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第三章 白い塔の街 ⑤ エリオ再会

 朝になる前に、ユノの熱は少し下がった。


 治ったわけではない。


 呼吸はまだ浅い。

 頬にも赤みが残っている。


 それでも、夜中よりは眠れているようだった。


 ミラは食堂の長椅子に座り、ユノの頭を膝へ載せていた。


 片手は額に。

 もう片方の手には、報奨券。


 どちらも離していない。


 守るための手。

 王都へ入るための紙。


 同じ人間が、その両方を持っている。


 朔は階段の途中から二人を見た。


 ミラが顔を上げる。


 目が合った。


 昨夜のことを何か言おうとしたようだった。


 だが、朔は小さく頭を下げるだけにした。


 今はユノのそばにいる方がいい。


 言葉は、あとでも使える。


 手を離さなければならない時にまで、答えを求める必要はない。


「外に三人」


 後ろからリオが小声で言った。


 朔は振り返らない。


「巡察所の人ですか」


「灰色が二人。白いのが一人」


 白いの。


 エリオ。


 朔は布袋の位置を確かめた。


 火種入れ。

 青い布。

 巡礼路の写し。

 小刀。


 すべてある。


「名前は」


 聞く前に、リオが自分の荷物を軽く叩いた。


「ある」


「まだ聞いてません」


「聞く顔やった」


 顔は最後でいい。


 そう言い返そうとして、やめた。


 今は別の言葉を使う時だった。


***


 宿の扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、昨夜の巡察官だった。


 灰色の制服。

 記録板。

 丁寧な表情。


 その後ろから、白い外套の少年が入る。


 淡い金色の髪。

 額の銀輪。

 腰の細い剣。


 第二章で見た時と、ほとんど変わっていない。


 周囲だけが整って見える。


 ただ今日は、白い外套の裾に、道の泥が少し付いていた。


 エリオは食堂を見回した。


 ミラとユノ。

 宿の主人。

 リオ。

 そして朔。


 朔の前まで来る。


「おはようございます」


「おはようございます」


 エリオは姿勢を正した。


「エリオ・レイスです」


 それだけだった。


 王都殻管理局所属。

 勇者候補第二位。


 後ろに続いていた言葉がない。


 朔は少しだけ目を見開いた。


「後半がありませんね」


「考えておくと言いました」


 エリオは答える。


「考えた結果です」


「なくして大丈夫なんですか」


「今は、私の名前を伝えれば足ります」


 今は。


 完全に捨てたわけではない。


 役目を拒んだわけでもない。


 それでも、名前だけを先に置いた。


 朔は小さく頷いた。


「覚えていたんですね」


「記録していなくても、覚えていることはあります」


 その言葉が、少しだけエリオ自身へ向けられているように聞こえた。


***


 エリオはすぐに朔の件へ入らなかった。


 長椅子のユノを見る。


「その子が、報告者のお子さんですか」


 巡察官が頷く。


「はい。報奨券による臨時通行を申請しています」


 ミラが立ち上がろうとした。


 ユノの頭が膝からずれかける。


「そのままで構いません」


 エリオが言った。


 ミラは動きを止める。


「券を確認しても?」


 ミラは躊躇しながら報奨券を差し出した。


 エリオは紙を受け取る。


 塔の印。

 巡察所の刻印。

 報告内容。


 短く目を通した後、巡察官へ返す。


「施療門への通行を認めてください」


「ですが、対象児の確認が完了する前に報奨を確定するのは」


「報告は実際に行われています」


 エリオの声は穏やかだった。


「その内容が正しかったかどうかと、報告した事実は別です。少なくとも、治療を遅らせる理由にはなりません」


 巡察官は少し迷った。


「規定上は、担当者の承認があれば可能です」


「では、私が承認します」


 エリオは自分の名を記録板へ書いた。


 肩書きではなく、名前。


 ただし、その名前には王都で決定を動かす力がある。


 ミラが深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「施療門まで職員を一人同行させます」


 エリオは続けた。


「券は、この子が治療を受けるまで有効です。これからサクがどのような判断をしても、取り消しません」


 朔はエリオを見る。


 こちらが逃げることまで想定している。


 だが、それとユノの治療を切り離した。


「なぜですか」


 朔が聞いた。


「何がですか」


「俺が逃げたら、報告が役に立たなかったことになるんじゃ」


「報告は、あなたを捕まえるためだけのものではありません」


 エリオは答えた。


「本来は、危険の有無を確かめるためのものです」


「王都がそう使っているようには見えません」


「そう見える理由があることは理解しています」


「理解していても、制度は変わらない」


「一人の判断ですぐ変えられるものではありません」


「では今、ユノを通すのは」


「私に変えられる範囲だからです」


 エリオは迷わず言った。


 大きな仕組みは変えない。


 でも、自分の手が届く範囲では動かす。


 それは正しさなのか。

 自己満足なのか。

 仕組みを保つための調整なのか。


 朔にはまだ分からなかった。


 ただ、ユノが治療を受けられる。


 その事実まで疑って、なかったことにする必要はない。


「ありがとうございます」


 朔は言った。


「俺が言うことではないかもしれませんけど」


「いいえ」


 エリオはユノを見る。


「あなたが助けた子なのでしょう」


「少し水を渡しただけです」


「少しをしなかった人もいたはずです」


 市場を通り過ぎた人たち。


 悪い人たちではない。


 止まる余裕がなかっただけかもしれない。


 それでも、止まった者と止まらなかった者の間には、ユノにとっての違いがあった。


***


 ミラはユノを抱き上げた。


 宿の主人が毛布を貸す。


「戻ってきたら返してくれりゃいい」


「必ず返します」


「返せなきゃ、施療所にくれてやれ。どうせ古い」


 主人はそう言いながら、毛布の端を丁寧にユノの肩へ掛けた。


 ミラは出口へ向かう前に、朔の前で止まった。


「サク君」


「はい」


「行ってきます」


 謝罪ではなかった。


 許しを求める言葉でもない。


 今から自分が何をするのかを告げただけ。


 朔は頷く。


「ユノをお願いします」


「はい」


「薬をもらうまで、券を離さないでください」


 ミラは紙を握り直した。


「離しません」


 ユノが母親の肩の上で、少しだけ目を開ける。


「……サク」


 弱い声だった。


 朔は返事をしそうになった。


 声への返事。


 その習慣に体が一瞬だけ止まる。


 だが、これは森ではない。


 目の前にユノがいる。


 母親の腕の中にいる。

 呼吸がある。

 温度がある。


「ここにいます」


 朔は答えた。


 ユノはまた目を閉じた。


 ミラは何も言わず、深く頭を下げる。


 灰色の職員とともに、宿を出ていった。


 扉が閉まる。


 朔はその音を聞いた。


 報告した人が出ていく。


 報告された自分が残っている。


 それでも、どちらか一方だけが正しい形にはならなかった。


***


「では、サク」


 エリオが言った。


「あなたの話をします」


 食堂には宿の主人と巡察官が残っている。


 リオがエリオを見る。


「ここでするんか」


「希望するなら、別室を借ります」


「密室で話したという記録を残したいんか?」


 エリオは少し考えた。


「では、ここで」


 宿の主人が気まずそうに鍋を持ち上げる。


「俺は奥にいる。何も聞いてないことにする」


「聞こえたことまで消さない方がいいですよ」


 朔が言うと、主人は困った顔をした。


「子どもが難しいことを言うな」


「すみません」


「謝られると余計に困る」


 主人は厨房へ戻った。


 完全には聞こえなくならない距離。


 だが、会話に加わらない距離だった。


 エリオは椅子へ座らない。


 朔と同じ高さになるよう、少し離れて膝をついた。


 相手を威圧しないための姿勢。


 そう教えられているのかもしれない。


 自然にそうしたのかもしれない。


「昨夜、未登録殻児の可能性がある子どもについて報告がありました」


「俺です」


「はい」


「可能性なのに、もう殻児と呼ぶんですね」


「報告上の分類です」


「俺の名前ではありません」


「分かっています」


「なら、俺の前では使わないでください」


 巡察官の筆が止まった。


 エリオは朔を見る。


「分かりました」


 抵抗しなかった。


「あなたを、サクと呼びます」


「黒川朔でもあります」


「どちらで呼べば?」


「今はサクで」


「分かりました、サク」


 名前を選べた。


 小さなこと。


 それでも、王都では小さくなかった。


***


「管理局は、あなたの身元と殻との関係を確認したいと考えています」


 エリオが言った。


「保護するために?」


「それも含まれます」


「ほかには」


「周囲へ危険がないか確認するためです」


「俺が危険なら?」


「状態に応じた場所で、治療と経過観察を受けてもらいます」


「そこから出られますか」


 エリオは一瞬、答えなかった。


「状態によります」


「誰が決めるんですか」


「検査担当者と、殻管理局の審査官です」


「俺は?」


「意見は聞かれます」


「決める人には入らない」


「子ども一人に、自分が危険かどうかを決めさせることはできません」


 正しいように聞こえる。


 熱を出した子どもが薬を拒んだ時、大人が飲ませることもある。


 危険な場所へ走ろうとする子を、力で止めることもある。


 だが、それと同じ言葉で、人を閉じ込めることもできる。


「俺が子どもでなければ?」


「専門知識がなければ、同じです」


「専門家なら、自分で決められますか」


「自分自身については、判断が偏る可能性があります」


「では、誰も自分では決められない」


 エリオは黙った。


 制度の言葉を一つずつ辿ると、最後には決める側だけが残る。


 決められる人間。

 決められる人間を決める人間。


 白い塔の上へ続く階段のようだった。


「サク」


 エリオの声が少し変わる。


「あなたが警戒する理由は分かります」


「理由を記録で読みましたか」


「あなたと話したからです」


 朔はエリオを見る。


 嘘には聞こえなかった。


 だが、話したから分かることにも限りがある。


「では、あなたはどう思っていますか」


「何について」


「俺を管理局へ連れていくことです」


「必要だと思っています」


 即答だった。


「役目として?」


「私の判断としてです」


「白い外套の人と同じですね」


「同じ部分はあります」


「違う部分は?」


 エリオは少しだけ眉を寄せた。


「私は、あなたが見たものを無視すべきではないと思っています」


 黒い斑点。


 森の声。


 殻の反応。


「それを調べるためにも、管理局へ来てほしい」


「俺のためではなく、情報のためですか」


「両方です」


「両方と言えば、どちらも正しいことにできます」


「片方だけだと言えば、嘘になります」


 朔は黙った。


 エリオも、簡単な善意だけで自分の判断を塗ろうとはしなかった。


 それはミラの、


 あったと思いたいです。


 という答えに少し似ていた。


***


「断ったら?」


 朔が聞く。


「正式な調査に移ります」


「宿も?」


「報告後に対象者がいなくなれば、事情を確認します」


「リオさんも?」


「同行者ですから」


「ツヅリ村も?」


 エリオの目がわずかに動いた。


「すでに調査対象になっています」


 朔の胸が冷えた。


「いつから」


「殻の黒化が報告された時点からです」


「俺がここへ来たからではない?」


「あなたの移動記録も、調査項目には含まれています」


 答えは単純ではない。


 朔が出たから始まったわけではない。


 だが、朔の行動も記録へ加えられている。


「リーネたちは」


「現時点で、拘束の報告はありません」


「現時点」


「私が確認できた範囲では、です」


 安心させるために断定しない。


 不安を煽るためでもない。


 分からないことを、分からないまま答えた。


 エリオにも、そういう言い方ができる。


「逃げれば、調査が重くなる可能性があります」


「だから来てほしい」


「はい」


「俺が周りに迷惑をかけたくないと思うことを、使っているように聞こえます」


 エリオはすぐには否定しなかった。


「結果として、そうなっています」


「それでも必要だと?」


「はい」


 正しさが、誰かの優しさを利用する。


 エリオはそれを知らないわけではない。


 知っていて、必要だと判断している。


 その方が怖かった。


***


 朔はシオ婆の言葉を思い出した。


 人に問う前に、その人が何に怯えているか見ろ。


 エリオは何を恐れている。


 役目を失うことか。

 順位を下げられることか。

 王都の秩序が崩れることか。


 それだけではない気がした。


「エリオさん」


「はい」


「あなたは、何を怖がっていますか」


 巡察官の筆が止まった。


 リオも黙る。


 エリオの表情はすぐには変わらなかった。


 だが、答えが出るまでの時間が、少し長かった。


「分からないものを、分からないままにして」


 エリオは言う。


「手遅れになることです」


 朔は息を止めた。


 空白。


 分からないことを、勝手な答えで埋めないための印。


 朔が守ろうとしているもの。


 エリオは、その空白を恐れている。


「前に、何かあったんですか」


「あります」


 第二章と同じ答え。


 それ以上は言わない。


 朔も、すぐには聞かなかった。


 答えだけ奪うな。


「誰かを失った?」


「その問いには、今は答えません」


 拒絶ではなかった。


 境界を示した。


「分かりました」


 朔は引いた。


 エリオが少しだけ目を見開く。


 もっと聞かれると思っていたのかもしれない。


「分からないままにすることと、何もしないことは違います」


 朔は言った。


「はい」


「空白を残すことと、見捨てることも違う」


 エリオは静かに朔を見る。


「その空白の間に、人が死ぬことがあります」


「急いで埋めた答えで、人が違うものにされることもあります」


 未登録殻児。

 危険対象。

 保護対象。


 名前が消え、分類だけが残る。


「だから、確かめる必要があります」


 エリオが言う。


「俺も、確かめたいです」


「なら」


「でも、あなたたちに全部決めてもらうためではありません」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 敵と味方の間ではない。


 どちらも何かを失いたくないと思っている。


 ただ、失わないための方法が違う。


***


「条件があります」


 朔は言った。


 巡察官が筆を構える。


 エリオは頷く。


「聞きます」


「リオさんを拘束しないでください」


「現時点で、拘束の予定はありません」


「予定が変わる時は、理由を本人に言ってください」


「私の権限が届く範囲では約束します」


「俺の荷物を、説明なしに取らないでください」


 火種入れ。

 青い布。

 巡礼路の写し。

 小刀。


「危険物の確認は必要です」


「確認する前に、何を見るのか言ってください」


 エリオは考える。


「分かりました。ただし、緊急時には先に隔離する可能性があります」


「その時も、あとで理由を言ってください」


「はい」


「リオさんは、どこまで一緒に来られますか」


「管理局の外郭待合所までです」


 巡察官が口を挟む。


「一般同行者は、対象区画へ入れません」


「俺だけ中へ入るなら、戻る時間を決めてください」


「検査内容によって変わります」


「決められないなら、確認する時間を決めてください」


 エリオが巡察官を見る。


「二刻ごとに、同行者へ状況を伝えることは可能ですか」


「通常手続きにはありません」


「禁止されていますか」


「……禁止はされていません」


「では、記録してください」


 巡察官は少し不満そうに筆を動かした。


 朔はエリオを見る。


「なぜ、そこまで聞くんですか」


「あなたが条件を出したからです」


「全部断ることもできた」


「条件を聞くと言いました」


 役目の言葉かもしれない。


 だが、役目をどう使うかは、今エリオが選んでいる。


「最後に」


 朔は言った。


「俺は保護されるために行くのではありません」


「では、何のためですか」


「人に問うためです」


「誰に」


「まだ決めていません」


「管理局には、多くの人がいます」


「記録ではなく、人を探します」


 エリオの目が少し細くなる。


 意味を理解できなかったのではない。


 理解したから、答えを選んでいるように見えた。


「それを、管理局へ入る理由として認めることはできません」


「俺が認めます」


 エリオは黙った。


 リオの口元が、ほんの少しだけ動いた。


***


 巡察官が記録板を確認する。


「では、未登録殻児一名、保護手続きへの自発同行として――」


「違います」


 朔が止めた。


 巡察官が顔を上げる。


「何がですか」


「自発ではありません」


「ご自身で同行を決められたのでしょう」


「断れば宿とリオさんが調査される。出入り口には職員がいる。その中で選びました」


「それでも、強制連行ではありません」


「強制ではないことと、自発であることは同じですか」


 巡察官の表情が固くなる。


「記録上の区分です」


「その区分で、あとから俺が自分から保護を求めたことになりませんか」


「手続きへの同意を示します」


「全部には同意していません」


 筆が止まる。


 巡察官はエリオを見る。


「レイス様」


 後半が戻った。


 王都殻管理局所属。

 勇者候補第二位。


 職員にとって、エリオは名前だけではない。


 エリオは記録板を見る。


「条件付同行と記してください」


「正式な区分ではありません」


「備考欄はあります」


「しかし」


「事実と異なる簡略化をする必要はありません」


 エリオの声は強くない。


 それでも、巡察官は反論を止めた。


 記録板へ文字が加えられる。


 条件付同行。


 王都の正式な分類ではない言葉。


 だが、今ここで起きたことに、少しだけ近い言葉。


「確認してください」


 エリオが記録板を朔へ向ける。


「読めません」


 朔は言った。


 エリオの手が止まる。


「リオさん」


 朔が呼ぶ。


 リオが記録板を受け取り、読む。


「条件付同行。同行者の拘束予定なし。荷物確認は事前説明。二刻ごとの状況伝達」


「ほかには?」


「保護手続きへの協力……とある」


「そこは」


 エリオが巡察官を見る。


「面談および検査内容の確認、と変更してください」


 巡察官が書き直す。


 朔はその様子を見た。


 自分には読めない記録。


 読めないからこそ、リオに読んでもらう。


 互いの名前を持つことに似ていた。


 一人では守れない。


「これでいいか」


 リオが聞く。


「今は」


 朔は答えた。


 全部に納得したわけではない。


 だが、分からないことを、分かったふりで埋めなかった。


***


 荷物をまとめ、宿を出る。


 宿の主人が扉の前まで来た。


「戻るのか」


 朔は答えに迷った。


「分かりません」


「そうか」


 主人は頭を掻く。


「部屋代は今朝まで払ってある。荷物を残すなら、今日の分から取るぞ」


「全部持っていきます」


「ならいい」


 主人はリオを見る。


「親戚だったんだろ」


「今も親戚や」


「役所で違うことを言うなよ」


「言わん」


 嘘を守るためではない。


 宿の主人を、さらに深く巻き込まないための言葉だった。


 朔は主人へ頭を下げる。


「ありがとうございました」


「礼は戻ってから言え」


 リオが横を見る。


「流行っとるんか、その言い方」


「旅人には便利なんだよ」


 主人は笑った。


 悪い人ではない。


 安全な人とも言い切れない。


 それでも、温かい食事と眠る場所をくれた人だった。


 朔はそのことを、分類せずに持つことにした。


***


 宿の外には、朝の人通りが戻っていた。


 荷車。

 商人。

 門へ向かう家族。

 報奨券を握る人。

 通行許可を待つ人。


 遠くに、ミラとユノの姿が見えた。


 灰色の職員と一緒に、施療門へ向かっている。


 ミラは振り返らない。


 ユノを抱く両手が必要だからだ。


 それでよかった。


 朔も前を見る。


 白い塔。


 昨日より近い。


 エリオが先頭を歩く。


 その少し後ろに朔。


 隣にリオ。


 巡察官は後ろ。


 連れていかれる列にも見える。


 案内される列にも見える。


 どちらか一つではなかった。


「なぜ逃げなかったんですか」


 歩きながら、エリオが聞いた。


「逃げ道がなかったからではありません」


「では」


「走らないと決めました」


「同行することを選んだのでは?」


「同じではありません」


 エリオは歩みを止めず、少しだけ振り返る。


「私には、その違いがまだ分かりません」


「俺も、全部は分かりません」


「それでも違うと言うんですね」


「違うと思ったことを、同じ言葉で書かれたくなかったので」


 エリオは前へ向き直る。


「条件付同行」


「はい」


「正式な区分ではありません」


「今は、記録に残りました」


 エリオは何も答えなかった。


 だが、歩調がほんの少しだけ遅くなった。


 朔とリオが並びやすい速さに。


***


 王都の外門が近づく。


 城壁は高い。


 白い塔ほど滑らかではない。


 石を積んだ跡があり、補修された場所もある。


 人が作った壁に見える。


 それでも、門の奥に白い道が続いている。


 門の上には塔の印。


 兵士。

 記録台。

 通行札を確かめる職員。


 朔は門を見る。


 扉の厚さ。

 蝶番の数。

 左右の小門。

 兵士の位置。

 開閉に使う鎖。


 入る前から、出る道を考える。


 エリオがそれに気づいた。


「逃げ道を見ていますか」


「出口です」


「同じでは?」


「使う理由が違います」


 エリオは少し考えた。


「役目と名前のように?」


 朔は驚いて、エリオを見る。


「どうして」


「先ほどから、あなたが区別しようとしているので」


 エリオも見ている。


 数字だけではなく。


 まだ役目の中からかもしれない。


 それでも、朔の言葉を見ようとしている。


 門前の職員が記録板を上げた。


「対象者名を」


 巡察官が答えようとする。


 朔はその前に口を開いた。


「黒川朔です」


 職員の筆が止まる。


 聞き慣れない形の名前なのかもしれない。


「ツヅリ村では、サクと呼ばれています」


「登録区分は」


「まだ決まっていません」


 職員が眉をひそめる。


 エリオが記録板を差し出す。


「条件付同行です」


「その区分は」


「備考を読んでください」


 エリオは、肩書きを名乗らなかった。


 だが、職員は白い外套と銀輪を見て、それ以上反論しなかった。


 門を開くための鎖が動く。


 金属音。


 重い扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。


 白い塔への道が現れる。


 朔はその先を見る前に、扉の動きを見た。


 鎖の速さ。

 兵士の手順。

 閉じるまでにかかる時間。


 入口としてではない。


 出口として覚えるために。


 門が開ききる。


 エリオが先へ進む。


 リオが隣にいる。


 朔は、自分の足で門を越えた。


 記録には、条件付同行と残る。


 それだけでは、自分の選択のすべては残らない。


 だから、自分で持つ。


 逃げなかったこと。

 従ったわけではないこと。

 条件を言葉にしたこと。

 名前を自分で告げたこと。


 白い塔の街へ入ったのは、未登録殻児ではなかった。


 黒川朔だった。

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