第十章 返事の輪郭 ⑩ 問いの裏側
質問票が見つかったのは、挿入から三日目の朝だった。
ミウが市場を開ける前に確認すると、床の隙間へ置いた紙帯は動いていなかった。砂には鼠と思われる小さな足跡が一つ残っていたが、返し口へ続いてはいない。床板の封印線にも異常はなかった。
それでも、返し口の浅い窪みには、前夜にはなかった紙が置かれていた。
四つ折りになっている。
印刷面は内側へ折り込まれ、外から見える面には、炭で一文だけ書かれていた。
ミウは文字を声に出さなかった。見えた形を帳面へ写し、市場の外へ出てミエルを呼んだ。
ミエルも別の紙へ記録した。
二人の読み取りは一致した。
名前は、もう答えた。
「質問票か」
「大きさは近いです」
「触るな。客も入れるな」
市場は開場を遅らせた。
ノエ、ルカ、ネラ、ガドが到着するまで、紙には誰も近づかなかった。紙帯が動いていない以上、どの経路から窪みへ来たのかは分からない。床下の別の溝を通った可能性もあれば、市場側から誰かが床板を開けずに入れた可能性もある。
ガドが鏡で周囲を確認し、長い木ばさみで紙を持ち上げた。
四つ折りの形は崩さず、金網の箱へ移す。
黒色化は起きなかった。熱も、匂いも、光もない。
外側の一文を、ネラ、ノエ、ルカが別々に記録した。
三人とも同じだった。
名前は、もう答えた。
句点まである。
「開きますか」
ノエが尋ねた。
「先に外側を全部見る」
ネラは紙の端を調べた。
右上には、グラドが寸法確認の前に付けた三本の短い刻みがある。下端には、差入口へ入れる際に石へ擦れてできたとグラドが記録した、斜めの毛羽立ちが残っていた。
中央に保管されている二枚の写しには、その刻みも擦れもない。
紙質、印刷位置、大きさも一致した。
「グラドさんが入れた一枚である可能性は、高いです」
「同一物と確認するには」
ミエルが聞いた。
「挿入後から発見までの経路が連続していません。誰かが似た傷を付けた複製を作った可能性は、完全には除けません」
「でも、別紙と考える理由も」
「今のところありません」
グラド本人が呼ばれた。
彼は金網の外から紙を見たが、文字の意味については答えなかった。調査の第一判断から外れると決めたためである。
「物として確認できることだけを話します」
右上の三本線は自分が付けた。寸法を測った位置を後で確認するためだった。
下端の擦れも、挿入時に生じたものと形が近い。
質問票は折らず、緩く曲げて差入口へ入れた。四つ折りにはしていない。
「裏に文字は」
ネラが尋ねた。
「ありませんでした」
「確認しましたか」
「挿入前に両面を見ました。裏は白紙でした」
「記録は」
「裏面無記載、とは書いていません」
「では、記憶として」
「はい。私の記憶です」
グラドは少し黙ってから付け加えた。
「この紙が戻ったことで、試験が結果を得たと思いたい気持ちがあります」
「意味判断へは」
「参加しません」
「物の同一性についても、その願いは影響しますか」
「します。私が入れた紙である方が、自分の行為と結果を結びつけられるからです」
その発言も、同一性の確認記録とは別の欄へ置かれた。
物理的な特徴は高く一致する。
確認者本人は、同一物であってほしいという利害を持つ。
どちらも残した。
紙を開く前に、四つ折りの方向が記録された。
印刷された問いと回答欄は、全て内側を向いている。
外側に出ているのは、白紙だった裏面と、そこへ書かれた一文だけだった。
「折った意図は分からない」
ネラが先に言った。
「はい」
ユイは金網の箱を見た。
「でも、質問は中に入ってる」
「物の状態としては、そうです」
「答えは外」
「文字は外側です」
「そうしたかったかは」
「まだ分かりません」
紙は、ネラ、ノエ、ミエルの三人が確認しながら開いた。
印刷面には、グラドが作った四つの問いが残っていた。
あなたは、ハル・ミナトですか。
あなたが今答える名前は、ヴァルハですか。
あなたは返答を続けますか。
あなたは安全ですか。
はいといいえの欄は、全て空白だった。
線も、点も、汚れもない。
名前を書き足した余白もない。
「全部、答えてない」
ユイが言った。
「選択欄には、印がありません」
フェルが訂正した。
「外側の一文が、この四問への回答かもしれません」
「違うかもしれない」
「はい」
油紙の「まだ」と同じ炭かどうかも調べられた。
どちらも一般的な木炭に近い。油紙の文字には樹脂の成分がわずかに含まれていたが、今回の文字からは確認されなかった。筆記具も異なる可能性がある。
筆跡は比較できなかった。
共通する文字がない。
油紙には「まだ」。
質問票には「名前は、もう答えた」。
書き手が同じであることも、違うことも、文字だけでは分からない。
中央が最初に出した見出し案は短かった。
ヴァルハ、ハル名を否定
「否定していません」
ユイが即座に言った。
「『名前は、もう答えた』を、現在名ヴァルハの再確認と解釈できます」
中央職員が答える。
「ハルじゃないって、どこに書いてある?」
「最初の問いへ印を付けず」
「二つ目にも付けてない」
「外側で、既に名乗ったと」
「誰が書いたか分からない」
職員はフェルを見た。
「では、どのように記録しますか」
フェルは用紙へ線を引き、別の文を書いた。
グラド・ウェンが挿入した質問票と物理的特徴が高く一致する紙を、旧市場返し口の窪みで確認。
紙は、質問・選択欄を内側にして四つ折りとなっていた。全回答欄は空欄。外側に「名前は、もう答えた」と読める一文あり。
次に、未確認事項を加える。
折り畳んだ者、筆記者、返却者、移動経路、筆記時刻、想定宛先、質問票への回答意図は未確認。
「見出しは」
空欄の質問票と、外側の一文
「ヴァルハの名を入れない?」
「質問文中にはあります。本文へ原文を載せます」
「ハルも」
「同じです」
カイ・ノルは、二つの見出し案を持ってきていた。
ヴァルハ、ハルではないと回答。
黒い人影、現在名ヴァルハを再確認。
「どっちも使えませんか」
「使えません」
朔が答えた。
「でも、『名前はもう答えた』なら、ヴァルハって答えたことを指してるんやないの」
「俺も、そう思いました」
「なら」
「俺がそう読んだことは書けます」
朔は自分の判断を別紙へ記した。
黒川朔は、「名前は、もう答えた」が、経路内で人影が自らをヴァルハと名乗ったことを指す可能性が高いと感じた。
続けて書く。
その場合、この一文は、ハル・ミナト本人性への回答ではなく、既に答えた名を再度選択式で問われたことへの拒否または訂正である可能性がある。
さらに、
筆記者および質問票との関係が未確認であり、ヴァルハと名乗った者の意思として確定しない。
と加えた。
「ハルかどうかは」
カイが尋ねた。
「答えていません」
「『名前はもう答えた』なら、ハルを否定したようにも」
「そう読む人はいます」
「違う?」
「違うとも確認していません」
「じゃあ、街はまた分からない」
「はい」
カイは二つの見出しへ線を引いた。
「長い方を貼る?」
「全文を読める場所は必要です」
「短い見出しは」
ミエルが言った。
「空欄のまま戻った、でええやろ」
最終的な掲示は、次の形になった。
質問票と高く一致する紙が、全回答欄を空欄にした状態で見つかりました。
外側には「名前は、もう答えた」と書かれていました。
書いた者、返した者、この文が質問への回答かどうかは確認されていません。
その下に、質問票の全文と、発見状況へ辿れる記録番号が付けられた。
誤りを起こした問いそのものも、隠さなかった。
***
「私なら」
ユイは人の少なくなった旧紙倉で、もう一度質問票を見た。
「『名前は、もう答えた』って書くかもしれない」
「はい」
「Y.I.ですかって聞かれたら」
「はい」
「でも、それはY.I.じゃないって答えたことになる?」
「なりません」
「ユイって答えたことになる?」
「前にユイと答えた事実を、指している可能性はあります」
「でも、書いた人が私か分からなかったら」
「ユイさんの意思にはできません」
ユイは紙の二つの名前を見た。
「一回、答えた名前は、ずっと同じにしないといけない?」
「変えたければ、変えていいと思います」
「じゃあ、『もう答えた』も、今の名前を変えない約束じゃない」
「はい」
「もう一度聞くな、かもしれない」
「そう読めます」
「今は答えたくない、かもしれない」
「はい」
「名前じゃなくて、質問の仕方が嫌、かもしれない」
「はい」
「一つじゃない」
「一つには決まりません」
エリオが二人の向かいに座った。
「しかし、少なくとも回答欄のどれにも印を置かなかったことは確認できます」
「選ばなかった?」
「選ばなかった可能性があります。選べなかった、意味が分からなかった、筆記者が別である、という可能性も残ります」
「それでも」
ユイは紙を指した。
「どの欄にも、名前を渡してない」
エリオは頷いた。
「物の状態としては、その通りです」
朔は、質問票が折られていた形を見た。
問いは内側。
一文は外側。
それを拒絶と呼びたい気持ちがあった。
ヴァルハが、こちらの用意した名前の枠へ入らず、自分の名は既に答えたと返した。
そういう人間の行為として読みたかった。
だが、その物語を確定するには、筆記者をヴァルハへ置く必要がある。
まだ、その名を置けなかった。
「この紙を」
グラドが離れた席から言った。
「必要な回答が得られなかったものとして、再質問の根拠にしてはなりません」
判断には参加しないと決めているため、彼は手順への意見として述べた。
「理由は」
フェルが尋ねた。
「回答欄が空白だからです。空白を未回答と分類し、答えが得られるまで問い直せば、答えないことや、別の形で答えることを認めない制度になります」
「外側の文は」
「私が意味を判断するべきではありません。ただし、回答欄の外に文字がある事実を、回答なしとして消してはならないと考えます」
「質問を入れたことは」
「正当化されません」
「戻ったから?」
「戻ったとしてもです」
グラドはそこを明確にした。
「結果が得られたように見えることは、同意を得なかった行為を、後から正しい手順にはしません」
彼の報告には、その一文も加えられた。
***
トウマへは、先に送った概要への追報として、紙が戻った可能性が高いことが伝えられた。
朔は、質問票の具体的な全文を入れた封筒とは別に、発見された状態を記した。
質問票と高く一致する紙が、旧市場の返し口で見つかりました。
はい・いいえの欄には、一つも印がありませんでした。
紙は、問いが書かれた面を内側にして折られていました。
外側には「名前は、もう答えた」と書かれていました。
書いた人と、返した人は分かりません。ヴァルハと名乗った人が書いたとも、ハル・ミナトさんが書いたとも確認していません。
続けて、朔自身の読み方を書いた。
俺は、この言葉が、ヴァルハと名乗った人の「もう自分の名前は答えた」という意思であってほしいと思いました。
そこで一度、筆を止めた。
「であってほしい」だけでは足りない。
なぜそう望むのかを書く。
そうであれば、その人がこちらの用意した二つの名前から選ばず、自分で答えた名前を守ったことになるからです。
でも、俺がそういう人であってほしいと思っていることが、読み方へ影響しています。
最後に、
この紙は、ハル・ミナトさんかどうかへの答えにはなっていません。少なくとも、俺はそう扱いません。
と書いた。
封筒の差出人には、グラドの名も残した。
紙を入れた者。
紙が戻った後の意味判断から外れた者。
結果によって行為を正当化しないと記録した者。
それらは同じ名前に属していた。
夕方、市場は通常どおり閉まった。
ミウが床を確認し、紙帯を置き、砂を均した。質問票は封印箱へ移され、返し口には何も残っていない。
誰も次の答えを求める紙を入れなかった。
戻った質問票の欄は、最後まで空白だった。
空白だから、何も答えなかったとは決めなかった。
外側に一文があるから、誰が答えたとも決めなかった。
用意された答えの中には、誰の名前も置かれなかった。
答えの輪郭は、問いの裏側に現れた。
だが、その輪郭の内側へ誰の名を置くかは、まだ空白のままだった。




