第十二章 帰還者の名前 ④ 名前を預ける
黒川朔の名前を、使わせてほしい。
そう言ったのは、朔自身だった。
旧紙倉の机には、前日の調査結果が並んでいる。
第六経路の補助室で確認された古い表示板。床に落ちていた登録札らしい金属片。誰も触れていないのに動いた操作環。そして、壁の向こうから聞こえた二人の名前。
黒川朔。
ガド・ネン。
「もう一度言ってください」
リオが尋ねた。
「俺の名前を、調査の記録に使ってほしいんです」
「もう使っとるやろ」
「そうじゃなくて」
朔は右膝に手を置いた。
「次に壁が俺の名前を呼んだ時、偶然聞こえた音として扱うだけじゃなく、俺がその名前の持ち主だと、調査する側ではっきりさせておきたいんです」
フェルが顔を上げた。
「記録上の本人確認、という意味ですか」
「はい。ただし、現場へその名前を伝えることと、壁に向かって名前を呼ぶことは分けたい」
朔は机の上の古い記録を指した。
返答の有無をもって、通過者の意思確認とする運用を停止。
「この記録では、返事をした人の意思が勝手に決められていた可能性があります」
「可能性はあります」
フェルが答えた。
「だから、俺が許可した範囲だけを使ってほしいんです。調査記録で俺の名前を照合することは認めます。でも、帰還への同意にはしません」
リオは腕を組んだ。
「それを、誰に分からせるつもりや」
「まずは、ここにいる人たちです」
「壁には伝わらんかもしれんぞ」
「それでもです」
朔はリオを見た。
「壁が何をするか分からないから、俺たちが何を許したかは明確にしておきたい」
ユイが隣で頷いた。
だが、リオの顔は晴れなかった。
「お前の名前が呼ばれてることを、俺らはもう知っとる。わざわざ本人確認の記録を増やす必要があるんか」
「あります」
朔は答えた。
「俺は、あの声が俺を呼んでいるのか確かめたいんです」
その言葉に、リオは黙った。
朔は続けた。
「怖いんですよ。あの声が本当に俺を知っているなら、どうして知っているのか。でも、もっと怖いのは、俺とは関係ない何かが、俺の名前を使っているかもしれないことです」
机の向こうで、ネラが静かに視線を上げた。
彼女は、朔の前に現れた白い部屋の表示を思い出していた。
NAME KUROKAWA SAKU
あれが何を示していたのか、今も分からない。
朔は一度、息を整えた。
「もし誰かが俺の名前で返事をして、そのせいで何かが動くなら。俺は、それを知らないままにしたくない」
フェルは白紙を取り出した。
「では、使用範囲を書面で限定しましょう」
リオが口を開いた。
「条件が一つある」
「何ですか」
「現場に伝える前に、俺にも見せろ。名前だけ切り取られて使われんようにな」
朔は頷いた。
「お願いします」
***
同じ朝、ルカは前日の声について、聞き取り記録を整理していた。
ファナ、ガド、イサラ。
三人の記録は、別々に残されている。
最初の泣き声について、ファナは「幼い子供に聞こえた」と答えた。
ガドは「高い声だったが、年齢は分からない」。
イサラは「泣き声に似た音がした。言葉は二人の報告を聞くまで判別できなかった」。
ガドの名前を呼んだ声についても、印象は違っていた。
ファナは低い男の声。
イサラは、年齢の分からない落ち着いた声。
ガドは、そのどちらとも言わなかった。
「似てたんや」
ガドは、聞き取りの最後にそう言った。
「何にですか」
「俺の声に」
ルカの筆が止まった。
「聞こえた時に、そう感じましたか」
「ああ」
「『そこにいるんだろう』という言葉も?」
「それは、特に」
ガドは少し考えた。
「俺が若い頃、弟子を探す時によく言うてた言葉や」
「ファナさんにも?」
「あいつには言うた覚えがない。もっと前や」
「誰を探していたんですか」
「昔の弟子や。もう町にはおらん」
ルカは、その名を聞かなかった。
ガドも言わなかった。
ただ、壁から聞こえた言葉が、本人の記憶にある言い回しと似ていたことは記録した。
「昨日の泣き声も、知っている誰かに似ていましたか」
ルカが尋ねた。
「いや」
ガドは首を振った。
「そこは分からん。ただ、もし本当に子供がおるなら、今も待っとるかもしれん」
彼は膝の上で手を握った。
「昨日、俺はあそこから離れた。正しい判断やったと思う」
「はい」
「でも、正しかったからって、気にならんわけやない」
ルカは筆を置いた。
その気持ちを、調査記録の証言欄へ書くべきか迷った。
結局、別の用紙を渡した。
「必要なら、ご自身の言葉で残してください」
ガドはしばらく紙を見ていた。
やがて、一行だけ書いた。
助けを求める声であれば、見捨てたくない。
***
昼前、北東地区で新しい異変が起きた。
最初は、染屋のエダが気づいた。
布を洗うために確保していた水が、桶の中で小さく震えていた。
地震ではない。
周囲の棚も、吊るした布も動いていない。
エダは水面へ手を伸ばしかけ、止めた。
桶の底から、こつ、という音がした。
次に、二つ。
少し間を置いて、もう一つ。
エダは作業場の外へ出た。
「ミウ!」
近くにいた少女が振り返る。
「何?」
「イサラさん呼んできて。水がおかしい」
ミウは頷いて走った。
その頃、北返二番倉の封鎖線でも、別の観測が始まっていた。
サロが点検井の水位を測っていた時、底の方から細かな泡が上がってきたのだ。
泡は水面で弾ける。
そのたびに、低い音が混じった。
サロは測定棒を引き上げた。
水位そのものは変わっていない。
しかし、泡が上がる間隔が短くなっている。
イサラが現場へ到着した時には、二つの報告が揃っていた。
「染屋の桶と、点検井ですか」
「はい」
候補生が答えた。
「同じ音がしたと言っています」
「音を録ることはできますか」
「記録器を借りられます」
「お願いします。それから、染屋には水を使わないよう伝えてください」
イサラは一度、周囲を見回した。
北東地区には、まだ避難できていない仕事場がある。
水が濁った時も、沈下が始まった時も、生活への影響は大きかった。
今回も、ただ封鎖を広げれば済むわけではない。
「エダさんには、私から説明します」
イサラが言った。
彼女は候補生へ記録器を任せ、染屋へ向かった。
***
旧紙倉へ届いた報告を、ユイが最初に読んだ。
「これ、見て」
朔が顔を上げる。
「どうしました」
「昨日、壁の奥から音がしたよね」
「はい」
「今日も音がしてる。でも、場所が違う」
ユイは記録を並べた。
北返二番倉の点検井。
染屋の水桶。
そして、前日の第六経路補助室。
「同じ音ですか」
朔が尋ねた。
「そう聞こえたって書いてある。でも、まだ比べてない」
ユイは少し考えた。
「これ、地面を通ってる音なのかな」
「振動が伝わっている可能性はありますね」
「でも、桶だけ震えて、棚は動いてなかったんだって」
朔は記録を読み直した。
水面だけが震える。
底から音がする。
それが本当なら、振動はごく小さいのかもしれない。
あるいは、音源が近くにある。
「ルカさんに、場所を重ねてもらいましょう」
朔が言った。
ユイは頷いた。
その時、フェルが机へ近づいた。
「朔さん。先ほどの書面ですが、確認をお願いします」
朔は差し出された紙を読んだ。
調査記録における本人照合を許可すること。
ただし、名前を用いた呼びかけや返答の代行、帰還への同意としては扱わないこと。
使用記録を残し、本人が撤回できること。
リオの提案で、写しは朔本人と記録室の双方が持つことになっていた。
「これでお願いします」
朔は署名した。
黒川朔。
フェルは受け取る前に、もう一度確認した。
「この署名は、調査記録の本人照合に限ります。よろしいですね」
「はい」
その時、ユイが紙を見た。
「ねえ」
「何ですか」
「壁が朔の名前を呼んだ時、もし朔がそこにいたら」
朔は顔を上げた。
「はい」
「朔は、返事をしたい?」
答えはすぐに出なかった。
自分の名前を知る何か。
白い部屋の表示。
RETURNという文字。
あの向こうに、現実へ戻る道があるのかもしれない。
あるいは、全く別のものかもしれない。
「したくなると思います」
朔は言った。
「でも、今はしません」
「怖いから?」
「それもあります」
朔は署名した紙を見た。
「返事をすることと、戻ることを同じにされたくないからです」
ユイは静かに頷いた。
***
午後、フェルが持ち帰った古い設備図と、北東地区の水路図が重ねられた。
ルカは細い線を追っていた。
「……ここですね」
彼が指したのは、染屋の裏手だった。
旧水路の下に、一本の細い通気管が描かれている。
現在の地図には残っていない。
「第六経路の補助室から伸びているんですか」
朔が尋ねた。
「直接つながっているようには描かれていません。でも、同じ古い設備系統に属していた可能性があります」
ガドが図を見た。
「この管、途中で止まっとるな」
「はい。改修図が欠けています」
「なら、出口がどこか分からん」
「そうです」
リオが腕を組んだ。
「それを調べるんか」
「調べたいです」
ルカが答えた。
「ただ、今度は水路の近くです。地盤の確認が必要になります」
「ガドさん、どう思いますか」
朔が尋ねた。
ガドはしばらく図面を見ていた。
「行くなら、染屋の裏からやな。古い石組みが残っとる。外から確認できるかもしれん」
「俺も行きます」
リオが言った。
朔が顔を上げる。
「リオさん」
「今回は止める役だけやない。現場で判断が必要になるかもしれん」
リオは朔を見た。
「お前の名前がまた呼ばれたら、ちゃんと連絡する」
「お願いします」
「ただし、今日は勝手に来るなよ」
朔は苦笑した。
「分かっています」
ユイが手を上げた。
「私も現場の記録を見たい」
リオは少し考えた。
「現場には行かせへん。でも、記録を最初に確認する役は任せられる」
「ほんと?」
「ああ」
ユイは嬉しそうに頷いた。
だが、すぐに真顔になった。
「じゃあ、変なことが書いてあったら、すぐ言う」
「頼むわ」
***
染屋の裏手は、昼でも薄暗かった。
古い石壁が高く、日が入りにくい。
エダは作業場の扉を開け、ガドたちを案内した。
「水は使ってへん。言われた通りにしとる」
「ありがとうございます」
イサラが答えた。
「ただ、夕方まで使えんかったら困るで」
「状況を確認して、またお伝えします」
「頼むわ」
エダはそれ以上言わなかった。
ガドは石壁の下部を調べた。
そこには、古い排水溝の跡が残っていた。
普段は土に埋もれているが、最近の水流で一部が露出している。
「これか」
ガドが呟いた。
ファナは壁の端から覗き込んだ。
「奥、細いな」
「人は通れん」
リオが言った。
ガドは頷いた。
「通るための道やない。水か空気を逃がすためのもんや」
ルカは図面を見ながら、位置を確認した。
「ここなら、古い通気管の推定位置と重なります」
ガドは測定棒を伸ばした。
奥の石に触れる。
硬い音。
少し角度を変える。
今度は、軽い響きが返った。
「空間がある」
ファナが言った。
「そうやな」
ガドは棒を引いた。
その時、奥から風が吹いた。
湿った、冷たい風だった。
白い粉ではない。
水の匂いが混じっている。
「……止まれ」
リオが言った。
全員が動きを止めた。
石壁の奥から、かすかな声が聞こえた。
「……たすけて」
ファナが息を吸った。
イサラが顔を上げる。
ガドは測定棒を下ろした。
もう一度。
「……たすけて」
今度は、はっきりしていた。
リオは声の方向を見た。
誰かがいるのかもしれない。
そう思った。
だが、ここで返事をすれば、何が起きるか分からない。
「記録して」
リオが言った。
ルカが時計を見る。
「第三鐘の少し前。救助を求める言葉と思われる声」
イサラは候補生へ合図した。
「救助準備班を呼んでください」
リオは石壁を見た。
奥から、もう一度声がした。
「……リオ」
彼の体が硬くなった。
今度は、自分の名前だった。
「リオ・カナメ」
誰も動かなかった。
その声は、リオには聞き覚えがあった。
彼の胸の奥で、何かが強く跳ねた。
だが、ほかの誰にも、そのことは分からなかった。
リオは、ゆっくり息を吐いた。
「俺は返事せん」
彼は誰にともなく言った。
「でも、助けを求める声がしたことは残す」
イサラが頷いた。
ルカは記録した。
その時、石壁の奥で、何かが動いた。
水が流れる音ではない。
石が擦れる音でもない。
金属の板が、ゆっくり倒れるような音だった。
ガドが顔を上げる。
「……まずいな」
「何が?」
ファナが尋ねた。
「向こうの空間、動いとる」
リオは一歩下がった。
足元の水溜まりが、細かく震えていた。
その奥から、もう一度、彼の名前が聞こえた。
「リオ」
今度の声は、彼自身の声に似ていた。
少なくとも、リオにはそう聞こえた。
彼は唇を噛んだ。
返事はしなかった。
代わりに、イサラへ言った。
「全員、ここから離してくれ」
「リオさんは?」
「俺も離れる」
イサラは頷いた。
全員が退いた。
ガドは最後に、石壁の位置を確認した。
亀裂は見えない。
だが、奥から続く金属音は、まだ止まっていなかった。
***
旧紙倉へ戻ったリオは、朔へ報告した。
「今度は、俺の名前が呼ばれた」
朔は顔を上げた。
「リオさんの?」
「ああ」
「声は、どう聞こえましたか」
リオは答えなかった。
しばらくして、椅子へ座った。
「……懐かしい声やった」
ユイが彼を見る。
「誰の?」
「分からん」
リオは答えた。
その声に聞き覚えがあることは確かだった。
だが、誰の声だったか、すぐには思い出せなかった。
それが、ひどく気持ち悪かった。
「俺、返事せんかった」
リオは言った。
「でも、返事したくなった」
朔は黙っていた。
「もし、あれが本当に助けを求めとる人の声やったら」
リオは手を見た。
「俺は、見捨てたことになるんやろか」
ユイは少し考えた。
「返事をしなくても、助けようとしてたよ」
リオが顔を上げる。
「救助班を呼んだんでしょう」
「ああ」
「だったら、まだ見捨ててないと思う」
リオはしばらくユイを見ていた。
やがて、小さく頷いた。
「……そうやな」
朔は机の上へ、自分が署名した書面を置いた。
「リオさん」
「何や」
「俺は今日、自分の名前を調査記録で使うことを許可しました」
「聞いとる」
「でも、もし次に誰かが俺の名前で返事をしても、それは俺の意思じゃありません」
リオは朔を見た。
「分かっとる」
「だから、俺の代わりに返事をしないでください」
リオは少し笑った。
「するかいな」
朔も笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
ユイが、記録の端を指したからだ。
「ねえ。これ、変じゃない?」
朔が顔を向ける。
「何ですか」
「最初に朔の名前。次にガドさん。今日はリオ」
「そうですね」
「でも、みんな、あの場所を調べてた人だよね」
朔は記録を見た。
黒川朔。
ガド・ネン。
リオ・カナメ。
三人とも、地下の調査に関わっていた。
「誰かが、調べてる人の名前を順番に呼んでるのかな」
ユイが言った。
朔は答えなかった。
その可能性はある。
だが、名前が知られていることと、呼ばれる理由は別だった。
ユイはさらに続けた。
「だったら、次は誰?」
その問いに、リオが顔を上げた。
朔はユイを見た。
少女の目は、机の上の三つの名前を追っていた。
彼女は、まだ呼ばれていない。
少なくとも、記録に残る範囲では。
その時、朔の脳裏に、白い部屋の表示が浮かんだ。
Y.I.
誰のものとも決められていない記号。
そして、ユイが自分で選んだ名前。
朔は机の上の紙を引き寄せた。
「ユイ」
「何?」
「一つ、聞いてもいいですか」
「うん」
「もし壁が、あなたの名前を呼んだら」
ユイは少し考えた。
そして、まっすぐ朔を見た。
「私が返事するかどうかは、私が決める」
朔は頷いた。
「はい」
「でも」
ユイは続けた。
「私が返事をしても、それだけで『行きたい』ってことにはしないでね」
朔は静かに答えた。
「約束します」
ユイは頷いた。
机の上には、朔の署名した書面がある。
名前を使う範囲を限定した、一枚の紙だった。
ユイはそれを見て、少し笑った。
「私の分も、いつか作ってね」
朔は、その言葉に笑い返せなかった。
彼女がそう言った理由を、理解してしまったからだった。




