻る道はまだ分からない。
だが、さっきまで知らなかった名前が増えている。
ノエ。
マレア。
レフ。
白い塔の中にも、人がいた。
制度を動かす人。
制度に従う人。
制度の隙間で名前を呼ぶ人。
それでも、扉は閉まる。
名前を知ったからといって、自由になるわけではない。
相手が人だと分かったからといって、従う必要もない。
白い廊下の先で、扉が一枚開いた。
その向こうに、外郭待合所との間を隔てる格子のない窓がある。
リオが立っていた。
「遅い」
最初の言葉だった。
怒鳴ってはいない。
だが、待っていた時間がその声に残っている。
「まだ二刻ではありません」
朔が言う。
「予定が変わった顔や」
「検査が、分からない結果になりました」
「お前の説明はいつも分かりにくいな」
リオはそう言いながら、朔の手首の青い布を見る。
「それは?」
「追加検査を今はしない印です」
「読ませろ」
エリオが窓越しに内容を読み上げる。
リオは最後まで聞いた。
「で、帰れんのやな」
「はい」
「自分で決めたか」
「決めていません」
「記録は?」
「同意なしの退出不許可」
リオの目がセオへ向く。
「ずいぶん正直に書いたな」
「サクさんが、事実に近い表現を求めました」
「求めんかったら?」
セオは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
「名前はありますか」
朔が聞く。
リオは荷物の内側を叩く。
「ある」
その一言で、胸の奥の何かが少しだけほどけた。
「火もあります」
「見えてないぞ」
「マレアさんが持っています」
「誰や」
「治療官です。名前で約束してくれました」
リオはすぐには納得しなかった。
「二刻後の報告で、火も見せろ」
セオが頷く。
「手配します」
「小刀も」
「保管記録に変更はありません」
「変更がないことも見せろ」
「分かりました」
嫌がられる。
だが、間違ってはいない。
リオは窓越しに朔を見る。
「次は何や」
「観察区画へ行きます」
「道は覚えたか」
「途中までは」
「なら、続きを覚えろ」
「はい」
励ましではない。
戻ってこいとも言わない。
戻るために、今することを言った。
***
窓から離れる前、エリオがリオへ言った。
「私が、次の報告も行います」
「役目としてか」
リオが聞く。
エリオは一瞬、朔を見る。
「私の名前で引き受けます」
リオは少しだけ目を細めた。
「なら、エリオ」
肩書きをつけなかった。
「遅れるな」
「はい」
エリオは答えた。
朔はそのやりとりを胸に置いた。
扉が閉まる。
今度も、名前は向こう側に残る。
黒川朔。
サク。
リオが持っている。
ツヅリ村にも、呼ぶ人がいる。
そして王都の紙には、判定保留と書かれた。
危険とは、まだ書かれていない。
安全とも書かれていない。
空白。
だが、その空白は、ハルのものとは違う。
王都はすぐに埋めようとする。
朔は、埋めさせないために立っている。
白い廊下の奥へ、再び歩き出す。
手首には、薄い青の布。
腰には、ハルの青い布。
二つの青が、別々の意味で朔に残っている。
一つは、忘れないため。
一つは、勝手に進めさせないため。
どちらも、今は朔の手元にあった。




