第十章 返事の輪郭 ⑥ 待機者名簿
トウマから届いた封筒には、油紙の「まだ」を読んだ後の記録が入っていた。
朔たちは、同行した十人が揃ってから開いた。
最初に書かれていたのは、油紙を見て、自分が何を思ったかだった。
道の向こうで手紙を受け取った者が書いたと思ったこと。
「返事はまだ」の続きだと思ったこと。
ハルが書いたと思いたいこと。
それでも、ハルが書いたとも、ヴァルハと名乗った者が書いたとも確認していないこと。
次に、睡眠中の表示については、詳しい内容を今は読まないと書かれていた。
知りたくないからではない。
知りたいまま、今は読まない。
最後の部分を、朔は声に出して読んだ。
「まだ」が、俺に待てと言った言葉かは分かりません。
俺は待ちたいです。でも、その言葉を理由に、俺の役目を待つことだけにしないでください。
次に道へ行くかどうかも、「まだ」が決めたことにはしないでください。
読み終えた後、誰もすぐには話さなかった。
ユイが最初に、机の端へ置かれた中央の書類を見た。
「これ、もうできてる」
書類の表題は、旧搬入口・応答待機体制案。
油紙が返し口から現れた翌日、中央が作成したものだった。
待機場所は旧市場と旧紙倉。三交代で常時二名を置き、返し口の変化、音、物品の出現を監視する。異常があった場合は、黒川朔、ユイ、リオ、フェル・ナード、エリオ・レイス、イサラ・ベルンへ順に連絡する。
末尾には、待機対象者の一覧があった。
黒川朔――返答内容照合
ユイ――表示変化確認
リオ――経路・物品照合
フェル・ナード――中央報告
エリオ・レイス――黒色化対応
イサラ・ベルン――防御・退避判断
「私」
ユイが自分の名を指した。
「表示を待つ人になってる」
「はい」
フェルは書類を伏せなかった。
「私が中央へ戻る前に作られた案です」
「フェルさんが作った?」
「いいえ。ただし、旧紙倉での記録を中央へ提出したことで、この案が作られる材料を出しました」
「待つって言った?」
「言っていません」
「でも」
「油紙の再出現と、返答に関係する可能性を報告しました」
グラドは中央側の説明をした。
「常時待機は、見落としを防ぐためです。次に物が現れた際、発見が遅れれば、状態が変化する可能性があります」
「市場は仕事場や」
ミエルは書類へ手を伸ばさなかった。
「夜まで人を置かれたら、荷も客も動かせん。返し口を見るために、市場を待合所へ変える気か」
「監視場所を床下付近へ限定することはできます」
「人がおるだけで、来る者の意味が変わる。『まだ』の続きが出る場所やと思われたら、誰も普通の紙を買いに来ん」
既に影響は出ていた。
油紙のことは、詳しい内容を公表していない。それでも、返し口から何かが戻ったという噂は広がっていた。
旧市場の扉の前には、三通の手紙と、小さな木彫りの鳥、乾いた花束が置かれていた。
宛名はそれぞれ違う。
行方不明の娘へ。
戦で離れた姉へ。
三か月前に死んだ夫へ。
最後の手紙を書いたのは、ナサだった。
「送りたいんですか」
朔が尋ねると、ナサは首を横へ振った。
「届くとは思っていません」
「では、なぜここへ」
「置く場所がなかったからです」
手紙は封をされていなかった。表には、亡くなったバド・ウルの名前がある。
「返し口が、死んだ人へ届くと思ったわけではありません」
「はい」
「でも、戻った物があると聞いたら、ここなら、置いてもいいように思いました」
ミエルはナサを追い払わなかった。だが、手紙を床下へ入れることも許さなかった。
「ここに置かれたら、うちが送ったことにされる」
「送りません」
「なら、いつまで置く」
ナサは答えられなかった。
待つ場所ができると、待つ物が集まる。
待つ物が集まると、そこを守る人が必要になる。
その人の名前が名簿へ書かれ、いつの間にか、待つことが仕事になる。
中央の案は、突然生まれたものではなかった。
誰も見落としたくない。
誰かの手紙を捨てたくない。
返事が来た時、そこに人がいなかったという失敗を繰り返したくない。
どれも理由があった。
「常時待機をやめた場合」
グラドが言った。
「次の出現に気づかない可能性を、誰が引き受けますか」
朔はすぐには答えなかった。
気づきたい。
次の言葉があるなら、見落としたくない。
油紙の「まだ」が、何かの途中であるなら、その続きを失いたくない。
「俺は、気づきたいです」
朔は先に、自分の願いを言った。
「だから、自分の名前がここにあることを、便利だと思う部分があります」
「では」
「でも、待機者にはなりません」
グラドの眉がわずかに動いた。
「理由は」
「返答が来るまで、俺がここにいるべきだと読めるからです」
「勤務時間を区切ります」
「時間を区切っても、役目は残ります」
「誰かが必要です」
「出来事が起きた時に対応する人は必要です。出来事が起きるまで待ち続ける人と、同じにはしません」
ノエが白紙を出した。
「では、常時待機ではなく、通常業務内の確認に分けますか」
市場は朝の開場前と、夕方の閉場後に床下周辺を確認する。旧紙倉は昼の記録搬入時に、一度だけ連絡札の状態を見る。
夜間は人を置かない。
音や変化があった場合も、一人で床を開けない。客を退避させ、ミエルかミウが市場側の判断を行い、ノエ、ルカ、ガドのうち連絡可能な者へ知らせる。
「黒川朔さんたちは」
ノエが尋ねた。
「最初の連絡先から外します」
朔が答えた。
「なぜ」
「俺たちは、油紙の意味を確かめたい者です。最初から呼ばれると、出現した物を返事へ近づけて扱う可能性があります」
「では、いつ知らせる」
「危険確認と物の状態記録が終わった後。過去の踏査物との照合が必要な場合に、本人へ参加意思を聞いてください」
「義務ではなく」
「その都度、参加するかを決めます」
ユイも自分の名前の横へ線を引いた。
「表示が出た時だけ呼ばれるのも、嫌」
「表示を見た経験があります」
グラドが言う。
「だから、私が見たら正しくなる?」
「そうは言っていません」
「でも、名簿に私がいると、私が見ないと決まらないみたいになる」
「では、表示確認から外れる?」
「外れます」
ユイは少し考えてから続けた。
「でも、私が見たいと思った時は、見てもいい」
「その都度」
「はい。Y.I.としてじゃなく、ユイとして」
エリオは、黒色化対応の欄を読んだ。
「私も常時連絡対象から外してください」
「あなたの光は退路確保に有効です」
「有効であることと、黒い現象が起きるたびに私の役目になることは別です。緊急時に近くにおり、自分の判断で協力できる場合は協力します」
イサラも同じだった。
「防御と退避判断を私の固定役にしないでください。現場にいる者の中から、事前に担当を確認するべきです」
「勇者候補として」
「その順位を、いつでも呼び出せる防具にはしません」
最後まで名前を残したのは、フェルだった。
「中央報告は、私の職務に含まれます」
「待機する?」
ユイが聞いた。
「しません。報告を受けた時に、中央へ記録を送ります」
「返答を待つ人?」
「違います。発生した出来事を報告する人です」
名簿から、待機者の名前が一つずつ外れた。
線は引いたが、元の案は読めるまま残した。中央が、どの出来事を理由に、誰へどの役目を割り当てようとしたかを消さないためだった。
***
問題は、床下に置かれた手紙や品だった。
送り先が確認されていない物を、市場で預かり続けることはできない。だが、勝手に返し口へ入れることも、捨てることもできない。
シオ婆は、置かれた三通を読まずに表だけ確認した。
「送る箱と、預ける箱を分けたらええ」
「送る箱は作りません」
ミエルが言った。
「なら、未送付箱や」
「名前が、送付待ちに見える」
「では、名前を長くする」
箱の表には、次のように書かれた。
返し口へ送ることを確認していない手紙・品の一時預かり
その下に、小さく説明を加えた。
ここへ預けても、返し口、旧搬入口、黒い人影、死者、行方不明者へ届けられることは確認されていません。
市場は配送、祈願、返答確認を行いません。
預けた本人は、返却を求めることができます。
三十日後に、保管を続けるか本人へ確認します。返答がない場合も、自動で送付・廃棄しません。
「最後」
ミエルが指摘した。
「返答がない物を、いつまでも置くんか」
「送り主が行方不明になることもある」
シオ婆が答える。
「でも、市場の棚には限りがある」
保管期限を、送り主の意思だけでなく、市場の負担とも合わせる必要があった。
話し合いの結果、三十日後に再確認し、本人へ連絡できない場合は、旧紙倉の未確定私物保管へ移すことになった。そこでも一定期間が過ぎれば、処分ではなく、処理方法を決めるための公開審査へ回す。
「箱を守る人」
ナサが尋ねた。
「市場が、仕事の一部として管理します」
ミエルが答えた。
「誰かが、ずっと待つ?」
「待たん。朝と夕方に数を確認する。それ以外は紙を売る」
「返事が来たら」
「返事やと先に決めん。何か出たら、人を外へ出して、記録する」
ナサは自分の手紙を箱へ入れず、一度持ち帰った。
「置かない?」
朔が聞く。
「明日、もう一回読みます」
「送るために?」
「違います。置きたいのか、バドに読ませたいのか、自分が書いたことを残したいのか、まだ分からないからです」
「はい」
「明日も置きたかったら、持ってきます」
それは、待つことをやめる判断ではなかった。
今日の寂しさだけで、手紙の役目を決めない判断だった。
***
新しい手順書には、待機者の欄がなかった。
代わりに、時間と行為が書かれた。
開場前――床・返し口周辺の外観確認。市場業務担当者が実施。
閉場後――物品数、床の状態、封印線を確認。
異音・物品・表示・黒色変化を確認した場合――客と作業者の身体安全を優先し、単独で開口しない。
発見者は、見た物、聞いた音、時刻、自分の位置を記録する。意味を記録する欄とは分ける。
照合が必要な者へは、現象確認後に参加意思を問う。過去の関係者であることを理由に、自動で招集しない。
返し口からの出現を、返事、配達、帰還、本人性の証明として扱わない。
次の踏査、接触、待機を自動で開始しない。
最後の行は、トウマの手紙を受けて加えられた。
「まだ」を、誰かへ待つ役目を割り当てる命令として扱わない。
「トウマの言葉を、制度へ使っていい?」
ユイが尋ねた。
「そのまま引用する許可はありません」
朔は一度書いた文へ線を引いた。
書き直す。
出現した語や表示の解釈を理由に、特定の者へ継続待機を割り当てない。
「トウマが言ったことは」
「俺たちが考え直す理由になりました」
「でも、トウマの命令にはしない」
「はい」
「書いた人」
「手順を決めた全員です」
署名欄には、中央、旧市場、旧紙倉、治療、経路管理の担当者がそれぞれ名前を書いた。
朔の署名欄はなかった。
「サクは書かない?」
「俺は、この手順で扱われる可能性がある関係者です。市場の管理者ではありません」
「考えたのに」
「意見を述べた者として、議事記録には残ります」
「決めた人」
「最終的な運用責任を持つ人たちです」
ミエルは市場側の責任者として署名した。
ノエは経路確認。
ルカは設備記録。
フェルは中央報告。
マレアは身体安全条件。
それぞれが、自分の担当する部分だけに名前を置いた。
夕方、旧市場は通常の時刻に閉まった。
床下を確認したミウは、音なし、変化なし、物品なしと書いた。
確認を終えると、帳面を閉じた。
その後は、家へ帰った。
誰も夜通し床を見なかった。
朔も旧紙倉へ残らなかった。右膝を冷やすため、マレアの指示した時刻に部屋へ戻った。
返事を見落とすかもしれないという不安はあった。
だが、その不安を理由に、自分や誰かの時間を、いつ来るか分からない言葉へ全部渡さなかった。
返し口は残った。
確認の手順も残った。
「まだ」と書かれた油紙も、封印箱に残っている。
返事を待つ可能性は閉じなかった。
ただ、その場所に、待ち続ける者の名前を置かなかった。




