第十一章 黒の向こう側 ⑧ 息をする道
北返の排気塔から、灰色の粉が出てきた。
最初に気づいたのはファナだった。
格子の下に置いた白い布へ、細かな粉が付いていた。前日の調査では、格子の奥に風の動きがほとんどなかったため、そのままにしていた布だった。
「ガド、見てみ」
ガドは布を持ち上げず、しゃがんで確かめた。
灰色の粉は、格子に近い側へ多く付いている。
「風が出たんか」
「夜の間にな」
「雨は?」
「降っとらん」
ガドは格子の下に置いた小さな水受けも見た。
水は入っていない。
布だけが汚れていた。
「昨日まで、風がなかった場所や」
ファナが言った。
「地下で何か変わったんやろか」
「確かめる」
ガドは周囲の地面を見た。
石柱に傾きはない。足元の石畳にも、目立った亀裂はなかった。
前日、北返二番倉の壁が沈んだ時、この石柱の位置は動いていない。
ガドは別の白布を格子から少し離れた位置へ置き、細い棒の先に付けた紙片で風を調べた。
紙片は、外側へわずかに傾いた。
「出とるな」
「弱いけどな」
その風には、乾いた土のような匂いがあった。
ルカが到着した時、ガドはまだ格子を外していなかった。
「灰色の粉が出ました」
ファナが布を指した。
ルカは保全した布と、前日に採取した石壁の灰色の膜、沈砂池の水を並べた。
色は近い。
しかし、布の粉は乾いている。
石壁の膜は、湿った状態で付着していた。
沈砂池の水には、粒子が沈んでいた。
「同じ物かどうかは、これから調べます」
ルカは布を封じた。
「今日は排気塔を開ける予定でしたが」
「中止するか?」
ガドが尋ねた。
「風が出ているなら、内部の状態が変わっています。まず周囲の空気を調べたいです」
「分かった」
ガドは工具袋を閉じた。
ファナが少し残念そうな顔をした。
「せっかく格子の錆びを落とす道具まで持ってきたのに」
「帰ってから磨いとけ」
「使わん道具を?」
「次に使えるやろ」
「いつや」
「決まったら言う」
ファナは笑い、布を運ぶための箱を取りに行った。
その時だった。
格子の奥から、低い風音がした。
短く、強く。
そして止まった。
ガドが紙片を近づける。
今度は、内側へ吸い込まれた。
「……逆になったな」
ルカは時計を見た。
紙片はしばらく内側へ傾き、やがて垂れ下がった。
風が止まる。
その後、また外側へ動いた。
ファナが戻ってきた。
「どうした?」
「風の向きが変わる」
「どっちに」
「両方や」
ガドは格子の奥を見た。
吸い込み。
停止。
吐き出し。
北返二番倉の点検口と、点検井では、これまで別々の方向へ空気が動いていた。
北返の排気塔では、同じ場所で向きが変わった。
「息みたいやな」
ファナが言った。
ガドは答えず、紙片の動きを見続けた。
比喩としては、その通りだった。
ただ、それを何かが呼吸している証拠にはしなかった。
***
昼前、サロは排気塔周辺の立ち入りを一時的に止めた。
格子から出た灰色の粉が何か分からないため、通行人が吸い込まないよう範囲を区切った。
近くの作業場には、窓を閉めてもらった。
そのうち一軒は、紙を乾かす仕事をしていた。
「風が入らんと乾かんのやけど」
作業場の主人が言った。
「今日だけでも南の広場を使えませんか」
イサラが尋ねた。
「そこも染屋が使っとるやろ」
「時間を分けられるか相談します」
「いつまでこんなことが続くんや」
イサラは答えに詰まった。
水が使えない。
道が通れない。
今度は空気まで調べなければならない。
北東地区の人々は、黒い現象の正体よりも、明日仕事ができるかを気にし始めていた。
「少なくとも、今夜の作業場所は確保します」
イサラが答えた。
「明日のことは、今日の調査が終わってから伝えます」
主人は腕を組んだ。
「昨日も似たこと言われたな」
「はい」
「毎日一日先しか分からんのか」
「今は」
イサラは言いかけ、口を閉じた。
そして言い直した。
「分かる範囲を増やすために調べています。でも、仕事が止まっている分は、それとは別に対応しなければなりません」
主人は少しだけ表情を緩めた。
「なら、南の広場の件、頼むわ」
「はい」
イサラは作業場所の調整へ向かった。
候補生たちは、その間に水桶を運んだ。
北返二番倉の封鎖は、さらに二日続く予定だった。
ただし、予定は安全の保証ではない。
測定で危険が増えれば、期間は延びる。
避難した五世帯には、今日も帰宅の許可が出なかった。
***
午後、ガドたちは北返の排気塔の近くへ戻った。
灰色の粉について、簡易検査の結果が出ていた。
石壁の膜と、沈砂池の沈殿物には、共通する鉱物が含まれている。
だが、北返の排気塔から出た粉には、細かい繊維状のものが多く混じっていた。
「布か?」
ファナが尋ねた。
「植物の繊維かもしれません」
ルカが答えた。
「古い綱や袋が崩れたものとも考えられます」
「地下に布があるんか」
「以前使われていた設備の一部かもしれません」
ガドは格子を見た。
「吹き出した粉の量は?」
「布一枚に付いた量なら少量です。ただ、夜の間ずっと出ていたかは分かりません」
「なら、今は中を開けん」
サロが頷いた。
「立ち入り禁止は続けよう」
ルカは排気塔の測定記録を見た。
風向きは、午前中から何度も変わっていた。
周期は一定ではない。
しかし、ある変化だけは共通していた。
北返二番倉の壁が軋んだ時、排気塔の風が強くなる。
その後、風向きが変わることがあった。
「建物の沈みと、風が関係しているかもしれません」
ルカが言った。
「下の空洞が押されたら、空気が動く」
ガドは図面へ目を落とした。
「石の重さで押し出されるなら、あり得る」
「でも、風向きが戻る理由は」
「別の空間から空気が入るんやろ」
ファナが言った。
「どこかでつながっとる」
ガドは頷いた。
「その可能性はある」
ルカは古い図面を広げた。
北返の排気塔は、第六経路の通常返路に近い位置にある。
その一方で、第七帰還口は、北返二番倉の下にあると推定されていた。
図面では別々の経路だった。
しかし、空気が地下の空間を通って移動しているなら、どこかで接している可能性がある。
「第六経路の方から、七番側へ空気が動いてる?」
ファナが尋ねた。
「まだ方向を決められません」
ルカが言った。
ガドは排気塔を見た。
「無理に開けんでも、風が教えてくれることはある」
「測り続けます」
ルカは答えた。
***
同じ頃、旧紙倉ではネラが南丘共同療養所から届いた返事を読んでいた。
施設は、ルカたちの照会に対して、本人の意思を確認したと書いていた。
ただし、返事は短かった。
過去の試験について、本人は直接の面会を希望していません。
書面であれば、内容を確認する意思があります。
呼称については、本人が現在使用しているものを尊重してください。
その下に、現在の呼称が記されていた。
ミナ・ソルン。
ネラはしばらく、その文字を見ていた。
レア・ソルン。
古い記録の中にあった名前。
今、施設が伝えてきた名前は違っていた。
「同じ人なんですか」
ユイが尋ねた。
ネラは顔を上げた。
「施設は、過去の記録について本人の意思を確認したと書いています」
「じゃあ、ミナさんがレアさん?」
「施設は、現在の呼称としてミナ・ソルンを示しています」
ユイは頷いた。
「なら、ミナさんって呼ぶんだね」
「はい」
朔は返事を読んだ。
本人は面会を望んでいない。
しかし、書面なら確認する意思がある。
それは、調査への全面的な協力を約束したものではない。
質問内容を見てから、答えるかどうかを決めるということだ。
「最初の質問は、何にしますか」
ルカが尋ねた。
ネラは少し考えた。
「第七帰還口を閉じた理由を、覚えているかどうか」
「それを最初に?」
ユイが尋ねた。
「本人が当時の記録に関わっていたからです」
「でも、覚えてないかもしれない」
「そうですね」
朔が口を開いた。
「まず、今の暮らしを邪魔しない形で連絡を取れるか、確認するのはどうでしょう」
「施設は書面なら、と答えています」
ルカが言った。
「それなら、質問は一つだけにしましょう」
ネラは頷いた。
最初の質問を短く書いた。
過去の試験について、現在、話したいと思うことはありますか。
その下に、返事をしなくてもよいことを記した。
内容を限定しない。
本人が語りたい範囲を、本人に決めてもらう。
ユイはそれを読み、少し首を傾げた。
「何も話したくないって言われたら?」
「それが返事になります」
ネラが答えた。
「じゃあ、もう聞かない?」
「はい」
ユイは頷いた。
手紙は、ミナ・ソルン宛てに封じられた。
***
夕方、北返二番倉の周囲では、壁の沈みが一時的に止まっていた。
ガドは測定杭の前に立ち、ファナと数字を照合した。
「朝から動いてへん」
「珍しいな」
「水の流れを変えたのが効いてるんかもしれん」
「そうやとええけど」
ファナは倉庫を見た。
「でも、空気は動いとる」
北返の排気塔では、今も弱い風が出入りしている。
点検井では、ほとんど風がない。
倉庫の点検口では、まだ内側へ空気が吸い込まれていた。
三つの場所で、空気の動きが違っていた。
ガドは周辺の地図を見た。
「通路が一本だけなら、もっと単純な流れになるかもしれん」
「枝分かれしてるんか」
「そうやろな」
ファナは地下へ目を向けた。
「人が入れる道もあるんやろか」
「あるかもしれん」
「誰かが使ってたら」
ガドは答えなかった。
メルが姿を消した水路。
誰も開けていないはずの第七帰還口。
地下で動く空気。
それらを結ぶ道があるかもしれない。
だが、その道を誰が使ったかは、まだ分からない。
ガドは測定を終えた。
「今日はここまでや」
ファナが頷いた。
二人は道具を片づけ、封鎖線の外へ出た。
***
その夜、旧紙倉にはガル・メナが来ていた。
彼は北東水路の調査記録を読みたいと申し出ていた。
メルが最後に姿を消した場所と、地下通路の推定位置が近いと知ったためだった。
ルカは、公開できる範囲の地図を広げた。
「現在の調査では、地下に複数の空間がある可能性が高いと考えています」
「メルが通った道は?」
ガルが尋ねた。
「まだ確認できていません」
「その道は、どこかへ続いてるんですか」
「空気が動いているので、どこかでつながっている可能性はあります」
「人が通れる?」
「それは分かりません」
ガルは地図を見つめた。
北返二番倉。
第七帰還口。
旧染料水路。
そして、メルが最後に目撃された場所。
「……俺、ずっと地上を探してた」
ガルが言った。
「はい」
「水路の下に道があるなんて、考えもしなかった」
ルカは黙って聞いた。
「でも、メルがそこにいるって決めたいわけじゃない」
「分かっています」
「ただ、道があるなら調べてほしい」
「調べます」
ガルは頷いた。
その時、リオが入ってきた。
「ガル。少しええか」
「何や」
「旧市場の人から聞いたんやけど」
リオは手に持った小さな紙を見た。
「北東の水路で黒い水が上がった夜、旧道の外れに人影を見たって話がある」
ガルが顔を上げた。
「誰が?」
「名前はまだ確認できてへん。見た人がいる、って聞いただけや」
「どんな人影」
「黒い服やったらしい」
その言葉で、朔は顔を上げた。
黒い服。
ヴァルハ。
思い浮かべた名前を、口には出さなかった。
リオは続けた。
「その人影が、何かを持って歩いてたらしい」
「何を」
「細長い物やったって」
ガルは地図へ目を戻した。
「メルの荷物?」
「分からん」
リオが答えた。
「誰の物かも、何かも」
朔は、地図を見た。
北東の水路。
黒い水。
そして、黒い服の人影。
ヴァルハが関わっている可能性はある。
ただ、黒い服を着た人物が一人いたという話だけで、名前を決めることはできない。
「目撃した人に、直接確認できますか」
朔が尋ねた。
「できると思う。ミエルが話を聞いてくれてる」
「では、その人の言葉を先に聞きましょう」
リオは頷いた。
ガルは少しだけ息を吐いた。
「俺も聞きたい」
「本人が話してくれるなら」
朔が答えた。
「お願いします」
ガルは地図を畳んだ。
その夜、旧紙倉の窓の外では、北東の空に細い雲が流れていた。
北返の排気塔では、まだ風が出入りしている。
地下の道がどこへ続くのかは分からない。
だが、その道の近くで、誰かが歩いていたかもしれない。
朔は、まだ名前を付けなかった。
ただ、翌朝の目撃者への聞き取りに参加することを決めた。




