第十章 返事の輪郭 ⑬ 返事を決める者
新しい危険報告の仕組みを使った最初の報告は、黒い道とも、返し口とも関係がなかった。
旧市場の裏手で働くミウが、朝の排水溝に黒い水を見つけた。
用紙の最初の欄には、見たことだけを書いた。
市場裏の排水溝、水面の一部が黒い。油のような光沢あり。長さは腕二本分ほど。異臭は認識せず。
次の欄には、自分が起きると思ったことを書く。
北東水路の黒色変化と関係する可能性を考えた。市場の床下へ入るかもしれないと思った。
ミウは自分の名前を出した。窓口だけに預けることも、匿名にすることもできたが、発見場所にいたことを隠す必要はないと判断した。
確認に向かったルカは、水路へ器具を入れず、上流側を辿った。黒い水は、炭屋が道具を洗った排水とつながっていた。炭屋は、北東水路の件を知らず、いつもと同じ作業をしただけだった。
黒色変化との関係は、確認されなかった。
「間違いだった?」
ミウが尋ねると、ルカは首を横へ振った。
「見たことは合っています。関係するかもしれないという考えは、確認の結果、今のところ支持されませんでした」
「次から出さない方がいい?」
「同じものを見て、危険だと思ったなら出してください」
「また炭だったら」
「また確認します。何度も同じ原因なら、途中から炭屋の作業記録と照合する手順を足せます」
ミウの報告には、誤報とは書かれなかった。
危険がなかったことを責める仕組みにすれば、次に本当に危険を見た者が、自分の名前で知らせなくなる。
同時に、黒い水を見たというだけで、返路由来の現象とも記録しなかった。
名前のある普通の報告が、名前のない石片より軽く扱われない。
そのために作った最初の仕組みは、何も起きなかった朝にも使われた。
***
同じ日の午後、旧市場の返し口から、布に包まれた物が現れた。
今回は音がなかった。
閉場前の確認に入ったミウが、窪みの中に濃い灰色の布を見つけた。朝にはなかったが、いつ置かれたかは分からない。紙帯は動いておらず、砂にも明瞭な痕跡はなかった。
布は手のひらより少し大きく、細い紐で一周だけ結ばれていた。
外側に文字がある。
トウマへ
書き手の名はない。
ミエルは市場を閉め、決められた者を呼んだ。危険確認の後、包みは開かずに金網の箱へ移された。
朔とリオは、旧紙倉へ運ばれた包みを別々に見た。
「中の紙は」
リオが金網越しに目を細める。
「トウマの手紙に見える」
「何が一致しますか」
ネラが尋ねた。
「厚さ。折り方。右上の角」
トウマの手紙は、朔が一度開封した後、元の折り目へ戻し、右上へ小さな切れ込みを入れていた。開封済みであることを外から確認し、未開封と誤認されないためだった。
布の隙間から見える紙にも、同じ位置に切れ込みがある。
リオは続けた。
「俺が手渡す前に付けた、薄い擦れも見える。長い棒で石へ滑らせた時にできたやつや」
ノエの携行記録にも、その擦れは残されていた。
寸法も、紙の色も一致する。
「原物である可能性は高いです」
ネラはそう記録した。
「ただし、全体を開いていません。切れ込みや擦れを写した別物である可能性も残します」
「開ける必要は」
中央の職員が尋ねた。
「危険物確認として、内部を検査するべきです」
ガドは包みの周囲を細い測定棒で確認した。熱はない。異臭もない。針金や硬い物の手応えもなかった。重さは紙数枚分で、動かした時に液体や粉が移る音もしない。
「開かなければ、完全な安全は確認できません」
ノエが言った。
「開けば、私信を読みます」
朔は外側の宛名を見た。
「この包みはトウマさんへ向けられています」
「黒川朔さんには、以前の開封許可がありました」
「ハル・ミナトさん宛ての手紙を、届ける条件を確認するための許可です。戻った物を再び開く許可ではありません」
「緊急時の安全確認として」
「危険の具体的な兆候はありますか」
「今のところありません」
「では、開かずに運ぶ条件を作ります」
包みは透明な保全箱へ入れられた。運搬中に熱、変色、異臭、振動が生じた場合は、人から離れた場所へ置き、回収より身体を優先する。
届け先はトウマ本人。
不在なら、リーネかダンが外箱だけを預かる。内側の包みは開けない。
運搬者にはベラ・ソンが選ばれた。
「また私でいいんですか」
ベラ自身が尋ねた。
「前に届けたから、今回も自動で決まるわけではありません」
ノエが答えた。
「現在の街道を通れること、保全箱を運べること、条件を理解していることから候補に挙げました。断れます」
「行きます」
「理由は」
「ツヅリへ運ぶ荷がほかにもあります。それと、前に会ったトウマさんへ、十人が帰った後の物を、自分で届けたいです」
「後の理由だけになったら」
ベラは少し考えた。
「たぶん、断ります。返事を届ける人の役目にされたくないから」
「今回は」
「荷運びとして行けます」
ベラの名前は、返答運搬者ではなく、通常便の運搬者欄へ書かれた。
保全箱の内容欄には、
トウマ宛てと記された未開封包み。ハル・ミナト宛て私信原物と高く一致する紙を内包する可能性あり。
と記された。
返事とは書かなかった。
***
ベラがツヅリ村へ着いた時、トウマは畑から戻る途中だった。
以前のように走りかけ、今回は自分で速度を落とした。
「サクさんたちは」
「街にいます。黒川朔さんの膝は、前より歩けるようになったと聞いています」
「みんな、生きてる?」
「私が出発した時点では」
トウマは頷いた。
それから、ベラが抱えている保全箱を見た。
「俺に?」
「外側に、トウマへ、と書かれています。中は開けていません」
「何が入ってる?」
「あなたがハル・ミナトさんへ送った手紙と、高く一致する紙が見えています」
トウマの顔から、すぐには意味を読み取れなかった。
うれしさにも、怖さにも見える。
「戻ってきた?」
「そうである可能性は高いです。ただ、街では原物と確定していません」
「誰かが書いた物は」
「包みの中にあるかは分かりません。外側には、あなたの名前だけです」
「俺が開けていい?」
「あなたへ届けるように言われています」
「危なくない?」
「外側から確認できる範囲では、熱、匂い、変色、硬い物はありません。ただし、開けていないため完全には分かりません」
トウマは保全箱へすぐには手を伸ばさなかった。
「リーネさんの家で開けます」
「誰と」
「リーネさんとダンさん。ベラさんもいてください」
「私は内容を読んでいいですか」
トウマは考えた。
「最初は、俺だけ見ます。危ない物がなかったら、読んでいい範囲を決めます」
「分かりました」
保全箱の受領者欄に、トウマが署名した。
***
リーネの家で、最初に外箱が開けられた。
灰色の布を解く前に、トウマは結び目を見た。
「ハルの結び方?」
ダンは尋ねなかった。トウマ自身が、その問いを口にするかもしれないからだった。
だが、トウマは首を横へ振った。
「分かりません。俺が知ってるハルの結び方と比べたくなるけど、紐を一周しただけです」
布を開く。
中の紙を見た瞬間、トウマは小さく息を吸った。
「俺の手紙です」
すぐに、リーネが確認した。
「何から、そう判断しましたか」
「俺が引いた線。書き直した字。ここの汚れ」
手紙には、封をする前にトウマが付けた指の跡があった。自分で書き直した一文も、訂正線も残っている。
最初の頁を開く前に、トウマは言った。
「俺は原物だと思います」
「街では、原物と高く一致するまででした」
「はい。俺の記憶では、俺が送った手紙です」
本人の記憶として記録する。
紙は前より柔らかくなっていた。何度か開かれたような折れが増え、端には黒い汚れが付いている。一部は焦げていたが、文字が読めなくなるほどではない。
頁の間に、細長い紙が挟まれていた。
トウマはそれだけを抜き取った。
「文字があります」
「誰が読む?」
リーネが尋ねる。
「俺」
トウマは紙を机へ置き、上から順に読んだ。
トウマへ
最初の一文で、指が止まった。
次。
手紙は読んだ。
トウマは唇を閉じた。
しばらく動かなかった。
ダンもリーネも、続きを促さない。
トウマは自分で次の行へ視線を移した。
今は、これ以上答えない。
その次。
待てとは言わない。
最後に、一つの名前があった。
ヴァルハ
トウマは、最初からもう一度読んだ。
声には出さなかった。
「何て書いてある?」
ダンは、読んだ内容ではなく、共有する意思を尋ねるように言った。
「二人には見せます」
トウマは紙を机の中央へ動かした。
リーネとダンは、同じ時に読んだ。
ベラには、まだ見せなかった。彼女は届ける役目を終えており、部屋の隅で待っている。
「どう思った?」
リーネが尋ねた。
トウマは、まず新しい紙を出した。
「最初に書きます」
第一記録。
俺は、ハルが読んだと思いました。
次。
「手紙は読んだ」を見て、うれしかったです。
次の行では、筆が少し震えた。
「今は、これ以上答えない」を見て、悲しかったです。
それから、
「待てとは言わない」を見て、俺のことを考えて書いたと思いました。
と続けた。
最後に、
ヴァルハと書いてあるのを見て、この人はハルじゃなくてヴァルハだと言っているように思いました。
そこまで書いてから、トウマは息を吐いた。
「次は?」
ダンが聞く。
「分かってないこと」
トウマは書き足した。
この紙を書いた人が、道でサクさんたちに会った人と同じかは確認していません。
ハル・ミナト本人かは確認していません。
「手紙は読んだ」と書いてあるので、書いた人は読んだと言っています。実際に全部読んだかは、俺には確認できません。
「待てとは言わない」が、俺を待たせたくない気持ちなのか、関わるなという意味なのか、別の意味なのかは分かりません。
「名前は」
リーネが静かに尋ねた。
トウマは末尾の署名を見た。
「この紙を書いた人は、自分の名前をヴァルハって書いてます」
「では、この返事は誰から?」
トウマはすぐには答えなかった。
「ヴァルハと署名した人から」
「ハルからではなく?」
「ハルかもしれないと思っています」
「はい」
「でも、この紙に書いてある名前はヴァルハです」
「では、どこへ保管しますか」
ハルの記録箱。
油紙の「まだ」を入れた、自分の机の引き出し。
どちらでもなかった。
トウマは空の箱を一つ出した。表に、長い名前を書く。
トウマ宛てに戻った手紙と、ヴァルハと署名された紙
その下へ、分類の理由を記した。
手紙原物――トウマが自分の物と判断。
返書の書き手――ヴァルハと署名。
ハル・ミナト本人性――未確認。
「ハルの箱へ入れない?」
ダンが確認した。
「入れません」
「悲しくない?」
「悲しいです」
トウマは否定しなかった。
「でも、ヴァルハって書いた人の名前を、俺がハルに変えたくないです」
その言葉を口にした後、目から涙が落ちた。
声は崩れなかった。
トウマは手の甲で拭い、もう一度紙を見た。
「うれしいです」
「はい」
「悲しいです」
「はい」
「どっちも書きます」
「はい」
「待つかは」
トウマは「待てとは言わない」の一文を指した。
「俺が決めます」
「この人が、待つなとは書いていない?」
「はい。待てとも言ってない」
「では」
「俺は待ちます。でも、前と同じです。待つ人だけにはなりません」
返事が届いたことで、その判断は変わらなかった。
***
トウマは、その日のうちに朔たちへの報告を書いた。
返書の全文を、同行した十人へ見せてよいと決めた。街全体への公開は、まだ許可しない。
自分の第一記録も同封する。
最後には、朔へ向けた文があった。
「まだ」と「しない」の、どちらが本当だったかは、今も決めないでください。
新しい紙には、「今は、これ以上答えない」と書いてありました。
この文には、今は答えないことと、これ以上は答えないことが一緒にあります。
だから、前にサクさんが聞いた「まだ」と、リオさんが聞いた「しない」が、どちらか一つだけだったとは、俺は思いません。
でも、新しい紙を使って、前にみんなが聞いた言葉を書き直さないでください。
その部分を、ダンは二度読んだ。
「難しいことを書いたな」
「合ってる?」
「何が」
「新しい言葉が来ても、前の耳が変わったことにはしない」
「そう読める」
「じゃあ、送る」
トウマは続けた。
この返事を書いた人は、ヴァルハと署名しました。
俺は、ハルかもしれないと思っています。
でも、この返事の名前は、今はヴァルハです。
サクさんたちも、その名前で記録してください。
署名。
トウマ
封を閉じる前に、返書の原物は自分の箱へ戻した。
朔たちへ送るのは、トウマ自身が作った正確な写しだった。リーネとダンが原物と一字ずつ照合し、写しであることを記した。
原物を街へ戻す必要はない。
返事を調べる者たちのために、返事の持ち主が原物を手放す義務もなかった。
***
白い塔の街で、朔はトウマから届いた写しを、同行者十人とともに読んだ。
最初に、返書そのもの。
手紙は読んだ。
今は、これ以上答えない。
待てとは言わない。
ヴァルハ
ユイが二行目を指した。
「『まだ』と『しない』が、両方ある」
「そう読めます」
朔は答えた。
「じゃあ、サクもリオも合ってた?」
リオが首を横へ振った。
「この紙の文が、あの時の発話と同じやとは確認してへん」
「でも、こういう言い方はできる」
「はい」
フェルは第一記録と第二記録を机へ並べた。
朔の「返事は。まだ」。
リオの「返事はしない」に近い。
自分の「まだ」のみ明瞭。
セオの「返事は」まで。
新しい文を見たことで、過去の記憶がまた変化する可能性がある。
「第三記録を作りますか」
ネラが尋ねた。
「作ります」
朔は答えた。
「ただし、聞き取りの再判定ではなく、新しい文を知った後の記憶として」
十人は、もう一度それぞれに書いた。
朔は、あの時の声が「今は、これ以上答えない」だったように思え始めたことを書いた。
リオも、最初に聞いた「しない」と、後から強くなった「まだ」が、一つの文に含まれていた可能性を考えるようになったと記した。
フェルは、新しい文章の構造を知った影響によって、過去の不明瞭な音を補っている可能性が高いと書いた。
セオは、今も「返事は」より後を、自分の聴取としては確定しなかった。
ユイは、裂け目付近で聞いた「トウマ」の記憶を維持し、返事の文は聞いていないと書いた。
新しい言葉は、過去の十人を一つにしなかった。
ただ、「まだ」と「しない」が必ずしも反対ではないことを示した。
「名前」
ユイが署名を見た。
「今度はある」
「はい」
「ヴァルハ」
「はい」
「誰が書いたかは、まだ確認してない」
「はい」
「でも、書いた人が置いた名前」
「少なくとも、この紙ではそうです」
「使う?」
「この返書の書き手の申告名として使います」
「ハルにしない?」
「しません」
中央向けの記録には、次の見出しが置かれた。
トウマ宛てに返された私信と、ヴァルハと署名された返書
本文。
返書には「手紙は読んだ」「今は、これ以上答えない」「待てとは言わない」と記され、末尾に「ヴァルハ」と署名されていた。
トウマは原物を自身の手紙と判断した。街側の事前記録とも高く一致する。
返書の筆記者が、経路内でヴァルハと名乗った人影と同一であることは未確認。
返書の筆記者とハル・ミナトの同一人物性は未確認。
返書の文を、過去の退避時発話の正解として用いない。
追加の質問、接触、踏査への同意は示されていない。
グラドは記録を読んだ後、最後に一行を加えるよう求めた。
「今は、これ以上答えない」との文を、一定期間後の再質問許可として扱わない。
「今は、があるから」
ユイが言った。
「後ならいいって、また読む人がいる」
「はい」
グラドは答えた。
「私なら、そう読もうとする可能性があります」
「だから書く?」
「はい」
返書が届いたことで、中央の質問票は正当化されなかった。
返書はトウマの手紙に対して書かれた可能性が高いが、質問票へ答えたとは書かれていない。
返答をしない現在の意思は、後で問い直す許可ではない。
朔は、自分の記録を最後に書いた。
俺は、この返書を書いた者が、道で会ったヴァルハと同じ人であると思っています。
その人がハル・ミナトである可能性を、今も強く望んでいます。
それでも、この返書の署名をハル・ミナトへ書き換えません。
「待てとは言わない」を、俺たちへ再訪を求めない意思として読みたいです。ただし、接触拒否、トウマへの配慮、単なる事実の否定など、別の意味を残します。
署名。
黒川朔
その夜、朔は白い部屋を夢に見なかった。
表示もない。
声もない。
朝まで何度か膝の痛みで目を覚ましたが、そのたびに、自分の部屋の天井が見えた。
机には、トウマが許可した返書の写しがある。
返事は来た。
だが、それはハルを返さなかった。
「まだ」と「しない」のどちらかを、正しい答えにも選ばなかった。
代わりに、今はこれ以上答えないと、書き手自身の範囲を示した。
そして、その文の下へ、一つの名前を置いた。
ヴァルハ。
朔たちは、その名を消さなかった。
ハルへも書き換えなかった。
返事の輪郭の内側へ、初めて書き手が自分で名を置いた。
その名と、ハル・ミナトの名の間にある空白は、まだ残った。
けれど今度の空白は、誰の名前もない空白ではなかった。
ヴァルハという名を持つ者が、自分で答えない範囲を決めた、その先に残る空白だった。




