第十一章 黒の向こう側 ⑩ 誰も通らない道
三日後、北返二番倉の壁は、ようやく沈むのを止めていた。
ただし、誰もそれを安全になったとは呼ばなかった。
ガドは測定杭の前に立ち、三日分の数字を見比べた。
「動いてへんな」
ファナが言った。
「今朝まではな」
「三日も止まっとるのに?」
「三日前まで動いてた建物や。急に信用できるか」
ファナは肩をすくめた。
「まあ、できんな」
倉庫の周囲には、以前より広い封鎖線が張られている。
近くの五世帯は、まだ自宅へ戻れていなかった。
北東地区の井戸では濁りが薄くなったものの、飲用再開の許可は出ていない。運搬用の荷車は、朝から南の共同井戸を往復していた。
ガドは倉庫の北側へ目を向けた。
古い荷道がある。
数日前、黒い外套の人物が立っていたという場所だ。
道は石壁の間を抜け、行き止まりになっている。
そこから風が出ていた、と目撃者のハナは話していた。
「今日は、あっちを調べるんやな」
ファナが言った。
「ああ」
「黒い服の人を探すんか」
「違う」
ガドは工具袋を持ち上げた。
「風が出た場所を探す」
***
荷道の入口には、サロが設けた新しい封鎖線があった。
道の幅は、大人が二人並べば肩が触れるほど。
両側には古い石壁が続き、奥へ行くほど狭くなる。
ガドたちは中へ入らなかった。
道の南側にある空き地へ回り、古い設備図と現在の地形を照合する。
「ここや」
ルカが図面を指した。
「荷道の下に、通気路が一本通っています」
「第六経路か」
「第六経路の通常返路から枝分かれした、設備用の通気路です。人の通路として造られたものではありません」
ガドは地面を見た。
「深さは」
「図面では、地表から人の背丈ほど下です」
「今もその深さとは限らんな」
ファナが言った。
「そうや」
ガドは頷いた。
地面が沈んでいる。
地下では水が動き、空気が出入りしている。
古い図面に描かれた深さを、そのまま信じることはできなかった。
ガドは地面へ細い杭を打ち、振動を確かめた。
石に当たる硬い音。
土に当たる鈍い音。
少し場所を変えると、叩いた時の響きが変わった。
「この下、空いてるな」
ファナが言った。
「その可能性は高い」
ルカは測定位置を書き込んだ。
「通気路の線と重なります」
ガドは次の位置へ移った。
その時、空き地の端で、イサラが声を上げた。
「そこ、止まってください」
荷車を押した男が、封鎖線の横を抜けようとしていた。
「向こうへ荷物を届けたいんや」
「この道は通れません」
「いつまでや」
「今日の調査が終わるまで、少なくとも」
「昨日も言われたぞ」
男は荷車の取っ手を握り直した。
「遠回りしたら、昼までに届けられん」
イサラは荷車の荷を見た。
中には木の板が積まれている。
「どちらへ運ぶんですか」
「北の修繕場」
「それなら、南の広場から回る道があります」
「遠いやろ」
「はい」
男はため息をついた。
イサラは少し考えた。
「途中までは、こちらの候補生が手伝えます。荷車を押す人を一人増やせば、時間は縮められます」
「……そこまでしてくれるんか」
「封鎖を守っていただくためです」
男はようやく荷車を南へ向けた。
イサラは候補生へ声を掛けた。
ガドはその様子を見ていた。
「封鎖した道の外にも、仕事はあるんやな」
ファナが言った。
「ああ」
ガドは測定杭を抜いた。
「だから、いつまでも閉じっぱなしにするわけにはいかん」
***
昼前、ミエルから道具の紛失記録が届いた。
古い測定棒が二本。
木製の柄が三本。
鉄製の輪金具が四つ。
いずれも北東地区の作業場から、ここ一か月ほどの間になくなったものだった。
ただし、盗難として届けられていたのは一件だけ。
残りは、誰かが借りて返していない可能性もあった。
ガドは一覧を読み、顔をしかめた。
「これ、全部同じ道具やないな」
「はい」
ルカが答えた。
「測定棒と、農具の柄と、古い金具です」
「使い方も違う」
「そうですね」
ファナは輪金具の図を見た。
「これ、ハナが見た棒の途中にあった輪と似てるな」
「似てるだけや」
ガドが言った。
「でも、実物を確かめたい」
ルカは頷いた。
「持ち主に、残っている道具を見せてもらいます」
その日の午後、ミエルの紹介で三軒の作業場を訪ねた。
最初の二軒では、なくなった道具の詳しい形が分かった。
どちらも、特別なものではなかった。
だが、三軒目の修繕場で、持ち主の老人が奇妙なことを言った。
「なくなったんと違う。貸したんや」
老人は作業台へ腰を下ろした。
「誰に?」
ルカが尋ねた。
「名前は知らん」
「いつですか」
「十日ほど前や」
「どんな人でしたか」
「顔は見えんかった。頭に布をかぶっとった」
ファナがガドを見た。
ガドは何も言わなかった。
「黒い外套でしたか」
ルカが尋ねると、老人は首を振った。
「茶色か灰色やったと思う。汚れてたから、よう分からん」
「借りた道具は?」
「古い測定棒一本と、輪金具二つ」
「用途は聞きましたか」
「水路の風を調べる言うとった」
ガドが顔を上げた。
「風?」
「ああ。地下の風が変わっとる、って」
「その人は、どこへ行きましたか」
「北へ」
「荷道ですか」
「知らん。店を出てからは見てへん」
老人は工具箱を開けた。
「返す言うとったけど、まだや」
「返却の約束は?」
「今週中やった」
ルカは日付を確かめた。
期限は、昨日だった。
「その人に、道具を貸した理由は何ですか」
老人は少し笑った。
「話が通じたからや」
「話が?」
「棒の重さと金具の位置を説明したら、すぐ分かった。素人やなかった」
「水路の関係者だったんでしょうか」
「知らん」
老人は答えた。
「でも、道具の扱いには慣れとった」
ガドは、ハナの描いた棒の図を取り出した。
「これに似てましたか」
老人は図を見た。
「……輪の位置は近いな」
「同じ物ですか」
「そこまでは分からん」
ガドは頷いた。
黒い外套の人影。
風を調べる道具。
借りられた測定棒。
それらが、一つにつながる可能性はある。
だが、持ち主の老人は、その人物を黒い外套だとは言っていない。
「もし返しに来たら、どうしますか」
ルカが尋ねた。
「返してもらう」
老人は当然のように答えた。
「それから、何に使ったか聞く」
ガドは少し笑った。
「それでええな」
***
夕方、ルカたちは旧紙倉へ戻った。
朔は調査結果を聞き、地図を見た。
「第六経路の通気路が、荷道の下を通っている」
「はい」
「そこに、風が出ていたという目撃証言がある」
「あります」
「それから、地下の風を調べると言って道具を借りた人がいる」
「そうです」
朔は頷いた。
「その人が誰かは、まだ分からないですね」
「はい」
リオが椅子へ腰を下ろした。
「でも、誰かが地下の風を気にしてたんは確かやな」
「そうですね」
ガドが答えた。
「俺らだけやない」
ユイは地図を見た。
「その人、何を知ってたんだろう」
「分からん」
ガドは言った。
「でも、借りた道具は返しに来るかもしれん」
「来なかったら?」
「持ち主が困る」
ユイは少し笑った。
「そっち?」
「そっちも大事や」
ガドは真面目に答えた。
「返ってきた道具なら、何が付いてるかも分かる。使った場所の話を聞けるかもしれん」
「じゃあ、待つ?」
「待つだけにはせん。こっちはこっちで調べる」
朔は頷いた。
相手を追いかける必要はない。
借りた物が返ってくるなら、その時に話せるかもしれない。
来なくても、地図と測定で分かることはある。
***
同じ夜、南丘共同療養所では、ミナ・ソルンが手紙を読んでいた。
部屋の窓は南へ向いている。
外には、小さな庭があった。
ミナは椅子に座り、机の上の紙へ目を落としていた。
ルカから届いた質問は、一つだけだった。
過去の試験について、現在、話したいと思うことはありますか。
その下に、返事をしなくてもよいことが書かれている。
ミナは紙を折りたたんだ。
彼女の前には、もう一枚の紙があった。
そこには、以前送った返事の控えが書かれている。
第七帰還口を閉じた時、そこにいたのは私ではありません。
ミナはその一文を見た。
書いた時には、それだけで十分だと思っていた。
今も、話したいことはなかった。
だが、伝えなければならないことが残っている気がした。
彼女は新しい紙を取った。
筆を持つ。
しばらく、何も書かなかった。
やがて、一行だけ書いた。
あの時、私は名前を呼ばれました。
ミナは筆を置いた。
その下へ、もう一行を書こうとした。
しかし、手が止まった。
窓の外では、風が庭の木を揺らしていた。
ミナは紙を伏せた。
まだ、送るとは決めていなかった。
***
翌朝、北東地区の修繕場へ、一本の測定棒が返された。
持ち主の老人が店を開ける前だった。
扉の前に、細長い布包みが置かれていた。
中には測定棒が一本と、輪金具が二つ。
借りた時と同じ数だった。
ただし、測定棒の先端には、灰色の粉が付いていた。
老人は道具を布へ戻し、ルカたちへ連絡した。
ガドが到着した時、測定棒はまだ包まれたままだった。
「誰が返したんですか」
ルカが尋ねた。
「見てへん。朝来たら置いてあった」
「ほかに何か?」
「これが入っとった」
老人は小さな紙を示した。
そこには、短い文が書かれていた。
借りた物は返します。
風は、壁の向こうへ抜けています。
七番を開けなくても、道はあります。
署名はなかった。
ガドは紙を見た。
ファナも覗き込んだ。
「……俺らと同じこと、考えとったんかな」
ガドは答えず、測定棒の先を見た。
灰色の粉。
輪金具。
そして、返された道具。
誰が使ったのかは、まだ分からない。
ただ、その人物は、第七帰還口を開けずに地下を調べようとしていた。
少なくとも、そう読める言葉を残していた。
ルカは紙を受け取り、持ち主の許可を得て写しを取った。
風は、壁の向こうへ抜けています。
その一文の下へ、ガドが短く書き加えた。
なら、壁のこちら側から測る。
北返二番倉の外壁は、今朝も動いていなかった。
だが、地下ではまだ、風が流れ続けていた。




