第十一章 黒の向こう側 ① 水の下にある道
水門を開けることが決まった朝、旧染料水路の底から、人の声が聞こえた。
最初に聞いたのはサロ・デンだった。
黒色変化が消えてから三日。上流側の水は透明に戻り、石壁の変色も広がっていない。水門を閉じ続ければ下流の作業場が止まるため、サロたちは段階的に通水を再開する準備をしていた。
ガドが水門の固定具を緩め、エダが下流の水位を確認していた時だった。
「……そこ、開けるな」
サロは手を止めた。
声は水路の底から聞こえたように思えた。低い男の声だったが、言葉の後半は水音に混じっている。
「ガド。今、何か言ったか」
「言っとらん」
「エダは」
「何も。どうした」
サロは自分が聞いた言葉を伝えた。
エダは水路から一歩離れた。
「声が聞こえたなら、作業を止めよう」
「お前には聞こえなかった?」
「聞こえなかった。でも、聞こえなかったことは、安全の確認にはならん」
三人は工具を置き、水門から距離を取った。
サロは時刻と、自分の位置、聞こえた言葉を書いた。ガドとエダも、それぞれ何を聞き、何を聞かなかったかを記録する。
その間、水路から再び声が聞こえることはなかった。
ただ、ガドが工具を片づけようとした時、石壁の下部に小さな変化を見つけた。
「待て。ここ、昨日はこんな形だったか」
水門のすぐ横に、縦長の溝が現れていた。
古い石組みの継ぎ目にも見える。だが、その奥には別の石壁があり、二つの壁の間に指三本ほどの隙間ができていた。
ガドは測定棒を差し入れた。
棒は、予想よりずっと深く入った。
「……向こうがある」
「何が」
「空間や。石壁の裏に」
さらに奥へ伸ばそうとすると、棒の先が何かへ触れた。
硬い物ではない。
布のような手応えだった。
ガドは棒を引いた。
先端に、細い青い糸が絡んでいた。
***
その日の昼、旧紙倉には北東水路の新しい断面図が届けられた。
古い図面にない空間が、水門の下へ伸びている。
現在の水路からは狭い隙間しか見えないが、石壁の厚さと古い基礎の位置を照合すると、奥には人が屈んで歩ける程度の通路が存在する可能性があった。
「染返の道かもしれません」
ルカ・フェンが古い記録を広げた。
かつてこの一帯には、汚れた染料水を戻す経路があった。帳面には、東返、北返、染返という名称が繰り返し現れるが、現在の地図と完全には対応していない。
「この場所は」
リオが図面を見た。
「メルが最後に目撃された水路から、近いな」
ガル・メナは既に報告を聞いていた。
机の横に立ち、青い糸の入った小瓶を見ている。
「メルの服と同じ色ですか」
「まだ分からん」
エダが答えた。
「染料の種類を調べる。ただし、この辺りでは青い布を何十人も使う。色が同じでも、持ち主の名にはならん」
「分かってる」
ガルはそう答えたが、声が少し硬かった。
「でも、調べてほしい」
「調べるよ」
エダは小瓶を受け取った。
朔はその様子を椅子から見ていた。右膝にはまだ固定具が巻かれている。歩行はかなり回復していたが、マレアは不安定な足場での作業を許可していない。
「通路があるとして、どこへ続くかは分かりますか」
「古い図では、北返二番倉の裏側へつながる可能性があります」
ルカが指で線をなぞった。
以前、オウ・レクがメルと思われる人物を見失った場所。
匿名の受取担当者セラ・ノーンが、裏側で待っていた倉庫。
壊れた呼鐘と、食い違った受渡指示によって、二人が会えなかった場所。
その二つを結ぶように、古い図面には細い線があった。
「これまで、地上からばかり探してた」
リオが言った。
「地下に道があるとは、誰も確認できてへんかった」
「この通路をメルが使ったとは、まだ言えません」
フェルが言う。
「分かってる」
ガルは地図から目を離さなかった。
「でも、入れるなら調べたい」
「通行できる安全性は確認されていません」
「俺は入るって決めてない」
ガルが顔を上げた。
「調べたいって言ったんや」
フェルは頷き、記録を修正した。
朔はそのやり取りを聞きながら、別のことを考えていた。
黒い水。
人を下げろという警告。
水門の下に現れた隙間。
そして、開けるなという声。
石片を書いた者は、この通路を知っていたのだろうか。
黒い現象が上がる前に、水路の奥で何かが起きていたのだろうか。
答えはまだない。
しかし、今回は返し口から来た文字を解釈するだけでは終わらなかった。
実際に、調べられる場所が見つかった。
「現場の危険を調べる作業と、行方不明者の捜索を分けましょう」
朔が言った。
「最初に、水路が崩れる危険や、黒色変化が再発する可能性を確認する。その結果として通路へ入れる条件が整った時、メルさんの件を調べるかどうかを決める」
「俺も参加する」
ガルが言った。
「今、決めなくてもいいです」
「分かってる。でも、参加したい」
「では、候補として記録します」
ガルは頷いた。
以前なら、メルの名が現れただけで走り出していたかもしれない。
今は、それをしなかった。
ただ、目の前で道が見つかったのに、何も感じていないふりもしなかった。
***
夕方、エダから検査の結果が届いた。
青い糸は、一般的な染料だけでなく、耐水性を高める樹脂を含んでいた。旧水路の作業者が使う外套や袋によく見られる加工だった。
メルが最後に持っていたとされる布袋にも、同じ種類の加工が使われていた可能性がある。
だが、原物はない。
比較できない。
「メルの物ではないと、言えない」
ガルは結果を読んだ。
「はい」
「メルの物だとも、言えない」
「はい」
「……それでも、俺は少しうれしい」
エダは彼を見た。
「それは書かなくてもええよ」
「いや」
ガルは筆を取った。
青い糸が、メルの使っていた物と関係していてほしいと思った。
そこまで書き、顔を上げた。
「でも、それだけじゃない」
「何が」
「道が見つかったのが、うれしい」
ガルは地図を見た。
「今まで、メルが消えた場所しかなかった。今日は、そこから続いてるかもしれん場所が見つかった」
行方不明者を捜す者にとって、道はそれだけで意味を持つ。
必ず誰かへ続くわけではない。
それでも、歩ける可能性がある。
何もできなかった場所へ、次に確かめられることが生まれる。
「入れなかったら」
エダが尋ねた。
「別の方法を考える」
「危なかったら」
「戻る」
「何も見つからんかったら」
ガルは少し考えた。
「何も見つからんかったことを、書く」
エダは頷いた。
そして、青い糸を保全箱へ戻した。
***
翌朝、ガドとファナが現地へ向かった。
目的は通路を開くことではない。
石壁が崩れる危険を確認し、外側から測れる範囲を調べることだった。
水門は閉じたまま。
水位を下げる必要がある場合は、サロが下流への影響を確認してから判断する。
作業者は三人。ガド、ファナ、サロ。
連絡担当のノエが、安全な場所で待つ。
朔は参加しない。
ガルも、最初の調査には入らなかった。
石壁の隙間へ細い測定棒を差し込むと、前回より深い位置まで通った。途中で少し右へ曲がっている。
「直線じゃない」
ガドが言った。
「向こうで広がってるかもしれん」
ファナは壁へ耳を当てず、棒の振動を指先で確かめた。
「風がある」
「水路の空気やろ」
「違う。奥からこっちへ流れてる」
薄い紙片を棒の先へ付ける。
紙片は、ゆっくり手前へたなびいた。
向こう側に、空気が動く空間がある。
ファナはそれを記録した。
「まだ壊して広げるな」
ガドが言った。
「分かってる」
測定棒を引こうとした時だった。
奥から、何かが引っかかった。
布ではない。
固い輪が、棒の先端に触れている。
ガドは力をかけず、少し回してから引いた。
細い金属の輪が一つ、棒の先へ掛かっていた。
指輪ではなかった。
古い鍵束をまとめるための輪に似ている。
そこには、短い金属札が付いていた。
札の表面は黒ずみ、文字の一部が削れている。
だが、三人が離れた位置から確認できた文字があった。
北返二番倉
その下に、小さな数字が刻まれている。
七
「七番の鍵か」
サロが尋ねた。
「それはまだ分からん」
ガドは輪を測定棒ごと保全箱へ移した。
札の裏側には、もっと細い文字があった。
帰還者用
三人は、そこで作業を止めた。
その文字を、すぐに人の帰還の証拠にはしなかった。
それでも、ガドには奇妙な引っかかりがあった。
北返二番倉の記録には、受渡担当と受領対象、そして荷の数量があった。
しかし、帰還者用の鍵については、これまで一度も見つかっていない。
誰が帰るための鍵なのか。
どこから帰るための鍵なのか。
何を開けるのか。
いずれも分からない。
ガドは測定棒を片づけた。
「今日はここまでや」
ファナも頷き、隙間を仮の覆いで保護する作業へ入った。
その時、ノエが水路の向こう側を見た。
「待ってください」
三人が振り向く。
「どうした」
「水面です」
黒い筋が、一本だけ現れていた。
以前のように石壁へ這い上がるのではない。
水の下を、細い線が横切っている。
そして、その線は水門へ向かっていなかった。
新しく見つかった石壁の隙間から、奥へ伸びていた。
線の先で、水が一度だけ盛り上がった。
泡が浮かび、弾ける。
その音に重なるように、ノエには何かが聞こえた。
「……七番」
彼女は自分の聞いた言葉だけを口にした。
「七番、と聞こえました」
「俺には」
ガドが答えた。
「音だけや」
「私は」
ファナは耳を押さえた。
「『開けるな』に近く聞こえた」
サロは声を聞かなかった。
ただ、水面の黒い線が奥へ引いていくところを見た。
誰も追わなかった。
覆いを閉じ、距離を取り、現場を封鎖した。
それでも、四人は一つのことを共有していた。
以前の黒い変化は、水門へ向かって広がった。
今朝の黒い線は、水門の下にある通路へ向かって動いた。
その違いを、ノエは記録した。
***
報告が旧紙倉へ届いた時、朔は机に置かれた地図を見ていた。
北返二番倉。
旧染料水路。
メルが姿を消したとされる場所。
それらを結ぶ、まだ存在が確認されていなかった地下の道。
そして、帰還者用と刻まれた七番の金属札。
「帰還者、って」
ユイが言った。
「誰のこと?」
「分かりません」
「帰ってきた人?」
「そういう意味で使われた可能性はあります」
「戻す物を持つ人?」
「それもあります」
「元の場所へ返される人?」
朔は答えられなかった。
かつて、白い部屋で見た文字が浮かんだ。
RETURN
帰還。
戻る。
返す。
そして、眠っているという表示。
黒川朔。
あの白い文字と、この金属札が関係するとは確認できない。
けれど、朔には一つ、気になることがあった。
「この札」
彼は図面へ指を置いた。
「北返二番倉の、裏側から出ました」
「はい」
「セラさんは、そこで待っていました」
「はい」
「でも、誰も来なかった」
「来た人はいたかもしれない。顔は確認していません」
「メルさんも」
「分かりません」
「そして、今回初めて、地下に別の入口が見つかった」
ユイは線を目で追った。
「表で待ってた人と、裏で待ってた人」
「はい」
「地下に、もう一つ道があった?」
「その可能性があります」
朔は地図を広げた。
誰かが道に迷ったのではないか。
誰かが待ち合わせに失敗したのではないか。
その二つだけでは、説明できない何かが地下に残っていた可能性がある。
ただし、今すぐそこへ入ることはできない。
黒色変化は再び起きている。
人が通れる広さかも分からない。
帰還者用という文字があるからといって、人が安全に帰れる場所とは限らない。
「次は」
ユイが尋ねた。
「何をする?」
「まず、七番が何を指すか調べます」
「道には」
「まだ入りません」
「ハルは」
朔は、すぐには答えなかった。
ヴァルハは、今はこれ以上答えないと書いた。
その境界を破って、もう一度名前を聞きに行く理由にはできない。
けれど、街の地下で何かが動き、そこに人が消えた可能性があるなら、それは別の問題だった。
「ヴァルハさんへは、何も求めません」
朔は答えた。
「今度は、俺たちが自分たちで道を調べます」
ユイは頷いた。
「名前を聞きに行くんじゃなくて」
「はい」
「誰かが通ったかもしれない道を」
「調べます」
その時、ルカが古い帳面を抱えて部屋へ入ってきた。
「七番の記録がありました」
彼女は開いた頁を机へ置いた。
古い字で、七つの帰還口が並んでいる。
一番から六番までは、場所の名前がある。
北返一番。
北返二番。
染返三番。
東返四番。
以下、六番まで。
しかし、七番だけは違っていた。
場所の名前ではない。
鍵を管理した者の名でもない。
そこには、短くこう書かれていた。
第七帰還口――未開放
その下に、さらに古い筆跡で追記がある。
人を通すための口ではない。
ルカは頁を押さえた。
「まだ続きがあります」
最後の行を示す。
開放時、帰還者の名を使用するな。
朔はその文字を見た。
誰が書いたのかは分からない。
なぜ名前を使ってはいけないのかも分からない。
だが、これまで何度も、人の名前が呼ばれ、声が真似られ、記録が本人に先回りしてきた。
その道の奥に、また名前があった。
今度は、名前を呼べという指示ではない。
名前を使うなという、古い警告だった。
朔は、その頁を閉じなかった。
七番の鍵は見つかった。
七番の口は、まだ開いていない。
そして、誰かがそこを開けようとした時に、何をしてはいけないかだけが、先に書かれていた。




