第十章 返事の輪郭 ⑨ 答えを選ばせる紙
中央から持ち込まれた紙には、四つの問いが並んでいた。
最初の問いには、二つの名前が使われている。
あなたは、ハル・ミナトですか。
その下に、四角い欄が二つ。
はい
いいえ
二つ目。
あなたが今答える名前は、ヴァルハですか。
同じように、はいといいえ。
三つ目は、返答を続ける意思について。
四つ目は、現在の安全について。
全て、二つの欄から選ぶ形式になっていた。
「返し口へ入れる案です」
グラド・ウェンは、紙を机の中央へ置いた。
「人が経路へ入らずに、必要な情報を確認できます。文字が読める者であれば、該当欄へ印を付けて返せます」
旧紙倉には、朔、ユイ、リオ、フェル、イサラ、エリオ、ネラ、ノエ、ルカ、ミエルが集まっていた。
マレアは朔の膝を確認した後、治療室へ戻っている。朔は杖を椅子へ立てかけ、紙には触れずに読んだ。
「誰が答えることを想定していますか」
「ヴァルハと名乗った者です」
「その人が、返し口へ現れた物を読んでいることは」
「確認されていません」
「油紙が戻ったことと、紙片が戻ったことから、文字を扱える可能性は高い」
「可能性はあります」
グラドは頷いた。
「だから試します」
「試される人は、同意していますか」
グラドの返答が少し遅れた。
「直接の同意は得られません」
「では、返事を求める紙です」
「回答は強制しません。答えない選択も残っています」
ユイが用紙を自分の方へ少し回した。
「答えなかった時の欄は?」
「ありません」
「じゃあ、何も付けない」
「それが回答しないという選択です」
「何も付いて戻ったら?」
「回答拒否、未読、理解不能、筆記不能などが考えられます」
「どれか分からない」
「はい」
「戻らなかったら?」
「同様に、複数の可能性があります」
ユイは最初の問いを指した。
「ハル・ミナトじゃなくて、ヴァルハでもない人だったら、どこに付けるの?」
「最初の問いに『いいえ』、二つ目にも『いいえ』です」
「名前を答えたことにはならない」
「三つ目以降の余白へ記入できます」
「余白に書けるなら、最初から四角を作らなくてもいい」
グラドはすぐには答えなかった。
用紙は、自由に答えられるように見えていた。だが最初に並べられた名前は二つだけだった。
ハル・ミナト。
ヴァルハ。
どちらか。
どちらでもない。
紙は、読む者がその枠組みを受け入れることを先に求めている。
「この二つの名前は、互いに排他的ですか」
エリオが尋ねた。
「どういう意味です」
「一人が、過去にハル・ミナトと呼ばれ、現在はヴァルハと答えている可能性があります。その場合、二つとも『はい』になり得ます」
「それは重要な情報です」
「しかし、二つへ印が付けば、記入者が同一人物性を認めたと解釈されます」
「本人が付けたのであれば」
「記入者が誰かを確認できません」
エリオは自分の名前が順位で扱われていた頃の記録を思い出すように、紙を見た。
「また、過去の呼称を問われることと、現在の名を答えることは同じではありません。私が『第二位だったか』と問われて肯定しても、今の名を第二位と答えたことにはなりません」
イサラも四つ目の問いを読んだ。
「『安全ですか』の安全とは、何を指しますか」
「身体に切迫した危険がないことです」
「誰の身体です」
「回答者の」
「一人ですか」
「同行者がいれば、その者たちも含みます」
「同行者がいると、誰が決めましたか」
「決めていません」
「道が崩れていないという意味にも、追われていないという意味にも、今すぐ救助が必要ではないという意味にも読めます。はいが付いても、こちらが進んで安全とは限りません」
「問いを細分化できます」
「細かくすれば、答えさせる量が増えます」
フェルは中央用の余白へ、すでにいくつかの問題を書き始めていた。
「三つ目の『返答を続けますか』も、期間がありません。今この紙へ答えることと、次の接触へ同意することが混ざっています」
「『この紙へ回答しますか』に変えれば」
「紙へ印を付けた時点で、回答したことになります」
リオが短く息を吐いた。
「聞く前に、答えの形を置きすぎや」
「しかし、自由記述では解釈がさらに分かれます」
グラドの主張にも理由があった。
崩落音の中で聞いた言葉は、十人の間で分かれた。
油紙の「まだ」は明瞭だったが、書いた者も宛先も分からない。
紙片はトウマの言葉である可能性が高まったが、戻された意図は分からない。
選択欄を使えば、少なくとも回答の形は揃えられる。
「形が揃うことと、意味が揃うことは違います」
ネラが言った。
「はいに付いた印は、一つに見えます。けれど、問いの読み方が違えば、同じ印でも答えは違います」
「だから説明文を付けます」
「誰が、説明文の意味を説明しますか」
返し口の向こうには、問い返せる窓口がない。
用語の意味が違っても、その場で確認できない。
紙だけが先に着き、回答者が紙の作った分類へ入ることになる。
朔は最初の問いを見た。
あなたは、ハル・ミナトですか。
あの道で、言わなかった問いだった。
黒い人影を目の前にしても、朔はそれを聞かなかった。
トウマも、ハルではないものをハルにしないでほしいと書いた。ヴァルハと名乗った者を、ハルと呼ばないでほしいとも。
「この紙は使いません」
朔が言った。
「黒川朔さんに決定権はありません」
「はい。だから、俺の判断として言います」
「理由を」
「俺たちは、あの人が自分で答えた名前を記録しました。今度は、こちらが置いた二つの名前から選ばせようとしています」
「ハル・ミナト本人であるかは、捜索上重要です」
「重要です」
「なら」
「重要だから、答えの形を先に狭くしてよいとは思いません」
朔は、自分が答えを欲しがっていることも隠さなかった。
「俺は、ハルさんか知りたいです。この紙に『はい』が付いて戻れば、信じたくなります」
「それを踏まえても、確認する必要は」
「俺が信じたい形の問いを、相手へ渡したくありません」
ユイが朔の横から用紙を見た。
「私に同じ紙が来たら、嫌です」
「どの問いが」
「『あなたはY.I.ですか』って、はいといいえを置かれるの」
部屋が静かになった。
「いいえに付けたら、Y.I.じゃないって決まる?」
「本人の回答としては」
「昔のことが分からなくても?」
「分からないという欄を追加できます」
「はい、いいえ、分からない」
「はい」
「どれか選ばないといけない?」
「回答しないこともできます」
「答えなかったら、怖くて答えられなかったって書かれるかもしれない」
「可能性の一つとして」
「それが嫌です」
ユイは用紙をグラドへ戻した。
「名前を聞くなら、私が今答える名前を聞いてほしい。昔の符号を先に置かないでほしい」
グラドは紙を受け取ったが、片づけなかった。
「では、どのような問いなら許容できますか」
「今は、問いを送ること自体に同意していません」
フェルが答えた。
「誰の同意です」
「少なくとも、トウマさんは返事を強制しない条件で手紙を送りました。ヴァルハと名乗った者は、手紙を受け取るとは答えましたが、追加質問を受けるとは答えていません」
「私信と中央の調査は別です」
「別だからこそ、私信への応答らしき現象を、中央調査への同意として使えません」
ミエルは、そこまで黙って聞いていた。
「一つ聞く」
「何です」
「この紙、何枚作った」
グラドは用紙を見た。
「三枚です」
「ここにあるのは」
「原案一枚と、記録用の写し一枚です」
「もう一枚」
わずかな間があった。
「寸法確認用として、旧市場へ送りました」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「いつ」
ミエルの声が低くなった。
「昨夜です」
「誰の許可で」
「中央の経路確認権限です」
「うちの市場へ?」
「返し口設備の寸法を確認するため、紙が溝を通るか試す必要がありました」
「どこまで入れた」
「地上側の差入口から、紙全体が見えなくなる位置まで」
ミエルは立ち上がった。
「質問を書いたまま?」
「回答欄は無記入です」
「聞いてるのは、印を付けたかやない」
グラドはようやく、ミエルの問いの意味を理解した。
「質問文は、印刷済みでした」
「それを入れた」
「寸法確認用です」
「読める字がある紙を、返し口へ入れた」
「はい」
「それを、今から使うか話し合う前に」
「はい」
「市場に言わず」
「中央設備の確認として――」
「市場は中央の机やない」
ミエルは声を荒らげなかった。その分、一つ一つの言葉がはっきり聞こえた。
「寸法を測りたいなら、同じ大きさの白紙を使えた。文字が必要なら、誰にも向けてへん見本線にできた。何で、まだ使うと決めてない問いを入れた」
「回答欄が無記入であるため、接触とは考えませんでした」
ユイが用紙を見た。
「何も付いてなくても、質問は書いてある」
「はい」
「読む人には、もう聞いてる」
グラドは否定しなかった。
「市場へ行きます」
ノエが立ち上がった。
「現在の状態を確認します。誰も単独で床を開けないでください」
***
旧市場は、昼の営業を止めた。
ミウが朝に確認した紙帯は交換済みで、その時点では返し口周辺に新しい物はなかった。グラドが紙を入れたという差入口は、床板を開けなくても、壁際の細い溝へ紙を滑らせられる構造になっていた。
中央は、そこを設備検査用の差入口と記録していた。
市場側の古い帳面では、返し荷補助口。
同じ場所に、二つの役目が付いている。
「昨夜、ここから入れました」
グラドは自分で位置を示した。
「時刻」
「夜鐘の二度目より前です」
「同行者」
「いません」
「市場にいた人」
「閉場後でした。誰もいないことを確認しました」
「誰もいないから入れた?」
「作業を妨げないためです」
「同意を取らずに済むからでは」
ミエルの問いに、グラドはしばらく答えなかった。
「その考えがなかったとは言えません」
ネラが記録した。
差入口の封印線は切れていない。ここは、前夜の手順で封印対象に入っていなかった。中央が設備検査に使う可能性を、市場側が知らなかったためである。
薄い鏡を入れると、溝の途中に紙は見えなかった。
棒を差し入れても、手応えはない。
「落ちた?」
ユイが聞いた。
「奥へ進んだ可能性があります」
ルカが答えた。
「床下へ落ちた可能性もあります。別の溝へ引っかかった可能性も」
「返し口の向こうへ」
「否定できません」
ガドが床板を開け、見える範囲を調べた。質問票は見つからなかった。
試験木片が通った溝。
油紙が現れた窪み。
紙片が引っかかっていた石溝。
どこにもない。
「取りに行く?」
ユイの問いに、イサラが首を横へ振った。
「紙一枚を回収するために経路へ入りません」
「質問が向こうへ行ったかもしれない」
「はい」
「読まれるかも」
「はい」
「でも」
「今から身体を危険へ入れても、回収できる保証はありません。別の接触を増やします」
朔は差入口の前に立たなかった。
紙には、ハル・ミナトの名前が書かれている。
ヴァルハの名前も。
あの人が自分でヴァルハと答えた後で、こちらはハルかどうかを問う紙を送った。
合意せず。
許可も得ず。
寸法試験という名前で。
「これから何か戻ったら」
ユイが言った。
「この紙への返事かもしれない?」
「はい」
フェルが答えた。
「油紙の『まだ』より後に、この質問票は入れられています。今後出現する文字、印、物品は、質問票への反応である可能性を分ける必要があります」
「前の手紙への返事かも」
「あります」
「関係ないかも」
「あります」
「増えた」
「はい」
分からないことが増えたのではない。
こちらが新しい原因を一つ加えた。
そのため、次に起きる出来事を、以前と同じ条件では読めなくなった。
「確認票を入れなければ」
グラドが言った。
「今後の現象を、油紙や手紙との関係だけで検討できた」
「はい」
フェルは中央の記録者として答えた。
「私は、調査条件を変えました」
「はい」
「未承認の問いによって」
「はい」
グラドは差入口を見た。
「私は、回答欄へ印がなければ、質問は成立していないと考えました」
「質問は」
朔が言った。
「相手が答えた時に始まるものではありません」
「紙を読んだ時点で」
「読まなくても、こちらが問う形で送ったことは残ります」
「読んだかは未確認です」
「はい」
「なら、質問が届いたとも確認できない」
「はい」
「それでも」
「送ろうとした行為は確認できます」
グラドは頷いた。
「私が行いました」
抽象的な中央ではなく、自分の名前へ行為を戻した。
***
旧紙倉へ戻ると、グラドは自分の報告を作成した。
最初の一文。
グラド・ウェンは、中央で検討中の対象確認票一枚を、寸法確認用として旧市場の返し荷補助口へ挿入した。
次。
実施前に、旧市場管理者、関係者、私信送付者、想定される回答者の同意を得ていない。
次。
確認票には、ハル・ミナト本人性、ヴァルハという現在名、返答継続意思、安全状態を問う文と、はい・いいえの選択欄が記されていた。回答欄は無記入だった。
次。
グラド・ウェンは、無記入の確認票を設備寸法試験用物品と考え、接触または質問の実施とは分類しなかった。
筆が止まる。
グラドは、その文へ線を引かなかった。
続けて書いた。
しかし、読める問いが記載された紙を経路へ挿入した時点で、記入者の意図にかかわらず、受取側には質問として機能する可能性がある。
次。
確認票は回収できていない。返し口の先へ移動したか、床下または別溝に残留しているかは未確認。
最後。
今後発生する物品・文字・音・表示について、この確認票への反応である可能性を追加して記録する必要が生じた。グラド・ウェンの行為により、以後の解釈条件が変更された。
署名した。
グラド・ウェン
「処分」
中央の職員が尋ねた。
「別に決めます」
イサラが答えた。
「今、必要なのは罰ではなく」
「罰が不要とは言っていません。ですが、先に、何を変えたかを記録します」
グラド自身も異議を出さなかった。
「私は調査から外れるべきですか」
フェルが尋ね返した。
「何を望みますか」
「自分の行為の影響を最後まで記録したい」
「断りにくい理由は」
「ここで外れれば、責任から逃げたと見られることです」
「ほか」
「自分が正しかったと示すために、回答が戻るのを待ちたい気持ちがあります」
グラドは、そこまで言ってから表情を硬くした。
「この確認票へ回答が戻れば、必要な試験だったと思いたくなる可能性があります」
「では」
「返し口から次に何か出た場合、私は最初の意味判断へ参加しません」
「記録は」
「自分の行為と、確認票の文面、挿入時刻だけを提出します」
「中央報告」
「フェル・ナードへ移します」
完全に調査から消えるのではない。
自分が加えた条件については記録する。
だが、自分の行為を正当化し得る次の答えを、自ら判定する位置からは外れる。
その範囲が文書化された。
***
新しい手順には、通信物の定義が加えられた。
読める文字、記号、名前、選択欄、回答形式を含む物を返し口または旧経路へ入れる行為は、作成者が試験・計測・寸法確認と呼ぶ場合も、通信または接触を試みる行為として扱う。
回答欄が無記入であること、宛名がないこと、質問として承認されていないことは、通信性を否定する理由にならない。
寸法・材質・通過確認には、意味を持たないと複数者が確認した試験物を使用する。ただし、形状や色自体が既存の記号と重なる可能性も記録する。
市場側の管理範囲から物品を挿入する場合、市場管理者の承認を要する。中央の設備権限のみで実施しない。
想定される受取者へ名前、役目、回答形式を提示する場合、提示そのものが相手の自己定義と回答範囲へ影響し得ることを事前に記録する。
最後に、今回の確認票そのものが添付された。
複製であることを明記し、原物は回収できていないと書く。
使われなかった案としてではない。
送られた可能性のある問いとして。
「公開する?」
ユイが尋ねた。
「はい」
グラドが答えた。
「名前も?」
「私の名前を出してください」
「中央だけにしない?」
「中央の様式と権限が行為を可能にしました。それも書いてください。しかし、紙を入れると決め、実行したのは私です」
公開記録には、制度と個人の両方が残された。
中央には、未承認案を設備試験へ転用できる手順があった。
市場側へ知らせず使える差入口があった。
寸法確認と通信を別の分類へ置く考え方があった。
その中で、グラドが紙を選び、挿入した。
一つだけを原因にはしなかった。
どれも消さなかった。
***
トウマへ送る報告は、その日のうちに作られた。
朔は最初の案を読んで、書き直した。
中央の者が、ハル・ミナトさんか、ヴァルハか、返事を続けるか、安全かを尋ねる紙を作りました。
使うか決める前に、そのうち一枚が、寸法確認という理由で旧市場の差入口へ入れられました。
紙は見つかっておらず、道の先へ行ったかは分かりません。
今後、何かが戻っても、あなたの手紙への反応か、この質問への反応か、どちらでもないかを分ける必要があります。
この紙を入れることについて、あなたの許可は求められていませんでした。
最後に、質問票の全文を読みたいかどうか、トウマが選べるようにした。
しかし今回は、内容の種類だけを知らせて、具体的な問いを伏せることはしなかった。
「どうして全部書くの?」
ユイが聞いた。
「これからの返答の読み方を変える問いです。トウマさんが、自分の手紙に関係する現象を判断する時、何を問われた可能性があるか知らないと選べません」
「読みたくないかもしれない」
「はい」
「でも、もう少し書いてる」
「問いの存在だけ知らせても、影響の範囲を判断できません」
「選ぶ前に影響する」
「します」
「どうする?」
朔は質問票の全文を別紙へ分けた。
最初の封筒には、どのような種類の問いが入れられたかと、今後の解釈条件が変わったことを書く。
別封筒には、正確な全文。
トウマは、先に概要だけ読むことも、全文まで読むこともできる。
「全部隠さない」
「はい」
「全部を最初から見せない」
「はい」
「また分ける」
「トウマさんが、どこまで知るかを決められるようにします」
差出人欄には、朔だけでなく、グラドの名も入った。
事実報告:グラド・ウェン
送付・開示条件確認:黒川朔ほか関係者
自分の行為を、朔の手紙の中へ隠さないためだった。
封筒がツヅリ村へ向かった後も、誰も返し口の前へ座らなかった。
質問票を回収したい気持ちはあった。
答えが付いて戻るか確かめたい気持ちもあった。
それでも、その紙が答えを求めてしまったからといって、人まで答えを待つ役目へ戻さなかった。
返事の輪郭は、返す者の言葉だけで作られるのではない。
先に置かれた問いの形によっても、削られる。
ハルか。
ヴァルハか。
はいか。
いいえか。
紙は、答える前から、答えの外側を狭くしていた。
その紙がどこへ着いたかは、まだ分からない。
だが、問いを送った者の名前だけは、空白にしなかった。




