第十一章 黒の向こう側 ⑦ 音が止んだ朝
北返二番倉の下から、音が聞こえなくなった。
夜明けの見張りを引き継いだトナ・ベルは、そのことにすぐ気づいたわけではなかった。
いつもなら第一鐘の前後に、石を叩くような低い音がする。昨日までの記録には、夜中に二度、明け方に一度、打音を聞いたと書かれていた。
今朝は、なかった。
だが、音がしないことに気づいたのは、第一鐘を聞いてからしばらく経った時だった。
トナは帳面を開いた。
第一鐘までの見張り時間中、打音を認めず。
少し考え、最後に付け加えた。
監視者二名。常時聴取を行っていたわけではない。
隣の見張りが、倉庫を見た。
「もう終わったんかな」
「何が?」
「下の、あれや」
「分からん」
トナは筆を置いた。
「でも、音を聞くためだけに、ここに立ってるわけやない」
倉庫の外壁には、測定用の印が残っていた。
夜明けの光で見ると、北東側の亀裂が昨日より広がっている。
トナは連絡係を走らせた。
音が止んでも、建物は沈んでいた。
***
ルカは前日の打音記録を机に並べていた。
最初に音が確認された日から、夜間の見張り、点検井の調査、地上からの呼びかけまで。記録用紙は既に十枚を超えていた。
イサラが立ち会った日の打音は、点検井側と離れた地点で、ほぼ同じ時刻に聞かれている。
一度、二度、一度。
ただし、毎回その形だったわけではない。
一度だけの音もある。二度続いた音もある。間隔が長く、回数を分けてよいか判断できなかった例もあった。
「呼びかけの後の音だけを見ると、返事みたいに思える」
リオが言った。
「はい。でも、呼びかけをしていない時間にも鳴っています」
ルカは別の紙を示した。
呼びかけ前の二時間には三件。
呼びかけ後の二時間には二件。
ただし、観測場所も記録方法も違う。
「前から音は鳴っていたんです」
ルカが言った。
「呼びかけた直後に鳴ったことは事実ですが、それを応答だと判断できる比較にはなっていません」
「じゃあ、今日はもう一度呼ぶんか」
ガドが尋ねた。
「私は、今はしない方がいいと思います」
「理由は?」
「昨夜から今朝にかけて、音が止まっています。それに、倉庫の壁が動いている」
ガドは頷いた。
「俺も同じや。まず建物の方を見る」
朔は椅子に座ったまま、記録を見ていた。
「呼びかけを続けないと、地下に人がいた場合の確認が遅れます」
リオが言った。
「そうやな」
ガドは答えた。
「だから、音とは別に、人がおる可能性を調べる。倉庫へ入らずにできる方法でな」
「例えば?」
「昔の出入口や通気口が、ほかに残ってへんか調べる。そっちから灯りや音が届くかもしれん」
ルカは地図へ印を付けた。
地下の空間を確かめる方法は、呼びかけだけではなかった。
***
午前中、北東地区では一時避難の対象がさらに広がった。
北返二番倉の外壁が沈み、近くの石畳にも亀裂が見つかったためだった。
サロは住民を集め、封鎖範囲を説明した。
「倉庫から南へ二十歩。北側の道も、点検が済むまで通れません」
「いつ戻れるんですか」
避難した女性が尋ねた。
「今日中には判断できません」
「昨日もそう言われました」
「はい」
「明日も?」
「可能性はあります」
女性は眉を寄せた。
「水も使えない。家にも戻れない。何日も待てと言われても困るんです」
サロは頷いた。
「そうですね」
「そうですね、じゃなくて」
「今日、避難先の延長と、仕事を休んだ分の支援について話し合います。私だけで金額は決められませんが、必要な額を集めるところまでは進めます」
「書けば、出るんですか」
「必ずとは言えません」
「じゃあ、何のために書くんです」
サロは一度、黙った。
彼が答える前に、エダが口を開いた。
「出なかった時に、誰が断ったか分かるようにするためや」
女性が振り向いた。
「それでお金が戻るんですか」
「戻らんかもしれん」
エダは言った。
「でも、困ってるのに何も言わなかったことにはされん」
女性はしばらく黙っていた。
「……じゃあ、昨日から仕事に行けてないことも書いてください」
「分かった」
サロは帳面を開いた。
エダはその横で、使える水の残量を数え始めた。
井戸の濁りは、まだ解消していない。
南から運んだ水で飲用と調理は維持できていたが、染屋の仕事に回せる量は限られていた。
イサラは候補生たちと荷車を押していた。
昨日より、運ぶ距離が長くなっている。
封鎖された道を避ける必要があるからだ。
「隊長、こっちの道なら近いです」
候補生が細い路地を指した。
「そこは、北返二番倉の裏へ出る」
「でも、通れます」
「通れても、使いません」
イサラは荷車を南へ向けた。
「今日は遠回りする」
「一往復でかなり時間が違います」
「分かってる」
彼女は少し考えた。
「次から荷車を二台に増やそう。近道を使わなくても、運べる量を増やせる」
候補生は頷いた。
誰かが危険な近道を使わなければ回らない仕組みなら、運び方の方を変える。
イサラはそう決めた。
***
昼、ガドたちは北返二番倉から離れた場所にある古い排気塔を見つけた。
現在の地図では、ただの石柱として描かれている。
だが、ルカが持ってきた古い設備図には、地下通路の通気口として記載されていた。
石柱の高さは大人の背丈ほど。上部には格子があるが、土と枯葉で半分ほど塞がれていた。
「これなら倉庫から離れてる」
ファナが言った。
「下につながってるかは、まだ分からんけどな」
ガドは石柱の周囲を確認した。
地面は乾いている。
近くの石畳にも新しい亀裂はなかった。
格子を外さず、長い棒の先に紙片を付けて風を確かめる。
紙片はほとんど動かなかった。
「風がない」
ファナが言った。
「詰まってるんかもしれん」
ガドは格子の奥へ灯りを向けた。
石の内側には、細い縦穴があった。
底までは見えない。
その時、ルカが図面を指した。
「この塔は、第七帰還口の真上ではありません」
「どこや」
「第六経路の通常返路に近い位置です」
ガドは顔を上げた。
「六番か」
「はい」
「七番とは違うんやな」
「図面では、別の経路です」
ファナは石柱を見た。
「こっちが使えるなら、七番へ近づかんでも下を調べられるかもしれん」
「ただし、下でつながってたら話は別や」
ガドは言った。
それでも、彼らは初めて、北返二番倉の床下以外から地下を確かめるための場所を見つけた。
その日の作業は、格子の状態と周囲の地盤の調査だけで終えた。
石柱を開けるかどうかは、サロと設備管理者の判断を待つことになった。
***
同じ午後、旧観測室付属記録室では、フェルとネラが補修前の壁面図を確認していた。
十二年前の図には、二本の黒い線が描かれている。
一本はまっすぐ。
もう一本は途中からわずかに曲がっている。
五番の無記名紙にあった線と形が近い。
ただし、補修記録にはK.K.という文字の記載がなかった。
「文字については、別の観測記録だけに残っています」
フェルが言った。
ネラは頷いた。
「当時の私が書いたものですね」
「はい」
「ほかの職員は、光が揺れたと記録しています」
「そうです」
ネラは壁を見た。
補修された部分は、周囲より少し白い。
「私が見たK.K.と、ここにあった二本の線が、同時に見えていたのかも分かりません」
フェルは図を重ねなかった。
代わりに、別々の紙へ位置を書いた。
ネラの証言でK.K.が見えた場所。
補修記録で黒い線が描かれていた場所。
両者は近い。
だが、完全には重ならない。
「違う場所ですね」
ネラが言った。
「はい」
「では、同じものを見たという説明は難しい」
フェルは頷いた。
「少なくとも、位置だけでは説明できません」
その時、管理者が別の保守票を持ってきた。
「補修後の点検記録がありました」
フェルが受け取る。
そこには、壁の亀裂を埋めた後の確認結果が書かれていた。
壁面修復済。黒色付着なし。
観測時の発光現象、再現せず。
そして最後に、小さく一文。
補修後、記録室内の空気の流れが変化。
「空気?」
ネラが尋ねた。
管理者は頷いた。
「補修前は、扉を閉じても机の紙が動くことがあったそうです。補修後は止まったと」
フェルはその一文を記録した。
北返二番倉では、空気が地下へ吸い込まれている。
点検井では、地下から空気が出ている。
そして、十二年前の旧観測室では、壁の補修後に空気の流れが変わった。
すぐにつなげるには、場所も年代も離れていた。
だが、空気の流れは、図面から調べられる現象だった。
「この部屋の壁の裏には、何がありますか」
フェルが尋ねた。
管理者は施設図面を開いた。
「現在の図面では、埋められた空間です」
「その前は」
「旧式の通気路だったと記録されています」
ネラは顔を上げた。
「どこへ続いていたんですか」
管理者は図面の端を指した。
「南側の排気塔です」
***
夕方、南丘共同療養所から、二通目の連絡が届いた。
ルカが送った手紙は、施設側で確認された。
ただし、レア本人へ渡されたかどうかは、まだ記載されていない。
代わりに、施設から質問があった。
面会を希望する者は、過去の試験関係者か。
現在、対象者の名前を記録上どのように扱っているか。
ルカはその文章を読み、ネラへ渡した。
「どう答えますか」
ネラは少し考えた。
「私たちは、過去の試験を実行した者ではありません。ただ、閉鎖記録を調べている関係者です」
「はい」
「名前については……」
彼女は言葉を止めた。
レア・ソルン。
古い記録に残っている名前。
それが、今の本人の名前とは限らない。
「過去の記録ではレア・ソルンと記載されています、と答えましょう」
ネラが言った。
「今の名前については、こちらでは分かりません」
ルカは頷いた。
返信を書き始めた。
施設側が慎重なのは、単に医療情報を守るためだけではないのかもしれない。
ただ、それを確かめるために、本人の名前を尋ねることはしなかった。
***
夜、旧紙倉には三つの報告が集まった。
地下の打音は、今朝からほとんど確認されていない。
第六経路の通常返路に近い場所で、古い排気塔が見つかった。
旧観測室付属記録室の壁の裏にも、かつて通気路があり、南側の排気塔へつながっていたという。
朔は二枚の図面を見た。
一つは北返二番倉周辺。
もう一つは旧観測室。
どちらにも、使われなくなった排気塔がある。
ただし、同じ施設ではない。
距離も離れている。
「排気塔の構造を比べられますか」
朔が尋ねた。
「できます」
ルカが答えた。
「開けなくても、外側の寸法と古い図面なら調べられます」
「お願いします」
リオが机の上へ水の入った器を置いた。
「今日は、音が止まったんやな」
「はい」
ガドが答えた。
「でも、壁は沈んどる」
「なら、音が止まったから安全とは言えん」
「そういうことや」
ユイは記録を見た。
「昨日は、誰かいるかもしれないって思った」
「はい」
朔が答えた。
「今日は、音がしない」
「そうですね」
「もし誰かいたら、どうなったんだろう」
朔はすぐに答えなかった。
打音が人のものだったなら、音が止まったことは悪い知らせかもしれない。
石の動きだったなら、別の変化を示しているのかもしれない。
ただ、今はどちらにも決められない。
「明日、排気塔を調べます」
ガドが言った。
「倉庫へ入らずに、地下の状態を確かめる方法を増やしたい」
ユイは頷いた。
「それなら、できることがあるね」
「ああ」
ガドは答えた。
「まだある」
朔は、南丘共同療養所への返信を見た。
レア・ソルンという名が、過去の記録にある。
しかし、施設は現在の名前の扱いを尋ねてきた。
それは、単なる事務確認かもしれない。
あるいは、その名前を使うこと自体に、理由があるのかもしれない。
朔はその問いを、今は記録へ書かなかった。
手紙の封は、明朝の便で送ることになっていた。
ルカが最後に、返信文を読み上げた。
「過去の記録では、レア・ソルンという名前が使われています。現在の本人の名前について、私たちは確認していません」
ネラが頷いた。
「それでお願いします」
封筒が閉じられた。
その夜、北返二番倉の下からは、打音が聞こえなかった。
見張りの者たちは、音がしなかった時間を記録した。
そして、倉庫の壁がさらに少し沈んだことも、同じ頁へ書き加えた。




