第十二章 帰還者の名前 ① 壁の中の灯り
最初に見つかったのは、扉ではなかった。
壁の中に埋め込まれた、小さな鉄の輪だった。
「ここや」
ガドが指したのは、荷道の南側にある古い排水点検口だった。
第十一章の同時観測で、北返の排気塔とこの点検口は、近い時刻に風向きを変えていた。ルカが旧設備図を照合した結果、二つの施設の間には、図面に描かれていない空白があることが分かった。
通気路が単純な一本の管なら、点検口の位置と排気塔の位置は、そのままつながるはずだった。
だが、古い図面では途中に不自然な曲がりがある。
ルカは昨夜、その部分に薄い紙を重ねて、二つの図面の縮尺を合わせ直した。
すると、空白は小さな長方形になった。
人が二人ほど立てる広さ。
そこへ通じるはずの点検設備が、現在の地図から消えていた。
「これが、その場所ですか」
イサラが尋ねた。
「推定ではな」
ガドは答えた。
彼らが立っているのは、封鎖された荷道の南側にある古い石壁の前だった。
北返二番倉からは十分に離れている。昨日から地盤の動きも確認されていない。
壁の下部には、長年の補修で石の色が違う場所があった。
ガドが表面の泥を拭うと、石と石の継ぎ目に小さな鉄の輪が現れた。
輪は壁の中へ半分ほど埋め込まれている。
「引っ張る取っ手に見えますね」
ルカが言った。
「そうやな」
「引きますか」
「まだや」
ガドは輪の周囲を調べた。
錆びているが、石から抜けかけてはいない。
輪の下には、細い溝が二本あった。
一本はまっすぐ。
もう一本は途中からわずかに曲がっている。
ファナが息を止めた。
「……見たことある形やな」
ルカも気づいていた。
古い無記名紙にあった二本の黒い線。
旧観測室の壁の補修記録に描かれていた二本の線。
その形と似ている。
ただし、ここにあるのは黒い線ではない。
石を削って作られた溝だった。
「形は近いです」
ルカが言った。
「でも、これが何を示しているのかは、まだ分かりません」
ガドは溝に細い棒を当てた。
「印やろな」
「何の?」
ファナが尋ねた。
「それを調べる」
ガドは輪の下を軽く叩いた。
硬い石の音が返った。
少し横へ移ると、響きが変わる。
空洞のある音だった。
「壁の向こうに部屋がある」
ガドが言った。
ファナが笑った。
「ようやく当たりやな」
だが、ガドは笑わなかった。
石壁の下端から、白い粉が落ち始めていた。
***
「作業を止める」
ガドの声で、ファナが測定棒を下ろした。
壁の継ぎ目から落ちた粉は、足元に細い線を作っていた。
粉の色は白に近い。
北返の排気塔から出た灰色の粉とは違う。
「石が削れてるんか」
ファナが言った。
「そうやと思う」
ガドは壁から離れ、上部を見上げた。
石の継ぎ目に、新しい亀裂が入っている。
ほんの細い線だが、数日前の記録にはなかった。
「俺らが触ったから?」
ファナが尋ねた。
「それも考えられる」
ガドは壁の位置を記録した。
「ただ、あの程度で割れるなら、もうだいぶ弱ってる」
イサラが周囲を確認した。
「この道も封鎖しますか」
「壁沿いだけや。荷車が通る道までは離れてる」
「範囲を示してください」
ガドが指示すると、候補生たちは縄を張った。
その間、ルカは風向きの記録を見返していた。
壁の前では、弱い風が外へ向かっていた。
だが、粉が落ち始めてから、その風が止まっている。
「ガドさん」
「何や」
「風が変わりました」
ガドは紙片を取り出した。
溝の前へ近づける。
紙は動かなかった。
次の瞬間、内側へ引かれた。
細い紙片が、石壁へ張りついた。
「強いな」
ガドが呟いた。
風の音はしない。
だが、紙片は動かないまま壁へ押しつけられている。
イサラが一歩下がった。
「これは、建物が沈んだ影響でしょうか」
「分からん」
ガドは答えた。
「でも、今ここを開けるのはまずい」
その時、壁の中から金属の擦れる音がした。
長く、低い音だった。
鉄の輪が、わずかに回転した。
誰も触れていない。
ファナが目を見開いた。
「動いたぞ」
ガドは輪を見た。
輪は半回転ほどしたところで止まった。
次いで、二本の溝の間から細い光が漏れた。
白い光だった。
灯りを当てた者はいない。
ルカは思わず記録用の紙へ目を落とした。
その瞬間、光は消えた。
残ったのは、石壁に埋め込まれた鉄の輪だけだった。
***
旧紙倉で報告を受けた朔は、最初に壁の損傷について尋ねた。
「人が通れるほどの空間はありましたか」
「壁の向こうに空洞があることは確かです」
ルカが答えた。
「でも、入口として使える状態かは分かりません。石壁に亀裂があり、今は作業を止めています」
「光は?」
「ガドさん、ファナさん、イサラさん、私の四人が見ました」
「色は」
「白です」
「どこから出ていましたか」
「二本の溝の間です」
ルカは現場で描いた図を示した。
朔はその形を見た。
一本はまっすぐ。
もう一本は途中で曲がっている。
旧観測室の記録と似ていた。
「これ、文字なのかな」
ユイが言った。
「前にも、同じことを言いましたね」
朔が答えた。
「うん。でも、今度は石に彫ってある」
ユイは図を指した。
「誰かが、わざわざ同じ形にしたのかもしれない」
「それは考えられます」
フェルが答えた。
「ただ、いつ作られたのかを調べる必要があります」
リオは図面を見ていた。
「向こう側に部屋があるなら、もう少しで見えるんか」
「壁を開けられれば、ですが」
ルカが答えた。
「けど、崩れる可能性もあるんやろ」
「はい」
リオは朔を見た。
「お前、行きたそうな顔してるな」
「……してますか」
「してる」
朔は苦笑した。
右膝は以前より良くなっている。
しかし、マレアから許可されているのは、短い距離の歩行と軽い運動までだった。
不安定な地面を歩いたり、狭い場所で踏ん張ったりすることは禁じられている。
「行きたいのは本当です」
朔は答えた。
「でも、今の足では現場の邪魔になります」
「分かってるならええ」
リオは椅子へ座った。
「それに、見に行くだけが仕事やない」
朔は頷いた。
机の上の図面を引き寄せる。
現場で見つかった光。
二本の溝。
壁の向こうの空間。
それらを、今ある記録と比べることはできる。
***
その日の夕方、ユイは一人で旧紙倉の窓際に座っていた。
膝の上には、四か所の同時観測で使った紙片の見本がある。
風の向きと強さを測るための、小さな道具だった。
朔が隣へ座った。
「何を考えてるんですか」
「今日の光」
「はい」
「二本の線の間から出たんだよね」
「そう聞いています」
「もし、あれが何かを知らせる印だったら」
ユイは紙片を裏返した。
「誰が読めるように作ったんだろう」
朔は答えなかった。
ユイは続けた。
「私、Y.I.っていう記号を使われたくないって言ったよね」
「覚えています」
「でも、記号そのものが嫌いなわけじゃない」
朔は彼女を見た。
「どういうことですか」
「私の名前を、私以外の人が勝手に決めるのが嫌なんだと思う」
ユイは紙片の端を指で折った。
「今日の線だって、もし誰かの名前だったら、その人がどう呼ばれたいか分からないまま使っちゃいけないのかな」
「そうかもしれません」
「でも、読まなきゃ助けられないこともあるかもしれない」
朔は少し考えた。
「その時は、何のために読むのかを決める必要がありますね」
「何のため?」
「誰かを呼び出すためなのか、危険を知らせるためなのか。それによって、同じ文字でも意味が変わるかもしれません」
ユイは頷いた。
「じゃあ、私が読めるかもしれない時は、どうする?」
「ユイが決めます」
「朔は止めない?」
「危険なら止めます」
朔は答えた。
「でも、ユイに何ができるかを、俺が先に決めるつもりはありません」
ユイは少し笑った。
「それならいい」
彼女は紙片を机へ置いた。
その時、戸口からリオの声がした。
「朔、マレア先生から伝言や」
「何でしょう」
「明日の診察、逃げるなって」
ユイが笑った。
「逃げないよね?」
「逃げません」
朔は答えた。
リオは頷いた。
「よし。証人が一人増えたな」
***
夜、フェルは中央の古い設備記録を調べていた。
見つかった鉄の輪について、同じ形の金具が使われた記録がないかを探していたのだ。
古い台帳には、似た部品がいくつも載っている。
排水栓。
通気口の固定具。
壁面点検用の引き輪。
その中で、フェルの目が一つの記載に止まった。
帰還経路補助室 点検用操作環
用途欄には、短く書かれていた。
経路標識の確認時に使用。
フェルは頁をめくった。
次の頁には、操作上の注意があった。
対象名との同時使用を禁止。
彼女は筆を止めた。
同じ文言を、以前にも見ていた。
第七帰還口の閉鎖記録。
名前と経路標識を組み合わせた試験の停止。
フェルは台帳を閉じず、別の設備記録を開いた。
帰還経路補助室。
その配置図には、小さな長方形の部屋が描かれている。
北返二番倉の北側。
荷道の南。
そして、第六経路の通常返路から伸びる通気路の途中。
今日見つかった空洞の位置と、ほぼ重なっていた。
フェルは図面を二枚並べた。
形は一致している。
位置にも大きなずれはない。
だが、現在の地図では、その部屋の存在そのものが消えていた。
消されたのか。
単に使われなくなり、記載されなくなったのか。
記録だけでは判断できない。
フェルは管理番号を書き写し、頁をめくった。
その時、もう一つの記載が目に入った。
補助室の点検は、対象名を使用せず実施すること。
その下に、赤い文字で追記があった。
異常時、操作環に触れた者は、呼びかけに応答しないこと。
フェルは、その文を二度読んだ。
誰の呼びかけなのか。
どこから聞こえる声なのか。
説明はなかった。
だが、今日、現場では操作環が誰も触れていないのに動いた。
そして、二本の溝の間から白い光が出た。
フェルは頁を閉じ、記録室の管理者へ閲覧継続の許可を求めた。
***
翌朝、北東地区の石壁の前には、新しい封鎖線が張られていた。
ガドは壁の亀裂を確認し、前日の印と比べた。
亀裂の幅は変わっていない。
鉄の輪も、元の位置に戻ったままだった。
だが、二本の溝には変化があった。
昨日まで白かった石の表面に、薄い黒色が付いている。
「また色が変わっとる」
ファナが言った。
「触るなよ」
「分かっとる」
ガドは長い棒の先に付けた鏡で、溝を映した。
黒い色は、二本の線の間にだけ付いていた。
ルカは記録用の紙へ図を描いた。
一本はまっすぐ。
もう一本は曲がっている。
その間が、黒くなっている。
「昨日の光が出た場所ですね」
ガドが頷いた。
「そうや」
ファナは壁を見た。
「光ったあとに黒くなったんか」
「時間の順番としては、そうです」
ルカが答えた。
ガドは周囲へ目を向けた。
今日も壁を開ける予定はない。
ただ、もう一度、風向きを測ることになっていた。
ルカが紙片を近づけた。
風は、外へ向かっていた。
その時だった。
石壁の奥から、声が聞こえた。
「……朔」
ルカが顔を上げた。
ガドも、動きを止めた。
ファナが周囲を見回した。
「今、何か言うたか?」
イサラは首を振った。
「私は言っていません」
ルカは紙片を下ろした。
声は、もう一度聞こえた。
「黒川、朔」
今度は、はっきりと。
ガドは一歩下がった。
「……誰や」
返事はない。
ルカは壁を見た。
誰が、どこから呼んだのか。
その声が何に向けられたのか。
確認できるものは、まだ何もなかった。
ただ、名前だけが残った。
黒川朔。
旧紙倉にいるはずの人物の名を、誰かが呼んだ。
その声を聞いた者たちは、誰も返事をしなかった。




