第三章 白い塔の街 ④ 報告する者
シオ婆の店を出たあと、朔とリオは市場へ寄った。
宿へ戻るには、少し早い。
だからではない。
必要なものがあった。
干し肉。
固いパン。
薬草。
火種を包む乾いた灰。
王都の外れでは、物が多かった。
ツヅリ村では、必要なものを村の中で分け合っていた。
道では、持っているものだけで生き延びた。
ここでは、銅貨を出せば多くのものが手に入る。
その代わり、銅貨がなければ目の前にあるものさえ手に入らない。
「薬草、高いですね」
朔が言うと、リオは束を裏返して茎を見る。
「王都に近いほど、薬は高くなる」
「作ってる人も多そうなのに」
「買う人間がもっと多い。病人が多い場所では、薬は病気より先に値上がりする」
「嫌な言い方ですね」
「嫌な仕組みやからな」
リオは薬草を棚へ戻した。
「これは買わん。半分枯れとる」
店主が聞こえるように舌打ちした。
リオは気にしない。
別の店へ向かう。
朔はその背中を追いながら、荷物の内側にある紙片を思い出した。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
自分の名前を、今はリオが持っている。
確認したい。
だが、一日一回と言われたばかりだった。
まだ聞かない。
自分の胸の中にもある。
今は、それで歩く。
***
市場の端に、小さな人だかりができていた。
売り物を囲んでいる様子ではない。
地面に、子どもが座り込んでいる。
年は朔の今の身体より少し幼い。
女の子だった。
母親らしい若い女が、その背を支えている。
「ユノ。もう少しだけ歩ける?」
女が聞く。
少女は首を横に振った。
顔が赤い。
息も少し速い。
母親は周囲へ何度も頭を下げている。
「すみません。少し休ませてください。すぐ動きますから」
通行人は避けて歩く。
何人かは気の毒そうに見る。
何人かは迷惑そうに見る。
誰も足を止めない。
リオも一度は通り過ぎかけた。
朔は少女を見た。
呼吸。
顔色。
唇。
看護師でも医者でもない。
だが、介護の現場で、体調を崩した人間を何度も見てきた。
「水は飲めていますか」
朔は母親に聞いた。
女は驚いて顔を上げた。
「少しだけ」
「吐いていますか」
「朝に一度。でも、それからは」
「日陰へ移した方がいいです。ここ、光が当たっています」
母親は戸惑った。
子どもに指示されたからかもしれない。
リオが朔の隣に立つ。
「向こうの布屋の陰が空いとる」
女は何度も頷いた。
「ありがとうございます」
リオが荷物を持ち、母親が少女を抱える。
朔は少女の足元に落ちた小さな布包みを拾った。
薬だった。
中身はほとんど残っていない。
「それ、昨日の分で最後なんです」
女が言った。
「王都の施療所へ行けば、薬を出してもらえると聞いて」
「門の中へ?」
リオが聞く。
「はい。でも、通行許可がなくて。申請には三日かかると言われました」
「子どもが熱を出してるのに?」
朔が聞く。
女は困ったように笑った。
「王都には、病気の人が多いから」
怒っていない。
諦めているようにも見えない。
ただ、そういうものだと受け入れようとしている顔だった。
リオは少女の額へ手を近づけた。
触らずに熱を確かめる。
「名前は」
朔が聞いた。
女が一瞬、警戒する。
名前を聞かれること自体が、王都では怖いのかもしれない。
「この子は、ユノ」
それでも答えた。
「私は、ミラです」
「俺はサクです」
朔は言った。
黒川朔までは渡さなかった。
今、必要な呼び方だけ。
「親戚のリオです」
リオが付け加える。
「まだそれで行くんですか」
「今変えたら怪しいやろ」
ミラが、ほんの少しだけ笑った。
疲れた笑いだった。
***
リオが買わなかった薬草の代わりに、別の店で安い解熱用の葉を見つけた。
品質は高くない。
だが、何もないよりはいいという。
リオは店主と値段を交渉した。
長かった。
店主が怒り、リオが帰るふりをし、店主が呼び止め、最後には最初の半値近くになった。
「すごいですね」
朔が言うと、リオは薬草をミラへ渡した。
「褒めるなら銅貨で褒めろ」
ミラは慌てて自分の小袋を開けた。
中には銅貨が数枚しかない。
「これでは足りません」
「足りとる」
「でも」
「枯れかけの葉を高く売りつけられた。腹が立ったから買っただけや」
明らかな嘘だった。
ミラにも分かったらしい。
それでも、拒めなかった。
「必ず返します」
「王都を出る時に余っとったらな」
リオは言った。
返す場所も、再び会える保証もない。
だからこそ、返せとは言わなかった。
朔はユノの隣に座る。
「少しずつ飲んで」
水袋を傾ける。
ユノは一口だけ飲んだ。
「ありがとう」
小さな声。
声は弱い。
でも、本人の声だった。
母親の手が、その背にある。
朔はその手を見た。
声より手。
本物は温度。
ミラの手は、子どもの背を離さなかった。
***
ミラとユノは、朔たちと同じ宿に泊まっていた。
偶然だった。
市場で別れ、夕方に宿へ戻ると、食堂の隅に二人がいた。
ユノは長椅子に横になっている。
朝より少し呼吸が落ち着いているように見えた。
「薬、効いたみたいです」
ミラが言った。
「よかったです」
朔は答えた。
「明日、もう一度門へ行きます。通行許可がなくても、事情を話せば」
言いながら、ミラ自身も確信していないようだった。
宿の主人が鍋を運びながら口を挟む。
「無理だと思うぞ。今は黒化騒ぎで検査が厳しい。病人は別の入り口へ回される」
「別の入り口?」
「施療門だ。申請札が必要になる」
「申請札は、どこで」
「役所」
「役所へ入る許可は」
「門で取る」
ミラは黙った。
円になっている。
門へ入るために札がいる。
札を取るために門へ入らなければならない。
誰かの紹介か、金があれば違うのかもしれない。
それがない人間は、外で待つ。
「何か方法は」
朔が聞くと、宿の主人は周囲を見た。
少し声を落とす。
「報奨券があれば、臨時の通行許可と交換できる」
「報奨券?」
ミラが顔を上げる。
「役所への協力で出る券だ。盗品の通報とか、禁書の報告とか」
主人は一瞬、言葉を止めた。
それから、壁の掲示を見る。
「未登録殻児の通報でも出る」
朔の匙が止まった。
ミラも動かなかった。
宿の主人は、すぐに付け加える。
「まあ、そう都合よく見つかるもんでもない。見分けもつかんしな」
笑おうとした。
だが、笑いにはならなかった。
朔はミラを見なかった。
見れば、相手にも見られていることが分かる。
未登録の子ども。
王都の札を持っていない。
北から来た。
子どもらしくない。
条件は揃っている。
リオが静かに食事を続けている。
何も言わない。
だが、足の位置が少し変わっていた。
すぐ立てる位置。
朔は匙を置いた。
「部屋へ戻ります」
リオが頷く。
「ああ」
「サク君」
ミラの声がした。
朔は振り返る。
ミラは何かを言いかけて、やめた。
「今日は、本当にありがとう」
「はい」
朔はそれだけ答えた。
ユノの眠る顔を一度だけ見た。
それから、二階へ上がった。
***
部屋へ入ると、リオはすぐに窓を確認した。
朔も扉を見る。
「出ますか」
朔が聞く。
「まだや」
「でも」
「まだ何も起きとらん」
「起きてからでは遅いかもしれない」
「起きる前に走れば、起こしてないもんまで起こすことがある」
リオは荷物をまとめ始めている。
言葉とは裏腹に、準備はしていた。
水。
紙片。
薬草。
火種。
「窓から出られる」
朔が言う。
「ああ」
「裏の水場を抜ければ、街道へ」
「兵の詰所が近い」
「反対側は」
「市場や。夜でも人がおる」
「じゃあ」
「逃げ道はある。使うかどうかは別や」
リオは朔を見る。
「逃げれば、この宿が調査対象になる」
掲示の文面。
未登録殻児を隠匿した者。
周辺区域を含め調査対象とする。
宿の主人。
泊まっている客。
ミラ。
ユノ。
「ここにいれば?」
「迎えが来るかもしれん」
「どっちが正しいですか」
「知らん」
即答だった。
「でも、決めないと」
「正しさで選ぼうとするな。今、何を守るかで選べ」
ミナトの声と似ている。
だが、同じではない。
ミナトは村を知っていた。
人の名前を知っていた。
ここにいる人々を、朔はほとんど知らない。
それでも、ミラとユノの名前は知っている。
知ってしまった。
拾った名前。
「名前、ありますか」
朔は聞いた。
リオは一瞬、何のことか分からない顔をした。
それから、自分の荷物の内側に手を当てる。
「ある」
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
自分の名を、リオが持っている。
朔は息を吸った。
「今は、待ちます」
「ええんやな」
「よくないです」
「そうやな」
「でも、今すぐ逃げたら、ユノが施療所へ行けなくなるかもしれない」
「通報されたと決まったわけやない」
「はい」
「ミラが報告するとも決まっとらん」
「はい」
都合よく読むな。
恐怖もまた、願いと同じように解釈を歪める。
朔は窓から離れた。
「待ちます」
もう一度言った。
***
夜半。
扉が三度、叩かれた。
強くはない。
規則正しい音。
リオはすでに起きていた。
朔も目を開ける。
眠ってはいなかった。
「行商のリオさん」
扉の外から男の声。
「王都外郭巡察所です。確認したい事項があります」
丁寧な声。
怒鳴らない。
壊そうともしない。
ただ、そこにいることを知っている声。
リオは朔を見る。
窓。
扉。
水桶。
荷物。
視線だけで確認する。
朔は首を横に振った。
今は走らない。
リオが扉を開ける。
外には、灰色の制服を着た男が二人立っていた。
兵士ではない。
腰に武器はあるが、手はかけていない。
一人が板を持っている。
記録する者。
「夜分に失礼します」
男が言った。
「未登録殻児に関する報告がありました」
朔の胸が冷える。
「報告?」
リオが問い返す。
「確認です。断定ではありません」
正しい言い方。
逃げ道を残しているようで、実際には狭める言葉。
「その子のお名前は」
男が朔を見る。
朔は答える。
「サクです」
「家名は?」
「今は、それだけです」
男の眉が少しだけ動く。
だが、怒らない。
板へ記す。
「王都登録札はお持ちですか」
「ありません」
「出生を示す証文は」
「ありません」
「保護者との血縁を示すものは」
リオが口を開く。
「旅の途中で失くした」
「どこで?」
「北の道や」
「具体的な地点は」
「覚えとらん」
質問が続く。
一つずつ。
答えるたびに、周囲が狭くなる。
「サクさん」
巡察官が言った。
「あなたを罰するために来たのではありません」
「はい」
「身元が確認できない子どもの安全を確保するためです」
「はい」
「明朝、殻管理局の担当者が伺います。それまで、宿から出ないでください」
「命令ですか」
巡察官は少し困った顔をした。
「お願いです」
「断ったら?」
「宿および同行者を含め、正式な調査手続きへ移ります」
お願い。
断れば調査。
朔は黙った。
「逃走防止ではありませんが、宿の出入り口には職員を置きます」
巡察官は続ける。
「皆さんの安全のためです」
皆さん。
誰を指しているのか分からない。
宿の客。
王都の人々。
朔。
あるいは、制度そのもの。
「明朝の担当者は?」
リオが聞いた。
巡察官は手元の板を確認する。
「勇者候補エリオ・レイス様が同行されます」
エリオ。
その名前が、白い塔の影と一緒に部屋へ入ってきた。
「それでは、夜分に失礼しました」
巡察官たちは頭を下げる。
丁寧に。
扉が閉まった。
廊下に足音が残る。
階段を下りる。
それから、宿の入り口付近で止まった。
本当に、見張るためではないのかもしれない。
ただ、出入りを確認するだけ。
その違いに、どれほど意味があるのかは分からなかった。
***
朔は扉の前に立っていた。
怒りがあった。
恐怖もある。
誰が報告した。
宿の主人か。
市場の男か。
古紙通りで見た誰かか。
白い小鳥か。
あるいは。
階段の下で、子どもの咳が聞こえた。
ユノ。
朔は目を閉じる。
決めるな。
都合よく読むな。
だが、少しして、扉の向こうで別の足音がした。
軽い。
迷っている足音。
扉は叩かれなかった。
ただ、向こうに誰かがいる。
「ミラさん」
朔は呼んだ。
足音が止まる。
リオが朔を見る。
朔は扉を開けた。
廊下に、ミラが立っていた。
顔が青い。
手に、一枚の紙を握っている。
報奨券。
塔の印が押されている。
「私です」
ミラが言った。
声が震えていた。
「私が、報告しました」
朔は何も言えなかった。
「ごめんなさい」
ミラは紙を握りしめる。
「でも、ユノを施療所へ連れていける。これがあれば、明日の朝、門を通してもらえるんです」
報奨券。
通行許可。
薬。
ユノの熱。
全部が一枚の紙に繋がっている。
「あなたが悪い子だとは思っていません」
ミラは続けた。
「だから、王都なら助けてくれると思ったんです。殻管理局なら、あなたが何者か調べて、守ってくれるって」
悪いと思っていない。
だから報告した。
その言葉が、胸に刺さる。
悪意なら、怒れた。
金だけが目当てなら、軽蔑できた。
だが、ミラはユノの背を支えていた。
市場で、ずっと手を離さなかった。
その手を、朔は見ている。
「何が怖かったんですか」
朔は聞いた。
責める言葉ではなく。
シオ婆の教えを思い出す。
人に問う前に、その人が何に怯えているか見ろ。
ミラは唇を噛んだ。
「ユノが、このまま熱で死ぬこと」
すぐに答えた。
「門の前で、また三日待てと言われること。薬を買えなくなること。宿が調査対象になって、追い出されること」
全部、恐怖だった。
朔を嫌っているからではない。
ユノを失いたくないから。
「それから」
ミラの目に涙が浮かぶ。
「あなたが、本当に危ないものだったらどうしようって」
朔の胸が少し冷える。
「でも、今日助けてもらった」
ミラは言う。
「だから余計に、分からなくなったんです」
親切な子ども。
未登録殻児。
同じ人間を、二つの呼び方が引っ張っている。
ミラはその間で、ユノを選んだ。
朔には、それを責めきれなかった。
許せるとも思えなかった。
「ユノを助けたかったんですね」
「はい」
「俺を助けるつもりも、少しはあった?」
ミラはすぐには答えなかった。
「……あったと思いたいです」
正直な答えだった。
自分の行動を、善意だけで塗らなかった。
朔はその言葉を胸に置いた。
「分かりました」
「許してくれるんですか」
「分かることと、許すことは違います」
シオ婆なら、そう言う気がした。
ミラは涙を拭わなかった。
「はい」
それだけ答えた。
「あなたの名前、覚えておきます」
朔は言った。
ミラが怯えたように顔を上げる。
復讐の言葉に聞こえたのかもしれない。
「ミラ。ユノのお母さん」
朔は続ける。
「俺を報告した人。それだけにはしません」
ミラの顔が歪んだ。
「でも、報告したことも、なかったことにはしません」
「……はい」
ミラは深く頭を下げた。
それから、ユノのいる部屋へ戻っていった。
手には報奨券。
あの一枚が、明日ユノを施療所へ通す。
同じ一枚が、朔を殻管理局へ近づけた。
守るための紙。
捕まえるための証拠。
シオ婆が言った通りだった。
同じ紙が、どちらにもなる。
***
部屋へ戻ると、リオが窓際に立っていた。
「逃げるなら、今が最後に近い」
朔は窓を見る。
外は暗い。
水場のそばに、灰色の制服が一人立っている。
見張りではない。
出入りを確認する職員。
「逃げたら、ミラさんの報奨券は?」
「取り消されるかもしれん」
「宿は?」
「調査対象になるやろうな」
「リオさんは」
「逃亡を手伝った行商人や」
「残れば?」
「朝、エリオが来る」
朔は青い布を握った。
エリオ。
敵ではない。
味方とも言い切れない。
自分を助けたいと言いながら、管理局へ連れていこうとする人。
白い札を差し出した人。
「俺の名前は」
「ある」
リオは荷物に手を当てる。
もう聞いた。
一日一回の約束なら、今日は二回目だった。
だが、リオは確認料を求めなかった。
「逃げません」
朔は言った。
「捕まるつもりか」
「違います」
「なら?」
「明日、人に問います」
「エリオに?」
「はい」
エリオが何を恐れているのか。
何を失ったのか。
なぜ役目を自分の名前の後ろにつけるのか。
まだ、答えは奪わない。
でも、問う。
「それで連れていかれたら」
「出る道を覚えます」
リオは朔を見た。
しばらくして、小さく息を吐く。
「分かった」
「止めないんですか」
「止めてほしい顔しとるか」
朔は少しだけ考えた。
「分かりません」
「なら、今はそれでええ」
リオは敷物に座る。
朔も火種入れを抱えるようにして座った。
宿の外に、巡察所の職員がいる。
白い塔は、夜の中でも消えない。
明日の朝、エリオが来る。
逃げ道はある。
だが、今は使わない。
それは諦めではない。
逃げないことと、従うことは違う。
朔は胸の中で名前を呼んだ。
黒川朔。
サク。
ハル。
ミナト。
リーネ。
トウマ。
ユイ。
エリオ。
リオ。
そして。
ミラ。
ユノ。
報告した者。
報告された者。
薬を必要とする子。
一つの言葉だけで、誰かを決めないために。
廊下の向こうで、ユノが小さく咳をした。
朔はその音へ返事をしなかった。
ただ、朝まで消えないように、布袋の中の火種を確かめた。




