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第三章 白い塔の街 ③ 名前の写し


 シオ婆の店を出た後も、朔はすぐには宿へ戻らなかった。


 古紙通りを歩きながら、何度も同じ言葉を考えていた。


 次に来る時は、聞きたい名を一つに絞れ。


 ハル。


 最初に浮かぶのは、やはりその名前だった。


 どこにいるのか。

 生きているのか。

 あの温度は本物だったのか。

 巡礼路の中継点で聞いた呼吸は、ハルのものだったのか。


 聞きたい。


 誰より先に。


 だが、シオ婆は言った。


 名を束で持ってくるな。

 紙も人も破れる。


「難しい顔やな」


 隣を歩くリオが言った。


「顔は最後でいいらしいですよ」


「もう婆さんの方を採用したんか」


「手と靴と肩も見てます」


「面倒な子どもになったな」


 朔は答えず、通りの端へ目を向けた。


 古い家系図を広げる男。

 破れた証文を値切る女。

 紙束を背負って歩く子ども。


 どの紙にも、誰かの名前があるのかもしれない。


 だが、全部を拾うことはできない。


「リオさんなら、誰の名前を選びますか」


「俺が選んでも意味ないやろ」


「参考です」


「参考という名で責任を渡すな」


 すぐに返された。


 朔は黙る。


 リオはしばらく歩いてから、続けた。


「誰が一番大事かを決めろと言われたわけやない」


 朔は顔を上げた。


「今、何を問うか決めろと言われたんや」


 一番大事な名前。


 今、問うべき名前。


 同じではない。


 朔は腰の青い布に触れた。


 ハルのことを聞きたい。


 それは変わらない。


 だが、ハルについて都合よく読まないために、先に知らなければならないものがあるのかもしれない。


 ツヅリ村。


 火守り村。


 名を聞き、名を残し、次の殻へ送る村。


 ミナトも、リーネも、自分たちの村がかつて何だったのか知らなかった。


 それでも火を守った。


 それでも名前を呼んだ。


「決めました」


 朔は言った。


「早いな」


「ツヅリです」


 リオは少しだけ目を細めた。


「ハルやないんやな」


「ハルを聞くためです」


 口にすると、自分でも少しだけ分かった。


「ツヅリが何をしていた村なのか。巡礼者がどうやって殻を眠らせたのか。それを知らないままハルの痕跡だけ追ったら、俺はまた、戻せと書いてあるように読むと思います」


 リオはすぐには答えなかった。


 やがて、前を向いたまま言う。


「なら、その名前を落とすなよ」


「はい」


***


 翌朝、二人は再び古紙通りへ向かった。


 昨日より、人が少なかった。


 店先の紙束には布が掛けられ、いくつかの店は扉を半分閉めている。


「休みですか」


「違うな」


 リオが周囲を見回す。


「巡察の日や」


「巡察?」


「古紙の出所を役人が調べる。盗まれた証文や、禁止された祈祷書がないかを見るんや」


 昨日、シオ婆の店で鳴った鐘を思い出す。


「昨日の鐘は」


「巡察が始まる合図やったんやろうな」


 だから、長居するなと言った。


 答えを途中で切ったのではない。


 話を続ければ、自分たちだけでなく、シオ婆の店まで危険になると判断したのだ。


 相手の恐れごと問え。


 朔は昨日の言葉を思い出した。


 問いに答えない者が、何かを隠しているとは限らない。


 答えれば危険になることもある。


「今日は大丈夫なんですか」


「巡察の次の日は、役人も同じ店に来たがらん」


「なぜですか」


「昨日見たから、今日も見る必要はない。記録にはそう書ける」


 リオの言葉に、朔は白い塔を見上げそうになった。


 見すぎない。


 代わりに、シオ婆の店の看板を見る。


 塩写し。


 扉は閉まっていた。


 リオが三度、間を置いて叩く。


 中から、しゃがれた声がした。


「紙を売る音ではないな」


「昨日の行商人です」


「知っとる。昨日より靴が慎重や」


 扉が少しだけ開いた。


 シオ婆の細い目が、隙間から二人を見る。


「名は絞ったか」


「はい」


 朔は答えた。


「ツヅリです」


 シオ婆の目が、わずかに動いた。


「入れ」


***


 店の奥は、昨日より暗かった。


 小さな光石にも布が二重に掛けられている。


 入り口近くの紙束はいくつか位置が変わっていた。


 巡察で動かされたのかもしれない。


 あるいは、見せるための紙と、見せないための紙を入れ替えたのか。


 朔は聞かなかった。


 答えだけ奪うな。


「昨日の鐘は、巡察の鐘だったんですね」


 代わりにそう言うと、シオ婆は一瞬だけ朔を見る。


「リオに聞いたか」


「はい」


「なら、わしが答える必要はない」


 冷たい返しだった。


 だが、昨日より少しだけ遠ざけられていないようにも感じた。


 シオ婆は奥の机へ向かう。


 昨日、手を置いただけで開けなかった小箱がそこにあった。


「ツヅリを問うた理由は」


「ハルを探す前に、ツヅリが何をしていた村なのか知りたいからです」


「村を知れば、子どもが見つかるのか」


「分かりません」


「なら、なぜ先に村を問う」


「自分の願いだけで、見つけたものを読まないためです」


 朔は答えた。


「ハルが残っていると思いたい。でも、それだけで追ったら、罠でもハルだと思うかもしれない」


 シオ婆は鍵を取り出した。


「少しは頭を使ったようやな」


 鍵が回る。


 小さな音だった。


 だが、箱が開く音は、店に積まれた紙全部へ伝わったように感じた。


***


 箱の中には、薄い紙束が何冊か入っていた。


 表紙はない。


 糸で綴じられ、端が擦り切れている。


 シオ婆は一冊を取り出した。


 直接、机には置かない。


 白くない布を敷き、その上へ載せる。


「これは原本ではない」


「写しですか」


「名写しや」


 章の題のように、その言葉が朔の中へ残った。


「名前の写し?」


「出立する者の名と役目を、村へ残した写し。巡礼者が持つ分とは別に、出た場所へ一つ置いた」


「なぜ二つ?」


「片方が消えても、もう片方が残るようにや」


 シオ婆は紙を開く。


 古い文字が並んでいる。


 一行ずつ。


 名前。

 その横に、短い言葉。

 さらに、小さな印。


 リオが身を乗り出しかけ、シオ婆に棒で手を叩かれた。


「近い」


「触っとらんやろ」


「息が触る」


 リオが不満そうに一歩下がった。


 朔も距離を取る。


「読めますか」


「読めるところはな」


 シオ婆は最初の一行を指した。


「ナギ。火守り」


 次の行。


「ヨハ。名持ち」


 さらに次。


「シグ。手引き」


 次。


「マレイ。眠り番」


 最後に、少し小さな字。


「ルカ。殻渡り」


 朔はその言葉を一つずつ胸に置く。


「順位ですか」


「目が腐っとるのか」


 即座に返された。


「上から一位、二位ではない。書きやすい順に並べただけや」


 エリオを思い出す。


 勇者候補第二位。


 適合率。

 成功率。

 任務達成数。


 だが、ここには数字がない。


「役目なんですね」


「そうや」


「火守りは、火を持つ人」


「火を守る。火を分ける。帰る道を残す」


「名持ちは?」


「皆の名を覚える。書く。呼ぶ。ただし、自分の名だけを持つ者ではない」


 シオ婆は紙を一枚めくった。


 裏に、別の名前が書かれている。


「昔の名持ちは、自分の名を自分で持たなかった」


「どういう意味ですか」


「互いに持った」


 シオ婆はナギの名を指す。


「ナギの名はヨハが持つ。ヨハの名はシグが持つ。シグの名はマレイが持つ」


「なぜ?」


「自分の名を忘れた時、自分では呼べんからや」


 朔の背中が冷える。


 名を食う殻。


 自分が黒川朔だと忘れたら。


 サクと呼ばれていたことを忘れたら。


 胸の中で名前を繰り返すことさえできなくなったら。


「だから、他の人が呼ぶ」


「そうや」


 リーネ。


 トウマ。


 ダン。


 ツヅリ村の人たち。


 自分が村を離れても、サクという名前を知る人が残っている。


 それは思っていたより重要なことなのかもしれない。


「一人で名前を持っていればいいわけじゃない」


 朔が呟くと、シオ婆は鼻を鳴らした。


「名前は荷物やない。抱え込めば守れると思うな」


 名前を持って行きなさい。


 リーネの言葉が、少し違う形に広がる。


 自分が持つ。


 誰かにも持ってもらう。


 そして、自分も誰かの名前を持つ。


***


「手引きは?」


 朔が聞いた。


 シオ婆はシグの横の手の印を指した。


「声が信用できん場所で、手を繋ぐ者」


 朔は息を止めた。


「道を覚え、歩く順を決める。声に呼ばれた者を、手で確かめる。誰かが止まれば、置いていくか、連れていくかを決める」


 ハル。


 火皿を持ち、子どもたちを前へ出した。


 転んだ子を見た。


 トウマの手を離すなと叫んだ。


 森の中から朔の声を聞いても、行かなかった。


 本物は、手で確かめる。


「ハルは……」


 言葉が漏れた。


 シオ婆が朔を見る。


「昨日の子か」


「はい」


「手引きだったと思うか」


 朔はすぐには頷かなかった。


 ハルが古い役割に選ばれていた。


 運命だった。


 そう考えれば、彼の選択に意味を与えられるかもしれない。


 だが、それは違う。


「似たことをしました」


 朔は言った。


「でも、役目を知っていたわけじゃない。誰かに決められたわけでもない」


「なら、それでええ」


 シオ婆は淡々と言う。


「古い名簿と同じことをしたから、特別な子だったわけではない」


 朔の胸に、少し痛みが走る。


「その場で必要なことを、自分で選んだ。昔の人間が、それに後から名前をつけただけや」


 ハルは手引きだったから子どもを守ったのではない。


 子どもを守ると選んだ行動を、昔の誰かなら手引きと呼んだ。


 役目がハルを作ったのではない。


 ハルが役目を選んだ。


 それが、朔には大切な違いに思えた。


***


「眠り番は?」


 朔は聞いた。


 声が少し硬くなった。


 眠り。


 ORPHES。


 ディープスリープ。


 殻を眠らせる。


 シオ婆は朔の反応を見たが、何も指摘しなかった。


「眠った者を見る」


「殻を眠らせる役ではなく?」


「両方やったという写しもある。だが、同じとは限らん」


 シオ婆は別の頁を開く。


「殻渡りが殻へ近づいた時、眠り番は外に残った。呼吸を見る。名を呼びすぎない。自分から起きるまで待つ」


「起こさないんですか」


「声で無理に起こせば、別のものが返ることがある」


 自分自身の声。


 お前は、まだいる。

 戻ってこい。


 朔は腕に鳥肌が立つのを感じた。


「でも、戻らなかったら」


「待つ時間を決める」


「誰が?」


「全員でや」


 シオ婆は言った。


「眠り番だけに決めさせん。名持ちも、火守りも、手引きも決める」


「全員で」


「一人に正しさを背負わせれば、間違った時に全員が壊れる」


 ミナトを思い出す。


 冷たい順番。


 誰から守るか。


 だが、ミナトは一人で決めていたのではない。


 最後は自分が背負った。


 それでも、村人に怖いと言わせた。


 役目は分担。


 責任も分担。


 王都の順位とは違う。


 勇者一人に全部を託す仕組みでもない。


「殻渡りは、勇者ですか」


 朔は聞いた。


 シオ婆は顔をしかめた。


「この名簿に勇者という欄はない」


 短い言葉だった。


 しかし、エリオの白い外套が頭に浮かんだ。


「殻へ近づける者が、一番上では?」


「上も下もない」


「でも、一番危険な役ですよね」


「火が消えれば帰れん。名が消えれば誰か分からん。手が離れれば声に連れていかれる。眠り番が誤れば、帰ったものが本人か分からん」


 シオ婆は、役目の横に並ぶ印を一つずつ叩く。


「どれが欠けても終わる」


 朔は何も言えなかった。


 一人の強さでは成立しない。


 勇者の順位でも成立しない。


 互いの弱さを、別の誰かの役目で補う。


 それが古い巡礼だった。


***


 シオ婆は、さらに数頁をめくった。


 同じ名前が、何度か現れる。


 だが、役目が違っている。


「ナギ。次の巡礼では名持ち」


 シオ婆が読む。


「ヨハは手引き。シグは火守り」


「役目が変わってる」


「人は変わる。傷も増える。得意なことも、怖いものも変わる」


 さらに次の頁。


「マレイは、眠り番から外れとる」


「なぜ?」


「欄外に『声を聞いた』とある」


 朔は紙を見つめた。


「声を聞いたら、役目を外されるんですか」


「罰ではない」


 シオ婆の声が少し強くなる。


「休ませた」


 朔は顔を上げた。


「一度声を聞いた者に、眠る者を見張らせれば、どちらの声か分からなくなるかもしれん。だから別の役へ移した」


「使えないから外したんじゃない」


「使えないという言葉を、簡単に人へ貼るな」


 三門社長の声が、一瞬だけ蘇る。


 使える人材。

 使えない人材。

 数字を出す者。

 切られる者。


 エリオの順位。


 王都の適合率。


 古い名簿は、人を役目へ閉じ込めていない。


 役目の方を、人に合わせて動かしている。


「役目は、人を閉じ込めるための名ではない」


 シオ婆が言った。


「生きて帰るために、互いの場所を忘れんための印や」


 朔はその言葉を、胸の奥へゆっくり置いた。


 ハルの役目。


 ミナトの役目。


 リーネの役目。


 リオの役目。


 自分の役目。


 役目は、誰かに与えられたまま動けなくなるためのものではない。


 必要なら変わる。


 怖ければ外れる。


 誰かが代わる。


 戻ってくるために。


***


「ツヅリの名簿はありますか」


 朔が聞いた。


 シオ婆は紙束を閉じた。


「完全なものはない」


「少しでも」


「昨日言ったやろ。読めることと、分かることは違う」


「はい」


「それでも見るか」


「見ます」


 シオ婆は別の薄い束を取り出した。


 端が焼けている。


 文字の半分近くが失われている。


 表題らしき場所に、ツヅリと読める字があった。


 リオが小さく息を吐く。


「本当に残ってたんやな」


「残ったものを集めた写しや。原本はない」


 シオ婆が読む。


「ツヅリ。火守り場。巡礼者の名を聞き、火を分け、帰らぬ者の名を三度残す」


「三度?」


「村に一つ。道に一つ。同行者に一つ」


 名前を一か所へ集めない。


 一つが失われても、別の場所に残るように。


「帰らぬ者は?」


「消さない」


 シオ婆は即答した。


「死が確かなら、死んだと記す。分からんなら、空白のまま残す」


 朔の胸が鳴った。


「空白」


「生とも死とも書かん。名だけ残す」


 ハル。


 死んだとは言うな。

 まだ、言うな。


 ミナトの声。


 村人たちはハルの死を告げなかった。


 粥を一つ置いた。


 あれもまた、空白を残す行為だったのかもしれない。


「空白は、忘れたという意味ではないんですね」


「逆や」


 シオ婆は言った。


「分からんことを、勝手な答えで埋めんための印や」


 朔は目を閉じそうになり、やめた。


 ハルの名前を、生きていると埋めない。


 死んでいるとも埋めない。


 空白のまま持つ。


 それは何も決めないことではない。


 分からないという形を、壊さずに残すことだった。


***


 名簿の最後に、文字のない欄があった。


 罫線だけ。


 名前も、役目もない。


 朔はそこを見た。


「これは?」


「次に出る者のための欄やったんやろ」


「誰も書かなかった?」


「書く前に名簿が使われなくなったのかもしれん。

 書いた字が消えたのかもしれん。

 最初から空けてあったのかもしれん」


 分からない。


 シオ婆は埋めなかった。


 朔も、何かを当てはめようとしなかった。


 シオ婆が細い紙片を一枚取り出す。


 新しい紙ではない。


 古い帳簿の余白を切ったもの。


「名前を言え」


 朔は顔を上げた。


「誰のですか」


「お前のや」


 少し迷う。


 サク。


 黒川朔。


 どちらかではない。


「黒川朔」


 朔は言った。


「ツヅリ村では、サクと呼ばれています」


 シオ婆は、古い文字で紙片へ書く。


 朔には読めない。


「二つ書いたんですか」


「一つの名と、呼ばれ方や」


「役目は?」


「書かん」


 シオ婆は紙片をリオへ差し出した。


 朔ではなく。


 リオが眉を上げる。


「俺が持つんか」


「自分の名を自分だけで持つなと言ったばかりやろ」


 リオは紙片を受け取った。


 軽い紙。


 だが、受け取る手は少しだけ慎重だった。


「失くしたら?」


 朔が聞く。


「高くつける」


 リオはいつもの調子で言った。


 シオ婆が鼻を鳴らす。


「金で済むと思うな」


「分かっとる」


 リオは紙片を、自分の荷物の内側へ入れた。


 火や水から離れた場所。


 取り出しにくく、落としにくい場所。


 朔はその動きを見ていた。


 自分の名前が、自分の手を離れた。


 それなのに、奪われたとは感じなかった。


 預けた。


 初めて、その違いが分かった気がした。


「では、リオさんの名前は俺が」


「いらん」


「不公平です」


「俺の名前は商売相手が山ほど覚えとる」


「借金取りもな」


 シオ婆が言った。


「それは別の意味で消えませんね」


 朔が言うと、リオは嫌そうに顔をしかめた。


「次は他の冗談を覚えろ」


 三人の間に、ほんの短い笑いが落ちた。


 紙の山の中で、その音はすぐに吸われた。


 だが、消えたわけではない。


***


 店を出る前、朔はシオ婆に聞いた。


「俺の役目は、何だと思いますか」


 シオ婆は紙束を片づけながら答えた。


「知らん」


「少しくらい」


「今決めてどうする」


「歩きやすくなるかもしれません」


「歩きやすい役目は、だいたい人を閉じ込める」


 シオ婆は朔を見る。


「お前は火を持っとる。名も持っとる。手を探し、眠りを怖がっとる」


 朔は言葉を失う。


「どれか一つにして安心したいなら、王都へ行け。あそこはすぐに分類してくれる」


「それは嫌です」


「なら、決めるな」


 シオ婆は言った。


「必要な時に、必要な場所へ立て。終わったら動け」


 それは、役目を持たないという意味ではない。


 一つの役目だけで、自分を決めないということだった。


「エリオは」


 名前が口から出た。


 シオ婆の目が細くなる。


「次に聞く名か」


「違います。今は聞きません」


「なら、軽く出すな」


「はい」


 朔は口を閉じた。


 聞きたい名を一つに絞る。


 その名前を持つ人間の恐れごと問う。


 まだ、できていない。


 それでも、少しずつ覚えるしかない。


「今日はもう行け」


 シオ婆が言った。


「次は?」


「名を選んでから来い」


 昨日と同じ言葉。


 だが、意味は少し変わっていた。


***


 古紙通りを離れる途中、朔は何度かリオの荷物へ目を向けた。


「何や」


「名前、ありますか」


「十分前に入れた紙が、もう消えるか」


「確認です」


「ある」


 短い答え。


 それだけで、少し安心する。


「何度も聞くなよ」


「何度までなら」


「一日一回」


「少ないです」


「確認料を取るぞ」


 リオは歩き続ける。


 朔も隣を歩く。


 自分の名前は、自分の胸の中にある。


 同時に、リオの荷物の中にもある。


 ツヅリ村にも、サクと呼ぶ人がいる。


 一つではない。


 だからといって、安全ではない。


 紙は燃える。

 人は忘れる。

 村は壊れる。


 それでも、一つよりは残る。


 王都の白い塔が、建物の向こうに見えた。


 あの塔には、名前を分類する記録がある。


 シオ婆の店には、名前を忘れないための写しがある。


 同じ文字でも、目的が違う。


 同じ役目でも、持たせ方が違う。


 朔は胸の中で、ハルの名前を呼んだ。


 まだ、生とも死とも書かない。


 空白のまま持つ。


 それは諦めではない。


 願いで埋めないための形だった。


 白い塔の下を、人々が歩いている。


 朔も、その一人として歩いた。


 役目は、まだ決めなかった。


 ただ、必要な時に必要な場所へ立てるように。


 そして、そこからもう一度動けるように。

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