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第十二章 帰還者の名前 ③ 呼ばれなかった者


 壁の中から、子供の泣き声が聞こえた。

 最初に気づいたのは、ファナだった。

「待ってくれ」

 彼は測定棒を置いた。

 荷道の南側。古い石壁には、新しく張られた封鎖線がある。

 前日までの調査で、壁の向こうには帰還経路補助室と呼ばれる小さな空間が存在すると考えられていた。

 今朝は、その外側から風向きと壁の変化を測る予定だった。

 観測員は二人以上。

 不明な声には返答しない。

 人がいる可能性が生じた場合は、呼びかけへの応答とは別に救助判断を進める。

 リオとイサラが決めた手順は、全員に共有されている。

「今、聞こえたか」

 ファナが小声で言った。

 隣にいたガドが顔を上げる。

「何が」

「子供や。泣いとる」

 ガドは測定棒から手を離した。

 壁に耳を当てることはしなかった。

 少し離れた位置で、周囲の音を確かめる。

 荷車の車輪が石畳を転がる音。

 遠くの鐘。

 風が縄を揺らす音。

 それらの奥に、かすかな声が混じった。

「……いたい」

 ガドは息を止めた。

「イサラ!」

 封鎖線の向こうにいたイサラが振り返る。

「どうしました」

「人の声らしきもんがした。子供の声や」

 イサラの表情が変わった。

「二人とも聞きましたか」

「俺は聞いた」

「俺もや」

 ファナが答える。

 イサラは候補生に合図を出した。

「記録担当を呼んでください。救助準備の班にも連絡を。まだ壁には近づかせないで」

 候補生が走り出す。

 ファナは石壁を見た。

 再び、声がした。

「……ここ」

 今度はガドにも聞こえた。

 声は、壁の向こうから来たように感じられた。

 ファナが思わず一歩踏み出す。

「おい、そこに――」

「ファナ」

 ガドが腕をつかんだ。

 ファナは振り返る。

「子供がいるかもしれんやろ!」

「分かっとる」

「だったら!」

「俺も聞こえた」

 ガドは腕を離さなかった。

「せやから、一人で行くな」

 ファナは歯を食いしばった。

 しばらくして、足を止めた。

***

 救助準備班が到着するまでの間、イサラは観測員を封鎖線の外へ移した。

 ルカが記録板を持って来る。

「最初の声を聞いた時刻は?」

 ファナが答える。

「第二鐘の少し前や」

「最初に聞こえた言葉は?」

「言葉は分からんかった。泣き声みたいな」

「その次は」

「『いたい』やと思う」

 ガドが口を開いた。

「俺もそれは聞いた。ただ、子供かどうかまでは分からん」

 ルカは二人の証言を分けて書いた。

「『ここ』という声は?」

「聞こえた」

「俺もや」

 その時、イサラが顔を上げた。

「待ってください」

 壁の下部。

 二本の溝の間。

 昨日から黒く変色していた部分に、薄い光が現れていた。

 白い光だった。

 鉄の輪が、ゆっくり動き始める。

 誰も触れていない。

「操作環が動いています」

 イサラが言った。

 ルカは時計を見た。

「第二鐘、一刻前。光を確認」

 ガドが眉を寄せる。

「声の方が先やったぞ」

「はい」

 ルカは記録した。

 ユイが立てた問い。

 光や輪の動きは、呼びかけの前触れになるのか。

 少なくとも、今回の順番は違った。

 声。

 光。

 操作環の回転。

 鉄の輪は途中で止まった。

 次の瞬間、壁の奥から声がした。

「……ガド」

 ファナがガドを見た。

 ガドは動かなかった。

「ガド・ネン」

 声は低かった。

 大人の男の声に聞こえた。

 少なくとも、先ほどの泣き声とは違っていた。

 ガドの喉が動いた。

 前日までなら、反射的に問い返していたかもしれない。

 だが、彼は口を閉じたまま、石壁を見つめていた。

 ルカは時計を確認した。

「呼称を確認。ガド・ネン」

 イサラが静かに言った。

「応答しないでください」

 ガドは頷いた。

 もう一度、名前を呼ぶ声がした。

「ガド」

 そして、声が変わった。

「……そこにいるんだろう」

 ファナが息を吸った。

 それは、ガドが普段使う言葉に似ていた。

 だが、壁の向こうの声が本当にガドのものだったかどうかは、誰にも判断できなかった。

***

 旧紙倉では、朔とユイが朝の観測記録を整理していた。

 マレアの診察を終えた朔は、右膝に新しい固定布を巻かれている。

 歩行は少し改善していた。

 ただし、現場作業の許可は出ていない。

 リオは窓際で、各観測地点の時刻表を確認していた。

 そこへ伝令が到着した。

「北東の石壁で異常です」

 リオが立ち上がる。

「何があった」

「人の声が聞こえたそうです。救助準備班が向かっています」

 朔は顔を上げた。

「誰の声ですか」

「最初は子供のような声。続いて、ガドさんの名前を呼ぶ声です」

 ユイが立ち上がった。

「ガドさんの?」

「はい」

 リオは伝令に尋ねた。

「現場の判断は」

「イサラさんが指揮しています。操作環には触れていません」

「返事は?」

「確認されていません」

「分かった」

 リオは机の上から外套を取った。

「俺が行く」

 朔も立ち上がりかけた。

「リオさん、俺も――」

「お前はここや」

「でも、子供がいるかもしれないんですよ」

「せやから行くんや」

 リオは朔を見た。

「俺がな」

 朔は言葉を失った。

 リオは続けた。

「お前が行っても、膝のせいで救助の邪魔になる。今必要なんは、現場の人数やない。誰が何を判断するか分かるようにすることや」

 朔は拳を握った。

 自分の名前が呼ばれた時には、知らせてほしいと頼んだ。

 今度は、別の名前が呼ばれている。

 それでも、向こう側にいるかもしれない誰かを助けたい気持ちは変わらなかった。

「……分かりました」

 朔は椅子へ戻った。

「現場からの連絡を受けます」

 リオが頷く。

「頼む」

 ユイが声を掛けた。

「私も、ここで記録する」

「それでええ」

 リオは戸口へ向かった。

 その時、ユイが呼び止めた。

「リオ」

「何や」

「ガドさん、昨日、あの輪の周りに触ってたよね」

 リオが足を止めた。

「……ああ」

 ユイは記録を指した。

「操作環そのものに触れたかどうか、まだ分からない。でも、触った人だけに注意があるなら、そこを確かめた方がいい」

 リオは頷いた。

「分かった。聞いてくる」

 彼は走っていった。

***

 石壁の前では、ガドが椅子に座っていた。

 倒れたわけではない。

 イサラの指示で、封鎖線から離れた位置へ移されていた。

 ファナは隣に立っている。

 声は、いったん止んでいた。

 リオが到着すると、イサラが状況を説明した。

「最初に子供の泣き声のようなものがありました。その後、ガドさんの名前が三度呼ばれています」

「本人は?」

「返答していません」

「操作環は?」

「誰も触れていません。ただし、昨日の接触状況は確認が必要です」

 リオはガドへ近づいた。

「昨日、鉄の輪を見つけた時、触ったんか」

「泥を拭いた」

「輪を?」

「周りの石や」

 ガドは自分の手を見た。

「輪そのものをつかんだ覚えはない。でも、拭いた布が触れたかもしれん」

「分かった」

 リオはそのまま、イサラへ向き直った。

「直接触ったと決めずに、接触の可能性ありで記録してくれ」

「はい」

 ガドが口を開いた。

「昨日、俺は『誰や』って言うた」

「聞いとる」

「そのあと、今日も呼ばれた」

「そうやな」

「……俺のせいなんか」

 リオはガドを見た。

「それは分からん」

「でも」

「分からんことまで、お前のせいにしたらあかん」

 ガドは黙った。

 リオは隣へ椅子を引いた。

「ただ、昨日の接触も発言も残す。今日の声も残す。そこから先は、皆で確かめる」

 ガドはゆっくり頷いた。

 イサラが呼びに来た。

「リオさん。救助準備班が、壁の裏側に回る方法を見つけました」

「どこから?」

「南の古い排水路です。人は通れませんが、細い確認管を壁際まで伸ばせるそうです」

 リオは立ち上がった。

「それなら、やろう」

「ただし、壁の内側の状態は不明です」

「分かっとる」

 リオは言った。

「声に返事はせん。でも、助けられる道があるなら試す」

***

 確認管は、細い金属製の筒だった。

 先端に小さな鏡を取り付け、光を送り込めるようになっている。

 以前、排水路の点検に使われた道具を、ガドたちが改良したものだった。

 管を通す場所は、壁の南側。

 帰還経路補助室へ直接つながると考えられる古い排水路だ。

 地面の状態を確かめ、安全な側から作業できるよう、ガドが位置を指定した。

 ただ、本人は操作環付近で声を聞いたため、今回は作業から外れた。

 ファナが代わりに管を持つ。

「見えるか」

 イサラが尋ねた。

「まだや」

 管の先が、細い隙間へ進む。

 石の手触りが変わる。

 やがて、金属の先端が何か硬い物に当たった。

「止まった」

 ファナが言った。

「無理に押さないで」

 イサラが声を掛ける。

 ファナは頷いた。

 鏡の角度を変える。

 差し込んだ光が、暗い空間へ届いた。

「……見えた」

 ファナの声が低くなった。

「何が」

「石の壁や。向こうに広い空間がある」

「人は?」

「見えん」

 ファナは鏡を少し動かした。

 床。

 壁。

 古い金具。

 そして、何か白いもの。

「……布?」

 ファナが呟いた。

 イサラが顔を上げる。

「何ですか」

「白い布みたいなんがある」

「動いていますか」

「いや」

 ファナはもう一度確かめた。

「違うな」

「違う?」

「布やない」

 鏡の端に映ったのは、薄い白色の板だった。

 壁に固定されている。

 そこには、文字が書かれていた。

 ファナは目を凝らした。

「……読めん」

「どんな文字ですか」

「古い字や。数字みたいなんがある」

 彼は管の角度を少し変えた。

 板の上部に刻まれた文字が、ようやく見えた。

 第六経路 補助室

 その下に、小さな文字が続いている。

 対象者確認位置

 ファナは黙った。

 イサラが尋ねた。

「ほかには?」

「……床に、何か落ちとる」

 鏡の光が、床の一部を照らした。

 そこには、小さな金属片があった。

 薄い板。

 片側に穴が開いている。

 ファナは息を止めた。

「登録札みたいや」

 リオが近づいた。

「名前は見えるか」

「裏向きや」

「動かせるか」

 ファナは首を振った。

「今の管では無理や。触らん方がええ」

 イサラが頷いた。

「位置だけ記録してください」

 ファナは鏡を戻した。

 その時、管の先から小さな音がした。

 金属が、床を滑る音だった。

「……何や?」

 ファナが呟く。

 鏡の中で、登録札のような金属片が動いていた。

 ほんの少し。

 誰も触れていない。

 管の光が揺れた。

「戻して!」

 イサラが叫んだ。

 ファナが管を引いた。

 その瞬間、古い排水路の奥から強い風が吹き出した。

 白い粉が舞い上がる。

 ファナは顔を覆い、後ろへ下がった。

 リオが腕をつかみ、封鎖線の外へ引いた。

 すぐに、ガドが声を上げた。

「全員、離れろ!」

 誰もが走った。

 石壁の奥で、低い音が響いた。

 一度。

 二度。

 そして、一度。

 ガドは、その音を聞いた。

 以前、北返二番倉の下で聞いたものと似ていた。

 だが、今度はもっと近い。

 地面が、わずかに震えた。

***

 旧紙倉へ報告が届いたのは、第三鐘の少し前だった。

 朔は記録板を受け取った。

 補助室の存在を、直接確認した。

 古い表示板。

 床に落ちていた登録札のような金属片。

 そして、作業中に起きた急な風と打音。

 観測員に怪我はなかった。

 ただし、作業区域は再び広げて封鎖された。

「誰かいたんですか」

 ユイが尋ねた。

「見つかっていません」

 朔が答えた。

「声は?」

「その後は聞こえていないそうです」

 ユイは黙った。

 朔は報告書を見た。

 対象者確認位置。

 その言葉が気になった。

 何を確認する場所だったのか。

 誰を、何のために確認したのか。

 そして、なぜ返事を意思確認として扱うことが停止されたのか。

 その時、リオが戻ってきた。

 外套には、白い粉が少し付いていた。

「全員無事や」

 朔は立ち上がった。

「よかった」

 リオは椅子へ腰を下ろした。

「でも、向こうは空っぽとは限らん」

「人がいたんですか」

「見えてへん」

 リオは答えた。

「ただ、登録札みたいなもんが動いた」

 朔は記録を見た。

「風で動いた可能性もありますね」

「ある」

「ほかには?」

「分からん」

 リオは少し黙った。

「でも、現場におったら、あの部屋がただの古い設備には思えんかった」

 朔は彼を見た。

 リオが、そう言うのは珍しかった。

「怖かったですか」

「怖かった」

 リオは即答した。

「正直、もう一歩進みたくなった。あそこに誰かおるなら、助けたかったからな」

「でも、止めた」

「止めた」

 リオは手を見た。

「ファナが管を戻すのが少し遅かったら、粉をまともに浴びとったかもしれん」

 朔は頷いた。

「助けるために、止めたんですね」

「……そうやな」

 リオは椅子へ深く座った。

「ただ、もし本当に子供がいたら」

 その先は言わなかった。

 ユイが机の上の図を見た。

「私、ひとつ分かったかもしれない」

 二人が顔を上げる。

「何?」

 朔が尋ねた。

「今日の声と、光の順番」

 ユイは記録を指した。

「最初に泣き声がして、それから光って、輪が動いて、ガドさんの名前が呼ばれた」

「はい」

「でも、昨日は光が先だった」

「そうですね」

「だったら、光は声の前触れじゃないのかもしれない」

 ユイは少し考えた。

「何かが始まった時に、光るんじゃないかな」

「何が始まった時?」

「……確認」

 ユイは表示板の写しを指した。

 対象者確認位置。

 朔は、その文字を見た。

 フェルが見つけた古い台帳にも、似た言葉があった。

 呼称確認。

 返答。

 意思確認。

「誰かが名前を呼んで、返事を待っている」

 朔が言った。

「そういう仕組みだった可能性はあります」

 ルカが答えた。

 ユイは頷いた。

「でも、今はそのやり方をやめたはずなんだよね」

 朔は、記録を見た。

 停止されたはずの運用。

 今も動いている操作環。

 聞こえる声。

 そして、床に落ちていた登録札。

 その時、朔は思い出した。

 白い部屋の表示。

 NAME KUROKAWA SAKU

 STATUS SLEEP

 RETURN

 あの時、自分は名前を呼ばれただろうか。

 誰かに返事をしただろうか。

 記憶は曖昧だった。

 だが、一つだけはっきりしている。

 自分は、ここへ来た。

 そして今も、ここにいる。

***

 その夜、フェルは古い台帳の写しと、今日の記録を並べていた。

 呼称確認試験。

 対象者確認位置。

 返答を意思確認として扱う運用の停止。

 そして、ガドの発言。

 「誰や」と発言。

 フェルは、そこへ新しい記録を追加した。

 翌日、同地点でガド・ネンの呼称を確認。

 操作環への直接接触は未確認。前日に周辺石面へ接触あり。

 本人、呼称への返答なし。

 書き終えると、彼女は筆を置いた。

 机の上には、ガドが残した記録があった。

 石壁を拭いた布。

 輪の位置。

 昨日の発言。

 今日の声。

 フェルは、その四つを順番に見た。

 それから、古い設備台帳の注意事項を読み直した。

 異常時、操作環に触れた者は、呼びかけに応答しないこと。

 その下に、小さな追記があった。

 前日には、読み飛ばしていた一文だった。

 応答者不在の場合、確認対象を再設定すること。

 フェルは指を止めた。

 応答者不在。

 今日、呼ばれたガドは返事をしなかった。

 昨日、呼ばれた朔は、その場にいなかった。

 そして、今日の補助室には、裏向きの登録札が落ちていた。

 フェルは新しい紙を取り出した。

 最初の一行を書いた。

 確認対象は、誰が設定するのか。

 その問いを記した時、旧紙倉の外で夜の鐘が鳴った。

 フェルは筆を置いた。

 書き終えた紙を、台帳の上へ重ねなかった。

 それぞれ別の場所へ置き、灯りを消した。

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