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第十章 返事の輪郭 ⑧ 返された自分の言葉



 翌朝、床の隙間に置いた紙帯は、端が少し持ち上がっていた。


 ミウは市場へ入らず、扉の外からミエルを呼んだ。二人で閉場時の記録を確認した後、床板へ近づく。


 薄く均した砂には、小さな跡が残っていた。


「指みたい」


 ミウが言った。


「四つあるな」


 ミエルはしゃがまず、横から灯りを当てた。


 紙帯は切れていない。封印線にも変化はない。床板の位置も、墨の印と一致している。


 ただ、砂の上を何かが横切り、紙帯の端へ触れていた。


 ノエとルカが到着してから床下を確認すると、石溝の奥に鼠の糞が見つかった。確実に同じ鼠が紙帯を動かしたとは言えないが、小動物が通った可能性は高かった。


「反応あり、と書く?」


 ミウが尋ねた。


「紙帯の位置変化あり、や」


 ミエルは帳面へ書いた。


 紙帯右端、閉場時より約指半分上方へ移動。砂上に小動物足跡様痕跡。床板・封印線・返し口周辺物品に変化なし。


 その下へ、ルカが加えた。


 鼠糞を床下で確認。紙帯移動との直接の対応は未確認。


「誰かが通った、にはしない」


「はい」


「何も起きなかった、にもせん」


「はい」


 紙帯は役に立った。


 何が起きたかを決めるためではなく、何かが触れた可能性を、朝まで残すために。


 市場はその後、通常どおり開いた。


 紙を買う客が来て、荷が運ばれ、ミエルは値段をめぐって客と口論した。床下に鼠が通った可能性も、返し口に何かが現れる可能性も、市場の一日を全部は奪わなかった。


***


 トウマから、紙片の比較についての返答が届いたのは、その日の午後だった。


 彼は、紙片に残った文を読むことを希望していた。


 筆跡と紙の比較についても、条件付きで許可している。


 返答には、比較の目的が自分の言葉で書かれていた。


 最初に、この紙が俺の手紙の一部かもしれないことを調べてください。


 ハルの字と比べるのは、今はしないでください。


 ヴァルハと名乗った人の字は、俺は知りません。誰かがヴァルハの字だと言っても、先に確認してください。


 俺の字と似ていた時は、俺の手紙の一部か、俺の字を写した物か、別の人の似た字かを分けてください。


 似ていなかった時も、俺の手紙ではないとすぐに決めないでください。濡れたり、焦げたり、急いで書いたりしたかもしれないからです。


 最後に、


 比較に使う紙は、俺が選びました。


 とあった。


 封筒には三種類の資料が入っていた。


 一つ目は、手紙を書いた日に使った下書きだった。リーネが保管を勧めたため、訂正線を残したまま箱へ入れていたものだ。


 そこには、送った手紙とほぼ同じ一文がある。


 でも、手紙より先に帰ってきてください。


 二つ目は、手紙を書くより前に使っていた文字の練習紙だった。「先」と「帰」の字が、別の文章の中に何度か現れる。ハルやヴァルハとは関係のない紙であることを、トウマ、リーネ、ダンがそれぞれ確認していた。


 三つ目は、今回の照会を受けた後、紙片に残っていると知らされた文を、トウマが新しく書き写したものだった。


 より先に帰って


 その上には、大きく、


 比較を頼まれた後に書いた見本


 と記されている。


「三つ目は、似せようとしてなくても似る」


 ユイが言った。


「はい」


 ネラは三枚を重ねなかった。


「見本としては使えます。ただし、紙片の文を知った後に書かれているため、普段の書き方を示す資料とは分けます」


「一つ目は」


「同じ日に、同じ文を書いた下書きです。最も似ていても不思議ではありません」


「二つ目」


「紙片を意識する前の筆記です。文字の癖を見るために使えます」


 シオ婆は三枚を眺めてから言った。


「比べる者に、どれがどれか先に知らせん方がええ」


 資料は別の部屋で番号だけを付けられた。


 ネラは筆跡。


 ミウは紙の繊維と厚さ。


 シオ婆は墨と筆圧。


 三人は、それぞれ別々に調べる。結果を書くまで、番号と資料の意味は開示しない。


 朔は比較する部屋へ入らなかった。


「見ない?」


 ユイが尋ねた。


「俺は、原物の一部であってほしいと思っています」


「だから?」


「似ている場所を先に探す可能性があります」


「似てない場所も」


「軽く扱うかもしれません」


「じゃあ、結果だけ聞く」


「はい」


 筆跡を比べること自体は、誰かの願いから独立した行為ではない。


 誰が比較を求めたか。


 何を確かめたいか。


 どの結果を望んでいるか。


 それも、比較結果の横へ置く必要があった。


***


 三人の記録が揃ったのは、夕方だった。


 最初に、資料の番号を明かさず結果だけが読み上げられた。


 ネラは、紙片の「帰」の下部が右へ長く流れること、「先」の上の二画目が短いこと、「て」の終わりが上へ戻ることを挙げた。


「資料二と、高い一致があります。資料一にも同じ特徴があります。資料三は文字全体の形は近いですが、線が硬く、各字の間隔が紙片より揃っています」


「資料二は」


 番号を付けたノエが記録を開く。


「手紙以前の練習紙です」


「資料一」


「手紙と同日の下書き」


「資料三」


「比較を頼まれた後の書写」


 後から書き写したものより、意識する前の字の方が、紙片へ近かった。


 それだけで本人の筆跡と確定はできない。だが、トウマの普段の書き方と一致する特徴が複数ある。


 ミウの紙の比較では、紙片と同日下書きの繊維、厚さ、表面の細かな筋がよく似ていた。練習紙も同じ村で作られた物だが、少し厚い。今回書いた見本は別の束で、繊維の色がわずかに明るい。


「同じ紙?」


 ユイが聞く。


「同じ束の可能性は高いです」


 ミウは答えた。


「同じ一枚かは分かりません。送った原物がないので、破れ目を合わせられません」


「紙片の端」


「片方は手で裂かれたように見えます。でも、何かへ引っかかって裂けた可能性もあります」


「焦げ」


「後からです。紙を作った時のものではありません」


 シオ婆は墨を比べた。


 トウマが手紙を書いた時に使った墨は、ツヅリ村で作られた煤墨だった。粘りを出すための樹液が少なく、乾くと細かな割れが出る。


 紙片の文字にも、似た割れがある。


「同じ墨壺から取った可能性はある」


「確認できる?」


「同じ村の同じ作り方なら、別の日でも似る。墨は人の名札にはならん」


 全ての結果を合わせると、紙片に残った文字は、トウマの筆跡と高く一致していた。紙と墨も、彼が手紙を書いた時に使ったものと同系統である可能性が高い。


 フェルが結論案を読み上げた。


 紙片は、トウマが作成したハル・ミナト宛て私信の一部である可能性が高い。


「高い、まで書く?」


 グラドが尋ねる。


「筆跡、文、紙、墨がそれぞれ一致します」


「同じ原物であることは」


「確認できません」


「なら」


 ネラが書き直した。


 紙片の文は、トウマの同日下書きにある文の一部と一致する。筆跡は、トウマの同日下書きおよび手紙作成以前の筆記と高く一致する。紙質と墨も、手紙作成時に使用したものと同系統である可能性が高い。


 次の行。


 以上から、紙片が送付した私信原物の一部である可能性は高まった。原物との直接照合はできず、同一紙片とは確定しない。


「戻った言葉」


 ユイが紙片を見た。


「誰かが書いた返事じゃない?」


「この文字については」


 朔が答えた。


「新しく書かれた言葉より、トウマさん自身が書いた手紙の文である可能性が高くなりました」


「『まだ』とは違う」


「はい。油紙の『まだ』は、誰が書いたか分かりません」


「こっちは」


「トウマさんが書いた可能性が高い」


「じゃあ、返事じゃない?」


「文字そのものは、トウマさんの言葉だった可能性が高いです」


「それを返したことが」


 ガルが言った。


「返事かもしれん」


「はい」


「でも、選んで返したかは」


「分かりません」


 紙片が偶然に裂け、何らかの経路で戻った可能性。


 手紙を開いた者が、意図してその一文を選び、返した可能性。


 手紙を破棄する途中で、一部だけが返し口へ入った可能性。


 別の者が原文を写し、古い紙と墨で作った可能性。


 比較によって狭くなったものはある。


 だが、意図は紙の中から出てこなかった。


「手紙が開かれた可能性は」


 グラドが聞いた。


「上がります」


 ネラが答えた。


「原物だった場合には、内側の紙が包みから外れています」


「読まれた?」


「開かれたことと、読まれたことは違います」


「一文だけ切り取られた」


「切り取ったとは確認していません。裂けています」


「誰が」


「未確認です」


 フェルは中央向けの見出しを書いた。


 最初の案。


 ヴァルハ、トウマの手紙を読み一部を返却


 線を引く。


 次。


 ハル宛て私信の原文片とみられる紙片を回収


 これにも、ネラが首を横へ振った。


「原文片とみられる、だけでは、同一物性が確定したように読まれます」


 最終的な見出しは長くなった。


 トウマの私信中の文・筆跡・紙質・墨と高い一致を示す紙片


 本文へ、原物の一部である可能性が高まったことと、未確認事項を分けて書く。


 分離時刻、分離方法、経路、返し口への投入者、筆記者以外の取扱者、返却意図、読了の有無は未確認。


「何が分かった」


 ユイが尋ねた。


「戻った文字は」


 朔は答えた。


「相手が新しく書いた言葉ではなく、トウマさん自身が書いた言葉である可能性が高いです」


「何が分からない」


「なぜ、その部分が戻ったか」


「読んだ?」


「分かりません」


「選んだ?」


「分かりません」


「帰れって言った?」


「まだ、そうは書けません」


 ユイは少し考えた。


「自分の言葉が戻るのも、返事?」


「返事になる場合はあります」


「今回は」


「返事として返されたことを確認していません」


***


 トウマへ送る結果には、三人の比較記録をそのまま同封した。


 要約は先に置いた。


 紙片の文字は、あなたの普段の筆跡および手紙と同日の下書きと高く一致しました。紙と墨も、手紙に使ったものと同じ種類である可能性が高いです。


 送った手紙の一部である可能性は高まりましたが、原物がないため確定できません。


 この紙片が誰によって、どこで、なぜ分けられ、返し口へ来たかは分かりません。


 手紙が開かれた可能性は高まりました。読まれたことは確認していません。


 最後に、朔自身の記録を別紙へ入れた。


 俺は、この紙片が、あなたの手紙を受け取った者によって選ばれ、返された物であってほしいと思っています。


 特に「手紙より先に帰ってきてください」という文が戻ったことを、俺たちが帰ったことへの返答だと思いたいです。


 比較結果は、その意図を確認していません。


 署名。


 黒川朔


 トウマからの返事は、四日後に届いた。


 彼は、比較した三人の記録を読んだこと、自分の第一記録も残したことを書いていた。


 そして、短い文を続けていた。


 戻ったのは、俺の言葉だった可能性が高いと分かりました。


 だから、「帰って」と書いた人の名前は、今は俺です。


 返した人の名前は分かりません。


 その次の文は、少し字が乱れていた。


 手紙が破られたなら、悲しいです。


 読んだ後で破ったのか、読まずに破ったのか、道で破れたのかは分かりません。


 読んでから、その場所を選んで返したなら、うれしいです。


 でも、うれしい方だけにはしません。


 トウマは、紙片をハルの記録箱へ入れないという判断を変えなかった。


 原物の一部である可能性が高くなっても、誰が扱ったかは分からないからだ。


 代わりに、新しい分類名を自分で作った。


 ハル・ミナトにあてた手紙の一部である可能性が高い紙片


 長い名前だった。


 その下に、


 書いた者――トウマの可能性が高い


 返した者――未確認


 読んだ者――未確認


 と続けた。


 最後には、朔への言葉があった。


 サクさんたちが先に帰ったことは、俺が書いた言葉に従ったからだけではないと分かっています。


 みんなが、自分たちの身体で帰ると決めたからだと思っています。


 だから、この紙が戻ったことを、サクさんたちの帰り方の許可にはしないでください。


 朔はその一文を二度読んだ。


 あの日、退避を決めたのはイサラだった。


 手紙を追わないと答えたのはリオだった。


 朔の身体を先に裂け目へ渡したのは、そこにいた者たちだった。


 トウマの言葉は、迷った時の条件になった。


 だが、十人の身体を動かした命令ではなかった。


「返されたのは」


 ユイが言った。


「トウマの言葉」


「その可能性が高いです」


「返した人の言葉は」


 油紙に残る二文字。


 まだ


「こっちは、まだ分からない」


「はい」


「二つを一つにしない?」


「しません」


 自分の言葉が戻ること。


 誰かの言葉が返ること。


 同じではない。


 紙片が一つ戻ったことで、トウマの手紙が道の向こうで開かれた可能性は高まった。


 それでも、読まれたとは書けなかった。


 その一文が選ばれたとも、帰れという返事だったとも書けなかった。


 戻ったのは、トウマが書いた可能性の高い言葉だった。


 だから、その言葉の書き手には、トウマの名を置いた。


 返した者の空白へ、ハルもヴァルハも置かなかった。


 自分の言葉が返ってきても、それを相手の答えにはしなかった。

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