第十一章 黒の向こう側 ② 七番の鍵
七番の金属札は、鍵ではなかった。
少なくとも、ルカが最初に出した結論はそうだった。
旧紙倉の作業台には、北東水路から回収された金属の輪と、小さな札が置かれている。札の表には「北返二番倉 七」、裏には「帰還者用」と刻まれていた。
輪は指二本ほどの大きさで、途中に継ぎ目がある。鍵をまとめる金具に似ていたが、肝心の鍵は付いていない。
「最初は鍵束の輪だと思っていました。でも、違うかもしれません」
ルカは拡大鏡を置いた。
「継ぎ目が開かないんです。無理に広げれば壊せますが、そういう造りには見えません」
「何かを通す輪?」
ミウが尋ねた。
「可能性はあります。ただ、内側に擦れた跡がほとんどないんです。何かを繰り返し通していたなら、もう少し摩耗していると思います」
ガドは金属札の端を指した。
「裏の文字は、後から刻んだように見えるな」
「はい。『帰還者用』の方が浅い。表の数字とは工具も違います」
「なら、最初から七番の帰還者用だったとは限らん」
ルカは頷き、昨日見つけた古い帳面を開いた。
そこには七つの帰還口が並んでいた。第七帰還口だけが未開放で、その下には「人を通すための口ではない」「開放時、帰還者の名を使用するな」と書かれている。
しかし、ルカは今朝、その帳面とは別の記録を見つけていた。
古い設備目録だった。
頁の中央には、輪と細長い札の図が描かれている。寸法は、回収された金属札とよく似ていた。
図の横に短い説明がある。
帰還標識札。経路確認時、固定具へ取り付ける。
「標識札?」
ミウが尋ねた。
「通路や経路の位置を示すための物だった可能性があります」
「裏の帰還者用は?」
「後から用途を追加したのかもしれません」
ルカは目録の年代を確認した。
この設備目録には一番から六番までの札が描かれている。七番は載っていなかった。
「七番が作られる前の帳面かもしれん」
ガドが言った。
「はい。あるいは、当時の七番が別の分類だった可能性もあります」
ルカは保全記録を手元へ引き寄せた。
昨日の記録には、こうある。
北返二番倉付近で、七番の鍵と思われる金属具を回収。
彼女は「鍵と思われる」の部分へ一本の線を引き、下に書き加えた。
環状金属札。古い設備目録の帰還標識札と形状が近い。用途は調査中。
「名前、変えるんか」
ガドが尋ねた。
「はい。鍵として使う物かどうか分からなくなったので」
「昨日は鍵やと思った」
「はい」
「今日は標識かもしれん」
「はい」
「明日、また変わるかもしれんな」
「その時は、また直します」
ガドは輪の継ぎ目を見た。
「名前を間違えると、使い方まで間違えるな」
ルカは金属札の保全票を新しく書いた。
北返二番倉七番・帰還者用の刻印を持つ環状金属札
「長いですね」
ミウが言った。
「使い方を決めてしまうよりはいいです」
金属札は、その長い名前とともに保全箱へ戻された。
***
北東水路では、ガドとファナが石壁の隙間を調べていた。
現場の測定は、金属札の調査と同時に進められている。札の正体が分かるまで壁の安全確認まで止める必要はないが、札を取り付ける場所を探すために壁を壊すこともしない。
仮の覆いは前日と同じ位置にあり、封印線も残っていた。
黒い筋が通った後の石壁には、薄い灰色の膜が付着している。ガドは削り取らず、表面の状態だけを記録した。
「ここを広げるなら、荷重が問題になる」
ファナは頭上の古い梁へ灯りを向けた。
「上は倉庫や。支えを外したら床ごと落ちるかもしれん」
「外から測るだけなら?」
「できることはある」
ファナが持ってきたのは、細長い竹の筒だった。先端には薄い紙片を付け、反対側には小さな鈴を結んでいる。
紙片は風の流れを見るためのもの。鈴は筒が石に触れた時の振動を知らせるためのものだった。
筒をゆっくり隙間へ入れる。
最初の一間ほどはまっすぐ進んだ。そこから右へ曲がり、竹がしなった。
鈴が一度鳴った。
ガドは手を止めた。
「右に曲がっとる」
「もう少し押せそうやけど」
「ここまでにしよう」
ファナは筒をゆっくり引いた。
先端の紙片が、薄い灰色に変わっていた。
「濡れた?」
サロが尋ねた。
「湿ってる。でも水に浸かった感じとは違うな」
ファナは紙片を外し、保全容器へ入れた。触れた物を特定するための採取ではない。測定中に生じた変化を保存するためだった。
ガドは筒が進んだ長さと角度を測り、断面図へ書き込んだ。
線は旧染料水路から右へ曲がり、北返二番倉の方向へ伸びる。
「倉庫の下へ続いてるかもしれんな」
サロが言った。
「続いてるなら、裏から調べる方法も考えられる」
ファナは地図を見た。
「人が通るための幅には見えんな」
「何かを送るためかもしれん」
ガドは描いた線を見つめた。
古い記録には、第七帰還口は人を通すための口ではないと書かれていた。
「……七番と関係があると思いたくなるな」
「思ってもええ」
ファナは測定具を片づけながら答えた。
「でも、それを確かめるために壁を壊すなよ」
「壊さん」
ガドは断面図へ測定終了時刻を記した。
壁は開かなかった。
その日の現場調査は、そこで終わった。
***
午後、ルカはミエルの許可を得て、旧市場の返し口を調べた。
目的は、古い設備目録に描かれた金具と、現存する固定具の形を比較することだった。
床板を開けると、返し口の石溝には、金属の留め具が二つ残っていた。
一つは錆びている。
もう一つは、比較的摩耗が少ない。
「こっちの形が似ています」
ルカは後者を指した。
七番の金属札に付いた輪と、留め具の溝がほぼ同じ幅だった。
ただし、原物を差し込むことはしない。
ファナが用意した木製模型を床の上で合わせ、形を確かめる。
模型は留め具の入口へ収まった。
しかし、奥までは入らなかった。
「少し太いな」
ミウが言った。
「木だから、削れば入る」
ファナは模型を外した。
「でも、削って合わせるのも違うな。元の金属札なら入るとは限らん」
ルカは入口の寸法を記録した。
「何かを固定するための形だった可能性はあります。ただ、この留め具に七番の札が取り付けられていたという記録は、今のところ見つかっていません」
ミエルが閉場時刻を確認した。
「今日はそこまでにして」
床板を閉じ、封印線を引く。
金属札も模型も返し口へ入れなかった。
残ったのは寸法と、固定具の図だけだった。
***
その夜、ルカは旧紙倉の記録室へ戻った。
七番の札と設備目録の図が似ているなら、標識札を取り付けたり取り外したりした記録が残っているはずだった。
彼女は最初に、設備目録の管理番号を調べた。
目録には番号が付いていた。
北返設備・標識類・旧式
その番号を手掛かりに、修繕票の索引を探す。
しかし、索引には欠けた頁があり、該当する番号は見つからなかった。
翌日も調査を続けた。
古い修繕票は、作業場所ではなく年度ごとに綴じられていた。途中から分類方法が変わり、同じ設備の修繕が別の帳面に移されている。
ルカは分類が変わった時期を確認し、前後の年度を広げた。
記録の中には、標識札の交換や固定具の補修がいくつもあった。
北返一番。
東返四番。
染返三番。
七番は出てこない。
二日目の夕方、ルカは一度作業を止めた。
調べた頁には印を付けた。未確認の帳面も一覧にする。
その時、ネラが記録室へ戻ってきた。
「まだ探しているんですか」
「標識札を取り外した記録です」
「どの年度を」
「この辺りです。でも、七番がありません」
ネラは机に並んだ帳面を見た。
「その頃は、設備の修繕と閉鎖作業を別に綴じていたはずです」
「閉鎖作業?」
「普通の修繕票ではなく、使用停止の記録です」
ルカは顔を上げた。
「それは、どこに」
「旧観測室の廃止記録と同じ棚に、移されたと思います」
「なぜ、そちらへ」
「当時、返路の閉鎖を設備ではなく運用停止として扱った時期がありました」
ネラは自分の記憶を確認するように、少し間を置いた。
「少なくとも、私が助手だった頃にはそうでした」
「その棚は今もありますか」
「あります。ただ、一部は補修待ちのままです」
ルカは翌朝、ネラの案内で別の保管室へ入った。
棚は湿気を避けるために高く組まれている。帳面の背には、旧観測、返路閉鎖、運用停止といった名称が付いていた。
目的の年度は、下から二段目にあった。
三冊。
一冊目は、閉鎖の申請。
二冊目は、現場の作業記録。
三冊目は、清書された完了票の控え。
ルカは三冊を順番に開いた。
一冊目には第七帰還口の閉鎖申請があったが、理由欄は短かった。
運用上の危険。詳細別記。
別記の番号は残っていたものの、対応する書類はその冊子にはない。
二冊目では、同じ日に北返二番倉付近の標識類が取り外されていた。
そして三冊目。
完了票の控えに、目的の記録があった。
第七帰還口、閉鎖状態維持。
標識札七番、取り外し。
帰還対象への名呼びを禁ず。
ルカは時刻と帳面の位置を記録し、ネラを呼んだ。
「見つかりました」
ネラは頁へ近づいた。
完了票の下に、署名がある。
ネラ
彼女の指先が止まった。
***
「私の字です」
ネラは、署名を見てそう言った。
ルカは頷いた。
「この作業を担当していましたか」
「記録の清書をしていました」
「閉鎖作業そのものではなく?」
「はい」
ルカは署名欄を指した。
「でも、ここは『作業完了者』の欄です」
ネラは頁を見つめた。
「当時は、現場から届いた作業票を記録室で清書して、受領確認をした助手が完了欄へ署名することがありました」
「現場を確認しなくても?」
「はい」
「それが当時の正式な運用でしたか」
「少なくとも、私が働いた記録室では行われていました。ただ、規程にどう書かれていたかは覚えていません」
「つまり、この署名は」
「清書と受領確認をしたことを示している可能性が高いです。閉鎖作業を実行した証拠にはなりません」
ネラは少し黙った。
「今なら、その欄が何を証明しているのか、疑問に思います」
「現場で誰が閉じたかは、二冊目の記録にありますか」
「あるはずです」
ルカは現場作業記録を開いた。
作業者の欄には、四人の名前が並んでいた。
そのうち二人は既に死亡している。残り二人については、現在の所在が分からなかった。
閉鎖を命じた者の署名は、別の欄にある。
だが、そこは水濡れで文字が失われていた。
「私が現場へ行った記憶はありません」
ネラは言った。
「この票を書いたことは?」
「覚えています」
「内容も?」
「最後の一文は」
彼女は指で文字を追った。
帰還対象への名呼びを禁ず。
「意味が分からなくて、上の人へ聞きました」
「誰に」
「当時の記録主任です」
「名前は」
「別の帳面に残っていると思います」
「何と答えられましたか」
ネラは椅子へ座った。
「『名前を呼ぶと、戻るものが間違う』と」
ルカは筆を止めた。
「戻るもの?」
「そう言われました」
「誰かが間違って戻ったんですか」
「分かりません」
「聞かなかった?」
「聞きました」
「答えは」
ネラは首を横へ振った。
「『戻ってきた者の名を、先に決めるな』と言われました」
ルカは、その二つの言葉を別々に記録した。
名前を呼ぶと、戻るものが間違う。
戻ってきた者の名を、先に決めるな。
前者は、名前を使うことが何かの現象へ影響するようにも読める。
後者は、戻った者を誤って分類しないための規則にも読める。
「同じ意味だと思っていましたか」
ルカが尋ねた。
「当時は、よく分からないまま清書しました」
「今は」
「関係があるように思います」
「理由は」
「十二年前に、旧観測室でK.K.という文字を見たからかもしれません」
ネラは一度、深く息を吸った。
「使われていないはずの部屋で、誰もいないのに文字が見えた。私はそれを記録しました。でも、第七帰還口の閉鎖記録を清書した経験とは、結びつけていませんでした」
「今は結びつけたくなっている?」
「はい」
「なぜ」
「自分が、あの文字を見た理由になるかもしれないからです」
ネラは机の上の完了票を見た。
「でも、当時の私は、七番の意味も、帰還対象が何かも知りませんでした。今も知らない部分が多いです」
ルカは頷いた。
「では、まず現場の作業者と、記録主任を探します」
「はい」
「閉鎖を解除するためではなく」
「閉鎖した理由を確かめるために」
ルカは、ネラの証言を完了票とは別の記録にした。
ネラが署名したこと。
清書と受領確認を担当していたこと。
現場の閉鎖作業へ参加した記憶がないこと。
当時の記録室では、作業完了欄へ清書担当者が署名する慣行があった可能性。
そして、主任から聞いた二つの言葉。
証言の時刻と、現在の発見を知った後の記憶であることも書いた。
ネラは読み終えてから署名した。
***
その日の午後、朔はルカから報告を受けた。
金属札は鍵ではなく、経路標識として使われていた可能性が高い。
七番は、人の番号ではなく経路番号かもしれない。
古い記録には、帰還対象の名と標識番号を組み合わせるなという規則がある。
ネラは、その規則を清書したことを覚えていた。
ただし、閉鎖そのものを実行したわけではない。
「『名前を呼ぶと、戻るものが間違う』」
朔はルカの読み上げた言葉を繰り返した。
「はい」
「具体的な警告ですね」
「そう思います」
「でも、何がどう間違うかは書かれていない」
「主任が何を知っていたか、これから調べます」
朔は地図を見た。
七番の札が見つかった場所。
北返二番倉。
旧染料水路。
その間にある細い空間。
別々の記録が、少しずつ一つの場所へ集まっている。
白い部屋で見た文字が浮かんだ。
RETURN
「俺は、これが白い部屋のRETURNと関係していると思いたいです」
ルカが顔を上げた。
「理由は」
「帰還という言葉が重なるからです。それから、俺自身の記録にRETURNがあるからです」
「ほかに」
「ありません」
「では、今は別の記録として」
「はい」
朔は短く答えた。
ユイが机の端に置かれた金属札の図を見た。
「番号が道の名前なら」
「はい」
「人の名前と一緒に使ったら、何が起きるんだろう」
誰も答えなかった。
「開けて確かめる?」
「しません」
朔が答えた。
「名前を使わずに開ければ安全だ、という意味でもありません」
「じゃあ、次は」
「当時、閉鎖を決めた人と、その理由を調べます」
ルカは頷いた。
「現場作業者の名前は四人分あります。記録主任の名前も、別の帳面から辿れるかもしれません」
「見つかったら」
「本人が生きていれば、当時の話を聞けます」
「見つからなかったら」
「残っている記録を調べます」
朔は現地の安全記録を閉じた。
石壁は開かれていない。作業者は全員帰還した。金属札は保全されている。
ネラの古い署名が、次の調査対象になった。
七番を開くためではない。
なぜ閉じたままにされたのかを、確かめるためだった。




