第十一章 黒の向こう側 ⑥ 呼びかけの届く場所
夜明け前、北返二番倉の下で、また音が鳴った。
見張りの二人は、互いの顔を見た。
最初の音は一度。少し間が空いて、続けて二度。最後に、もう一度。
片方が時刻を書き、もう片方が倉庫の壁を見た。
壁は動いていない。
少なくとも、離れた位置から確認できる範囲では。
「昨日と同じやな」
「同じ回数や」
「同じ音かどうかは知らん」
見張りはそう答えて、時刻を書き足した。
やがて日が昇ると、倉庫の北側に張られた縄の向こうへ、ガドとファナがやって来た。
ガドは報告を読み、時刻の部分へ指を置いた。
「一回、二回、一回、か」
「昨日もそうでした」
見張りが言った。
「昼も、夜も」
「誰かが叩いてると思うか」
「……思います」
「そうか」
ガドは否定しなかった。
倉庫の壁へ目を向ける。
「俺は、まだ石が動いてる音やと思っとる」
見張りは少し驚いた顔をした。
「でも、回数が」
「そこが気になる」
ガドは帳面を閉じた。
「だから、今日も測る」
***
旧紙倉では、三か所で記録された打音の時刻が並べられていた。
点検井の近くにいたガドたち。
離れた場所にいたイサラと候補生。
夜間の見張り。
ルカは三つの記録を照合した。
昼の二つは、おおむね同じ時刻だった。
ただし、使っていた時計が違う。
点検井では水時計を使い、イサラたちは鐘を基準にしていた。後から鐘の時刻へ換算すると、数分の幅が残った。
「同じ音を聞いた可能性は高いと思います」
ルカが言った。
フェルは記録を見た。
「音の回数は?」
「ガドさんたちが一、二、一。イサラさんも一、二、一です。ただ、間隔の長さは測っていません」
「夜の記録は」
「最初が一、二、一。その後、一度だけの音がありました」
リオは机へ肘を置いた。
「合図みたいやな」
「そう見えますね」
ルカが答えた。
「でも、誰かが合図しているとは限りません」
「分かっとる。けど、規則的に聞こえるんは確かやろ」
「はい」
ガドが横から言った。
「石でも同じ場所へ繰り返し当たれば、似た音は出る。地下の水が何かを動かしてるのかもしれん」
「なら、その動きが止まったかどうかも調べたい」
リオが言った。
ルカは頷いた。
打音の記録は、現在も続ける。
ただし、聞き取った回数だけでなく、時刻、場所、音の間隔、風の状態、壁の動きを一緒に記録することになった。
その時、ユイが尋ねた。
「今日は、声を掛けるんでしょう?」
朔が顔を上げた。
前日に決めた方針だった。
地下に人がいる可能性を確かめる。
ただし、建物の中へは入らない。
「条件を決めてからです」
ルカが答えた。
「どんな条件?」
「呼びかける場所、回数、言葉。返事があった場合の対応です」
「名前は呼ばないんだよね」
「はい」
朔は机の上へ一枚の紙を置いた。
そこには、短い文だけが書かれていた。
「こちらは地上の調査担当です。地下に人がいる場合は、今いる場所が安全か知らせてください」
ユイは読んだ。
「名前を聞かないんだ」
「聞く必要はありません」
「返事がなかったら?」
「二度目は時間を置いて、一回だけ繰り返します。その後は呼びかけを止めます」
「違う声が返ってきたら?」
朔は少し考えた。
「同じ言葉を繰り返しても、別の言葉でも、聞こえたまま記録します」
「助けてって言われたら?」
イサラが答えた。
「まず、場所と危険を確かめます。救助できる経路があるかを調べる」
「すぐ入らない?」
「崩れかけた倉庫へ飛び込めば、救助する人まで危険になります」
ユイは頷いた。
「声を掛けること自体は、安全なの?」
その問いに、ルカはすぐに答えなかった。
「安全だと確認されたわけではありません」
「じゃあ、どうするの」
「一人だけが決められた文を読みます。ほかの人は離れた位置で観測します。異変が起きたら中止します」
ガドが言った。
「呼びかけるのは俺がやる」
「なぜ?」
ユイが尋ねた。
「場所を知っとる。何かあった時に、どこへ下がるかも分かっとる」
「怖くない?」
「怖いよ」
ガドは即答した。
「だから、準備する」
***
同じ朝、ネラは中央の配置転換記録を調べていた。
レア・ソルンの名前は、思ったより早く見つかった。
古い人員台帳には、旧観測室から別の施設へ移った記録が残っていた。
レア・ソルン。記録補助員。南方療養施設へ配置転換。
日付は、第六経路の試験停止からおよそ一か月後だった。
転換理由の欄には、身体の静養と書かれている。
ネラは台帳を閉じず、次の頁を確認した。
南方療養施設は、現在も存在していた。
ただし、名称が変わっている。
古い施設名は、南方静養院。
現在の名称は、南丘共同療養所。
ネラは、現在の管理者へ照会状を作成した。
本人がまだ暮らしているかどうか。
連絡を取りたい場合、どのような手順が必要か。
本人の医療情報や生活記録は求めない。
最初の照会は、その二点に限った。
照会状を書き終えた時、ルカが記録室へ戻ってきた。
「見つかりましたか」
「転換先だけは」
ネラは台帳を示した。
「南丘共同療養所です」
「今も?」
「施設はあります。ただ、レアさんがいるかどうかは、これから確認します」
ルカは頷いた。
「現場では、今日、呼びかけをします」
「地下へ?」
「はい。名前を使わず、一度だけの試験的な呼びかけです」
ネラは少し考えた。
「私も立ち会った方がいいでしょうか」
「ご自身で決めてください。今日は、旧観測室の調査もあります」
「旧観測室の方へ行きます」
ネラは答えた。
「十二年前に私が見た場所です。現場で何か起きた時、私がそちらへ行っても役に立つか分かりません」
ルカは頷いた。
役割は分かれた。
地下の呼びかけは、ガドたち。
旧観測室の記録確認は、ネラとフェル。
レアの所在照会は、中央記録室から送る。
どの作業も、別の結果を待つ必要はなかった。
***
北返二番倉の周囲には、昨日より広い封鎖線が張られていた。
外壁の沈みは、朝の測定ではさらにわずかに進んでいた。
だが、昨夜のような大きな亀裂の拡大はない。
ガドは、点検井から十分に離れた場所に立った。
声を届けるため、長い筒を使う。
筒の先を点検井の通気孔へ向け、直接近づかなくても呼びかけられるようにした。
イサラは周囲の退避路を確認した。
「異変があれば、全員こちらへ下がります」
サロが頷いた。
「住民の立ち入りも止めてある」
ルカは時計を確認した。
記録担当は二人。
一人は言葉の聞き取り。
もう一人は水位と風、壁の状態を見る。
ガドは筒を持ち、決められた文を読んだ。
「こちらは地上の調査担当です。地下に人がいる場合は、今いる場所が安全か知らせてください」
声は筒を通り、石の奥へ吸い込まれるように消えた。
誰も動かなかった。
風は弱い。
点検井からは、冷たい空気が少しだけ出ている。
一分。
二分。
何も聞こえなかった。
ガドは筒を下ろした。
「返事はない」
ルカは時刻を書いた。
「予定どおり、少し待ちます」
その時、ファナが眉を寄せた。
「……今の、聞こえたか」
「何が」
「音」
全員が耳を澄ました。
地下から、低い打音がした。
一度。
間を置いて、二度。
さらに、一度。
ガドは筒を握ったまま動かなかった。
ルカが時刻を書いた。
「前と同じ回数です」
「人が返してるんやろか」
ファナが呟いた。
「それを確かめるために、もう一度呼ぶ」
ガドは決められた時刻まで待った。
そして、同じ文を繰り返した。
「こちらは地上の調査担当です。地下に人がいる場合は、今いる場所が安全か知らせてください」
声が消える。
今度は、長い沈黙が続いた。
やがて、何かが聞こえた。
言葉ではなかった。
石を擦る音。
その後に、短い打音が一つ。
ルカは記録した。
ガドは筒を下ろした。
「ここまでや」
誰も三度目を求めなかった。
だが、ファナは地下の方を見ていた。
「人がいたら、どうする」
「助ける方法を考える」
ガドが答えた。
「石の音しかなかったら」
「壁が崩れんようにする」
「どっちでも、やることはあるんやな」
「ああ」
ガドは筒を片づけた。
その時、ルカが記録の最後に一行を書き加えた。
呼びかけ後、打音を確認。ただし、応答であるかは未判定。
***
午後、ネラとフェルは旧観測室へ向かった。
建物は中央の管理区域にあり、現在は一部が資料保管庫として使われている。
旧観測室付属記録室は、廊下の奥にあった。
十二年前、ネラがK.K.の文字を見た場所。
扉には封印が残っている。
管理者が立ち会い、封印の状態を確認した後、扉が開かれた。
部屋の中は薄暗かった。
棚はほとんど空で、壁には補修の跡がある。
窓は一つ。
その下には、古い机が残っていた。
「ここです」
ネラが言った。
「十二年前に文字を見たのは、この壁です」
彼女は西側の壁を指した。
フェルは位置を記録した。
「今、何か見えますか」
「いいえ」
壁は白い。
ただし、補修した部分だけ、少し色が違っていた。
フェルは管理者へ尋ねた。
「この壁は、いつ補修されたんですか」
「記録を確認します」
管理者は古い保守票を取り出した。
十二年前の観測後、壁面の剥離が見つかり、補修が行われていた。
その記録には、補修前の状態を描いた簡単な図が付いていた。
西側の壁。
中央より少し右。
縦に細い亀裂が一本。
その横に、黒い線が二本。
ネラは図を見た。
「……こんな線があったんですか」
「記録ではそうなっています」
フェルが答えた。
一本はまっすぐ。
もう一本は途中でわずかに曲がっている。
オスロの帳面にあった、無記名紙の図とよく似ていた。
フェルはその場で写しを作り、二つの図を並べた。
幅は違う。
長さも違う。
だが、線の形は近かった。
「同じものだと思いますか」
管理者が尋ねた。
フェルは答えなかった。
代わりに、ネラを見た。
「十二年前、あなたはこの線を見ましたか」
ネラはしばらく考えた。
「覚えていません」
「K.K.は」
「見ました」
「線は」
「……分かりません」
フェルは頷いた。
記録は、そのまま分けた。
十二年前のネラの証言:K.K.の文字を視認。
十二年前の補修記録:西壁面に二本の黒い線を記載。
両者の関係:未確認。
ネラは壁へ近づきかけ、足を止めた。
補修された部分には、今は何も見えない。
それでも、彼女の視線はそこから離れなかった。
***
夕方、旧紙倉へ二つの報告が届いた。
一つは、地下への呼びかけ。
もう一つは、旧観測室付属記録室の調査。
朔は机に置かれた二枚の紙を見た。
呼びかけに対して、打音があった。
ただし、人の応答であるかどうかは分からない。
旧観測室の補修記録には、二本の黒い線が描かれていた。
それは、古い試験記録の紙に残った線と形が似ていた。
リオが図を見比べた。
「似とるな」
「はい」
朔が答えた。
「同じ場所でも、同じ物でもない。でも、形が近い」
「偶然かもしれんけど、調べる価値はあるやろ」
「あります」
ユイは二枚の図を見た。
「これ、文字じゃないのかな」
「文字?」
朔が尋ねた。
「二本の線だけで、何かを表してるのかもしれない」
フェルが言った。
「その可能性もあります」
「誰が書いたんだろう」
ユイは指先を図の上へ近づけた。
「最初の紙にあった線と、壁にあった線。違う人が書いたなら、どうして似たんだろう」
朔は答えなかった。
ただ、頭の中に白い部屋が浮かんだ。
K.K.という文字。
RETURNという表示。
そして、名前を使うなという古い警告。
それらを今、一本の線で結ぶことはできない。
けれど、調べる対象は少しずつ具体的になっていた。
その時、ノエが入ってきた。
「南丘共同療養所から、返事がありました」
ネラが顔を上げた。
「レアさんの件ですか」
「はい」
ノエは封筒を開いた。
施設は、本人の医療情報を開示しない。
現在の生活状況も、本人の許可なく伝えることはできない。
ただし、連絡を取りたいという申し出については、本人の意思を確認する手続きがあるという。
「つまり、本人へ手紙を届けてもらえる?」
ユイが尋ねた。
「届けるかどうかは、施設が本人と相談して決めるそうです」
ルカが頷いた。
「それなら、まず目的を書いた短い手紙を作ります」
朔は机の端に置いていた調査票を引き寄せた。
レア・ソルン。
名前を書いた紙の試験に使われ、自分の名を答えなくなったと記録された人。
今、どこで生きているかは分からない。
だが、連絡を取る方法は一つ見つかった。
「質問は、まだ書かない方がいいですね」
朔が言った。
「まず、話す意思があるかどうかだけを確かめる」
ネラは頷いた。
ルカも同意した。
その夜、短い手紙が作られた。
差出人は、ルカ・フェン。
内容は、第七帰還口の閉鎖に関する過去の記録を調べていること。
当時の出来事について、本人が話す意思を持つかどうかを尋ねたいこと。
話したくない場合、返事を求めないこと。
それだけだった。
封をする前に、ユイが尋ねた。
「名前は、書くの?」
「宛先には必要です」
ルカが答えた。
「でも、それ以外に名前を使って何かを確かめたりはしません」
ユイは頷いた。
手紙は封じられた。
旧紙倉の窓の外では、夕暮れが深くなっていた。
北返二番倉の下では、今夜も音が鳴るかもしれない。
旧観測室の壁には、二本の線があった。
そして、南丘のどこかには、自分の名前を答えなくなったことのある人が、今も生きているかもしれなかった。
朔は最後に、地下への呼びかけの記録をもう一度見た。
呼びかけは二回。
返事と断定できる言葉はなかった。
打音は続いている。
それだけだった。
だが、今度は、その音を聞いた者が、一人ではなかった。
北返二番倉の地下には、何かがある。
そして、誰かがいるかもしれない。
その可能性を、翌日も調べることになった。




