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第十一章 黒の向こう側 ⑪ 壁のこちら側

 測定棒を借りた人物は、水路が逆流する前から、地下の風を調べていた。

 ルカが日付を並べた時、最初に気づいたのはそのことだった。

「道具を借りたのは十日ほど前。逆流が始まったのは、その後です」

 旧紙倉の机には、修繕場の老人から預かった返却メモの写しが置かれている。

 老人の証言では、借り主はこう言っていた。

 地下の風が変わっている。

 そして返却された道具には、灰色の粉が付いていた。

「俺らより先に気づいてたんか」

 ガドが言った。

「少なくとも、先に気にしていた人がいます」

 ルカは日付の脇へ、聞き取りに幅があることも記した。

「借りた日が正確に分かれば、さらに絞れます」

「誰かは分からんけどな」

「はい」

 ファナは返却メモを覗き込んだ。

「『七番を開けなくても、道はあります』か」

「それを確かめる」

 ガドは、地図の上へ一本の線を引いた。

 北返二番倉の北側にある荷道。その地下を通る、古い設備用通気路。

「壁のこちら側から測る、って言うたやろ」

「ああ」

「今日は、そこまでやる」

 ファナは少し笑った。

「やっと先へ進めるな」

「進むんは、測定だけやで」

「分かっとる」

 ルカは机の上から、試料番号と経路標識を整理した紙を取り上げた。

 第六経路。

 第七帰還口。

 そして、荷道の下にある設備用通気路。

 図面では、それぞれ別の役割を持つ設備だった。

 無署名のメモは、その区別を説明していない。

 しかし、少なくとも第七帰還口を開けずに調べられる場所があるという点では、ガドたちの考えと一致していた。

「借り主の言葉が正しいかどうかは、今日分かるかもしれません」

 ルカが言った。

「正しかったら?」

 ファナが尋ねた。

「次に何を調べるかが変わります」

 ガドは工具袋を肩へ掛けた。

「ほな、行こか」

***

 北東地区では、五世帯の避難が続いていた。

 イサラは朝から、封鎖された荷道の外側を巡回していた。

 水の運搬には、新しい荷車が一台加わった。南の共同井戸から運ぶ飲み水は、必要な量を確保できている。

 ただ、染屋の仕事は十分に戻っていない。

 エダは南の広場で布を干していた。

「水は少し増えた。でも、洗う場所が足りん」

「別の場所を探します」

 イサラが言った。

「急がんでええ」

「急がなくていいんですか」

「急がんでええ、とは言うてへん」

 エダは布を一枚広げた。

「無理して水を使って、色が全部おかしなったら困る。使える量で、できる分だけ進める」

 イサラは頷いた。

「今日は布を運ぶ人を増やせます」

「なら助かる」

 エダは少し笑った。

「勇者候補に布運びばっかりさせて、怒られんの?」

「怒る人がいたら、私が説明します」

「頼もしいな」

 イサラは布の端を持った。

 風が通る。

 干された布は、乾き始めていた。

 北東地区の生活は、まだ元には戻っていない。

 それでも、止まったままではなかった。

***

 荷道の下を調べるため、ガドたちは古い通気路の位置を測り直した。

 地面を掘ることはしない。

 代わりに、荷道の南側にある古い排水点検口を使うことにした。

 そこは以前、雨水を逃がすために使われていた小さな設備で、現在は蓋が固定されている。

「ここから通気路へ近づけるんですか」

 ルカが尋ねた。

「図面では、隣を通っとる」

 ガドは答えた。

「中へ入らんでも、壁の厚さと、向こう側の音を測れるかもしれん」

 ファナは長い測定棒を持っていた。

 返却された棒とは別の、普段使っている道具だ。

「先に、こっちの棒で測るんやな」

「ああ」

「返ってきた方は?」

「まだ調べてもらっとる」

 返却棒に付いた灰色の粉は、石壁の膜や排気塔の粉と比較されている。

 持ち主の許可なく加工したり、削ったりはしない。

 ガドは点検口の周囲を確かめた。

 石畳に新しい亀裂はない。

 昨日から置いた測定杭にも、変化は見られなかった。

 サロが確認し、作業範囲を区切った。

「蓋は動かしていい。ただし、奥の隔壁には触れないこと」

「分かった」

 ガドは固定具を緩めた。

 古い蓋が、ゆっくり持ち上がる。

 中には浅い空間があり、その奥に石壁が見えた。

 人が入れるほどの広さはない。

 水も溜まっていなかった。

「風は?」

 ファナが紙片を近づけた。

 紙は動かなかった。

「ないな」

 ガドは長い棒を壁へ当てた。

 軽く叩く。

 硬い音が返ってくる。

 少し位置を変える。

 今度は、響きが長かった。

「ここや」

 ファナが言った。

「向こうが空いてる」

「そうやろな」

 ルカは図面に印を付けた。

 通気路の推定位置と重なっている。

 ガドは、先端に柔らかい布を巻いた測定棒で壁を確かめた。

 壁の一部には、細い隙間があった。

 針ほどの幅。

 しかし、そこから冷たい空気が流れていた。

「風がある」

 ファナが言った。

「さっきは分からんかったのに」

「奥の壁から出とる」

 ガドは紙片を隙間へ近づけた。

 紙が、わずかにこちらへ傾いた。

 しばらくすると、動きが止まった。

 次に、奥へ吸い込まれる。

「向きが変わる」

 ルカが呟いた。

 北返の排気塔と同じだった。

 吸い込み。

 停止。

 吐き出し。

 ただし、間隔は一致していない。

「ここでも息をするんか」

 ファナが言った。

「空気が出入りしとるだけや」

 ガドは返した。

 だが、顔は少し険しかった。

 壁の向こうに空間がある。

 そして、その空間では空気が動いている。

 無署名のメモに書かれていたことが、一つだけ確かめられた。

 風は、壁の向こうへ抜けています。

 ただし、その先に人が通れる道があるかどうかは、別だった。

***

 ルカは測定位置を記録しながら、古い図面と重ねた。

 通気路は、荷道の下を北へ伸びている。

 しかし、その先で線が途切れていた。

「図面が途中までしかありません」

 ルカが言った。

「いつの図面や」

 ガドが尋ねた。

「二十八年前です」

「その後の改修は?」

「記録を探していますが、まだ見つかっていません」

 ファナは壁の隙間を見た。

「向こうから音は聞こえんのか」

 ガドは耳を近づけず、測定棒を壁へ当てた。

 振動は、ほとんどない。

「今は静かや」

「前の打音は?」

「場所が違う」

 ルカは頷いた。

 北返二番倉の下で聞こえた打音と、この通気路の状態を同じものとして扱うことはできない。

 しかし、地面の下に空間が続いている可能性は、以前より具体的になった。

「この壁の厚さが分かれば、奥の空間の位置を推定できます」

 ルカが言った。

「どう測る」

 ガドが尋ねた。

「反対側から測った記録があれば」

「反対側?」

「古い設備図に、通気路の点検箇所が残っているかもしれません」

 ルカは図面を畳んだ。

「中央の設備記録を、もう一度調べます」

 ガドは頷いた。

「頼む」

 ファナが壁を見た。

「ここから掘ったら早いのにな」

「早く崩れるかもしれん」

 ガドが答えた。

「……分かっとる」

 ファナは笑った。

「言うと思ったわ」

***

 その日の午後、旧紙倉にフェルが戻ってきた。

 彼女は、北返二番倉の閉鎖作業に関わった記録を持っていた。

「残り二人の所在について、少し分かりました」

 ルカが顔を上げた。

「見つかったんですか」

「一人だけです」

 フェルは紙を広げた。

 閉鎖作業に参加した四人。

 二人は死亡。

 一人は退職後、南の町へ移った記録があった。

 名は、デラン・クオ。

 当時は石工として、隔壁の補強を担当していた。

「現在の住所は?」

「確認中です。移住先の町には、同姓同名の職人がいるようです」

「年齢は合いますか」

「合います」

「連絡を取れますか」

「本人確認をした上で、面会の意思を尋ねることはできます」

 ルカは頷いた。

「お願いします」

 フェルは次の紙を出した。

「もう一人は、記録が途切れています」

「名前は」

「イヴァ・レン」

 朔はその名を聞いて、顔を上げた。

 聞き覚えはなかった。

「最後の記録は?」

「閉鎖から半年後。中央の設備部門へ異動しています。その後の台帳が欠けています」

「欠けている?」

「頁ごと抜けています」

 リオが顔をしかめた。

「誰かが抜いたんか」

「分かりません。製本時の欠落という可能性もあります」

 フェルは台帳の写しを示した。

 前後の頁は残っている。

 ただ、その間だけがない。

「この人たちが、閉鎖した理由を知っている可能性があります」

 ルカが言った。

「はい」

 フェルは答えた。

「ただし、今の時点では、誰に何を聞けるかも分かりません」

 朔は頷いた。

 調査は、一歩進んだ。

 閉鎖作業の責任を問うためではない。

 何が起きたのかを、当時そこにいた者へ確かめるためだった。

***

 夕方、ガドたちは荷道の調査を終えた。

 人が通れる穴は見つからなかった。

 だが、点検口の奥の石壁に細い隙間があり、そこを通って空気が出入りしていることは確かめられた。

 ガドは封鎖線の外から、北返二番倉を見た。

 建物は、今日も沈んでいない。

 亀裂の幅も、朝と変わらなかった。

 しかし、床下の空洞は残っている。

「明日は補強の案を考える」

 ガドが言った。

「いよいよ支えるんか」

 ファナが尋ねた。

「支える場所があるか調べる」

「また調べるんか」

「調べずに支えたら、支柱ごと落ちる」

 ファナは苦笑した。

「ほんま、慎重やな」

「石は、失敗してから謝っても戻らん」

 ガドは答えた。

 ファナは頷いた。

 夕暮れの光が、倉庫の外壁を赤く染めていた。

 風は弱い。

 それでも、地下の隙間では、空気が出入りしていた。

***

 夜、朔は旧紙倉の机に座っていた。

 北返の通気路。

 第六経路。

 第七帰還口。

 そして、閉鎖に関わった二人の名前。

 記録は増えていた。

 だが、地下へ入る方法は、まだ見つかっていない。

 その時、ユイが机へ一枚の紙を置いた。

「これ、見て」

「何ですか」

「風の向きの記録」

 北返の排気塔。

 点検井。

 倉庫の点検口。

 荷道の下の点検口。

 それぞれの場所で、空気がどちらへ動いたかが書かれている。

「同じ時間に、全部調べてないんだよね」

「そうですね」

「だったら、同じ時間に測ったらどうなるんだろう」

 朔は顔を上げた。

「同時に?」

「うん」

 ユイは図面を指した。

「どこかから空気が入って、別の場所から出てるなら、同じ時間に見た方が分かるんじゃない?」

 朔は少し考えた。

「いい案ですね」

「ほんと?」

「はい」

 彼はルカの記録を引き寄せた。

 測定時刻が揃っていないという問題は、以前からあった。

 ただ、各地点で作業を進めることを優先していたため、同時観測までは行っていなかった。

「明日、ルカさんと相談してみます」

 ユイは頷いた。

「私も手伝える?」

「安全な場所からなら」

「紙を見てるだけでもいいよ」

 朔は少し笑った。

「それも大事な仕事です」

 ユイは机の端へ座り、図面を見始めた。

 朔は各地点へ印を付けた。

 四か所。

 同じ時刻。

 風の向きと強さ。

 壁の動き。

 水位。

 打音。

 それらを一度に記録できれば、地下の空間がどうつながっているか、今までとは違う形で考えられるかもしれない。

 彼は新しい調査票を作り始めた。

 その時、ノエが戸口に現れた。

「南丘共同療養所から、もう一通届いています」

 朔は顔を上げた。

「ミナさんから?」

「施設を通して届いたものです」

 ノエは封筒を渡した。

 前回のものより薄かった。

 朔は、ルカとネラの到着を待って開封した。

 中には、一枚の紙があった。

 整った字で、短い文章が書かれている。

 あの時、私は名前を呼ばれました。

 呼んだのは、私と同じ声でした。

 それだけだった。

 朔は紙を見た。

 ネラは、しばらく何も言わなかった。

 ユイが小さく尋ねた。

「同じ声って……」

 誰も答えなかった。

 ミナは、それ以上書いていない。

 差出人の名前は、ミナ・ソルン。

 過去の記録にあった名前ではなく、今の名前だった。

 朔は手紙を静かに机へ置いた。

 窓の外では、夜の風が吹いていた。

 その風向きは、北返二番倉の下で動く空気とは関係なく、ただ街の屋根を越えて流れていた。

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