↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
144/151

第十一章 黒の向こう側 ⑨ 黒い外套の目撃者


 目撃者は、黒い外套の人物よりも、その人物が立っていた場所のことを気にしていた。

「そこ、通っちゃいけない道だったんです」

 旧市場の裏手にある小さな茶店で、女はそう言った。

 名は、ハナ・レクス。北東地区で荷車の車輪を修理している職人だった。

 三十代半ばほどで、指先には黒い油が染みている。朝の仕事を一つ終えてから来たという。

 ミエルが店の奥の席を借りていた。

 同席しているのは朔、リオ、フェル、ガルの四人。ハナには事前に人数を伝え、途中で話をやめてもよいことも確認してある。

「最初に言っときますけど」

 ハナは茶碗を置いた。

「私、あの人が誰かなんて知りませんよ」

「分かっています」

 フェルが答えた。

「見たことを、覚えている範囲で教えてください」

「黒い服だったんです。それで、長い物を持ってた。でも、それよりおかしいのは、あそこに立ってたことなんです」

「場所から聞いてもええですか」

 リオが尋ねた。

 ハナは頷いた。

 机に置かれた地図を見て、一本の道を指した。

 北返二番倉の北側。

 現在は崩落の危険があるとして封鎖されているが、黒い水が上がった数日前には、まだ通行できた古い荷道だった。

「ここです」

 彼女は指を止めた。

「この先、道が行き止まりなんです」

「倉庫の裏へ出る道ですね」

 フェルが言った。

「そう。でも、荷車じゃ入れない。途中で狭くなってるから。だから、普段は誰も使わないんです」

「何時頃でしたか」

「第二鐘の後です。たぶん、しばらく経ってから」

「黒い水が上がった日の夜?」

「はい。あの警告で人が水路から離れた夜です」

 ハナは茶碗を持ち上げた。

「私は車輪を一つ届けに行って、帰る途中でした。遠回りになるけど、夜の水路は通りたくなかったから」

「一人でしたか」

「はい」

「その人影に気づいたのは」

「細い道の入口を通った時です」

 ハナは地図の上で指を動かした。

「この辺りに、立ってた」

 道の奥ではない。

 入口から十歩ほど入った場所だった。

「こっちを向いていましたか」

「横向きです」

「顔は」

「見えませんでした。頭に布をかぶっていたから」

「外套の色は」

「黒っぽかった。真っ黒かどうかは分かりません。灯りも遠かったし」

 フェルは記録を取りながら、ハナが言葉を区切るのを待った。

 ガルは、まだ何も聞いていなかった。

 机の下で組んだ手だけが、少し強く握られている。

***

「長い物って、何だったんですか」

 ガルが尋ねた。

 ハナは彼を見た。

「棒みたいな物です」

「荷物ですか」

「分かりません。肩に掛けていました」

「布袋とか」

「布だったかもしれません。でも、私には棒に見えました」

「どのくらいの長さでしたか」

 ハナは机の端から端までを指した。

「これくらい。大人の腕より少し長いくらいかな」

 ガルは息を吸った。

「メルは、薬草を採る時に長い柄の道具を持っていました」

 ハナの手が止まった。

「……その人が、あなたの探している人かもしれないんですか」

「分かりません」

 ガルは答えた。

「でも、似た物を持ってたから」

「そうですか」

 ハナは地図を見た。

「ただ、私が見た物は、先が細かったんです。柄の端みたいに」

「先が?」

「はい。あと、途中に金具があったように思います」

 リオが顔を上げた。

「金具?」

「光ったんです。一瞬だけ」

「道具のどの辺りでしたか」

 ハナは紙の上に線を引いた。

 長い棒。

 中央より少し上に、小さな輪。

「こんな感じです」

 ガルはそれを見つめた。

 メルの道具にも金具があったかもしれない。

 だが、彼女が最後に何を持っていたか、完全な一覧は残っていない。

 ハナはガルを見た。

「期待させることを言ったなら、ごめんなさい」

「謝らんでください」

 ガルは答えた。

「俺が、メルの物かもしれんと思っただけです」

 彼は一度、息を吐いた。

「続きを聞かせてください」

 ハナは頷いた。

「その人は、道の奥を見ていました。何かを待ってるようにも見えたけど、動いてなかっただけかもしれません」

「それから?」

「私は通り過ぎました」

「声は掛けなかった?」

「掛けてません。夜でしたから」

「相手は追ってきましたか」

「いいえ」

「後ろを振り返りましたか」

「一度だけ」

「その時は」

 ハナは少し考えた。

「いませんでした」

 フェルは筆を止めた。

「見えなくなっていた、ということですか」

「そうです。どこへ行ったかは見てません」

 ハナは自分の描いた棒を見た。

「それより、あの道にいたのが変なんです」

「なぜですか」

「行き止まりだからです。奥へ行ったら、戻ってくるしかない」

「隠れられる場所は?」

「石壁の陰くらいです。でも、細い道だから、誰かが歩けば音がすると思います」

 リオは地図へ目を落とした。

 その道の奥には、北返二番倉の古い外壁がある。

 地下では、水と空気が動いている。

 だが、地上の道が行き止まりであることと、地下に出入口があることは別の話だった。

「この道、夜でも足元が見えますか」

 リオが尋ねた。

「月が出ていれば。あの夜は雲が多かったです」

「なら、壁の陰へ入っただけかもしれんな」

「はい」

 ハナは即答した。

「だから、消えたとは言いたくありません」

***

 朔は、そこで初めて口を開いた。

「一つ、俺の方から確認してもいいですか」

 ハナが頷いた。

「どうぞ」

「黒い外套の人を見たと聞いた時、俺はヴァルハという人を思い浮かべました」

 ガルが朔を見た。

 リオは何も言わなかった。

「その人は以前、黒い姿で現れたことがあります。だから、今回もそうかもしれないと思いました」

 朔は続けた。

「でも、今の話で一致しているのは、暗い色の服を着ていたことくらいです」

「ヴァルハ?」

 ハナが聞き返した。

「名前は聞いたことがあります。市場の噂で」

「姿をご存じでしたか」

「いいえ。会ったことはありません」

「では、今夜見た方の姿を、その名前に合わせて思い出す必要はありません」

 ハナは少し笑った。

「私は、誰かの名前を付けに来たわけじゃありませんから」

「はい」

「ただ、あそこに人がいたことを伝えたかったんです」

「ありがとうございます」

 ハナは茶碗を置いた。

「それで、私が言いたかったことを一つ、まだ話してません」

 フェルが顔を上げた。

「何でしょう」

「あの道、石壁の下から風が出るんです」

 ルカは同席していなかったが、朔は前日の測定記録を思い出した。

「いつもですか」

「いいえ。昔はそんなことなかった。あの夜だけです」

「風の向きは?」

「道の奥から手前へ。少し冷たかった」

「その人の外套は動いていましたか」

「動いていました」

「風で?」

「たぶん」

 ハナは両手で布が揺れる形を示した。

「でも、変だったのはそこじゃない」

「何がですか」

「その人は、風が出る前から、そこに立ってたんです」

 ハナは道の奥を指した。

「まるで、出てくるのを知ってたみたいに」

 フェルの筆が止まった。

 彼女はすぐに言い直した。

「……そう見えた、です」

「はい」

「風が出た時、その人はどうしましたか」

「棒を下ろしました」

「下ろした?」

「肩に掛けてたのを、地面へ向けたんです」

 ハナは、紙の上で棒を傾けた。

「何かを測ってるようにも見えました」

 朔はその図を見た。

 ガドたちは水路の流れを測るために、長い棒を使っている。

 それと似たことをしていたのかもしれない。

 だが、道具の用途までは分からない。

「その時、何か音はしましたか」

 朔が尋ねた。

「……しました」

 ハナは目を伏せた。

「石を叩くみたいな音です」

「何回でしたか」

「一度だけ、だったと思います」

「続けて?」

「いいえ。その後は聞いてません」

 ハナはしばらく黙った。

「これ、今まで話した人には言ってませんでした」

「なぜですか」

「後から、地下で音がするって噂を聞いたからです」

 彼女は顔を上げた。

「それで、自分が聞いた音まで、同じだったような気がしてきたんです」

 フェルは頷いた。

「では、そのことも一緒に記録します」

「お願いします」

 ハナは小さく息を吐いた。

「自分でも、どこまで覚えてるのか分からなくなってきて」

「今、確かめられることから始めましょう」

 フェルは、ハナが最初に話した内容と、後から地下の噂を知って思い出した内容を分けて書いた。

***

 聞き取りが終わると、ガルはハナへ礼を言った。

「話してくれて、ありがとうございました」

「何か役に立てばいいんですけど」

「道の場所が分かりました」

 ガルは答えた。

「それだけでも、俺には大事です」

 ハナは頷いた。

 彼女が店を出た後、リオは机の上の地図を見た。

「黒い外套。長い棒。風が出る道」

「はい」

 朔が答えた。

「ヴァルハやと思うか」

 朔は少し考えた。

「そうかもしれないと思っています」

「理由は」

「黒い外套の人物が、黒い現象のあった場所にいたからです。それから、風を確かめていたように見えたという話です」

「ほかには」

「ありません」

 リオは頷いた。

「俺も似たこと考えた。でも、違う人かもしれん」

「はい」

 ガルは二人を見た。

「もしヴァルハだったら、メルのことを知ってるかもしれませんか」

 朔は答える前に、少し間を置いた。

「可能性はあります。でも、それを理由に、ヴァルハさんへ質問しに行くつもりはありません」

「なぜ」

「以前、これ以上答えないと書かれたからです」

 ガルは顔を伏せた。

「……そうでしたね」

「ただ、あの道を調べることはできます」

「道を?」

「地下の風が出ていた場所です。今の調査とも関係するかもしれません」

 ガルは頷いた。

 探す相手の名前が出たから向かうのではない。

 実際に、風が出ていた場所がある。

 そこを調べる。

「俺も、手伝えることがあれば言ってください」

「お願いします」

 その時、ミエルが戻ってきた。

「聞き取りは終わった?」

「はい」

 フェルが答えた。

「本人の言葉で記録しました。確認してもらってから保管します」

「それならいい」

 ミエルは席へ座った。

「あと、あの人が一番気にしてたこと、聞けた?」

「行き止まりの道に人がいたことですか」

「それもそうだけど」

 ミエルは地図を指した。

「その道、今は通れないんだよ」

「封鎖されていますね」

「そう。でも、封鎖される前から、荷車の修理に使う道具が何度かなくなってた」

 リオが顔を上げた。

「道具?」

「長い測定棒みたいな物。古い金具。使い終わった木の柄」

「誰の物ですか」

「倉庫の近くで働いてた人たちの物だよ」

「盗まれた?」

「分からない」

 ミエルは答えた。

「なくなっただけ。誰も盗られるところは見てない」

 朔は、ハナの描いた棒を見た。

 途中に小さな輪。

 光った金具。

「その道具の一覧はありますか」

「職人たちが書いた控えならある」

「見せてもらえますか」

「持ち主の許可を取ってからね」

 朔は頷いた。

 ミエルは立ち上がった。

「誰かを追いかける話になったら、市場の人間は協力しないよ」

「分かっています」

「道具がなくなって、仕事に困ってる人がいる。その話なら別だ」

「そちらを調べます」

 ミエルは頷いて店を出た。

***

 午後、朔たちは旧紙倉へ戻った。

 ハナの聞き取り記録は、本人の確認を受けてから保管された。

 ガルは、自分がメルの道具かもしれないと考えたことを別紙に書いた。

 朔も、ヴァルハを思い浮かべたことを書いた。

 そして、ルカが地図を広げた。

「目撃場所は、ここですね」

 ハナが指した道の入口。

 北返二番倉の北側。

 古い荷道の途中。

「北返の排気塔からは、少し離れています」

 ルカが言った。

「ただ、旧図面には、この道の下へ細い通気路が伸びています」

「風が出た場所と重なる?」

 リオが尋ねた。

「近いです」

「実際に風が出てたなら、そこを調べる価値はあるな」

 ガドが答えた。

「ただ、今は地面が危ない。道の上へ人を出すんは無理や」

「別の位置から確かめられますか」

 朔が尋ねた。

「図面と外側の測定なら、できる」

 ガドは地図を見た。

「あと、道具がなくなった話。あれも気になる」

「なぜですか」

 ルカが尋ねた。

「古い金具や木の柄が、偶然なくなることはある。けど、長い棒が何本もなくなってるなら、誰かが使ってるかもしれん」

「地下の調査に?」

「そこまでは知らん」

 ガドは肩をすくめた。

「ただ、道具は勝手に歩かん」

 ファナが笑った。

「まあな」

 ガドは笑わなかった。

「持っていった人間がいるなら、その人に聞けばええ。壊れて捨てたなら、それも分かる」

 ルカは頷いた。

 人影の正体を追うより、道具の行方を調べる方が、今は確かめやすかった。

***

 夕方、旧紙倉の戸口に、ベラ・ソンが現れた。

 通常便の配達だった。

「南丘共同療養所からです」

 ルカが顔を上げた。

「ミナさんの?」

「宛名には、こちらの記録室が書かれています。差出人は施設です」

 ベラは封筒を渡した。

「中身は見ていません」

「ありがとうございます」

 ベラは受領印を確認し、そのまま次の配達へ向かった。

 ルカは封筒を開いた。

 中には、短い紙が一枚入っていた。

 施設からの説明はない。

 本文には、整った字でこう書かれていた。

 ルカ・フェン様

 私は、今の名前で暮らしています。

 過去の試験について、話したいことはありません。

 ただ、一つだけ伝えます。

 第七帰還口を閉じた時、そこにいたのは私ではありません。

 ミナ・ソルン

 ルカは最後の一文を読み直した。

 ネラも紙を見た。

「……そこにいたのは、私ではない」

 ユイが尋ねた。

「どういう意味?」

 ルカは答えなかった。

 過去の記録では、レア・ソルン本人は旧観測室で倒れ、その後、治療室へ移された。

 第七帰還口側で見つかったのは、本人の名前が刻まれた登録札だった。

 そこにレア本人がいたという記録は、これまで見つかっていない。

 それでも、ミナはこう書いていた。

 そこにいたのは私ではありません。

 朔は紙を見た。

 誰かが、そこにいた。

 そう読める言葉だった。

 だが、ミナが何を見たのか、誰を指しているのかは書かれていない。

「返事を求めますか」

 ネラが尋ねた。

 ルカは少し考えた。

「いいえ」

「理由は」

「話したいことはないと書かれています。その上で、一つだけ伝えてくれた」

 ネラは頷いた。

「その範囲を受け取ります」

 ユイは紙を見つめた。

「でも、気になる」

「私もです」

 ルカは答えた。

「ただ、気になるからといって、もう一度聞く理由にはしません」

 朔は、机の上の地図へ目を移した。

 第七帰還口。

 六番の経路。

 旧観測室。

 北返二番倉。

 そして、行き止まりの道にいた黒い外套の人物。

 それぞれの場所に、別々の人の言葉が残されている。

 ハナは、人影を見た。

 ガルは、メルを探している。

 ミナは、第七帰還口を閉じた時、そこにいたのは自分ではないと書いた。

 ヴァルハは、今はこれ以上答えないと書いた。

 朔はその四つを、同じ紙へまとめなかった。

 代わりに、ミナの手紙を封筒へ戻した。

 夕暮れの光が、机の端に置かれた金属札の写しを照らしていた。

 北返二番倉 七。

 帰還者用。

 誰のための札なのか。

 何を帰すための標識なのか。

 まだ分からない。

 ただ、閉じられた場所の周りで、今も人の暮らしが続いている。

 そして、その場所にいた誰かのことを、少なくとも一人は覚えているのかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。