第十一章 黒の向こう側 ⑫ 息の合う場所
ミナ・ソルンから届いた二通目の手紙は、翌朝になっても机の上にあった。
朔は窓際の椅子に座り、その二行を読み返していた。
あの時、私は名前を呼ばれました。
呼んだのは、私と同じ声でした。
誰に呼ばれたのか。
どこから声がしたのか。
返事をしたのか。
聞きたいことはいくつもあった。
だが、ミナは質問への回答としてではなく、自分の意思でその二行を送ってきた。
ルカが前日に用意した返信案は、礼を伝える短いものだった。
「これでいいと思います」
朔が言った。
「質問を加えなくても?」
ネラが尋ねた。
「はい。あの人が次に何か伝えたいと思った時、連絡できることだけ分かれば十分です」
ネラは頷いた。
ルカは返信の末尾へ、今後も本人が望む場合に限って書面を受け取ることを記した。
南丘共同療養所と中央記録室の間には、朝夕の定期便がある。荷車なら半日ほどの距離で、便の時刻が合えば翌日には書面が届く。
朔は封筒を見た。
ミナが二通目を送ったのは、こちらから催促したからではない。
話したいことはない、と書いた後で、彼女自身がもう一度筆を取った。
その事実を、朔は大切にしたかった。
「それで、今日は同時観測ですね」
リオが言った。
朔は顔を上げた。
「はい」
「膝は?」
「昨日よりはいいです」
「それと現場へ行けるかは別やな」
「……そうですね」
リオは笑った。
「今日は俺もここに残る。お前がこっそり出ようとしたら困るからな」
「そこまでしませんよ」
「前にも似たこと言うてたやろ」
朔は返事に困り、ユイが笑った。
机の中央には、四か所の観測位置を示した図面が置かれていた。
北返二番倉の点検口。
古い点検井。
北返の排気塔。
荷道南側の排水点検口。
同じ時刻に、風向きと強さを測る。
壁の動きと水位も確認する。
人が入り込めない場所は、外側から測る。
時計は事前に鐘の時刻で合わせ、観測地点ごとの記録方法も揃えた。
ユイの提案が、その日の調査の中心になっていた。
***
午前の第二鐘が鳴る少し前、四か所の観測員はそれぞれの持ち場に着いた。
ガドとファナは北返二番倉の外側。
サロは点検井。
イサラと候補生は北返の排気塔。
ルカは荷道南側の排水点検口にいた。
どの地点でも、風の強さを比べるために同じ形の紙片を使う。紙片の傾きを目盛りと照合し、時計の合図に合わせて記録する。
朔とユイは旧紙倉で、それぞれの測定結果を受け取る役だった。
連絡には伝令を使う。
同時に測った結果が、一か所へ届くのは少し後になる。
それでも、観測した時刻が揃っていれば、後から比べられる。
第二鐘が鳴った。
ガドは倉庫の点検口へ紙片を近づけた。
内側へ傾く。
前日と同じだった。
「吸い込み」
ファナが記録した。
点検井では、サロが紙片を掲げていた。
わずかに外へ押し出されている。
「吐き出し」
北返の排気塔では、イサラが候補生へ目盛りを読ませた。
「外向き。弱いです」
荷道南側の排水点検口では、ルカが紙片の動きを見ていた。
こちらも、外へ向かっていた。
第二鐘からしばらく経つと、四か所の風が少しずつ変化した。
最初に動いたのは、北返の排気塔だった。
外へ向いていた紙片が垂れ下がる。
それから、内側へ傾いた。
「吸い込みに変わりました」
候補生が言った。
イサラは時刻を書いた。
ほぼ同じ頃、荷道南側の排水点検口でも風向きが変わった。
ルカは紙片を見た。
外へ押し出されていたものが、一度止まり、奥へ引かれている。
それに対して、点検井では吐き出しが強まっていた。
北返二番倉の点検口でも、吸い込みが強くなった。
ガドは紙片を引き戻した。
「……揃ってへんな」
ファナが言った。
「全部同じ向きになると思うとったんか」
「少しは」
「俺もや」
ガドは素直に答えた。
それぞれの地点で、風は動いている。
だが、四か所が一斉に吸い込み、一斉に吐き出すわけではなかった。
地下全体が一つの袋のように膨らんだり縮んだりしている、という単純な説明では足りない。
観測は第三鐘まで続けられた。
その間、打音は確認されなかった。
***
昼過ぎ、旧紙倉へ測定結果が集まった。
ルカは四枚の記録を並べ、風向きの変化を同じ時間軸へ書き直した。
ユイが隣から覗き込む。
「どうだった?」
「面白いことが分かりました」
「何?」
「全部が同じ動きをするわけじゃありません。でも、変わる時刻には重なりがあります」
ルカは二か所を指した。
北返の排気塔。
荷道南側の排水点検口。
この二つは、何度か近い時刻に風向きが変わっていた。
「ここは、一緒に動いてる?」
ユイが尋ねた。
「同じ空気の流れに影響されている可能性があります」
「じゃあ、つながってるんだ」
「それを確かめるには、もう一つ必要です」
ルカは古い設備図を広げた。
二つの地点は、第六経路の通常返路から枝分かれする通気路に沿って並んでいる。
一方、北返二番倉の点検口は、第七帰還口の推定位置に近い。
点検井は、その中間にあった。
「第六経路側の二か所は、比較的似た動きでした」
ルカが言った。
「北返二番倉側の動きは、それとは一致していません」
リオが図面を見た。
「つまり、地下が一つの部屋みたいになってるわけやないんやな」
「少なくとも、そう単純には考えられません」
ガドが口を開いた。
「枝があるんやろ」
「はい。その可能性が高いです」
「枝の先で、どっかが狭くなっとるんかもしれん。水が入った場所もある」
朔は図面を見た。
空気の出入りは、一つの経路だけでは説明しにくい。
ただ、これまで別々に調べていた地点のうち、少なくとも二か所に共通した動きが見え始めた。
「七番を開けなくても、確かめられることが増えましたね」
ユイが言った。
ガドは頷いた。
「ああ。次は、この二か所の間を調べる」
「通るんですか」
「通らん」
ファナが横から言った。
「ガドが先に入る言うたら、俺が止めるわ」
ガドが顔をしかめた。
「いつ俺がそんなこと言うた」
「まだ言うてへんな」
ファナは笑った。
旧紙倉に、少しだけ笑いが起きた。
***
午後、返却された測定棒の付着物について、簡易検査の結果が届いた。
ルカは報告書を読んだ。
「共通する鉱物が見つかっています」
ガドが顔を上げた。
「どこと?」
「測定棒の灰色の粉と、北返の排気塔から出た粉です」
ルカは二つの検査結果を並べた。
どちらにも、同じ種類の細かな鉱物粒子が含まれていた。
さらに、繊維状のものも混じっている。
ただし、その繊維の種類までは確定していない。
「石壁の膜は?」
「似た鉱物が含まれています。でも、繊維の量が違います」
「沈砂池の水は?」
「鉱物の種類は一部重なります。ただ、土砂にも普通に含まれる成分です」
ガドは報告を読み直した。
「返却棒は、排気塔の中で使われたんか」
「そこまでは分かりません」
ルカが答えた。
「ただ、似た粉が付く場所にあった可能性はあります」
ファナが言った。
「借りた人、俺らより先に排気塔を調べたんかもしれんな」
「かもしれん」
ガドは頷いた。
「でも、道具を借りた人と、黒い外套の人が同じかは別や」
ルカはその区別を記録へ残した。
無署名のメモの書き手について、まだ身元は確認されていない。
しかし、返却棒の粉を調べたことで、借り主が地下の風に関わる場所を調べていた可能性は、以前より具体的になった。
***
夕方、北東地区では、避難していた五世帯のうち二世帯が、一時的に家へ戻る許可を得た。
家の周囲の地盤に変化がなく、危険区域からも離れていたためだった。
ただし、長時間の滞在ではない。
必要な荷物を取りに戻ることから始める。
イサラは老夫婦の家の前に立っていた。
夫は玄関へ入ると、まっすぐ戸棚へ向かった。
持ち出した引き出しは、避難所に置いたままだ。
空いた棚の上には、薄い埃が積もっていた。
「まだ、ここにある」
夫が呟いた。
妻は頷いた。
「そりゃ、あるやろ」
「……そうやな」
夫は戸棚へ手を伸ばした。
だが、触れる前に引っ込めた。
「戻れるようになったら、掃除せなあかんな」
「その前に、ちゃんと帰ってええか聞かな」
妻が答えた。
イサラは二人へ声を掛けた。
「今日は、必要な物を持ち出すところまでです」
「分かっとる」
夫は頷いた。
それから、戸棚の下の引き出しを一つ開けた。
中には、古い布が畳んで入っていた。
「これだけ持っていく」
「はい」
イサラは袋を渡した。
三人は、家を出た。
戸棚は、今度も残った。
***
夜、旧紙倉の机には、四か所の観測記録が並んでいた。
北返の排気塔と荷道南側の排水点検口では、風向きが近い時刻に変化していた。
返却された測定棒と北返の排気塔の粉には、共通する成分が見つかった。
これらを踏まえ、次に調べる場所も絞られている。
「明日は、第六経路側の通気路を順番に確かめます」
ルカが言った。
「第七帰還口は?」
ユイが尋ねた。
「開けません」
ガドが答えた。
「開けんでも、やれることがある」
ユイは頷いた。
フェルが戻ったのは、それから少し後だった。
彼女は外套を脱ぐ前に、机の上へ一枚の紙を置いた。
「デラン・クオさんから、伝言を預かりました」
朔は顔を上げた。
「本人と話せたんですか」
「中央の連絡担当を通してです。本人確認は取れています」
「面会は?」
「まだ返事待ちです。ただ、これだけは先に伝えたいと」
フェルは紙を開いた。
そこには、短い文章が記されていた。
第七帰還口の隔壁を補強していた時、俺たちは内側から叩く音を聞いた。
誰が叩いたかは分からない。
だが、その音が止まる前に、作業を急いで終えて離れろと命じられた。
ガドの表情が変わった。
「補強してる最中に、音がしてたんか」
「そのようです」
フェルが答えた。
「その時、第七帰還口は既に閉鎖されていたはずですよね」
ルカが尋ねた。
「はい。デランさんが担当したのは、隔壁の補強工事です」
「閉鎖の決定と、補強工事の日付を照合してください」
「分かりました」
朔は伝言を読み直した。
「誰の命令だったんですか」
「伝言には書かれていません」
フェルが答えた。
「当時の現場作業記録では、閉鎖を命じた者の署名欄が水濡れで読めなくなっています。その人物と、デランさんが補強工事中に指示を受けた相手が同じかどうかも、まだ分かりません」
「そこを確かめたいですね」
「面会が実現すれば、本人へ尋ねられます」
朔は頷いた。
そして、机の端にあったミナ・ソルンの手紙を引き寄せた。
あの時、私は名前を呼ばれました。
呼んだのは、私と同じ声でした。
その隣に、デランの伝言を置く。
一枚には、声。
もう一枚には、音。
ユイは二枚の紙を見比べた。
「あの壁を補強してる間も、内側から音がしてたんだね」
「デランさんたちには、内側から叩く音として聞こえたんですね」
ルカが答えた。
ガドは机の上に広げられた四枚の観測記録へ目を落とした。
「俺は、明日も測る」
ファナが笑った。
「分かっとる。付き合うわ」
ガドは首を振った。
「いや。明日は、俺だけやない」
彼は四枚の紙を指した。
「みんなで測る」




