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第十二章 帰還者の名前 ② 返事をした者

 ガドは、呼ばれた名前を知っていた。

 だからこそ、思わず声を出した。

「……誰や」

 石壁の奥から、返事はなかった。

 ルカが顔を上げる。

「ガドさん」

「分かっとる」

 ガドは一歩下がった。

 だが、本当に分かっているわけではなかった。

 昨日、フェルが見つけた古い設備記録には、こう書かれていた。

 異常時、操作環に触れた者は、呼びかけに応答しないこと。

 その注意事項は、昨夜のうちに関係者へ伝えられている。

 ただし、何をもって「応答」とするのかは書かれていなかった。

 名前を呼ばれた本人が返事をすることなのか。

 聞こえた声へ問い返すことも含むのか。

 ガドは今、その区別ができなかった。

「全員、壁から離れてください」

 イサラが言った。

 ファナは測定棒を下ろした。

 ルカは記録板を胸へ抱え、封鎖線の外へ退いた。

 四人とも、今朝は操作環に触れていない。

 それでも、名前を呼ぶ声が聞こえた。

 しかも、呼ばれたのは現場にいない人物だった。

 黒川朔。

 ルカは壁を見た。

 二本の溝の間は、昨日から黒く変色している。

 鉄の輪は動いていない。

 光も出ていなかった。

「もう一度、聞こえましたか」

 ルカが尋ねた。

「いや」

 ガドが答えた。

 イサラも首を振った。

 そこでファナが口を開いた。

「今の声、変やったな」

「何が?」

 ガドが尋ねる。

「俺には、男の声に聞こえた」

 イサラが顔を上げた。

「私には、女性の声でした」

 四人の間に沈黙が落ちた。

***

 旧紙倉へ戻る前に、ルカは四人の証言を別々に取った。

 互いの答えが聞こえない場所で、同じ質問をする。

 最初に何を聞いたか。

 声はどちらから聞こえたか。

 誰の声に似ていたか。

 そして、その時に何をしていたか。

 ガドは簡潔に答えた。

「最初は『朔』。次に『黒川、朔』や」

「声は?」

「男か女か、はっきりせんかった」

「聞き覚えは?」

「ない」

 ルカが頷く。

「最初の呼びかけの後に、何か言いましたね」

「『誰や』言うた」

「その時、相手から返答は?」

「なかった」

 ガドは少し眉を寄せた。

「……あれが応答になるんか」

「今は判断できません」

「そうか」

 ガドは手を見た。

 石壁へ触れたのは昨日だった。

 今日は何も触っていない。

 それでも、胸の奥に小さな引っ掛かりが残った。

 次に聞き取りを受けたファナは、もう少し細かく話した。

「俺は、若い男の声やと思った。距離は近かったな。壁のすぐ向こうくらい」

「聞き覚えは?」

「……ちょっとある気がする」

「誰ですか」

「言われてみれば、朔さんの声に似とったような」

 ルカは筆を止めた。

「声を聞いた時に、そう思いましたか」

「いや。あとからや」

「分かりました」

 その違いを、記録へ分けて書いた。

 イサラは、女性の声だったと答えた。

「年齢は分かりません。落ち着いた声でした」

「聞き覚えは?」

「ありません」

「距離は」

「遠く感じました。壁の奥というより、廊下の向こうから呼ばれたような」

 最後の一人はルカ自身だった。

 記録を取る役が自分の証言を混ぜないよう、フェルから渡されていた予備の用紙を使い、現場を離れる前に書いていた。

 そこには、こう記されている。

 第一声は「朔」と聞こえた。

 第二声は「黒川、朔」と聞こえた。

 声質は判別できない。

 壁の奥から聞こえたと感じたが、音源位置は未確認。

 四人とも、呼ばれた名前は一致していた。

 だが、声の性別も、距離も、印象も揃わなかった。

 ルカは四枚の紙を重ねず、それぞれ別の封筒へ入れた。

***

 昼過ぎ、旧紙倉で朔は報告を受けた。

 最初に見せられたのは、ルカが書いた短い記録だった。

 黒川朔という呼びかけを、四人が聞いた。

 朔はしばらく、その一文を見ていた。

「俺の名前ですか」

「はい」

「フルネームで」

「二度目は、そう聞こえています」

 朔は椅子へ深く座り直した。

 右膝がわずかに痛んだ。

 痛みのせいではない。

 その名前を、別の場所でも見たことがあるからだった。

 白い部屋。

 壁のように広がる表示。

 NAME KUROKAWA SAKU

 あの文字列を見た時の感覚が、胸の奥に戻ってきた。

「朔」

 リオが呼んだ。

 朔は顔を上げた。

「今ここで聞こえたんは、俺の声や」

「……はい」

「現場の声と、一緒にするなよ」

 朔は少しだけ笑った。

「分かっています」

「ならええ」

 リオは報告書へ目を移した。

「しかし、何で名前を知っとるんやろな」

「誰かが知っていて呼んだ可能性はあります」

 フェルが答えた。

「朔さんの名前は、調査に関わる人の間では知られています」

「壁の中に誰かがいたんか」

「それも確認できません」

 朔は記録を置いた。

「一つ、頼んでもいいですか」

「何ですか」

 ルカが尋ねた。

「もし次に同じ声が聞こえたら、呼ばれた名前だけじゃなく、時間と場所を残してください」

「はい」

「それから……声に答えるかどうかを、現場の人がその場で考えなくて済むようにしたいです」

 ガドが腕を組んだ。

「今日は、俺が余計なこと言うたからな」

「責めているわけじゃありません」

「分かっとる」

 ガドは言った。

「ただ、次も同じように動ける自信はない」

 ルカは頷いた。

「応答しない、という注意だけでは足りませんね」

「何が足りん?」

「もし本当に地下に人がいるなら、助けを求める声を無視してよいのか、という問題です」

 部屋が静かになった。

 そこにいた全員が、同じことを考えた。

 声を無視する。

 それは、安全のためかもしれない。

 だが、壁の向こうに誰かが閉じ込められているとしたら。

 聞こえているのに答えないことが、正しいのか。

***

「答えないことと、助けないことは違います」

 イサラが言った。

 彼女は壁の現場から戻ったばかりで、外套の肩に白い粉が少し付いていた。

「声に返事をしなくても、救助の準備はできます」

「何を基準に?」

 リオが尋ねた。

「音です。位置です。地面の状態です。人がいると仮定した場合に、安全に近づける場所を探すことです」

 ガドが頷いた。

「それなら、俺らにもできる」

 ルカは古い台帳を広げた。

「注意事項が書かれているのは、帰還経路補助室の点検記録です。名前の使用を禁止した理由は記されていません」

「名前を呼ぶな、じゃなくて、呼びかけに応答するな、なんですね」

 朔が言った。

「はい」

「そこが気になります」

 ユイは、机の上に置かれた二本の線の写しを見ていた。

 しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。

「もし、壁が朔を呼んでいるんだったら」

 全員が彼女を見る。

「朔がいない時にも呼ぶのは、変じゃない?」

「どういう意味ですか」

 ルカが尋ねた。

「朔がそこにいるかどうか、知らないってことだよね」

 ユイは少し考えた。

「誰かが朔を呼びたいなら、朔がいる場所を探すと思う。でも、あの壁は、そこにいない人の名前を呼んだ」

「名前を呼ぶ仕組みがある、と考えていますか」

 フェルが尋ねた。

「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」

 ユイは首を傾けた。

「ただ、誰かが助けを求めてるなら、『朔』じゃなくて『助けて』って言うんじゃないかな」

 ガドが口を開いた。

「助けて、って言えん状況かもしれんぞ」

「うん」

 ユイは頷いた。

「だから、確かめたい」

 朔は彼女を見た。

 以前なら、ユイが危険に近づこうとするだけで止めていたかもしれない。

 だが、彼女は今、自分で考えている。

 それでも、危険が消えるわけではなかった。

「何を確かめたいんですか」

 朔が尋ねた。

「名前を呼ぶ前に、何か合図があるのか」

「合図?」

「昨日は輪が動いて、光が出たんでしょう。今日は声がした」

 ユイは図面を指した。

「それが順番になってるなら、次に何か起きる前に分かるかもしれない」

 ルカが考え込んだ。

「昨日の光と今日の声が、同じ現象の連続かは分かりませんが……観測項目には加えられます」

「じゃあ、私も手伝える?」

 ユイが尋ねた。

 朔はすぐに答えなかった。

 その沈黙を、リオが引き取った。

「手伝えることはある。ただし、壁の近くには行かせへん」

 ユイはリオを見た。

「なんで?」

「危ないからや」

「それは分かってる」

「分かってても、行きたくなるやろ」

 ユイは唇を結んだ。

 リオは続けた。

「朔も同じや。二人とも、目の前に何かあったら自分の足で確かめたがる」

「……否定できません」

 朔が言うと、リオは眉を上げた。

「せやろ」

 ユイは図面へ視線を落とした。

「じゃあ、私の考えたことを、現場の人に試してもらうのは?」

「それならできる」

 ルカが答えた。

「観測項目を決める段階から参加してください」

 ユイは少し笑った。

 ただ、その笑顔は長く続かなかった。

「でも、本当に誰かがいたら?」

 リオが答えた。

「その時は、俺らが助けに行く方法を考える」

「止めるだけじゃなくて?」

「止めるのも、助けるためや」

 ユイはしばらくリオを見ていた。

「……分かった」

***

 午後、フェルは古い設備記録を読み直していた。

 帰還経路補助室。

 点検用操作環。

 対象名との同時使用禁止。

 異常時の応答禁止。

 頁をめくるうちに、古い追記が見つかった。

 赤い字ではなく、黒い小さな文字だった。

 呼称確認は、操作者の識別を目的としない。

 フェルは筆を止めた。

 その下には、さらに一文が続いていた。

 返答の有無をもって、通過者の意思確認とする運用を停止。

 フェルは、そこを何度も読み直した。

 呼称確認。

 返答。

 意思確認。

 そして、運用停止。

 何が起きたのかは書かれていない。

 だが、過去には誰かの返答を、その人物の意思だと扱った運用があったことになる。

 フェルは隣の台帳を開いた。

 停止の日付は、第七帰還口の閉鎖状態維持が決定された時期と近い。

 ただし、同日ではなかった。

 記録の見出しには、別の名称が使われている。

 第六経路・呼称確認試験

 フェルは背筋を伸ばした。

 第七帰還口ではない。

 第六経路。

 過去に、名前を書いた試料が挿入された場所だった。

 それと、第七帰還口側で発見された登録札。

 レア・ソルンの名前。

 フェルは、それらの記録を別々の紙へ写した。

 まだ結びつけることはできない。

 しかし、少なくとも、返答を意思確認として扱うことを停止した記録が存在していた。

 もし今、壁の声に誰かが答えたら。

 その返答が、何か別の意味として扱われる可能性はないのか。

 フェルは、そう書きかけて筆を止めた。

 可能性の話だけでは、現場へ命令は出せない。

 ただ、危険を知らせることはできる。

 彼女は台帳の写しをまとめ、管理者へ閲覧範囲を確認した上で、旧紙倉へ向かった。

***

 同じ頃、リオは北東地区の封鎖線を見ていた。

 イサラからの依頼で、翌日の連絡体制を確かめに来ていたのだ。

 四か所の観測地点を再び同時に測る。

 ただし、今度は壁の中から声がした場合の対応も決める必要がある。

「呼ばれた人が現場におらんかったら、どうするんや」

 リオが尋ねた。

「旧紙倉へ連絡します」

 イサラが答えた。

「連絡するまでに、誰かが勝手に返事したら?」

「それは避けたいです」

「避けたいだけじゃ、今日みたいになる」

 イサラは頷いた。

「では、観測員全員に同じ指示を出します」

「何て?」

「声が聞こえても返答せず、時刻と内容を記録する」

 リオは首を振った。

「それやと、人が助けを求めた時にも黙っとくことになる」

「……そうですね」

 しばらく沈黙があった。

 リオは封鎖線の向こうを見た。

 壁には、二本の溝がある。

 昨日は光が漏れた。

 今日は、朔の名前を呼んだ。

 リオは、胸の奥で何かが重くなるのを感じた。

 自分の役目は、誰かを止めることだけではない。

 時刻を残す。

 名前を残す。

 誰が、どこにいて、何をしたかを残す。

 そのためには、現場で誰かが一人で判断を背負わない仕組みが必要だった。

「二つに分けよう」

 リオが言った。

「何をですか」

「呼びかけへの返事と、救助のための連絡や」

 イサラが顔を上げた。

「名前を呼ばれても、その名前で返事はしない。でも、危険があるなら救助の判断は別に進める」

「はい」

「その時、誰が決めたかも記録する。現場の人間を一人にせんために」

 イサラは頷いた。

「それなら、運用できます」

「それと」

 リオは付け加えた。

「観測員は、必ず二人以上。声が聞こえた時、一人だけの判断にならんように」

「分かりました」

 イサラは新しい指示を書き始めた。

 リオは封鎖線の外に立ち、壁を見た。

 彼には、まだ声が聞こえたことはない。

 だが、もし自分の名前を呼ばれたら。

 あるいは、誰かが助けを求める声が聞こえたら。

 その時に、同じ判断ができるだろうか。

 彼は答えを出さなかった。

 代わりに、明日の観測員の配置をもう一度確かめた。

***

 夕方、旧紙倉では、フェルが持ち帰った新しい記録を確認していた。

 ルカは頁を読み、ゆっくり顔を上げた。

「返答を、通過者の意思確認として扱っていた……」

「そう書かれています」

 フェルが答えた。

「なぜ停止したんでしょう」

「理由は記されていません」

 朔は考え込んだ。

 ミナの手紙。

 自分と同じ声で、名前を呼ばれたという証言。

 そして、第六経路の記録。

 呼びかけ。

 返答。

 意思確認。

 それらを並べるだけで、胸の奥が冷たくなる。

 しかし、今はまだ、何が起きたのか分からない。

 ユイが紙を見た。

「じゃあ、返事したら、誰かが『この人は行きたいんだ』って決めちゃうことがあったの?」

 フェルは少し考えた。

「そのように扱う運用が、以前は存在したと読めます」

「でも、本当に行きたいかどうかは、返事だけじゃ分からないよね」

「はい」

 ユイは黙った。

 朔は彼女を見た。

 自分の名前を自分で決めたいと言っていた少女。

 その彼女が今、誰かの返事を勝手に意思として扱うことの危険に気づいている。

「明日も、観測は続けます」

 ルカが言った。

「ただし、呼びかけへの対応は変更します。リオさんとイサラさんが、現場の運用をまとめています」

 朔は頷いた。

「お願いします」

 その時、外から低い鐘の音が聞こえた。

 夕刻を告げる鐘だった。

 朔は窓へ目を向けた。

 街の屋根の向こうに、北返二番倉の上部が見える。

 誰も入っていないはずの地下。

 そこから、自分の名前が呼ばれた。

 もし次に、同じ声が聞こえたら。

 自分は何をするだろう。

 朔は手を伸ばし、机の上の記録を閉じた。

「明日の観測で、俺の名前がまた呼ばれたら」

 全員が彼を見る。

「俺にも、すぐ知らせてください」

 リオが眉を寄せた。

「何をするつもりや」

「今は分かりません」

 朔は答えた。

「でも、俺の名前を使って何かが起きているなら、知らないままにはしたくないです」

 リオはしばらく彼を見ていた。

「知らせる。ただし、現場へ行くのは別や」

「はい」

 朔は頷いた。

 その返事を聞いて、ユイが小さく言った。

「私も、知りたい」

 リオは二人を見た。

「……ほんま、似た者同士やな」

 朔とユイは顔を見合わせた。

 そして、少しだけ笑った。

 机の上には、四人分の証言が残っていた。

 男の声。

 女の声。

 近くから。

 遠くから。

 同じ名前を呼んだ声が、四人には違って聞こえていた。

 フェルは、その封筒を一つずつ棚へ収めた。

 最後の封筒に、観測日と時刻を書き込む。

 対象者、現場不在。

 呼称のみ確認。

 その下に、ガドの証言を添えた。

 「誰や」と発言。

 以後、応答なし。

 筆を置いた時、フェルは自分の手が少し震えていることに気づいた。

 誰かが返事をしたのではない。

 少なくとも、呼ばれた名前の本人は、そこにいなかった。

 だが、過去の記録には、返事を意思とみなした運用があった。

 そして今日、壁の前には、四人の人間が立っていた。

 そのうち一人が、声に向かって問い返した。

 フェルは記録を閉じた。

 その一行を、消さなかった。

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