第三章 白い塔の街 ⑦ 白い廊下
白い廊下は、真っ直ぐではなかった。
朔は、それを少し意外に思った。
白い塔を遠くから見た時、内部も一本の線のように整っているのだと思っていた。
だが実際の廊下は、短い距離で何度も曲がる。
右へ。
左へ。
少し下り、また上がる。
扉も同じ形ではない。
細い窓のあるもの。
円い印が刻まれたもの。
白い布で覆われたもの。
前に椅子が置かれたもの。
完全に滑らかな場所でもなかった。
床には靴の跡がある。
壁の下には、荷車が擦った傷がある。
隅には細いひびが走り、白い材料で埋め直されている。
人が使っている。
白い部屋とは違う。
白い部屋には、生活の傷がなかった。
ここにはある。
朔は、その違いを何度も確かめた。
前を歩く女局員の靴音。
網箱の中で揺れる火種。
エリオの外套に残った泥。
今、自分は眠っているのではない。
少なくとも、そう判断できるものがある。
「こちらです」
女局員が左へ曲がる。
朔は曲がる前に、来た道を振り返った。
扉はもう見えない。
一度曲がっただけなのに、外郭待合所へ戻る道が隠れている。
「道順を覚えていますか」
エリオが聞いた。
「覚えようとしています」
「検査区画は複雑です。外部の人が迷わないよう、案内なしでの移動は禁止されています」
「迷わないためですか」
「はい」
「勝手に出ないためではなく?」
女局員の足が、ほんの少しだけ遅くなった。
エリオは否定しなかった。
「両方だと思います」
正直な答えだった。
朔は壁の印を見る。
三本の線。
欠けた円。
下向きの矢印。
次の角には、二本の線と手の印。
古い巡礼路の手とは形が違う。
こちらの手は、指が揃っている。
人が手を伸ばす印ではなく、止まれと言っているように見えた。
***
角を曲がると、匂いが変わった。
薬草。
熱い水。
湿った布。
白い服の者たちが、桶や箱を運んでいる。
その間を、担架が通った。
上には少年が寝かされている。
年はハルと同じくらいに見えた。
両腕を胸の上で組み、手首には白い札が巻かれている。
札には文字と数字。
名前は見えない。
「七棟へ」
担架を押す男が言った。
「第十三対象、反応低下」
少年の瞼が、わずかに動いた。
朔は担架を目で追う。
「名前は?」
女局員が振り返った。
「何でしょう」
「あの子の名前です」
彼女は少し戸惑った。
「私は担当ではないので」
「第十三対象というのは?」
「処置上の識別です」
「名前ではない」
「はい」
それだけだった。
女局員が冷たいわけではない。
本当に知らないのだ。
管理局には人が多い。
運ばれる人も多い。
全員の名前を、全員が覚えることはできない。
だから数字を使う。
理由は分かる。
それでも、朔の中には引っかかりが残った。
担架が別の廊下へ入る直前、年配の女が駆け寄った。
「レフ」
少年の名前らしい。
担架を押す男が止まる。
年配の女は、少年の足元へ毛布を掛け直した。
「七棟へ行くよ。あとで水を持っていくからね」
少年の指が少しだけ動く。
返事にはならなかった。
だが、年配の女は頷いた。
「聞こえた」
それから担架を送り出した。
第十三対象。
レフ。
同じ人。
処置を間違えないための呼び方と、戻ってくる場所を忘れないための呼び方。
どちらかだけでは足りないのかもしれない。
だが、数字だけになれば、誰がレフと呼ぶのだろう。
「今の人は」
朔が聞く。
「七棟の世話役です」
女局員が答えた。
「記録係ではない?」
「はい。食事や衣服、清潔を担当しています」
記録する者ではない人が、名前を呼んだ。
朔はそのことを胸に置いた。
***
廊下の途中に、格子のない広い窓があった。
外ではない。
建物に囲まれた中庭。
白い壁の間に、土がある。
小さな木。
洗った布。
石の長椅子。
子どもが二人、地面に線を引いて遊んでいた。
一人は白い服。
もう一人は灰色。
そのそばで、局員らしい男が書類を読んでいる。
子どもたちが線から石を弾くたび、男は顔を上げる。
遊びを止めない。
ただ、数えているようにも見える。
「ここで暮らしている子どもですか」
朔が聞く。
「治療中の子も、経過観察中の子もいます」
「外へ出られますか」
「状態によります」
同じ答え。
「誰が決めますか」
女局員は少し考えた。
「担当の治療官と審査官です」
「本人は?」
「希望は聞かれます」
エリオと同じ。
朔は窓の向こうを見る。
白い服の子が石を外した。
灰色の服の子が笑う。
その笑い声は、窓を越えてこちらまで届いた。
閉じ込められているようには見えない。
自由だとも言い切れない。
どちらか一つに決めてはいけない。
「祈っている人がいませんね」
朔は言った。
中庭の隅には、小さな祈り台のようなものがある。
だが、白い布が掛けられ、使われていない。
女局員の表情が少し固くなった。
「管理局内での無許可の祈りは禁止されています」
「なぜですか」
「殻関連の対象者が多いためです。祈りが別の者の反応へ干渉する可能性があります」
宿の主人の言葉を思い出す。
変な祈りもするな。
最近うるさいからな。
「祈りそのものが危険なんですか」
「祈り方と、祈る場所によります」
「安全な祈り方は、誰が決めるんですか」
女局員は答えに詰まった。
エリオが言う。
「管理局の祈術官です」
「祈れない人は?」
「手当てを受けます」
「祈らないで?」
「必要なら」
リーネを思い出す。
祈れないまま、手を使った。
王都にも、祈らずに手当てをする人がいる。
同じではない。
だが、すべてが反対でもない。
朔はそのことを、急いで判断しなかった。
***
さらに奥へ進むと、人の数が減った。
扉の間隔が広くなる。
声も少ない。
代わりに、壁の中を何かが流れるような低い響きがあった。
水ではない。
風とも違う。
耳で聞くというより、足の裏へ伝わる音。
網箱の中で、火種入れが小さく鳴った。
かた。
女局員が足を止める。
「反応しましたか」
「少しだけ」
朔は箱の中を見る。
蓋は閉まっている。
赤い光も見えない。
ただ、土の器が細かく震えている。
「この近くに殻がありますか」
朔が聞く。
「殻そのものはありません」
女局員が答える。
「では、この音は」
「流路かもしれません」
「流路?」
「塔と各検査区画を繋ぐ、祈りの流れです」
「何を運んでいるんですか」
「私は設備担当ではないので、詳しくは」
また、知らない。
管理局の中にいる者でも、自分の通る壁の中身を全部は知らない。
エリオが足元を見る。
「私も、魔素を供給する流路だと教わっています」
「誰から?」
「訓練官です」
「見たことは?」
「ありません」
朔は壁へ近づきすぎない距離で手をかざした。
温度は感じない。
だが、何かが向こうを通っている。
回路図のように見えた巡礼路。
殻と殻を結ぶ線。
壁の中を走る流れ。
繋げるな。
まだ、繋げるな。
朔は手を下ろした。
「箱を開けますか」
女局員が聞く。
「開けません」
すぐに答えた。
「反応の原因を確認できます」
「火が何へ反応したのか分からないまま、近くで開けたくありません」
「記録だけ行います」
「俺が開けないと決めたことも書いてください」
女局員は胸元から小さな紙板を出し、書き込んだ。
嫌そうにはしなかった。
「記しました」
「ありがとうございます」
礼を言うと、彼女は少しだけ驚いた顔をした。
朔はそれを見て、自分も驚いた。
この人は、門からずっと火を運んでいる。
朔が触れるな、見えるようにしろ、開けるなと何度言っても、その条件を守っている。
「名前を聞いてもいいですか」
女局員の手が止まった。
「私の?」
「はい」
「ノエです」
「ノエさん」
朔は言った。
「火を見える場所で運んでくれて、ありがとうございます」
ノエはすぐには答えなかった。
網箱を持つ手を、少しだけ握り直す。
「規定に従っただけです」
「それでもです」
「……どういたしまして」
小さな返事だった。
エリオが二人を見ていた。
何も言わない。
ただ、ノエという名前を、自分も覚えるように見えた。
***
廊下の先に、待合室があった。
椅子は四つ。
小さな机。
水差し。
壁には、淡い青の布が一枚掛けられている。
白いものばかりではない。
それだけで、呼吸が少し楽になった。
「こちらでお待ちください」
ノエが言った。
「火種入れは?」
「面談室まで一緒に運びます」
「待っている間も、ここに?」
「はい」
網箱を、朔から見える机の上へ置く。
約束通り。
ノエは扉の脇へ立った。
エリオも残っている。
「あなたも面談に入るんですか」
朔が聞く。
「最初は」
「途中で出る?」
「審査官が必要と判断すれば」
「俺が残ってほしいと言ったら?」
エリオは少し考えた。
「審査官へ伝えます」
「あなた自身は」
「同席したいと思っています」
役目ではなく、自分の希望として答えた。
「なぜですか」
「あなたが何を見るか、知りたいからです」
「観察ですか」
エリオの目が少しだけ揺れる。
「それもあります」
「ほかには」
「あなたが、記録と実際が違うと言った時に、どちらが違うのか確かめたい」
「俺が間違っているかもしれない」
「はい」
「記録が間違っているかもしれない」
「はい」
両方を並べた。
それなら、まだ話せる。
***
机の水差しには、蓋が付いていた。
朔は自分で注がず、先にエリオを見る。
「飲んでも大丈夫ですか」
「通常の飲料水です」
「確認したことは?」
エリオは水差しを見る。
答えに迷った。
ノエが口を開く。
「今朝、私が給水所から運びました」
「ノエさんは飲みましたか」
「勤務前に、同じ給水所の水を」
「では飲みます」
朔は小さな杯へ水を注いだ。
匂いを確かめる。
一口だけ。
普通の水だった。
エリオが少し不思議そうに見る。
「私の説明では足りませんでしたか」
「エリオさんは、この水を飲んでいません」
「管理局の水が危険だと思っている?」
「危険だと決めていません。安全だとも決めていません」
「ノエが飲んだなら安全なのですか」
「少なくとも、今ここに立っています」
ノエがわずかに笑った。
「証明としては弱いと思います」
「はい」
朔も答える。
「でも、何もないよりはいいです」
完全な安全はない。
だから、見える範囲の手がかりを集める。
道と同じだった。
***
待つ時間は長くなかった。
だが、扉の向こうから人の気配がするたび、朔の肩が固くなった。
一度、白い服の男が紙束を抱えて通った。
もう一度、子どもの泣き声が遠くで響いた。
すぐに誰かの声が続く。
「大丈夫。ここにいるよ」
泣き声は止まらない。
それでも、声は何度も繰り返された。
森の声ではない。
呼び寄せる声ではなく、離れないための声。
朔はその違いを聞こうとした。
やがて、奥の扉が開いた。
白い外套の男が立っていた。
第二章の街道で会った男。
丁寧な声で保護を申し出た人。
ユイは王都で保護されたと言った人。
朔の移動を記録し、迎えに行くと告げた人。
今日も白い外套を着ている。
だが、近くで見ると、その白も完全ではなかった。
袖口に薄い墨の染み。
襟の端に、糸を直した跡。
指には紙を扱う者の乾いた傷。
人の手だった。
「お待たせしました」
男は言った。
朔ではなく、まずノエを見る。
「火種は、説明なしに開封していませんね」
「はい。流路付近で一度反応。本人の希望により開封せず、記録のみ行いました」
「分かりました。ありがとうございます、ノエ」
名前を呼んだ。
ノエが小さく頭を下げる。
「エリオも、同行を?」
「サクが望むなら」
男の目が朔へ移る。
「同席を希望しますか」
「今は」
「承知しました」
男は反対しなかった。
それから、姿勢を正す。
「改めて名乗ります」
街道では肩書きを先に置いた。
今日は違った。
「セオ・ラグナです」
少し間を置く。
「殻管理局で、保護対象者の審査と配置を担当しています」
名前。
その後ろに役目。
エリオとは違う順番だった。
朔が何にこだわるか、すでに知っている。
対応してきた。
それが敬意なのか、交渉の技術なのかは分からない。
「サクと呼んでください」
朔は言った。
「黒川朔が名前です。でも、今はサクで」
「分かりました、サクさん」
セオは面談室を示す。
「どうぞ」
***
面談室には、窓がなかった。
机が一つ。
椅子が三つ。
壁には棚も絵もない。
白い部屋に似ている。
だが、机の上には飲みかけの茶があった。
書類の角は揃っていない。
椅子の脚には擦れた跡。
壁際には、使い込まれた布鞄。
ここにも、人の生活の傷がある。
ノエは網箱を、朔から見える位置へ置いた。
「私は外で待機します」
「ありがとうございます」
朔が言うと、ノエは一度だけ頷いた。
扉が閉まる。
朔は扉を見る。
取っ手がない。
入ってきた側にも、白い板があるだけ。
「この扉は、俺から開けられますか」
朔は最初に聞いた。
セオは椅子へ座りかけた動きを止める。
「通常は、局員が開けます」
「自分で出られない部屋で話すんですか」
「面談中の安全確保のためです」
「誰の安全ですか」
セオは扉を見る。
それから机の引き出しを開け、小さな金属片を取り出した。
白い板の下へ差し込む。
隠れていた取っ手が出てきた。
「これを下げれば、内側から開きます」
朔は取っ手を見る。
「最初から出しておけないんですか」
「通常手続きでは、使用しません」
「今日は通常ではない」
「条件付同行でしたね」
セオは金属片を机の上へ置いた。
朔の手が届く場所。
「面談中、ここへ置いておきます」
逃げ道が一つ増えた。
完全ではない。
扉の外には局員がいる。
道も分からない。
それでも、自分で扉を開ける方法は見える。
「ありがとうございます」
「少し驚きました」
セオが言う。
「何がですか」
「あなたは、まず私が誰かを問うと思っていました」
「名前は聞きました」
「その次に、出口を問うた」
「誰と話すかと、どう出るか。両方必要なので」
セオの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
だが、優しい笑いではなかった。
興味を持った顔。
「では、座りましょう」
セオが椅子を示す。
朔はすぐには座らない。
椅子の位置を見る。
扉までの距離。
机の幅。
エリオの場所。
火種入れの網箱。
自分で一つ、椅子を横へ動かした。
扉と火種の両方が見える位置。
セオは止めなかった。
エリオは朔の斜め後ろへ座る。
前でも、真横でもない。
***
セオは書類を一枚取り出した。
そこには、朔が読めない文字が並んでいる。
「あなたについて、すでに複数の記録があります」
「見せてもらえますか」
「読めますか」
「読めません」
「では、読み上げます」
「都合の悪い部分を飛ばしても、俺には分かりません」
「エリオにも確認してもらいましょう」
セオは迷わず書類をエリオへ渡した。
エリオが目を通す。
「ツヅリ村の報告。王都使者との街道上の面談。北方巡礼路付近での目撃。宿での通報。門での鏡板検査」
「ほかには」
朔が聞く。
エリオの視線が、一行で止まった。
「保護への抵抗傾向」
「どの行動が、そう書かれていますか」
セオが答える。
「札の受領を拒否したこと。殻児としての登録に同意しなかったこと。標準接触検査を受けなかったこと」
「代わりの検査は受けました」
「それも記録されています」
「でも見出しは抵抗傾向」
「審査上、注意を要する行動をまとめた欄です」
「条件を聞くことも、注意が必要ですか」
「場合によります」
「誰にとって?」
セオは即答しなかった。
「手続きを進める側にとってです」
正直だった。
朔は少し驚いた。
「危険だからではなく、面倒だから?」
「面倒と危険は違います」
「でも、同じ欄に入る」
「それは改善すべきかもしれません」
改善すべき。
認める言葉。
だが、今すぐ変えるとは言わない。
エリオが書類を机へ置く。
「条件付同行の記載もあります」
「はい」
セオは書類を閉じなかった。
「この記録を、あなたのすべてだと考えてはいません」
「なら、何だと思っていますか」
「管理局が現在知っている、あなたの一部です」
「一部を使って、全部の行き先を決める?」
「その危険があることは理解しています」
「それでも審査する」
「はい」
穏やかな声。
逃げない答え。
白い外套の男は、前と同じだった。
自分たちの仕組みに欠けたところがあると知っている。
知りながら、仕組みを使う。
***
セオは新しい紙を一枚出した。
何も書かれていない。
「先に伝えておきます」
「何をですか」
「私は、あなたが何者かを今日決めるつもりはありません」
朔はセオを見る。
「決められないから?」
「それもあります」
「ほかには」
「先に決めれば、その後に聞く言葉が、決めたものに合わせて変わるからです」
都合よく読むな。
シオ婆の言葉に似ている。
だが、セオが同じ場所に立っているとは限らない。
「なら、何を聞くんですか」
「あなたが見たものです」
セオは空白の紙へ手を置いた。
「ツヅリ村で何が起きたのか」
朔の胸が、わずかに硬くなる。
「王都の報告書ではなく」
セオは続ける。
「生きてそこを出た、サクさんの言葉で聞きたい」
書けば記録になる。
答えれば、王都の紙へ入る。
その紙が誰かを守るのか。
誰かを分類するのか。
まだ分からない。
「話したことは、誰が読みますか」
朔は聞いた。
「私と、必要な担当者です」
「必要かどうかを誰が決める?」
「私です」
「俺は決められない」
「希望は聞きます」
また、その言葉。
セオは朔の表情を見て、付け加えた。
「読み手を一人ずつ、あなたに伝えることはできます」
「記録してください」
「そうしましょう」
セオが紙の端に書く。
読み手を伝える。
朔には読めない。
「エリオさん」
エリオが文字を確認する。
「書いてあります」
一人では守らない。
朔は息を吸った。
ツヅリ村。
火。
祠。
森。
ハル。
ミナト。
話せば、紙になる。
だが、話さなければ、王都の報告だけが残る。
殻の子が暴れた。
祈りの弱い村が崩れた。
局所環境が崩壊した。
それだけにされたくない。
「最初に、名前を書いてください」
朔は言った。
セオの筆が止まる。
「誰のですか」
「ツヅリ村にいた人たちの」
「全員を?」
「俺が今、話す人だけでいいです」
「分かりました」
「役職より先に」
「はい」
セオは空白の紙の一番上へ、筆を置く。
「最初の名前は?」
朔はすぐには答えなかった。
誰から話す。
一番大切な人を選ぶのではない。
今、何を伝えるために、誰から始めるか。
火を守った人。
冷たい順番を決めた人。
最後に足掻けと言った人。
「ミナト・ゲンザ」
朔は言った。
セオが書く。
「ツヅリ村の長です」
少し考え、続ける。
「でも、最初に書くのは、長だったからではありません」
セオが筆を止め、朔を見る。
「では、なぜですか」
「最後まで、俺を名前で呼んだからです」
部屋の中が静かになる。
網箱の中で、ツヅリの火が小さく揺れた。
セオは肩書きの欄へ移らず、名前の横に空白を残した。
「続けてください」
朔は白い紙を見た。
まだ、ほとんど何も書かれていない。
分からないことを、勝手な答えで埋めないための空白。
その空白へ、王都の言葉ではなく、ツヅリ村の名前を置く。
朔は話し始めた。




