↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
141/151

第十一章 黒の向こう側 ⑥ 呼びかけの届く場所

 夜明け前、北返二番倉の下で、また音が鳴った。

 見張りの二人は、互いの顔を見た。

 最初の音は一度。少し間が空いて、続けて二度。最後に、もう一度。

 片方が時刻を書き、もう片方が倉庫の壁を見た。

 壁は動いていない。

 少なくとも、離れた位置から確認できる範囲では。

「昨日と同じやな」

「同じ回数や」

「同じ音かどうかは知らん」

 見張りはそう答えて、時刻を書き足した。

 やがて日が昇ると、倉庫の北側に張られた縄の向こうへ、ガドとファナがやって来た。

 ガドは報告を読み、時刻の部分へ指を置いた。

「一回、二回、一回、か」

「昨日もそうでした」

 見張りが言った。

「昼も、夜も」

「誰かが叩いてると思うか」

「……思います」

「そうか」

 ガドは否定しなかった。

 倉庫の壁へ目を向ける。

「俺は、まだ石が動いてる音やと思っとる」

 見張りは少し驚いた顔をした。

「でも、回数が」

「そこが気になる」

 ガドは帳面を閉じた。

「だから、今日も測る」

***

 旧紙倉では、三か所で記録された打音の時刻が並べられていた。

 点検井の近くにいたガドたち。

 離れた場所にいたイサラと候補生。

 夜間の見張り。

 ルカは三つの記録を照合した。

 昼の二つは、おおむね同じ時刻だった。

 ただし、使っていた時計が違う。

 点検井では水時計を使い、イサラたちは鐘を基準にしていた。後から鐘の時刻へ換算すると、数分の幅が残った。

「同じ音を聞いた可能性は高いと思います」

 ルカが言った。

 フェルは記録を見た。

「音の回数は?」

「ガドさんたちが一、二、一。イサラさんも一、二、一です。ただ、間隔の長さは測っていません」

「夜の記録は」

「最初が一、二、一。その後、一度だけの音がありました」

 リオは机へ肘を置いた。

「合図みたいやな」

「そう見えますね」

 ルカが答えた。

「でも、誰かが合図しているとは限りません」

「分かっとる。けど、規則的に聞こえるんは確かやろ」

「はい」

 ガドが横から言った。

「石でも同じ場所へ繰り返し当たれば、似た音は出る。地下の水が何かを動かしてるのかもしれん」

「なら、その動きが止まったかどうかも調べたい」

 リオが言った。

 ルカは頷いた。

 打音の記録は、現在も続ける。

 ただし、聞き取った回数だけでなく、時刻、場所、音の間隔、風の状態、壁の動きを一緒に記録することになった。

 その時、ユイが尋ねた。

「今日は、声を掛けるんでしょう?」

 朔が顔を上げた。

 前日に決めた方針だった。

 地下に人がいる可能性を確かめる。

 ただし、建物の中へは入らない。

「条件を決めてからです」

 ルカが答えた。

「どんな条件?」

「呼びかける場所、回数、言葉。返事があった場合の対応です」

「名前は呼ばないんだよね」

「はい」

 朔は机の上へ一枚の紙を置いた。

 そこには、短い文だけが書かれていた。

 「こちらは地上の調査担当です。地下に人がいる場合は、今いる場所が安全か知らせてください」

 ユイは読んだ。

「名前を聞かないんだ」

「聞く必要はありません」

「返事がなかったら?」

「二度目は時間を置いて、一回だけ繰り返します。その後は呼びかけを止めます」

「違う声が返ってきたら?」

 朔は少し考えた。

「同じ言葉を繰り返しても、別の言葉でも、聞こえたまま記録します」

「助けてって言われたら?」

 イサラが答えた。

「まず、場所と危険を確かめます。救助できる経路があるかを調べる」

「すぐ入らない?」

「崩れかけた倉庫へ飛び込めば、救助する人まで危険になります」

 ユイは頷いた。

「声を掛けること自体は、安全なの?」

 その問いに、ルカはすぐに答えなかった。

「安全だと確認されたわけではありません」

「じゃあ、どうするの」

「一人だけが決められた文を読みます。ほかの人は離れた位置で観測します。異変が起きたら中止します」

 ガドが言った。

「呼びかけるのは俺がやる」

「なぜ?」

 ユイが尋ねた。

「場所を知っとる。何かあった時に、どこへ下がるかも分かっとる」

「怖くない?」

「怖いよ」

 ガドは即答した。

「だから、準備する」

***

 同じ朝、ネラは中央の配置転換記録を調べていた。

 レア・ソルンの名前は、思ったより早く見つかった。

 古い人員台帳には、旧観測室から別の施設へ移った記録が残っていた。

 レア・ソルン。記録補助員。南方療養施設へ配置転換。

 日付は、第六経路の試験停止からおよそ一か月後だった。

 転換理由の欄には、身体の静養と書かれている。

 ネラは台帳を閉じず、次の頁を確認した。

 南方療養施設は、現在も存在していた。

 ただし、名称が変わっている。

 古い施設名は、南方静養院。

 現在の名称は、南丘共同療養所。

 ネラは、現在の管理者へ照会状を作成した。

 本人がまだ暮らしているかどうか。

 連絡を取りたい場合、どのような手順が必要か。

 本人の医療情報や生活記録は求めない。

 最初の照会は、その二点に限った。

 照会状を書き終えた時、ルカが記録室へ戻ってきた。

「見つかりましたか」

「転換先だけは」

 ネラは台帳を示した。

「南丘共同療養所です」

「今も?」

「施設はあります。ただ、レアさんがいるかどうかは、これから確認します」

 ルカは頷いた。

「現場では、今日、呼びかけをします」

「地下へ?」

「はい。名前を使わず、一度だけの試験的な呼びかけです」

 ネラは少し考えた。

「私も立ち会った方がいいでしょうか」

「ご自身で決めてください。今日は、旧観測室の調査もあります」

「旧観測室の方へ行きます」

 ネラは答えた。

「十二年前に私が見た場所です。現場で何か起きた時、私がそちらへ行っても役に立つか分かりません」

 ルカは頷いた。

 役割は分かれた。

 地下の呼びかけは、ガドたち。

 旧観測室の記録確認は、ネラとフェル。

 レアの所在照会は、中央記録室から送る。

 どの作業も、別の結果を待つ必要はなかった。

***

 北返二番倉の周囲には、昨日より広い封鎖線が張られていた。

 外壁の沈みは、朝の測定ではさらにわずかに進んでいた。

 だが、昨夜のような大きな亀裂の拡大はない。

 ガドは、点検井から十分に離れた場所に立った。

 声を届けるため、長い筒を使う。

 筒の先を点検井の通気孔へ向け、直接近づかなくても呼びかけられるようにした。

 イサラは周囲の退避路を確認した。

「異変があれば、全員こちらへ下がります」

 サロが頷いた。

「住民の立ち入りも止めてある」

 ルカは時計を確認した。

 記録担当は二人。

 一人は言葉の聞き取り。

 もう一人は水位と風、壁の状態を見る。

 ガドは筒を持ち、決められた文を読んだ。

「こちらは地上の調査担当です。地下に人がいる場合は、今いる場所が安全か知らせてください」

 声は筒を通り、石の奥へ吸い込まれるように消えた。

 誰も動かなかった。

 風は弱い。

 点検井からは、冷たい空気が少しだけ出ている。

 一分。

 二分。

 何も聞こえなかった。

 ガドは筒を下ろした。

「返事はない」

 ルカは時刻を書いた。

「予定どおり、少し待ちます」

 その時、ファナが眉を寄せた。

「……今の、聞こえたか」

「何が」

「音」

 全員が耳を澄ました。

 地下から、低い打音がした。

 一度。

 間を置いて、二度。

 さらに、一度。

 ガドは筒を握ったまま動かなかった。

 ルカが時刻を書いた。

「前と同じ回数です」

「人が返してるんやろか」

 ファナが呟いた。

「それを確かめるために、もう一度呼ぶ」

 ガドは決められた時刻まで待った。

 そして、同じ文を繰り返した。

「こちらは地上の調査担当です。地下に人がいる場合は、今いる場所が安全か知らせてください」

 声が消える。

 今度は、長い沈黙が続いた。

 やがて、何かが聞こえた。

 言葉ではなかった。

 石を擦る音。

 その後に、短い打音が一つ。

 ルカは記録した。

 ガドは筒を下ろした。

「ここまでや」

 誰も三度目を求めなかった。

 だが、ファナは地下の方を見ていた。

「人がいたら、どうする」

「助ける方法を考える」

 ガドが答えた。

「石の音しかなかったら」

「壁が崩れんようにする」

「どっちでも、やることはあるんやな」

「ああ」

 ガドは筒を片づけた。

 その時、ルカが記録の最後に一行を書き加えた。

 呼びかけ後、打音を確認。ただし、応答であるかは未判定。

***

 午後、ネラとフェルは旧観測室へ向かった。

 建物は中央の管理区域にあり、現在は一部が資料保管庫として使われている。

 旧観測室付属記録室は、廊下の奥にあった。

 十二年前、ネラがK.K.の文字を見た場所。

 扉には封印が残っている。

 管理者が立ち会い、封印の状態を確認した後、扉が開かれた。

 部屋の中は薄暗かった。

 棚はほとんど空で、壁には補修の跡がある。

 窓は一つ。

 その下には、古い机が残っていた。

「ここです」

 ネラが言った。

「十二年前に文字を見たのは、この壁です」

 彼女は西側の壁を指した。

 フェルは位置を記録した。

「今、何か見えますか」

「いいえ」

 壁は白い。

 ただし、補修した部分だけ、少し色が違っていた。

 フェルは管理者へ尋ねた。

「この壁は、いつ補修されたんですか」

「記録を確認します」

 管理者は古い保守票を取り出した。

 十二年前の観測後、壁面の剥離が見つかり、補修が行われていた。

 その記録には、補修前の状態を描いた簡単な図が付いていた。

 西側の壁。

 中央より少し右。

 縦に細い亀裂が一本。

 その横に、黒い線が二本。

 ネラは図を見た。

「……こんな線があったんですか」

「記録ではそうなっています」

 フェルが答えた。

 一本はまっすぐ。

 もう一本は途中でわずかに曲がっている。

 オスロの帳面にあった、無記名紙の図とよく似ていた。

 フェルはその場で写しを作り、二つの図を並べた。

 幅は違う。

 長さも違う。

 だが、線の形は近かった。

「同じものだと思いますか」

 管理者が尋ねた。

 フェルは答えなかった。

 代わりに、ネラを見た。

「十二年前、あなたはこの線を見ましたか」

 ネラはしばらく考えた。

「覚えていません」

「K.K.は」

「見ました」

「線は」

「……分かりません」

 フェルは頷いた。

 記録は、そのまま分けた。

 十二年前のネラの証言:K.K.の文字を視認。

 十二年前の補修記録:西壁面に二本の黒い線を記載。

 両者の関係:未確認。

 ネラは壁へ近づきかけ、足を止めた。

 補修された部分には、今は何も見えない。

 それでも、彼女の視線はそこから離れなかった。

***

 夕方、旧紙倉へ二つの報告が届いた。

 一つは、地下への呼びかけ。

 もう一つは、旧観測室付属記録室の調査。

 朔は机に置かれた二枚の紙を見た。

 呼びかけに対して、打音があった。

 ただし、人の応答であるかどうかは分からない。

 旧観測室の補修記録には、二本の黒い線が描かれていた。

 それは、古い試験記録の紙に残った線と形が似ていた。

 リオが図を見比べた。

「似とるな」

「はい」

 朔が答えた。

「同じ場所でも、同じ物でもない。でも、形が近い」

「偶然かもしれんけど、調べる価値はあるやろ」

「あります」

 ユイは二枚の図を見た。

「これ、文字じゃないのかな」

「文字?」

 朔が尋ねた。

「二本の線だけで、何かを表してるのかもしれない」

 フェルが言った。

「その可能性もあります」

「誰が書いたんだろう」

 ユイは指先を図の上へ近づけた。

「最初の紙にあった線と、壁にあった線。違う人が書いたなら、どうして似たんだろう」

 朔は答えなかった。

 ただ、頭の中に白い部屋が浮かんだ。

 K.K.という文字。

 RETURNという表示。

 そして、名前を使うなという古い警告。

 それらを今、一本の線で結ぶことはできない。

 けれど、調べる対象は少しずつ具体的になっていた。

 その時、ノエが入ってきた。

「南丘共同療養所から、返事がありました」

 ネラが顔を上げた。

「レアさんの件ですか」

「はい」

 ノエは封筒を開いた。

 施設は、本人の医療情報を開示しない。

 現在の生活状況も、本人の許可なく伝えることはできない。

 ただし、連絡を取りたいという申し出については、本人の意思を確認する手続きがあるという。

「つまり、本人へ手紙を届けてもらえる?」

 ユイが尋ねた。

「届けるかどうかは、施設が本人と相談して決めるそうです」

 ルカが頷いた。

「それなら、まず目的を書いた短い手紙を作ります」

 朔は机の端に置いていた調査票を引き寄せた。

 レア・ソルン。

 名前を書いた紙の試験に使われ、自分の名を答えなくなったと記録された人。

 今、どこで生きているかは分からない。

 だが、連絡を取る方法は一つ見つかった。

「質問は、まだ書かない方がいいですね」

 朔が言った。

「まず、話す意思があるかどうかだけを確かめる」

 ネラは頷いた。

 ルカも同意した。

 その夜、短い手紙が作られた。

 差出人は、ルカ・フェン。

 内容は、第七帰還口の閉鎖に関する過去の記録を調べていること。

 当時の出来事について、本人が話す意思を持つかどうかを尋ねたいこと。

 話したくない場合、返事を求めないこと。

 それだけだった。

 封をする前に、ユイが尋ねた。

「名前は、書くの?」

「宛先には必要です」

 ルカが答えた。

「でも、それ以外に名前を使って何かを確かめたりはしません」

 ユイは頷いた。

 手紙は封じられた。

 旧紙倉の窓の外では、夕暮れが深くなっていた。

 北返二番倉の下では、今夜も音が鳴るかもしれない。

 旧観測室の壁には、二本の線があった。

 そして、南丘のどこかには、自分の名前を答えなくなったことのある人が、今も生きているかもしれなかった。

 朔は最後に、地下への呼びかけの記録をもう一度見た。

 呼びかけは二回。

 返事と断定できる言葉はなかった。

 打音は続いている。

 それだけだった。

 だが、今度は、その音を聞いた者が、一人ではなかった。

 北返二番倉の地下には、何かがある。

 そして、誰かがいるかもしれない。

 その可能性を、翌日も調べることになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。